2025-04-19

兄妹で同棲することにした

 春の雨が止んだ夕暮れ、就活帰りの芽衣は傘をたたみながらマンションの前で深呼吸した。二十四歳の兄・俊と二十二歳の芽衣は、この四月から一緒に暮らしている。きっかけは単純だった。東京での部屋探しに行き詰まった芽衣が「お兄ちゃんと住めば安心だよね」と漏らし、俊も「俺も一人よりは助かる」と応じた。

 けれど本当の理由もっと根の深いもの――幼い頃から続く、互いへの依存だった。

 両親は共働きで家を空けがちだった。小学三年生の夜、芽衣が高熱で泣きじゃくったとき、俊は水枕を作り、額に貼る冷えピタを薬箱から探し出し、朝まで横に座っていてくれた。芽衣記憶に焼き付いたのは、熱と寒気より、そのとき握り返された手の温度だった。それ以来、芽衣は何かあれば兄を呼び、俊は呼ばれずとも飛んできた。

 進学で一度は離れたものの、電話メッセージ毎日状況を報告し合い、些細な決断――夜食カップ麺を選ぶ程度のことすら相談してきた。だから同棲自然の成り行きに思えた。

 だが生活が始まってみると、ふたりの「自然」は常識から外れていた。芽衣は朝、俊が淹れるコーヒー香りでやっと目を覚まし、俊は芽衣が帰るまで晩ごはんに箸をつけない。スーパーの特売日にふたりの予定が噛み合わず買い物へ行けないと、冷蔵庫が空になってもインスタント食品を買おうとはしなかった。

 居間の壁に掛かったホワイトボードには、緻密なタイムテーブルが書かれている。起床、出勤、帰宅、入浴――歯磨き時間までびっしり。同じタイミングで同じことをし、同じシーンで笑い、同じ場所が好き。予定の空白はふたり不安を刺激するから、徹底的に埋められていた。

 五月初旬、俊の職場飲み会があった。「二次会はどう?」と誘われた俊は時計を見た。芽衣面接で遅くなる日だから帰宅時間は二十二時を超える。ホワイトボードの「二十一時・再集合」に間に合わない。

 結局、俊は一次会で席を立った。彼のスマホには芽衣からの「着いたよ。緊張で吐きそう」というメッセージが届いていた。俊は駅まで走り、改札口で妹を見つけると、背筋が緩んだ。芽衣も兄の顔を見てやっと笑う。互いの不安を打ち消すのは、相手存在だけだった。

 けれど社会ふたりの都合で動かない。六月、俊は大手クライアントとの打ち合わせを命じられた。地方支社で二泊三日。部長は「滞りない進行には君が一番」と微笑んだが、俊の心臓は縮む。出張当日の朝、芽衣は無理に笑顔を作り「お土産黒豆饅頭でいいよ」と言ったが、声は震えていた。

 新幹線トンネルに入るたび、俊のスマホ振動した。家事の手順、ゴミ分別炊飯器スイッチ――芽衣から質問が止まらない。返信しなければ妹が泣く気がして、商談の資料視線が定まらない。結局、俊は二日目の夜に発熱し、上司許可を得て一日早く帰京した。マンション玄関に崩れた俊を抱きしめながら、芽衣は「ごめんね、私が弱いから」と嗚咽した。

 事件は七月に起きた。芽衣内定から「配属先は名古屋支社」と連絡があったのだ。面談室で通知を受けた瞬間、芽衣の視界は真っ白になり、そのまま過呼吸で倒れた。搬送先の病院に駆けつけた俊は、点滴台のそばで涙を拭う妹に「大丈夫。辞退しよう」と囁いた。

 ところが医師は「お兄さんも一緒に暮らしているの? 少し病的な依存があるね」と指摘し、心理カウンセラーを紹介した。俊は反発した。自分たち家族だ、助け合っているだけだ、と。しか芽衣はベッドで顔を覆い「私たち普通じゃないのかな」と震えた。

 カウンセリングは八月から始まった。最初面談で、カウンセラー白紙メモに縦線を引き、左に「俊くんの人生」、右に「芽衣さんの人生」と書いた。

 「ここの境界が、ほとんど透けてますね」

 いたたまれなくなった兄妹は視線を泳がせた。

 セッションでは宿題が出た。「週に一度、互いに相談せず決断してみる」。芽衣美容院を予約し、俊は映画をひとりで観に行った。初回はどちらも胸が締めつけられ、スマホを何度も開いたが、二回目、三回目と回数を重ねるうちに、未知の風が入り込む感覚が芽生えた。

 九月の終わり、俊は職場の同期・沙織に誘われて、趣味ランニングサークルに参加した。芽衣は週末に同僚と鎌倉へ日帰り旅行に出た。リュックに兄の分の水を入れなくてもいい身軽さと、砂浜を歩きながら響く潮騒が、彼女の胸を満たす。夕暮れ、集合写真を撮る頃には、兄に報告しなければという焦りが少し薄れていた。

 一方、俊のスマホに届いたのは芽衣の「海の写真だよ。お兄ちゃんも走るの頑張って」。文章の終わりにハートマークはなかった。それを見て、俊は短い安堵を覚えた。

 秋が深まりマンションの壁に貼ったホワイトボードは半分が空白になった。芽衣は自室の本棚就活で読んだビジネス書を並べ、俊はキッチンに好きなミュージシャンポスターを貼った。カウンセラーは「良い変化ですね。境界線は線ではなく、ゆるやかなグラデーションでいい」と微笑んだ。

 相変わらず同居は続いている。ただ、食卓椅子は向かい合わせではなく、斜めに配置した。視線を逸らせる角度が必要だと気づいたからだ。

 十二月ベランダに出た兄妹は凍る夜気に肩を寄せた。街のイルミネーションが遠くで瞬く。「来年名古屋に行ってみようかな」と芽衣がぽつりと言う。胃の奥が冷たくなる感覚に俊は怯えたが、すぐには首を振らなかった。

 「行くときは、ちゃんと送るよ」

 それが、自分言葉として驚くほど自然に出た。芽衣は小さく笑い「まだ怖いけど、そう言ってくれると少し平気」と答えた。

 ふたりはまだ完全に自立したわけではない。深夜に悪夢で目覚めれば、どちらかの部屋の灯りがつく。だがドアをノックし、一拍置いてから入るようになった。ささやか境界が、互いを守るフェンスになっている。

 年明けには、またボード更新する予定だ。今度は空白を恐れず、余白のまま壁に残すつもりだと俊は言った。芽衣も頷く。余白には、ふたりそれぞれの未来が描き込まれるはずだ。

 兄妹で同棲することにした――その選択は、依存の檻にも、再出発のアパートにもなり得る。どちらにするかは、これからの彼ら次第だ。

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