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2025-10-29

シャッターは一度で決める

三洋電機副社長後藤清一翁は晩年生気経営塾」という経営後継者勉強会主宰した。その最初勉強会が長年後藤塾長が所長を務めた北条製造所で行われた。

■所内の施設製造工程従業員仕事ぶりや活発なレクリエーション活動見学し、最後にみんなで並んで記念撮影となった。1度目のシャッターが切られ、2度目のシャッターが切られるものと思って、みんなカメラ凝視し続けていたとき後藤塾長が言った。

■「何をしてるんや。シャッターは1度で終わりや。1度で決めなあかん。初めから不良率を見込んだようなやり方はここではやらんのや」。甘えを許さな塾長の厳しさが、その一言でみんなの中に浸透した。

2025-10-23

元首相は、本連合設立当初から勝共運動理解を示し、陰に陽に支援、助言を行ってきた」

勝共連合機関紙思想新聞」の1987年8月16日付1面には、同月7日に亡くなった信介氏の評伝が掲載され、先の一文がつづられた。広辞苑によると、「陰に陽に」とは「あるとき内密に、あるとき公然と」の意。親密ぶりがうかがえる。

 57年に首相として訪米した際、米側から秘密保護に関する新法制定の要請を受けて「いずれ立法措置を」と応じていた。晩年の84年に「スパイ防止のための法律制定促進議員有識者懇談会」が発足すると、会長に就いた。

 勝共連合の「本気度」もすさまじかった。思想新聞によれば、78年には「3000万人署名」を行い、久保木修己会長は元検事総長や元最高裁判事、元韓国大使らとともに79年発足の「スパイ防止法制定促進国民会議」に参加。以後、勝共連合は全都道府県下部組織をつくり、地方議会への請願運動を展開した。

https://gist.github.com/b32erh4adara/9c0747d2bb9316a56be99c70c03bdcb0

https://gist.github.com/b32erh4adara/731678928efab6d42127f31419c84f84

https://gist.github.com/b32erh4adara/35db6a4aea931de5253c439def39cdeb

https://gist.github.com/b32erh4adara/3a2a392651abc3b77f7d70bd73b7310b

統一教会系と歩んだ安倍氏「3代」とスパイ防止法

北朝鮮に送金してる統一教会スパイ防止法推しまくってきたこからも、スパイ防止法推進者がどういう奴かは明らかだわね。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/196366

◆岸氏、勝共連合、そしてCIA

「岸元首相は、本連合設立当初から勝共運動理解を示し、陰に陽に支援、助言を行ってきた」

 勝共連合機関紙思想新聞」の1987年8月16日付1面には、同月7日に亡くなった信介氏の評伝が掲載され、先の一文がつづられた。広辞苑によると、「陰に陽に」とは「あるとき内密に、あるとき公然と」の意。親密ぶりがうかがえる。

 57年に首相として訪米した際、米側から秘密保護に関する新法制定の要請を受けて「いずれ立法措置を」と応じていた。晩年の84年に「スパイ防止のための法律制定促進議員有識者懇談会」が発足すると、会長に就いた。

 勝共連合の「本気度」もすさまじかった。思想新聞によれば、78年には「3000万人署名」を行い、久保木修己会長は元検事総長や元最高裁判事、元韓国大使らとともに79年発足の「スパイ防止法制定促進国民会議」に参加。以後、勝共連合は全都道府県下部組織をつくり、地方議会への請願運動を展開した。

 日本トップだった信介氏、韓国発祥の教団の流れをくむ勝共連合スパイ防止法を求めたのはなぜか。

 「根本的にはCIA(米中央情報局)」と話し始めたのは、御年89歳の政治評論家森田実さんだ。「アメリカ政策は今も昔も変わらない。反共韓国日本の手を結ばせ、アジアを分断しながら戦いを挑ませる手法だ」

