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2025-06-22

足利義政無能さはこうだ

足利義政は、政治家としては「無能」と評価されることが多いです。その主な理由は以下の通りです。

応仁の乱の勃発と収拾の失敗: 義政の治世に、細川勝元山名宗全対立に端を発する応仁の乱が勃発し、京都焼け野原となり、戦乱は10年以上続きました。この大乱を止めることができなかったこと、またその後の社会の混乱を収拾できなかったことが、政治家としての最大の失策とされています

後継者問題: 実子(足利義尚)と弟(足利義視)の間で後継者争いが起こり、これが応仁の乱の一因となったとされています。義政自身がこの問題に対して明確な態度を示さず、優柔不断であったことも批判対象となっています

財政の窮乏と奢侈: 飢饉土一揆が頻発し、幕府財政が窮乏する中で、義政自身邸宅の造営(銀閣寺など)や美術品の収集に多額の費用を費やしました。このため、民衆の苦境を顧みない奢侈な生活を送っていたと批判されています

政治への意欲喪失: 政治現実から目を背け、「文化芸術世界」に傾倒していったとされています。真面目に政治をするのが馬鹿らしくなった、というような記述も見られます

2018-05-18

anond:20180517162500

室町時代の正長の土一揆や嘉吉の土一揆などの、成功した土一揆を見れば、

体制側に混乱がある状態で、戦慣れした人員を迎え入れつつ、数万人規模を動員できれば勝てる可能性があることが分かる。

ただ、そもそも一揆というものは、

一揆いっき)とは、日本において何らかの理由により心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとすること

とあるように、かなり幅広い意味を含む言葉である

元増田が言うような、江戸時代の「百姓一揆」などは、確かに農民が中心だが、それにも様々な形態があり、

村長や村役人農民たちを指揮して領主圧政を訴えるものもあれば、

領主とつるんでいる村長や村役人農民たちが襲うものもあった。

また、その手段も、代官のところに押しかけて直訴するだけだったり、

逃散したり、酒屋や土倉を襲ったりと、バリエーションがあったわけで、

農民武器を持って武士と戦うだけが一揆ではないのである

 
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