はてなキーワード: 復活祭とは
ニケーア公会議(325年)は、キリスト教初の**公会議(エキュメニカル・カウンシル)**であり、教義上・教会史上きわめて重要な意義を持ちます。
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🏛️ ニケーア公会議の結果(要点まとめ)
項目 内容
開催年 325年
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🔹 主な決定事項
• アリウス(アリウス派)は、こう主張していました:
✝️「キリスト(御子)は被造物であり、父なる神とは異なる本質を持つ」
→ 「御子は神に“似た存在”だが、“同じ神”ではない」
• これは、キリストの神性を否定すると見なされ、異端と宣言されました。
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② ニケーア信条の制定
アリウス主義に対抗して、正統教義としての**信条(Creed)**が制定されました。
キリストは:
「父と同質(ホモウシオス) consubstantial with the Father」
であり、**神そのものである(真の神からの真の神)**と明記されました。
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• 各地で異なっていた**復活祭(イースター)**の日付を統一する方針が決定。
• 太陽暦を基にして、春分後最初の満月の次の日曜日とする(現行の方式の基礎)。
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我らは一なる主イエス・キリストを信ず、
神よりの神、光よりの光、
真の神よりの真の神、
造られずして生まれ、
父と**同質(ホモウシオス)**なり…
この信条は後の公会議(コンスタンティノポリス公会議・381年)で若干補足され、「ニケーア=コンスタンティノポリス信条」として今も多くの教会で用いられています。
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🔚 ニケーア公会議の意義
意義 説明
今日やで、やっと教会にアレルヤが響き渡って、それが口から口へ、心から心へ、どんどん広がっていくんや。そんで、その歌は世界中の神さんの民を、嬉し涙でいっぱいにするんやで。
エルサレムの空っぽになったお墓から、今まで聞いたこともない知らせが来たんや。「十字架にかけられたイエスは、ここにはおらへん。生き返らはったんや!」(ルカ24,6)。イエスはもうお墓の中にはおらへん、生きてはるんや!
愛は憎しみに勝ったんや。光は闇を負かしたんや。ほんまのことは嘘っぱちを打ち破ったんや。許しは復讐に勝ったんや。悪いことは、この世からなくなることはないやろうけど、もうあんまり力を持たへん。この日の恵みを受け入れる人には、もうどうすることもできへんのや。
姉さん、兄さん、特に悲しみとか苦しみの中におる人たち、みんなの静かな叫びはちゃんと聞いてもらえたで。みんなの涙は受け止めてもらって、一滴も無駄にならへんかったんや。イエスの苦しみと死において、神さんはこの世の悪いことを全部自分で背負うてくれはったんや。そんで、その限りない優しさで悪いことに勝ったんや。人の心を毒して、あちこちに暴力とか悪いことの種をまく、悪魔の偉そうな態度をなくしてくれはったんや。神さんの子羊は勝ったんや!やから今日、わてらはでっかい声で言うんや。「わての希望、キリストは生き返らはったんや!」(復活の続唱)。
せやで。イエスの復活は、希望の土台なんや。この出来事のおかげで、希望はもうただの夢物語やなくなったんや。せやで。十字架にかけられて生き返ったキリストのおかげで、希望は裏切らへんのや。Spes non confundit! (参照 ローマ5,5)。それは逃げていく希望やなくて、立ち向かうべき希望なんや。人に譲れるような希望やなくて、責任を持たせる希望なんや。
神さんに希望を託す人は、神さんの大きくて強い御手のひらに、自分のか弱い手を置くんや。そしたら、神さんに立ち上がらせてもらって、また歩かせてもらうんや。生き返ったイエスと一緒に、その人らは希望の旅人になって、愛の勝利といのちの静かな力をみんなに伝える人になるんや。
キリストは生き返らはったんや!この言葉の中に、死ぬためやなくて、生きるために作られた、わてらの存在のすべての意味が詰まっとるんや。復活祭は、いのちの祭りや。神さんはわてらをいのちのために作ってくれて、人間がもう一度立ち上がることを願うてはるんや。神さんの目には、どんないのちも大切なんや。お母さんのお腹の中におる赤ちゃんのいのちも、お年寄りの人や病気の人らのいのちも、ますます多くの国で、いらんもんやと思われてるけどな。
世界の色んな争いの中で、どれだけの人が死ぬことを願われてるんやろうか。どれだけのひどいことが、家の中とか、女の人や子どもに対して、よう見られるんやろうか。一番弱い立場の人とか、仲間はずれにされてる人、外国から来た人に対して、どれだけの酷い扱いが当たり前になってるんやろうか。
今日こそ、わてらが希望と、ほかの人を信じる気持ちを取り戻したいもんや。たとえ親しい人やなくても、遠い国から来た、習慣とか生き方、考え方、風習が、自分らが慣れ親しんだもんとは違う人でも、わてらはみんな神さんの子どもやからな。
平和はできるっていう希望に、わてらがもう一度立ち返れますように。今年、カトリック教徒と正教徒が同じ日に復活祭を祝うた聖墳墓教会から輝き出る平和の光が、聖地の全部と全世界を照らしますように。パレスチナとイスラエルのキリスト教徒の苦しみに、同じように、イスラエルとパレスチナのすべての人に寄り添いたいと思うんや。世界中に広がってる、ユダヤの人に対する偏見が強まってるのは、心配なことや。同時に、わての気持ちは、恐ろしい争いでたくさんの人が死んで、めちゃくちゃ悲惨で恥ずかしい状況になってるガザ地区の人々、特にキリスト教の仲間たちに向かってるんや。争ってる人たちに言うで。攻撃をやめて、捕まってる人を解放して、飢えに苦しんで、平和な未来を願ってる人たちに手を差し伸べてください!