 信介氏は「米共和党に最も近い人物」といい、旧ソ連と向き合う上で「日本の関連法制では整備が不十分という米側の意向をくもうとした」。勝共連合の方は「権力や金のために日本に食い込むには米側に取り入るのが一番早かった」。

2025-10-16

特集任天堂Switch帝国”の腐敗 ——栄光の裏で進む「唐王朝化」と創造の死

■「Switchバブル」は終わった

任天堂はいま“盛唐の幻”に酔っている

 Switch成功──それは確かに歴史的だった。

 しかし、それは**「盛唐の繁栄」**のような一時の幻影にすぎなかったのではないか

 ハード世界で1億5千万台を突破し、株価は史上最高を記録。

 京都本社はまるで長安のごとく、黄金の瓦が輝き、経営陣は「任天堂時代は続く」と豪語した。

 だが、いまその都の地下では、制度が腐り始めている。

 Switch帝国はすでに、静かなる安史の乱を迎えているのだ。

■「任天堂らしさ」という名の呪い

 唐王朝が詩と礼の形式に縛られたように、任天堂もまた「伝統」の檻に閉じ込められた。

 “誰でも楽しめる”“子どもにも優しい”“家族の絆”──。

 一見、美しい理念だ。だがそれは同時に、挑戦を抑圧するシステムでもある。

 内部では新規IPは通りにくく、革新よりも“前作の延長線”が求められる。

 若い才能は沈黙し、外部のスタジオ依存する比率が増えている。

 それはもはや「遊びの会社」ではなく、形式を守るだけの官僚機構だ。

 創造の火を消すのは敵ではない。内部の儀礼主義である

■「外注王国」──中央の力を失った帝国

 唐を滅ぼしたのは外敵ではない。地方節度使である

 任天堂でいえば、それは外注スタジオライセンス先だ。

 いまや多くの開発が社外で進められ、本社は“監修”と“承認しか行わない。

 地方が動き、中央は祈る。

 それは、かつての唐が地方軍閥に統制を失った姿とまるで同じだ。

 「任天堂ブランドの統制」を掲げながら、その実態は分権化の嵐。

 本社京都はもはや“名ばかりの皇帝”に過ぎない。

ユーザー離反という「黄巣の乱

 唐の末期、民の不満が爆発して起きたのが黄巣の乱だった。

 その炎が都を焼いたように、いま任天堂を蝕むのはユーザーの無言の反乱だ。

 SNSにはこうした声が並ぶ。

 「Switchソフトが古い」

 「次世代機はいつ出るんだ」

 「結局、任天堂過去ブランド頼みじゃないか

 熱狂的だったファンが、いまや冷ややかに背を向け始めている。

 信仰が冷めた帝国は、もはや帝国ではない。

 その兆しは、すでに“数字に現れない危機”として進行している。

■「盛唐の夢」から醒めよ

 唐の玄宗晩年、滅びゆく王朝を前にしてなお、「盛唐の夢」を見続けた。

 任天堂もまた、Switch成功を“永遠栄光”と錯覚している。

 だが、その夢は現実を覆い隠す麻薬にすぎない。

 「任天堂らしさ」という美辞麗句の下で、創造精神は失われつつある。

 経営陣の決断が遅れ、技術革新出遅れクラウドAIの波を見逃す。

 その様は、かつて文明の中心にありながら衰退していった唐と何が違うのか。

結論:「最も華やかなとき、滅びは始まっている」

 歴史は繰り返す

 唐の長安も、いつか砂に埋もれた。

 任天堂Switch帝国も、いずれ同じ運命を辿るかもしれない。

 「繁栄絶頂」は、しばしば「終焉の始まりである

 任天堂が“盛唐”を抜け出せるか、それとも“後唐”として歴史に消えるのか。

 その分岐点は、もう目前に迫っている。

2025-10-14

初期にヒットしたアーティスト晩年ヒットしたアーティストって、晩年ヒットした方が実力的に本物感あるような気がする。

ただ、晩年ヒットしたアーティストの例が思い浮かばない。

チャガプツ(ChatGPT)に聞いてもしっくりこないし。

