第6回 縄文人よりずっと多様な弥生人、DNAが語る意外なルーツと影響

青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡で発掘された弥生人の人骨と復顔像。国立科学博物館の特別展「古代DNA―日本人のきた道―」の展示より。(撮影:編集部)
青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡で発掘された弥生人の人骨と復顔像。国立科学博物館の特別展「古代DNA―日本人のきた道―」の展示より。(撮影:編集部)
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 縄文時代の日本列島人が、3万年も前に他のアジアのグループと分岐した、比較的均質な集団だったということを、前回までに見た。今の世界には、縄文人と呼べる人はもういないけれど、縄文人と現代人とを比べてみると、日本列島に住む人々は、本土で10〜20パーセント、琉球列島で30パーセント、北海道のアイヌ集団は70パーセント、縄文人のゲノムを受け継いでいることもわかっている。

 それでは、縄文時代に続く時代はどうだろう。今から2900年ほど前に、朝鮮半島から九州北部にわたってきた青銅器文化人が、水田稲作の農耕技術を核とする新しい文化を、ひいては社会をもたらした。本州、四国、九州で、およそ1100年間にわたって続いたその時代を、弥生時代と呼んでいる。

 従来から日本列島に住んでいた縄文人たちを基層集団として、弥生時代に入ってきた人々、いわゆる「渡来系弥生人」が混ざりあって生まれたのが現代の日本列島人であるというのが、従来から人骨の形態研究より唱えられた「二重構造モデル」による理解だ。

 神澤さんは、縄文の人骨のDNAを分析する研究を推し進めつつ、当然のことながら弥生時代の人骨からDNAを得る研究へと足を進めた。すでに、現代人のゲノムは多くわかっており、縄文人も船泊23号に代表されるように、高精度のゲノムが決定されている。そこに弥生人のゲノムが高精度で読めたならば、形態人類学から導かれた二重構造モデルの妥当性が検証できるだろう。

国立科学博物館生命史研究部人類史研究グループ研究主幹の神澤秀明さん。縄文人のDNAの研究を推し進めつつ、その後の時代にも足を進めている。
国立科学博物館生命史研究部人類史研究グループ研究主幹の神澤秀明さん。縄文人のDNAの研究を推し進めつつ、その後の時代にも足を進めている。
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 すでに、縄文人と現代人の研究で、大陸アジアよりも、日本列島のアイヌ集団、琉球列島集団、本土集団の順で、縄文人ゲノムを多く受け継いでいることがわかっている。アイヌ集団に少し別の要素が入ってはいるものの、大枠では二重構造モデルに整合することも既知だ。そこに、弥生人のゲノムの情報が加われば、さらに確信が深まるのではないだろうか。まずはそこから聞いた。

「二重構造モデルというのは、1991年に東京大学の埴原和郎先生が出された仮説です。『日本人のルーツ』は、縄文人の祖先となる集団がまず東南アジアから来て、その後に北東アジアにルーツを持ついわゆる渡来人が流入して混血をしたというものです。現在では、渡来人が来て混血したという話そのものについてはもう異論はないんです。じゃあ、大陸のどこの人たちが来たのか、どれくらいの規模で、どれくらいの期間にわたってやってきたのか、といったことを、ゲノムの研究から見ていけたら、という段階に入っています」

 渡来人はどこから来て、どのように日本列島に入ってきたのか。この件については、膨大な考古学的知見が積み重ねられ、多くの議論が繰り返されてきた。そこにゲノムの観点を加えると、どのような視野が開けるのだろうか。現時点で「わかっていること」を教えてもらっておこう。

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