レバノンとシリアのキリスト教の仲間たちのために祈りましょう。シリアは、歴史の中で大事な変わり目にきてて、安定と、世界の一員になることを強く願うてるんや。すべての教会に、大切な中東のキリスト教徒たちに、関心を持って、祈りを捧げてほしいんや。
それに、特に、戦争のせいで世界でも一番ひどい「長引いた」人道危機を経験してるイエメンの人たちのことを思うんや。みんなに、ちゃんと話し合って解決策を見つけるように呼びかけるで。
生き返ったキリストが、苦しんでるウクライナに、平和っていう復活の恵みをいっぱい与えて、正しい、ずっと続く平和になるように頑張ってる人を励ましてくれますように。
このお祝いの期間に、南コーカサス地方のことを思って、祈ります。アルメニアとアゼルバイジャンの間に、早く最終的な平和協定が結ばれて、実行されて、この地域に待ち望まれた平和が来ますように。
復活の光が、西バルカン諸国に仲良くする気持ちを広げて、争いがひどくなるのを防ぐために、政治の偉い人たちの頑張りを応援してくれますように。同じように、この地域の国々が、危なくて不安定になるようなことをしないように。
わての希望、復活したキリストが、暴力とか争いで苦しんでるアフリカの人たち、特にコンゴ民主共和国、スーダン、南スーダンの人たちに、平和と慰めを与えてくれますように。サヘル地域、「アフリカの角」地域、大湖地域で苦しんでる人たちや、色んな所で自由に自分の信仰を表せないキリスト教徒たちを支えてくれますように。
信仰の自由がないところ、考えたり言ったりする自由、ほかの人の意見を大切にするところがないところに、平和はないんや。
ほんまの軍縮なしに、平和はないんや。それぞれの国が自分の身を守るために準備することは必要やけど、それがみんなが武器を増やし合う競争になったらあかんのや。復活の光が、仲間割れを起こしたり、政治や経済に悪い影響を与える邪魔なもんを取り除くように、わてらを励ましてくれますように。それに、お互いを思いやる気持ちとか、みんなで助け合う気持ちを高めて、すべての人の成長を助ける頑張りを応援してくれますように。
今この時、ミャンマーの人たちに助けがちゃんと届きますように。何年も続く武力紛争で苦しんで、何千人もの人が亡くなって、孤児になった子とかお年寄りとか、生き残った人たちが苦しんでる、サガインの大きな地震に、勇気と我慢を持って立ち向かっています。亡くなった人たちと、残された家族のために祈って、助ける活動をしてる親切なボランティアの人たちに、心から感謝しましょう。国内のいろんなグループが停戦を発表したのは、ミャンマー全体にとって希望の光やで。
政治の責任がある世界中のすべての人に言うで。自分を守ろうとする怖い気持ちに負けんと、貧しい人を助けて、飢えと戦って、発展を助ける取り組みにお金を使うてください。死の種をまくことやなくて、未来を築くこと、これこそが平和の「武器」なんや。
わてらの毎日の行いの大事なこととして、人間の大切な考えを決して忘れんといてください。罪のない市民を巻き込んで、学校とか病院とか、人道支援の関係者を攻撃する、争いの酷い行いの前で、これらの人はただの物やなくて、心と尊厳を持った人間やいうことを忘れんといてください。
この聖なる年に、復活祭が戦争で捕まった人とか、政治的な理由で捕まってる人の解放のきっかけになりますように。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、主の復活において、死と生はびっくりするような戦いの場で向かい合いました。でも今、主は永遠に生きてはって、わてらもまた終わりのないいのちに参加するように呼ばれてる、っていう確信を与えてくれはるんや。そこでは、武器の音も死の響きも聞こえへん。すべてのものを新しくしてくれるたった一人の人に、わてらをゆだねましょう。
皆さん、みんなに、主のご復活のお喜びを申し上げます。
2022年7月8日に銃撃事件により逝去した安倍晋三元首相が、本日突如として首相官邸に姿を現し、石破茂首相に対し復活を直接報告しました。
この驚くべき出来事を受け、政府は近く「復活祭」を執り行う予定であることを明らかにしました。
官邸内での報告後、石破首相は記者団に対し、「安倍元首相の復活はまさに奇跡的であり、国民全体にとって大きな喜びです。政府としてもこの出来事を祝うため、復活祭を開催することを決定しました」と述べました。
安倍氏は官邸を後にし、自宅に向かう際に「国民の皆様の温かい思いが私を甦らせてくれました。これからも日本のために力を尽くしていきます」とコメントし、その姿は多くのメディアによって撮影されました。
このニュースは国内外に大きな衝撃と感動を与えており、SNS上では「奇跡だ」「安倍さんの復活を心から祝福する」といった声が相次いでいます。
ブロマンス? の方はもうずいぶん前に出版されたものなのでネタバレするけど、すごいBLの方は22日に出版されたばかりなので、極力ネタバレしないようにがんばる。では、ブロマンス? の方から。
同作者による小説『生誕祭』の続編。本作も『生誕祭』と同じく彰洋と麻美のダブル主人公。この二人が憧れの人・美千隆に振り回されつつ、お金儲けのためにそれぞれ奔走する。
『生誕祭』の終盤、美千隆に裏切られて復讐しようと思ったものの、けちょんけちょんに打ちのめされてしまった彰洋。だが、逃亡先の北海道まで、美千隆が探しに来てくれたことにより、懲りずに美千隆に着いていってしまった。
それから十年。彰洋は自身と美千隆しか従業員のいない小さな会社に勤めて、退屈だがそれなり楽しい雌伏のときを過ごしていた。
そんなある日、美千隆が復活を宣言する。時代はITバブル最盛期。バブル景気なんて長続きする訳がない。こんどは土地の代わりに株を転がし、大金をせしめて一抜けし、今度こそ二人で夢の王国を作るぞ! マンハッタンにでっかいビルを建ててやるのだ!