三國志二次創作物張飛の扱いが関羽より劣る理由がわからない

一騎当千恋姫無双関羽のおまけみたいな無知を曝け出されたような張飛キャラ造形にはガッカリしてるよ

魏の五将軍でも智将に当たる張コウを知恵比べで打ち負かしたり厳顔を許したりと晩年池沼から智将に成長してたし

単純な戦績なら関羽よりずっと活躍してるのに二次創作は扱いが悪いよ

コエテク三国志でも呂蒙魏延よろしく知力が後半成長するようになってたのに二次創作(エロ)は何で扱いが関羽のおまけ扱いなんだ

人気もないしガッカリだよ

2025-10-13

アニメ銀八先生ドラゴンボールGTネタにしてたけど

ドラゴンボールGTGTって「ごめんなさい鳥山先生」じゃないでしょ

確か鳥山先生が実際に原案者として監修してたって晩年インタビュー掲載されててGTって未来への旅みたいな意味で付けたつってたよ

銀八先生スタッフっていくら何でも無知過ぎないか、それとも空知先生が間違ってた?

誕生日プレゼントめんどい

私の方が誕生日が早いので貰ったら相手誕生日プレゼントを用意しないといけないが、正直めんどい


わざわざ郵送で送られてくる。

ありがたいけどめんどい


別の友達とは誕生日の時期に会う時はお互い準備する空気感

こちらは対面だから嬉しい。


そもそも他の友達とは誕生日プレゼントを送りあったりしない。

30過ぎてから自然と送りあったりしなくなった。


こういうの面倒くさがり続けると晩年に友人いない孤独老人になってしまうのかな。

2025-10-12

anond:20251011194543

ネットで十分だしな!

……と思い歳をかさね晩年YouTube真実を見つけてしまうんだよな、わかるわかる

2025-10-02

anond:20251002090913

でも年取っても頭クリアだと、やなせたかし晩年みたいに「おれ死にたくないよ」って日々思いながら過ごさなきゃないけない。

ボケは死に向かって、世界との境界線が薄まっていく現象な気もする。一つの防衛反応だと思うな。

2025-09-25

anond:20250924190655

花巻北上の次はどこにしようか、やっぱり一関平泉かな。

正直、この地域は「岩手観光」には含まれないことが多い。岩手県ではあるのだけど、仙台に近いので仙台観光のついでで足を伸ばす、という形で来る人が多い。一関県境だし、伊達藩の支藩だったしね。一関市も、宮城県側の登米近辺を含めた観光コースを紹介している。

一関は広い。これは平成の大合併で周囲の町村を軒並み合併したことが原因。ただ名前を残したかったなどの理由平泉だけは合併しなかった。実際こうやって名前が残っているわけだ。

まあ先に紹介するのは平泉になる。なんといっても世界遺産があるからね。

世界遺産平泉は5つの施設地域構成されているけれど、ぜひ立ち寄るべきなのは中尊寺毛越寺の2つ。無量光院跡観自在王院跡は興味があればでいい。興味を持つかどうかの判断に、これらを見る前に世界遺産ガイダンスセンター概要を掴んでからのほうがいい。あ、5つめ、金鶏山についてはたぶん気がつけば眺めていることになる。

さて一関

たぶん最初に聞くのは厳美渓猊鼻渓。これはどちらも渓谷なのだけど、猊鼻渓は下の川から崖を眺める、厳美渓は崖の上から流れを眺めるという感じの違った見方をするので時間があればどちらも行くべき。猊鼻渓は船頭が案内する舟に乗って観光厳美渓はそういうのはないが、渓谷の向こう側から空を飛んでくる団子が人気。場所一関市街を挟んで全く反対側にあるので、どっちか見たついでにもう片方、という形ではとても見られない。

猊鼻渓の手前、陸中松川駅の近くには石と賢治のミュージアムがある。晩年宮沢賢治肥料関連で砕石工場技師として勤めていたのだけどその跡地に建っている博物館で、ある意味今季の「瑠璃宝石」絡みでも興味深い(ロケ地ではない)。

