2025-09-16

知ること、経験することの大切さについて

昭和五十八年、俺は二十五だった。

大学一年留年し、卒業後に就職したのは都内貿易商大学の知人から、いわゆる伝で紹介してもらった職場だった。

英語が得意というほどでもなく、貿易知識も薄い。「景気がいいうちに滑り込め」と言われるまま、場違いスーツに身を包んで、霞が関の雑踏を毎朝くぐったのをよく覚えている。

入社後は雑用が主な仕事で右も左も分からぬまま伝票を運ぶ日々。そんなある昼休み、温厚で知られた課長コーヒーを啜りながら、ふと口にした。

給料が出たら、町で一番安い娼婦と一番高い娼婦を抱いて比べてみろ。ものの良し悪しが分かる。それは大きな経験になるぞ」

冗談かと思ったが、妙に胸に残った。

価値は本や噂で知るものじゃない、自分感覚で確かめろ。そんな含意が隠れている気がしたからだ。

給料日。初任給が振り込まれたその足で、俺は思い切って試してみた。

駅前にある寂れたソー○。

色褪せた扉。受付この先は年季の入った女将。一方では常連らしい作業着の男たちが黙々と爪を切っていた。

万札一枚を渡すと、女将が「はいよ」と短く応えた。

来た女性は衣がやや厚く、ところどころ揚げ染みのようなものがあり飴色に濁っている。

キスをするとカリリと音がした。

抱くと肉汁が溢れ、舌の上にじんわりと広がる。

少し重たいかおりが鼻に抜けるが、不思議と嫌味はない。

行為は何事もなく速やかにまり、速やかに終わった。顔を上げるとガラス越しに見える高架を電車が轟音とともに走り抜ける。

その響きすら、行為の一部に思えたことをよく覚えている。

夜、予約しておいた銀座路地裏の店へ。

白木のカウンターが照明を柔らかく反射し、落ち着いた客が低く囁くように話している。

指名を開くまでもなく、女将が「おすすめでよろしいですか」と微笑んできたその顔は非常に印象的であった。

通されたお座敷には澄んだ香りけが漂っており、上品な竹のような匂いがした。

女性は既に待機していた。正座のまま頭を下げており、顔を上げると上品に微笑んで見せた。

行為は慎みをもってして始められた。

○を入れると○がほろりと崩れ、淡い肉の香りが立った。ひと口目。○は驚くほど薄く、口の中で一瞬で消える。胸は驚くほど柔らかく、舌の上でほどけ、甘さがじんわりと広がる。

甘噛みすれば噛むというより、口の温度に合わせて自然にほぐれていく。後味はあっさりと清らかで、重さはどこにも残らない。身体は白く清らかで、瑞々しい甘みを保っていた。

そこで行われたのは神事のような、指先までが緊張するほどの静謐行為だった。

値段の差は歴然としていた。しかし高い方だけが“正解”ではない。昼の娼婦には、あの独特の匂い空気感、そしてがっしりとした肉らしい応えがあった。そこには、そこにしかない力があった。

高級店の透明な上品さとはまったく別の、生活のものを温めるような力。それもまた確かな価値だった。

二つを味わい比べたとき、初めて自分の中に一本のものさしができた。

値段ではなく、体験によって刻まれる“差”の感覚

他人評価価格表では得られない、確かな実感だった。

いまはむかし。振り返ると、当時のこの一日こそが何よりの学びだった。最近若い世代は…などと言えば年寄りくさいが、「失敗したくない」「無駄を避けたい」と口にして経験のものを恐れる姿に、どうしてももどかしさを覚える。

だが、恐れて経験しないことこそが本当の失敗だ。

欲は知らないことから生じる。

足るを知るためには、まず足りた状態自分で知る必要がある。そのためには、経験することが必須であり、試してみる他にないのだから

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