一方、やはり十年前に美千隆に切り捨てられて落ちぶれ名古屋に逃亡した麻美は、東京に舞い戻り、バーの雇われママに身をやつしていた。ところがあるとき、バーのオーナーが麻美に儲け話を持ち込んで来る。それはIT企業の若手起業家を騙して一攫千金を狙うというもので、しかもターゲットとなったIT企業をあの美千隆が狙っているというではないか。麻美は一生遊んで暮らせる金をせしめるため、美千隆に復讐するために、彰洋の元恋人である早紀を巻き込み、立ち上がるのだった。
『生誕祭』ではブロマンスというよりはポチとその飼い主みたいな関係性だった彰洋と美千隆だったけれど、今回は彰洋が成長し美千隆が少し老いたのもあって同じ夢を追う同志、ブロマンス感があった。
美千隆が過去に彰洋に言った「マンハッタンに自社ビルを建てるのが夢」「弟が欲しかった」という言葉が、彰洋をだまくらかす方便かと思いきや案外本心だったのかもしれない? と、胸が熱くなる一方で、王国のキング美千隆についに焼きが回った感じもあり……もはや自身には生き目はなく、夢は弟分の彰洋に託すのだろうか?……と、ちょっと切なくなる感じ。
最高に滾るシーンは美千隆が渾身の演技で麻美を騙す場面。麻美が金と美千隆に執着する理由は安定と愛情が欲しいからではなく、美千隆の隣で同じ夢を追いたいからだと看破してみせるところ。
結局のところ美千隆の相棒になぜ彰洋はなれて麻美にはなれないのか、それは才能の問題ではなく性別の問題でしかない。麻美にはどんなに努力しても越えられない壁を彰洋なら軽く飛び越えられる。最初から分かり切っていたが見ないふりをしてきたことを、当の憧れの人、美千隆に見破られて涙を流す麻美。実にエモい。引き立つブロマンス!! そう、私ら女にはどんなに願っても届かない夢ですな!
でも最終勝者は少年の心をいつまでも喪わないおっさんズではなく、現実的堅実的に復讐計画を練り実行に移した早紀だったというのが痛快だった。愛よりも友情よりも堅実。金に溺れた詐欺師どもより研ぎ澄まされたハンターが最強だなんて、かっこよすぎる……。
国外逃亡する羽目になった彰洋と美千隆がこてんぱんに打ちのめされてだめだめなコンビに成り下がるというオチまで着いて、憧れのブロマンスに泥を塗りたくる黒い快感に目覚めてしまった。
数多のBLの中でもかなり人気のあるタイトル。エロエロだけどストーリーに骨があって絵もすごく綺麗。少女漫画のようなキャラとストーリーが人気な商業BLのなかでは、異色かなぁ。
バーでピアノを弾いて暮らしているマレーネと、マレーネのピアノを聴きに通うリリーは両片想い。だがいくらマレーネがアプローチしてもリリーは応じてはくれない。それは二人が男同士だからというより、リリーの正体が人狼だからなのだった。
リリーが突然発情期に入ったところにマレーネが居合わせたのが縁で、二人は結ばれることになった。ところがマレーネは、実は人狼を迫害するマフィア・ガーランド一家の跡取り息子ヨシュ・ガーランドだった。
マレーネがリリーと急接近したころ、ガーランド一家の当主は人狼殲滅に狂い、唯一の血縁者である孫のヨシュを呼び戻す。かくしてマレーネはガーランドと人狼の抗争に不本意ながら巻き込まれることになった。
一方、人狼の側では、ガーランドとの抗争が70年前に起きた人狼大虐殺事件のような惨事の引き金になることが危惧されていた。抗争の激化から、ついに群れのリーダーであるキーファーは、ガーランド解体作戦を決行すると宣言する。そして、ガーランド幹部暗殺部隊のメンバーとして、リリーことコヨーテも指名された。コヨーテに割り当てられたターゲットは、ガーランド一家の跡取りヨシュ・ガーランドだった。
す、すごいものを読んでしまった……! というのが、4巻を読んで最初に思ったこと。正直、3巻までは普通に面白い映画みたいな話だなぁと思ったくらいだったけど、BLでここまで描くの!? 描かせてもらえるの!? と驚いた。まあ、これほどの画力と漫画構成力をもった作家だからこれが許されるんだろうなとは思う。
BLなのでラブとエロは盛りだくさんだけれど、隙あらば骨太の物語描写をしてしまうのがすごい。逆にいえば、BLってストーリーを台無しにしてでもラブ描けエロをかけっていうジャンルなんだろうな……。
人狼とガーランドの抗争の歴史と背景がちゃんと描かれている。そのことに驚きというか、一般ジャンルの漫画ではむしろそれが普通なのかもだが、よく描いたよなぁ。
今回はメインカプのマレーネとリリーだけでなく、アレンやキーファーなど脇役キャラの活躍や人物描写も豊富で良かった。ドミニクがいいキャラしていてかなり好き。
BLにはあまり出てこないし、これまでの座裏屋先生の漫画にはほぼ出て来なかった女性キャラがけっこうなインパクトを持って登場するのがいい。ミミちゃん! 私の推しのミミちゃん!!