そう言えば、岩手は山がちではあるが、北上川より西側山脈火山性で温泉が多く、東側高地は隆起性で石灰質、鍾乳洞が多かったりする。これを前提にしておくと観光地を選ぶのに少し捗る

で、鍾乳洞一関にもある。猊鼻渓から少し先に行ったところにある幽玄国内最古の鍾乳洞ではないかと言われている。興味があれば。鍾乳洞ではないが、そこから北西に山を入ったところに藤壺の滝がある。見どころはこの滝ではなく滝に隣接した金山跡。入るにはライトの持参が必須だが、奥州藤原氏金山開発のきっかけになったという伝説で有名。

一関から沿岸に向かうローカル線大船渡線猊鼻渓方面に立ち寄るために大曲りしている。この大曲りは昔から我田引鉄典型例と言われていて、探偵!ナイトスクープネタにされたこともある。それはともかく直進する国道大曲がりして戻ってきた鉄道が再び合うのが一関千厩近辺。ここには三嶋温泉という温泉があって、ひなびすぎた温泉としてマニアに知られている。オーナーが変わって少しきれいになったらしいので、時間があれば入るべき(なお前述の通りこの近辺にはお湯は湧いていない。鉱泉を温めて提供している)。

千厩から南に行くと一関藤沢に。この近辺で観光地というと館が森。施設は2つあって福島東北サファリパーク運営している岩手サファリパークと、それとは全く別施設Ark館が森後者は本当は牧場なのだけど、どちらかというと花畑として有名なので、見頃は秋というより春から夏。花畑といえば一関市街から南に行った一関花泉花と泉の公園があるがここもシーズンは秋を外す。千厩から東にさらに行くと一関市室根。ここのシンボル室根山で、頂上にある天文台は閉館中も上に登って景色を眺めることが出来、晴れていると眺めがとてもいい。

厳美渓方面観光地を何も書いていなかったが、厳美渓に行く国道をずっと山を登る方向に行けば、秋田との県境須川温泉がある。ここは花巻北上の時に書いた夏油温泉に負けず劣らずの秘湯で、11月には道路閉鎖で入れなくなる。そもそもこの国道東日本大震災以前に起きた地震で大きな橋(祭畤大橋)が落ちて、その橋が震災遺構として残されている。

一関市街地では世嬉の一酒造が一番の見どころ。酒造の博物館だけでなく、地ビールもある。別に一関でなければ買えないわけではないけれど、サンドウィッチマンが勧めたこともあるごま摺り団子一関市にあるお菓子会社が作った銘菓

2025-09-20

anond:20250920165114

あのなぁ

交際経験なしの弱者チー牛には分からないだろうけど、男も女も付き合い始めは猫被るの

付き合ううちに本性が分かるの

「俺はモラハラ男だぜぇ」って自己紹介する男はいないの

バイト面接だって必死になって取り繕うでしょ?

そういうことを理解してないか晩年非モテ永久彼女なしチー牛なんだよ?

2025-09-07

「女は金で手に入る」と言われるが、金を稼げない頭の悪い男モテる能力もない現実

世間や周囲から評価が高く、なおかつ他の男から自分を守れるなどの「妻子を養う男」としての適性、そして好感の持てる言動自身との関係

女が男を選ぶ基準顔面に偏ってないのは、モテる女は万人が認める美人ナイスバディに偏り、モテる男は容姿はばらついているがヤンキー体育会系など強者男性要素を持つの共通しているのを見てもわかる

自分たち男はが見ず知らずの素性の知らない女のパーツで発情射精できるし買ったり盗撮したり付きまとう

から女もイケメンなどのアイテム持ちの男に突然壁ドンや性加害されたら皆受け入れるし許されるという妄想を口走る限界アンチフェミ男性脳内女性像はまるで発展場の胸にパンパンの詰物をした露出度の高いミニスカヒラヒラドレス姿の異様なオカマである

同じアンチフェミからも浮いており、例外なく実生活でも高齢未婚

不安定かつ成功率は針の穴をくぐるレベルの倍率の芸能界において自身の商いを零細事務所からビッグビジネスに発展させた才覚の持ち主のジャニー喜多川だが

後期高齢者である晩年も「昔は身長が小さい方が人気あったけど、今はそういう時代じゃない」「うち(ジャニーズ)の若い子も大きい子ばかり」と冷静に時代の流れを把握していた

https://note.com/ezuremanagement/n/ndcdf1c44e048

そして70年代黒柳徹子との婚約会見のデママスコミに流された時も「僕ならもっと豪華な会場でする」とコメントして徹子を喜ばせる機転があった

ノンケなら身長のハンデをものともせずモテたし結婚できるだろう

https://anond.hatelabo.jp/20250907113252

2025-08-15

戦後80年

もう今日が終わっちゃうな

なんでこんな時間に書き始めようと思ったのやらわからん

私の祖父は13歳で鳴尾の川西航空に勤めていたよ

本人はもう何年も前になくなっているんだけど、書き残した手記があって、そこに色んな体験記が綴られていておもしろいんだ

故郷田舎を出る時の描写なんか「電車がゴットン、さようなら、懐かしきうさぎ追いしあの山々」とか書いてあって、見たこと無いのにじわっと悲しくなる

鳴尾のいちごで作ったいちごジャムを食べたとか、同期といっしょに敵機の名前当て大会をやったとか書いてあるの

脱走した同期のこととか、自分がやってた仕事内容とかも書いてある

夜に寮を抜け出してお披露目前の飛行機を見に行ったのも書いてあって、なんとなくジブリの「風立ちぬ」感がある

飛行機の型なんかも書いてあるけど、身バレ防止で伏せさせてくれ

当時の夏の甲子園大阪空襲、機銃掃射などなど、他にも書いてある

瓦礫になった職場を歩く様子もすごく空気を感じる書き方だ

なんというか、祖父の手記には光の描写が多くて、私が子供の頃から「どういう光が差していたか」にこだわるのは彼の血だろうなと思う

職場瓦礫の隙間から差し込む黄色い光とか、夏の西宮球場の白い光とか、なんば空襲を見た時の燃えるような炎の赤とかそういうの

焼け野原から2000年代まで生きた祖父に、またはその世代に、この世界はどう見えていたのかなあ

晩年、名機のプラモデルを持って眠るように逝ったおじいちゃん、80年経ちましたよ

2025-08-06

anond:20250806195135

🦁おまえそれ晩年代表作の一部分バッサリ削除した井伏鱒二のまえでもいえんの?

2025-08-03

8月2日放送ETV特集火垂るの墓高畑勲と7冊のノート」を観た。

https://www.ghibli.jp/info/013977/

番組では、これまで存在が知られていなかった7冊の創作ノートが紹介された。高畑映画火垂るの墓』において、原作に忠実でありながらも「F清太(ファントム幽霊)」という独自視点を加えたことが4冊目のノートで明かされる。原作と異なる重要な点は<思い出のなかの清太>と<幽霊としてのF清太>の二人がいるということだという。F清太は、最後に観客をじっと見つめ、現代私たちに問いかける存在として描かれている。言われてみれば確かに映画の冒頭と最後カメラ目線の瞬間がある。長年、心の奥底に染みついていただけだったが、改めて自分がF清太に見られていたことを強く意識させられると同時に、その意味が次第に言語化されてきた。そうか、過去自分を思い出す幽霊から始まっているのか。過去を思い出し、未来目線をむける、その行為に何か深みを感じた。

F清太は何を思い出していたのか

この映画は、多くの人が指摘していることだが、子どもの頃と大人になってからでは感じ方が変わる。清太は二人で生き抜けると信じて家を出たが、現実は甘くなく、妹を死なせてしまう。その未熟さは、みる大人には悔しさを呼び起こす。