猛烈に続きが気になるところで終わってしまったが、たぶん、5巻が出るのは1年後くらいだ。それまで頑張って生きねば……。
座裏屋先生の『シャングリラの鳥』もなかなか気になる展開なので、続きが待ち遠しい。すげえ連載を2本同時進行している座裏屋先生すごすぎる。
『昭和元禄落語心中』の作者によるBL作品『いとしの猫っ毛』シリーズの紹介本。シーモアで0円なり。
北海道出身の男二人とまたたび荘の癖のある住民達のヒューマンドラマ的な何からしい。群ようこの『れんげ荘』みたいな? いやそんなにシリアスさはないっぽいかな。
商業BL読むんなら履修すべき漫画的にいわれる猫っ毛シリーズ初体験だった。単行本買ってまで読むかというと、微妙。私のほしいものリスト優先順位は、かなり下だなぁ。
エトランゼシリーズも商業BL読むなら是非読むべしみたいなこといって、ゴリゴリにおすすめされるやつなんだが、絵柄がなんかBLを描くよりは圧倒的に百合向きじゃね? という画風なので、私はあんまり。BLだと思わずに読めば面白いと思った。
物語のシリアスさが少女漫画のテイストのそれなので、面白いけど今読みたいのはこれじゃない感。あ、そんなこと言ったらBL漫画の大半がノットフォーミーだけど! BLは少女漫画の1ジャンル……。
かわいい絵柄でガッツリとエロあった。ノーマルなプレイしかしてないから「エロ少」評価されるんじゃないかなと思うけど、当たり前のごとくにまぐわっていらっしゃる。私は目のやり場に困った。絵柄が可愛すぎて。
そもそも私の求める萌っていうのはBLにはないよね……と思い、原点回帰するかのように馳星周小説に手を伸ばす。昔読んだっきりで内容をほぼ忘れていたけれど、すごくブロマンスだった気がしたので再読したくなった。
記憶に残っていた以上に、主人公の彰洋が上司 美千隆の犬だった。ワンコだった。すげえしっぽ振ってた。かわいそかわいい。
これこれ、このパシリ以上バディ未満ブロマンスにはかなり遠い……な感じが好きなのだ。って、ブロマンスじゃないんかい。
美千隆が彰洋にお揃いの指輪をプレゼントする場面は完全に忘却していたのでびびった。こんなに美味しい場面をきれいさっぱり記憶から消去していた自分の脳ミソに驚愕した。覚えてろって。しかも指輪、薬指にはめるやつなんだ……すごーい! と思ったらけっこういい感じのスピード感で指輪は二人ぶんまとめてトイレに流すことになるので笑った。はやいはやい!
以前読んだ時は美千隆の魅力が心に残ったのだが、再読してみれば美千隆のかっこよさはふんわりとして嘘っぽくて、それより波潟のパッパとかヤクザの松岡とか関西の地上げ屋ヨシくんとか株屋の市丸さんとかの方がずっといい男な感じがした。
あとで続編の『復活祭』読もう。
『復活祭』を読む合間の息抜きに読んでいた。『左近の桜』シリーズの第3弾。5回くらい読んでいるのに、読み終わってしばらくすると昨夜見た悪夢を昼間に思い出そうとする困難さのように、内容を思い出せなくなる1冊。いい加減あらすじをちゃんと記憶したい……。
シリーズ第1弾と第2弾が12話くらいで一年分の物語が詰まっていたのに対して、本作は4話のみでしかも2年ぶんだけ。1話と2話の間に一年が経過している。
相変わらずの地獄廻りっぷりだが、桜蔵が幽霊に性的な意味で喰われるシーンは少ないし控え目。
これは桜蔵と父の柾の物語なんだなぁ、と思った。いや前からそうなんだけど、柾が関係する人物絡みの話ばかりだなと。
あの雑誌のTarzan。単にprime0円ベストセラーだからなのか、最近私がBL雑誌の試し読みばかりDLしていたのが関係しているのか、やたらKindleトップページに居座り続けたので興味本位で読んでみた。テーマは「性学」だし。マッチョメンのための雑誌のセックス特集やいかに……。
案外普通というか、男性器と女性器の解剖学だったりオルガズムの仕組みなど、真面目な記事だった。男女ともに満足のゆくセックスライフを送るための知識、妊活はいつから? 子どもの性教育は? とか本当に内容が真摯で紳士でタフ。ただ、セクハラとは何か?というコラムで、女から男へのセクハラ発言はどれか三つの選択肢から選べ(正解は1つ)という設問の、選択肢が三つとも「あなたいい体してるね、」で始まるのはどうかとおもう。そんなこと、ビジネスシーンで言ったらやばくない? Tarzan読者には褒め言葉なのかもしれないけど。
それはともかく、読み応えがすごいので、まだ4分の1くらいしか読み終わってない。女が読んで腹が立たない男性向けセックス特集っていいな。
思春期である。普通のプールに行くことを考えるだけでムラムラが収まらないのである。そんなさなかに、教科書や参考書の隅っこにビキニ姿の女性が踊っているのを見て、平常心でいられるはずがあるだろうか。
だいたい、カーニバル衣装のビキニのパンツ部分から下がっているふんどしというか前垂れというか、極限まで深くしたスリットみたいな、あれをみても平静ではいられない。たまにファンタジーものでもそういう名前がわからないけれどもふんどしというか、マーニャの踊り子衣装みたいなのがあるのだが、あれってめくったらどうなっているんだろ。鳥山明に聞いてみたい。
カーニバル、つまり謝肉祭とは、四旬節という物忌みの期間直前のお祭りであり、しばらくは肉料理が出なくなる。要するに遊ぶだけ遊んで翌日からは真面目にやる日、というわけだ。別の説によれば異教の祭りが起源であるのだが、どちらにしても現在ではキリスト教の暦と密接に関係している日である。ちなみに、この四旬節が明けて過ぎ越しが明けた日がイースター、復活祭に当たる。
ウィキペディアによれば、黒人と白人の音楽の混交から生まれた音楽・ダンスを指すそうである。もう少し詳しく述べると次の通り。
音楽としてのサンバはダンス音楽であり、19世紀の終わりごろブラジル北東部の港町、バイーア(現:サルバドール)で生まれた音楽が源流となった。当時のバイーアは、奴隷貿易によってアフリカから連れて来られた黒人が集められ、売り買いされた場所であった。その後、白人文化からの影響も受けながら1910年代に確立し、1930年代に普及と隆盛を迎えたそうである。内容も黒人の生活や人種差別から抒情的な内容も含むようになっていった。
ダンスとしてのサンバもまたバイーアに住んでいたアフリカ人奴隷の踊りが元となっていて、足や腰の動きを基本とし、ほとんど即興である。ポルトガルの文化と混交してリズムや踊り方が変化した。伝統的には音楽を演奏しながら周りで手を叩きながら輪を作って踊り、交代で人が中に入って踊るが、これをサンバ・ジ・ホーダ、サンバの輪といい、都会のサンバの進化にも影響を与えた。これは今や、ブラジルの文化的なアイデンティティとなっている。
現在のサンバショーでは現代の欧米のダンスを取り入れた振り付けだが、あくまでもサンバは基本的に即興の踊りが中心で、またその醍醐味であるそうだ。
なお、日本に初めてサンバが紹介されたときには知識が不足していたせいか、キューバのマンボと混同していたり、なぜかメキシカンハットをかぶっていたりと文化考証がめちゃくちゃで、冒頭に引用した語句のように、今でもこの誤解を引きずっている人は少なくない。マツケンサンバだってサンバとはちょっと違う。
Rio de Janeiro's Carnival Costumes Throughout the Years - ABC News(不幸にして画像はリンク切れ)
The History and Tradition of Rio Carnival Costumes - Bucket List Events
カーニバルの仮装はイタリアにその起源を持ち、その伝統はポルトガルにまで広まった。それが植民地のブラジルにもたらされた。誰が誰だかわからない、そういう楽しみであろう。
1930年まではブラジルの社交界の人々は平民たちの視線のなかで、豪奢な衣装や仮面を見せびらかして歩いていた。仮面は動物や悪魔の形をかたどったものや、イタリアに起源をもつ道化の顔もあった。
1930年以降、庶民もカーニバルに参加するようになった。しかし、当然のことながら高価な衣装は身に着けられないし、2月のブラジルは非常に暑い。そこで、明るい色を身にまとうことになった。カーニバルのパレードは1932年に端を発する。
そこから徐々に衣装の軽量化が始まった。1950年にはすでに男性は上半身裸、女性はビキニ姿になっていたことが確認される。水着のビキニが1946年に誕生しているので、非常に適応が早い。海以外でビキニ姿になったことを考えれば、全く持って革命的である。
1970年代になるとサンバ・スクールが組織化され、現代のように洗練され始める。この産業が衣装の豪華さを支えている。実際、テカテカビキニばかり有名だけれども、他のメンバーの極彩色の衣装は露出が少なくても見ていて楽しい。こうしたサンバ・スクール(エスコーラ・ジ・サンバ)は学校を名乗っているが実際は組織化されたダンスグループで、最大で4000人の規模にも達する。舞踏や衣装のスタイルに違いがあり、区別される。なお、ダンサーだけで4000人であり、衣装を準備する人やその他オーガナイザーは含んでいない。
また、同時期にサンボードロモ、つまりサンバを披露するためのエリアが作られる。ウィキペディアによれば、通常は、サンバ・スクールのパレードが展開できるほど長い空間を、観覧席が取り囲むような構造になっているそうだ。阿波踊りの会場みたいなものか。そして、リオデジャネイロのサンボードロモの場合、中央のパレード空間の長さは700メートルに及ぶとのことである。ブロコス、カーニバルのブロックもまた作られた。
現代では、ほとんどあらわになった胸に紐パン姿も散見される。英国のタブロイド紙がこうした乳首の露出やフェイクの乳首について記事を書いている。
今のところ、全裸は許容されていない。とはいえ、ルールを守らない人もおり、そのせいでサンバ・スクールが時折資格を剥奪されることさえある。そういう格好で踊っている人が見たければxvideosかpornhubをご覧いただきたい。野外で全裸になるのは露天風呂でもわかるように最高なので気持ちはわかるが、ルールは守りましょう。
Hyper sexual Carnival atmosphere has a dark side for Rio's women | The Independent | The Independent
ここで記者は、カーニバルのビキニの女性たちは過度に性の対象となっている、モノ化しているのではないか、と指摘している。つまり、パレードで疲れた男性たちを鼓舞するように休みなく踊り続ける半裸の女性、いわゆるボンキュッボンの「理想」的な体型で選ばれるサンバの女王たち。少年たちがサッカー選手に憧れるように、テカテカのビキニの女性に憧れる少女という構図。一見エンパワーメントされているようだが、実際は? しかも、カーニバルでは性暴力の数が圧倒的に増える。その場の雰囲気で強制されたキスだけでなく、強姦も含む。こういう空気を嫌ってか、カーニバルの期間は脱出する人もいるそうだ。
自分は、よその文化だから評価できる立場にはない。ただ、たとえば「理想」的でない体型の女性も選ばれたらもっと素敵になるかもしれない、と思うのだ。昨今、モデルの体型をやせ過ぎにするのはやめよう、という運動が起こっている。それに、いわゆる美人ではないしスリムではない女性が芸能界で活躍することが増えた。自分の好みではないが、とてもいいことだと考えている。貧乳でもいい、毛深くてもいい、ぽっちゃりでもいい。そういうメッセージが社会全体に広がることで、あなたはあなたのままでいいという空気を作ってほしい。あなたをあなたのままで尊重する、そうすることで暴力の少ない社会にしていきたい。
過度に性的な空気は似たようなイベント、ニューオーリンズ・マルディグラでも問題になっている。家族で過ごすイベントである側面もありながら、野外で全裸になる人も後を絶たないのだ。ブラジルから外れるので詳しくは述べる余地がないが、詳しくはウィキペディアを参照してほしい。
Child queen, U.S. stars to light up Brazil Carnival | ロイター
https://www.france24.com/en/20100215-controversy-over-child-performances-mars-rio-carnival]