そこに、F清太の俯瞰的視線意識してみると今度は、清太の個人物語を超え、より大きな歴史的文脈で当時の日本という国の姿と重なって見えてくる。清太は、叔母と決別したあと、東京の親戚の居場所を探そうともせず、叔母との和解を諭した農家医師言葉に耳を貸さなかった。和解するチャンスは何度もあったが、戻ろうとはしなかった。その判断は、満州事変以降ABCD包囲網に至るまで、外交解決放棄して戦争に突き進んだ当時の日本の姿と共鳴しあう。そして節子の死もまた、戦時中兵士の多くが飢えで亡くなった現実と重なり、戦争が長引き補給が途絶え、国家国民を守れなくなった姿を映している。空襲のたびに街へでて火事場泥棒を働き、痛快な笑顔で横穴に戻る清太。二人が暮らした水辺は、あたか戦地となったアジア太平洋すらも想起させる。

内なる他者=F清太は、自分自身過去の行動を死者の目線で見つめており、時には未来の観客の目をまっすぐに見返してくる。このカメラ視線意識すればするほど「なぜこんなことになってしまったのか」と、観ている私たち一人ひとりに問いかけているように感じられる。ここには、レヴィナスの<他者>を思わせるものがある。レヴィナスによれば、自己他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がるという(『全体性無限』)。F清太の視線が観客に向く、その瞬間、私たちは名指され、呼び出され、ただの観客ではなくなる。作品の外でメタ存在であるはずだった私たちは、他者まなざしを向けられることによって物語の中に引き込まれ、「問われている存在」として主体構成を迫られる。「自分ならどうしたか?」―作品の内と外を隔てる壁を破り、私たち自身判断責任を静かにいかけられる。

番組では、作家綿矢りさが「子どものころは清太のサバイバルをワクワクしながら観ていた」と語ったのも印象的だった。その感覚は、太平洋戦争開戦直後に「きっと勝てる」と信じていた日本人の空気に通じる。興味深いことに、高畑絵コンテには、防空壕での痛快なサバイバル生活もっと丹念に描かれていたが全体の尺の都合から削られたのだという。上映日が迫るなか、高畑本人は自ら切り捨てることを忍び得ず、鈴木敏夫に削除を一任した。番組で紹介された不採用絵コンテを見る限り、水辺ののどか生活風景のようだ。編集により、水辺で暮らし始め、父はきっと帰ってくると信じていた清太の胸に去来した観艦式の思い出や軍艦マーチ、そして火事場泥棒などのエピソードが残った。最初希望に満ちていても、ゆっくり悲劇が忍び寄る―そうした構造が、上映直前の編集によって鮮明に浮かび上がったように思えた。

物語の転機は、敗戦を知り、父の所属する連合艦隊の壊滅を知る場面だ。<連合艦隊>は単に日本軍というだけではない、海軍のなかでも特別位置づけをもった組織だ。通常の艦隊部隊は、海軍省等の指揮命令系統に組み込まれ、直接に天皇と結びつくことはないが、連合艦隊司令長官は「天皇直隷(直属)」という形をとっていた。そこに士官として所属していた清太の父はエリート中のエリートだ。

その連合艦隊所属する父は清太にとって「何とかしてくれる」存在であり戦争正義のものだったが、その希望が崩れ落ちる。その絶望は、敗北を直視できず精神論にすがった国民の姿と重なる。節子が死んだ夜の風雨は枕崎台風だ。この台風農作物は壊滅し、翌年にかけて1千万人の餓死者が出るのではとの大臣談話が出ていた。そして清太が最期を迎える三ノ宮駅は、父に再会できるかもしれないという一縷の望みにすがった象徴でもあった。見事な演出だ。