あるいは、7歳の少女が躍る権利についても議論が巻き起こっている。子どもの権利を保護する団体が、彼女が性的に搾取されることを恐れたのだ。ハイヒールにビキニの大人たちのいる場はどうしても性的だし、40度にも達する気温は子供の身体に有害である恐れがある。同時に、踊りたいという子供の夢をかなえたい思いもある。日本でも、浅草かどこかで踊る小学生のビキニ姿をアップロードする者は後を絶たない。
ちょっと前まで子どもがすっぽんぽんで泳ぐのがかわいいとか言っていた時代だったかもしれないが、誰でも写真や動画が容易に拡散できるようになってしまった時代、そうもいかないだろう。僕たちは否が応でも自分の身体を性的だと意識せざるを得ないし、子どもが自分の身体を守るための性教育の必要性は高まっている。何も幼稚園児からセックスについて事細かに説明する必要はない。ただ、身体の特定の部位を覆い、むやみに他人と触りっこしないように教えて身を守れるようにすれば十分だろう。性教育とはセックスの知識だけではないのだ。
2月の祭りとしてはしないと思う。日本人は概して祭りが好きだし、海外の祭りを積極的に受容してきたが、イースターが定着するかどうかどうかという雰囲気であり、これ以上の祭りを受け入れるキャパシティは少ないのではないか。2月にはすでにバレンタイン商戦があるので、そこにねじ込むのは少々無理があるだろう。50年経てばパリピがホーリー祭りまでやり始めるかもしれないが。あるいは、8月の浅草サンバカーニバルや5月の神戸まつりのように季節をずらすかもしれない。大体ああいう格好をするのは単純に踊っているとめちゃくちゃ暑いってのもあるだろう。
私事だが、イギリス育ちの自分としては、日本に戻ってハロウィンやイースターがないのが当然だと思っていたし、寂しいとも思っていなかった。触れるとすればせいぜい、NHKの「えいごであそぼ」や国際交流の授業で言及されるくらいであった。ハロウィンやイースターを定着させようとする動きはごく最近のものだ。
それに反対するわけではないのだが、ハロウィンが終わって街の雰囲気がすぐにクリスマスになるのは風情がなさすぎる。米国ならクリスマスまでの間に感謝祭があるのでまだ11月を感じることができるのだが、日本ではそうもいかない。二十四節季を楽しんでいた先人のいる国とはとても思えないほどに大味だ。
商業主義との両立を考えるなら、11月にも何かイベントをやればいいのではないか。2月には豆まきとバレンタインがある。毎月2度のイベントをやれば、二十四節季めいていてまだいいのではないか。
今回はテカテカビキニが50年代にまでさかのぼることを示した。今後は、世界各国の祝祭の場における露出の自由、野外全裸、性的規範のゆるみについて調べるとともに、暴力を防ぐための対策についても調べていきたい。
新型コロナ感染症が世界を分断し、不確実な情報とデマの横行による人種差別が引き起こされる最中、アメリカ西部に総本山を構えるキリスト教のリーダーが1つの提案をおこなった、イエスキリストの復活を祝う復活祭の前の金曜日、すなわち、イエスが十字架で命を失った受難日を思い起こす「聖金曜日」にあたる4月10日に、「新型コロナ感染症の世界的蔓延のさらなる爆発を防ぐこと」のために「祈りの断食」をすることを提案したのだ。これに対し、同教会の人々が早々に動きだし、Facebookに「Worldwide Fast April10」というコミュニティをつくりあげ、同じ教会の人のみならず、世界中の人たちにこの招きに答えるように呼びかけた。その結果、前述の宗派に加え、プロテスタント、カトリックといったその他のキリスト教派のひとたち イスラム教、ユダヤ教、 サイエントロジー、ヒンドゥー教、シク教、ウイッカ、仏教、ペイガニズム、そして無神論者など多数の宗教を信仰している人、総勢53万人がこのコミュニティに参加した。もちろんこれはFacebookのコミュニティへの登録者のみのカウントだけあり、登録者の家族も多数断食に参加しているため、実際に断食をした人たちは登録者数を上回ると考えられる。参加者には緊急対策チームで参加している医療関係者、ニューオリンズで、新型コロナ対応のためにボランティアとして参加している看護師、このために家族とともにはじめて断食をした子供たち(親とともに親のアカウントからアクセス)など様々な人たち、以前、集団で祈りの断食をしていた際に、新型コロナと闘病中で参加出来なかったものの、今回、回復し、感謝の意を込めて参加表明した人、タイの自宅で家族とともに自身の礼拝についてリポートするひと、この期間中に、無事出産を終え、その報告をする家族など様々な人たちの模様が伝えられている。
現段階でこの世界規模、多数の宗派が参加した「祈りの断食」が本当に功を奏したかを
示すのは難しい。だが、そこが論点ではないようだ。
この経験を経て宗派や人種を超えた一体感と精神的な安寧を感じたとのコメントが多数あったことを踏まえると、全世界的な外出自粛とソーシャル・ディスタンシングにともなう精神的な苦痛を救うムーブメントであったことは間違いないだろう。日本では「ZOOM飲み会」といった新たな取り組みが行われているが、キリスト教や、イスラム教、そしてユダヤ教といった宗派のように、特別な機会に祈りの一環(行ではない)として断食をする習慣があるひとたちにとっては、これは新たな「交流」の手法であるとも言える。いずれにしても、分断されつつある社会を改めて統合するきっかけとなるものは歓迎するべきだろう。
ケムリクサでは悔しい思いをした。最終話の内容を推理することは十分可能だったはずだ。種が赤霧で成長しない。にもかかわらず離脱したあとニョキニョキ生えてくるミドリの木、「たぶん発芽まではうまくいく」。そして記憶の草にはロックが掛かっていた。このあたりを重く捉えていれば、メモを書き換えた「存在しない7人目の姉」を探して時間を浪費することもなかった(むしろ6人である証拠がたくさん集まってしまった)。2つの謎は有機的に絡み合い、シンプルだが残酷な起点に至るのだが、答えを観て「なるほど!」と思ったときに初めて、伏線が浮かび上がった。すべては目に留まっていたはずだったのにも関わらず、気が付かない。パズルのピースはすべて事前に提示されていた。アニメは小説ではないから、そういうもんかと軽く流しても気持ちよく観続けられるのが気楽だけれど、しかしそういう態度でいて失うものもある。りな達がブワッと消えて一人に戻るのはコミカルでまるで手品みたいだが、ここを見落とすと桃ちゃんを手放して覚醒する「りなむ」の含意をスルーしてしまう。ありとあらゆる表現に意味がありえるのだ。この意識でもって視聴しなければならなかった。