そしてF清太の目線は、丘の上からみおろす現代夜景へと転じ、物語最後に、いまを生きる私たちに向けられる。その物言わぬ視線はあたかも「清太の行動が未熟に見えたあなた。けれど、あなたが同じ状況に置かれたとき、別の選択が本当にできるといえますか?そうするほかなかった、と空気に流されるのではないですか」と問うているかのようだ。

もっとも、ここまで述べた感想はF清太に焦点を当てた深読みの試みにすぎない。『火垂るの墓』の99.9%を占めるのは、やはり胸を締めつけるような少年悔恨であり、戦時下のどうしようもない状況、飢餓といった普遍的テーマだ。その圧倒的な描写力に観るたび心を揺さぶられる。しかし、その感傷のただなかで、最後にF清太がふと視聴者に向けた視線だけは、別のすごみがある。全体の流れからすればわずか1秒足らずに過ぎないが、その一瞬にメタ視点からメッセージが宿り、感傷を突き抜けた先に観客をつれてゆく力を持っている。川島雄三的な手法だ。

過去反省とは何か~語られない戦争経験

清太が叔母の家を出たのは、彼の自立的選択だったのだろうか。清太の行動はむしろ、「しょうがない」の状況に流された形にみえる。東京の親戚を訪ねれば?との叔母の問いにも「だって場所知らない」というつぶやきも状況を受け入れているにすぎない。国家もまた、ABCD包囲網を前に「他に道はない」と繰り返しながら、実際には〈選択不能性〉を自己演出し、主体責任回避した。ここに丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだ入れ子構造垣間見える。

しかし、その<仕方のなさ>の感覚は、まぎれもない当時の人々にとっての記憶だ。戦後戦争記憶を語らない人も多かった。「あのときは選びようがなかった」という感覚は、語れば外から価値観に塗り替えられてしまうという恐れを呼び起こす。占領下の日本GHQの統制下、180度価値観が転換されるといわれた時代戦争を生きた記憶は、勝者の正義空気の中で、語ればすぐに記憶が塗り替えられてしまう。語れば壊れてしま記憶を守るための沈黙はとてもよく理解できる。<反省>という行為進歩感覚がセットになると、胡散臭さが付きまとう。日本は生まれ変わるのだといわれてもなと。冒頭の三ノ宮駅での通りすがりの人の「もうすぐ米軍が来るというのに、恥やで、こんなんおったら」は象徴的だ。結果として人々は沈黙していたのではないだろうか。

終戦直後小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。知識人たちの総括に対する小林の態度は考えさせられる。小林戦前から一貫して進歩主義に基づくマルクス主義史観には距離を置く発言をしてきた文化人だ。

また、反省という言葉を聞くたびに思い出すのは岸田秀だ。「ものぐさ精神分析」のエッセイ集のなかで、酒を飲んでやらかししまったとき自己嫌悪を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも自己嫌悪」とは何かを分析した。自己嫌悪に効果がなく同じことを繰り返してしまうのは、<倫理的覚醒した自分>が<コントロールを失って暴れた自分>を自省し、本来自分倫理的で、酔って暴れた自分本来自分ではなかったという卑怯立ち位置のもとで成り立っているからだと喝破した。これは「まだ本気を出していないだけ」の思考回路と同じだ。