けものフレンズ2の最終話が目前だ。同じじゃないかでは済まない。次は全力で当てに行くぞ。
今期の監督はミスリードを狙ってくるということに気をつけなければならない。俺は伏線の管理はしっかりされていると判断している。前期の細かいところまでフォローされてる。かばんちゃんが「おうち」を知ってたのはスナネコが意味を教えたからだし、サーバルに与えた砂時計は図書館にあったものだろう。アライさんが命の恩人といったのは、掛けた橋で救われた経験を受けてのこと。今期はさらに異なるフレーバーが加わる。襲ってきたセルリアンをいきなり現れて一蹴して去っていった謎のフレンズはヒーローは味方でなく実は「ビースト」。誰彼構わず襲いかかり、フレンズに怖れられる強力なバーサーカーだった。アリツカゲラが再登場したと思ったら、サーバルとも初対面の反応でかばんちゃんとも面識が薄い、すなわち別個体だった。かばんちゃんから手渡された四角い筐体のラッキービーストは、「三人での旅、楽しかったよ」とつぶやいた後沈んでいった”あの”ラッキーさんか? そうかもしれないが、ひとつの端末に過ぎないって線が濃厚だ。居なくなったヒトを想いだして月を見上げるイエイヌのフレンズ… ならば人類は月に消えたのか? なんのことはない、ただの人工衛星だった。未発掘の伏線の絡み合いの中に、ミスリードが混ぜられている。注意して潜るとしよう。
今期最大の謎は「キュルルちゃんは何者か、どこから来たのか、どこへ行くのか」ということだ。ここに焦点を絞って推理する。
キュルルちゃん一行の旅路は「復路」だろうか。パークの廃墟の施設の中で目覚めたこども、キュルルちゃんは、カラカル・サーバルを連れて施設に戻る。「ボクは長い間ここで眠っていたみたいなんだ」。温かい「おうち」を思い浮かべ、「帰りたい」という。キュルルちゃんは自分が眠っていた岩の殻のようなものの中にあった自分の持ち物のスケッチブックを開く。最初の一ページ目には施設の前の池の様子が描かれていたーーただし、池のモニュメントは健在で周りには風景にない建物が建てられている。「ボクは獣じゃないよ、たぶん」というキュルルちゃんに対して、カラカルは「この子もヒトなんじゃない?」と言い切る。3人はモノレールの駅にたどり着く。キュルルちゃんは言う「ここ来たことあるような気がする、あの乗り物、多分ボクもあれに乗ってきたんだと思う」。ここまでの描写で、キュルルちゃんはパークに来た観光客で、何らかの理由で施設でコールドスリープし、いま目覚めた。そう読み取っていたが、よくよく考えると違和感がある。最初の1ページが池だったのはよく考えるとおかしい。
まっさらなスケッチブックを思い浮かべてみて。そこに旅の風景を絵に次々に描いていく。だけど突然に旅は中断してしまう。さてこのとき、最後に描いた絵はスケッチブックのどの位置にあるだろう? キュルルちゃんのスケッチブックには以前に描いてきたと示唆されるたくさんの絵があった(一連の絵の最後のページは破られていて、その先は白紙が続いている)。もしパーク内の施設に至る往路の過程で絵を描き連ねて来たというのなら、最後の絵の先は白紙のページが続くはずだ。最初のページにはならない。スケッチブックの表紙は裏表とも同じようなデザインだが、キュルルちゃんはページの片面にだけ絵を描いていたので逆さにめくっているという可能性はない。これにより、キュルルちゃん一行の今回の旅路は、実は、おうちに向かう復路ではなく、二度目の往路であるという推測が成り立つ。
最初の往路をなぞるように、旅をする。ケンキュウセンター(廃墟の施設をそう呼ぼう。モノレールの次の駅は「アズアエン」だが、列車の行き先表示が切り替わるときに表れた直前の駅の表示が「ケンキュウセンター」だった)を出て池を描き、花畑に囲まれた風車を描き、竹林の中で公園の施設を、海に浮かぶ観光施設、闇夜に輝く蟻塚、ジャングルの奥で玉座に座るゴリラのフレンズ、荒野をかけるなんだかよくわからない影、ステージでショーをする5人のアイドルたち。最後に、観覧車のある遊園地の風景。絵に描かれた風景を順に追う道のりで、キュルルちゃん一行は最後にジャパリホテルにたどりついた。ホテルの窓からは今は水没した観覧車が見えていた。ホテルの支配人によると、”うみのごきげん”が悪くなったときに、遊園地は水没してしまったらしい。ホテルも半分は水浸しである(ところでホテルの最上階にはヘリポートがある)。
つまりこういうことではないか。観光客だった女の子はケンキュウセンターの池を描くために新しいスケッチブックを開き、モノレールに乗ってパークを旅した。しかしセルリアンが止められなくなる流れで、観光客はまず退避しなくてはならなくなり、ホテルでヘリに乗り込む。セルリアンは宙に浮くものがいる。離陸時に襲われてヘリの飛行能力に障害が出て、荷を軽くするために物を捨てなければならなくなった、女の子はスケッチブックから最後に描いた家族の絵だけをちぎり、バッグもろとも泣く泣く海へ投げ捨てた。時がたって、防水のスケッチブック(今期の11話より。スケッチブックは海に落ちても平気だった)は海流に乗って海底火山へたどり着く。海底火山からは大量のセルリウムとサンドスターが流出している。サンドスターに包まれたスケッチブックは溶岩に飲み込まれ、そこで海底火山が大噴火する。噴石となった岩は遠くサバンナちほーのケンキュウセンターに落下し、廃墟となりかけていた施設にとどめを刺す。
この仮説を裏付ける証拠がある。一話のケンキュウセンターの描写でキュルルちゃんの居た岩の卵のようなものの周りには同じように前面が破壊された同じ大きさの卵のような物が並べてあった。これらをコールドスリープ装置と捉えてしまっていたが、これがミスリード。並べてある方はよくよく見ると表面がツルツルで、サンバイザーのような覆いがあり、中には椅子が備え付けてあった。いわゆるゴンドラのような見た目だ。キュルルちゃんの岩はそれと異なり、表面がゴツゴツしていて、中はサンドスターと思しきキューブで満たされていて、そして床が砕けている。ゴンドラの方は台座に載っている。この二種類はじつは違うものなのだ。暗い施設のなかで岩の卵は陽の光で照らされていた。つまり、天井は空いている。ケンキュウセンターは遊具の研究施設だった。コールドスリープではなく。噴石としてケンキュウセンターに落下した岩の卵は殻が崩れ落ちる時を待つ… なかでフレンズ化→飢えて死亡→フレンズ化→飢えて死亡… を繰り返しながら。まあそれは残酷だが、あるいはサンドスターは空気に触れて初めて機能する、のようなことがあるかもしれない。
以上が仮説「スケッチブックちゃん説」である。研究施設やスケッチブックのめくり方などを伏線としての帰結としてフィットしていて、破られた最後のページに説明がつけられた。キュルルちゃんは絵をフレンズに渡すとき、丁寧にページを切り取る。最後のページが破られていたのは火急の状況下で焦っていたからです。皆さん納得できましたか? ボクはできません。なぜなら「ペパプが5人いる」から。
一連の絵の中でライブステージで描かれたものを思い出してほしい。そこにはステージで歌う五人のペンギンアイドル、ペパプが描かれていた。しかし前期のペパプ復活祭ライブの話によると、初代ペパプは4人、二代目は3人、三代目が5人になった。三代目を結成したフレンズ、プリンセスは以前に居なかった五人目であることを気にしていたんだった。だからパークに来ていた観光客がペパプを見ていたとして、その人数が5人なのはおかしい。かつて観光客で賑わったジャパリパークは廃園し、パークガイドのミライさんも職員を引き連れパークを去った。時が流れ、彼女が遺した帽子にサンドスターが降り注ぎ、かばんちゃんが生まれた。そんな時代になって初めてペパプは5人になった。実はペパプはコピーバンドだという可能性はありうる。開演時代にはオリジナルたる5人のペンギンアイドルがいて、閉園後に彼女らをパクってペパプが結成された、でもコピーバンドを人数減らしてやる意味があるだろうか? あるいは初代ペパプは5人だったということもありうる。プリンセスがパークの異変の中で夭逝し、だがその後の4人で長い期間頑張っていたので後世の記録には4人として残った。期せずしてプリンセスが救われる結果になりましたね。でもこの仮説、理屈は通るが、当たっていたとしても些末すぎて、説明されないだろうことが予想される。
時代に幅のある絵の内容。これを説明するうまい理屈はないだろうか。キュルルちゃんは過去の世界から来たのではないか。前期でミライさんが説明した、山頂のサンドスターロウ・フィルタリング装置の「四神」は説明の感じからすると、パーク職員が作ったものではないらしい。四神を作った古代人がそのサンドスター制御技術を応用してタイムトリップ装置を作った。これがケンキュウセンターの岩塊である。キュルルちゃんはそれに乗って過去からやって来た。しかし… なんのために? かばんちゃん一行は四神の位置を直すことでフィルタの機能を正常化した。だが海底火山から漏出するセルリウムを制御する装置は、おそらくあったのだろうが機能をなくしてしまっている。もし四神的装置の修理のために過去からキュルルちゃんを派遣したとすると、かばんちゃんの奮闘のときに何もしなかったのはおかしいし、未来を幻視できるレベルの古代文明が、将来の位置のズレを考慮して装置を保全するつもりなら、修理要員を派遣する前にまず固定装置を充実させるべきだろう。というかキュルルちゃんはエンジニアには見えない。年齢が低いし、そも記憶を失ってしまっているではないか。ならばキュルルちゃんは未来から来た。しかし… なんのために? 考古学者にも見えないので、パンフなどの資料を読んで好奇心をそそられたキュルルちゃんがタイムトリップしてきた線は考えられるが、タイムマシンのセキュリティが気になる。強固に利用者が制限されているなら、キュルルちゃんはどうやってセキュリティを突破したのかということが引っかかるし、逆にガードがゆるいなら、なぜ一人しか来ないのかが疑問になる。並行世界から来た可能性はどうだ。しかし… なんのために? 絵に描かれていたペパプは楽しそうで、パークの様子には廃墟感はまったくない。なぜわざわざ廃墟の方の世界線に移動してくるのだ? 納得行く説明はつけられそうにない。
うまくいかないが、一連の絵は風景を実際に目で見たものではない、というアイデアはまだ活かせると思う。ジャパリパークの世界に、エリアを超えて通信する無線技術はなかった。そういうものがもしあったなら、かばんちゃんがキョウシュウエリアを出立するときに、ボスが先の情報を教えてくれただろう。イエイヌが見上げた月を背後に人工衛星が浮かんでいた。この衛星は最近に打ち上げられたものだとしたらどうだろう。これを使って、ある職員がパーク内のラッキービーストネットワークに侵入し、パーク内の写真を入手した。父のディスプレイの映る写真を見て、幼い娘はスケッチブックに絵を描いた。写真に今昔が入り混じっているのはそのためである。この想像は面白いが、写真があの道のり上に並んでいたことが解せない。ネットワークから引き上げたパークの風景写真を見ていたなら、それは時系列に並ぶか、ランダムになっているかするのではないか。なんでケンキュウセンターを起点とした特定のルートにそった並びになる? だめだ。わからない。
しかしわかることもある。けものフレンズ2はイエイヌの物語でもあった。探偵の二人、センちゃんとアルマーさんはイエイヌの命を受けてヒトを捜索していた。捜査が強引なところもあってイエイヌは悪の黒幕のように描写をされたことがあった。キュルルちゃんとイエイヌちゃんのストーリーラインは二人が邂逅することで交わり、しかし結局二人は別れてしまう。別れは両者の納得したものではあったがすれ違い感は強かった。これが「おうちにおかえり」回である。最終話のタイトルは「ただいま」だ。イエイヌはキュルルちゃんの元へ向かうかばんちゃん一行に加わってはいないが、ポッと出のゲストフレンズではない。
イエイヌはキュルルちゃんを見送ったあと、夜空を見上げ、ひとりドアを開けて自室に戻った。ドアには耳を模した飾りがついており、まごうことなきイエイヌのための部屋であることが明示される。このシーンは驚いた。これは一体全体、どういうわけだよ? 「イエイヌの自室にドアノブがある」だと?
(続く)→ anond:20190318002745