同じことが、戦争記憶もいえるはずだ。特に戦中派(特攻世代)の一つ上の世代記憶

太平洋戦争末期を思春期青年期に過ごした戦中派と異なり、それ以前の世代戦争記憶は同じ戦時下といっても微妙に異なったものだっただろう。戦争が泥沼化するに伴い、決して人に言いたくない血塗られた戦闘に巻き込まれ世代だ。長期化する日中戦争に伴う厭戦気分と士気の低下が増大するにつれ、あとに続く若い世代忠義心がむしろ煽られるのを目の当たりにしていたし、強い責任感とともにお国のために尽くす自己犠牲の美学に傾倒するさまをみていたはずだ。この世代葛藤を描いだドラマ作品に、山田洋次原作少年寅次郎』(脚本岡田惠和)がある。戦地から戻った寅次郎の父が罪悪感からさくらの顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。アジア太平洋への侵略を後世の人間反省するとき被害者側や左派論理で都合よく記憶が加工されてしまうが、それは本当に反省といえるのか。歴史被害者記憶で塗りつぶせばいいわけではないはずだ。これが右派もしくは保守の大方の感覚だろう。そして保守もまた、お国のために尽くし自らの経験責任を美しく語れる世代と、戦地で自ら手を血に染めた禍々しい記憶を胸に沈黙する世代に断絶が生じ、結果として戦後記憶をより美しく語ったほうが、あたかも風化に耐えた岩盤のような面持ちで保守の本流になっていった。右派記憶の加工に加担しているのだ。語られぬ記憶による生存者バイアス、そして私たちが何を記憶としてすくい取るか、その流れ自体が、戦争記憶の複雑さを物語る。

しかし、そんな個人としての記憶のしまい方は、将来世代戦争を止める契機を奪う力学としても作用することに次第に気づかされる。「あの頃はどうしようもなかった」という思い出は、欺瞞的な反省への個人抵抗ではあっても、やはり将来世代には反省を承継しなければならない思いも強まる。小林秀雄は、歴史は上手に思い出すことだ、といった。しかし、後世の人はえてして都合のいいことしか思い出さない。記憶封印によって社会戦争忘却するくらいなら、という思いで晩年になって初めて戦争記憶を語り始める人もしばしばみられる。それは、自らの死の間際になると、社会忘却ダイナミズムが見え始めるからではないだろうか。

宮崎駿監督作品との対比

火垂るの墓に対して宮崎駿がどのように思っていたか番組では紹介されなかった。

同じ終戦前後少年内面を描いた宮崎作品として『君たちはどう生きるか』がある。もし高畑アプローチレヴィナス的な<他者>であったとすれば、宮崎のそれはヘーゲル的な<承認>の構造を想起させる。新しい母との関係を受け入れられない眞人にとって異世界への旅は必然であり、死者や過去存在出会い、その言葉に耳を傾けることが自らを見つめ直すきっかけとなった。それは、自己意識他者との対話を通じた承認によって成り立つというヘーゲルテーゼを思わせる。他の宮崎作品をみても、むしろ近代的な自我対話承認責任の引き受けといった構造の中で人間の成長を描こうとする傾向がみてとれる。「泣くときは一人で泣け(風立ちぬカプローニ伯爵)」や「じたばたするしかないよ(魔女の宅急便の森の絵かき)」、「今からお前の名前は千だ(湯婆婆)」など成長と自立を促すダイアローグ宮崎アニメに特徴的だ。

これに対して「火垂るの墓」では、他者との対話よりも、むしろ「思い出す」ことが大きな意味を持つ。叔母の家を離れた理由も、節子の死後に池へ戻らなかった理由も明示されない。ときには悔恨を滲ませる表情でF清太に思い出されるだけだ。西宮のおばさんが母の着物を米と交換するのを節子が泣いて嫌がるシーンで、耳をふさいで苦悩するF清太の表情は忘れがたい。

高畑作品のもう一つの特徴は、人々が主人公に過度に伴走しないことだ。叔母さんの描き方にそれは表れており、主人公を見放すひとには見放すひとなりの人生がある。だからこそ、視聴者とき西宮のおばさんに共感を寄せたりもする。これは<思い出す>ことを重視した高畑ならではの演出手法であり、主人公がどうであろうと、人にはその人なりの人生があり、決して主人公に語りかけるためにだけ登場するわけでも、寄り添っているわけでもない。これは、視聴者視点を固定し、常にだれかに見守られて成長するお姫様王子特性主人公を描いてきた宮崎駿作品とは対照的だ。

<思い出す主体>を用意する手法は『おもいでぽろぽろ(1991)』にも表れる。記憶の中の小学四年生自分という思い出を<内なる他者>として宿し、現在自分=タエ子27歳が過去を振り返り、沈黙していた感情や語られなかった出来事に光を当てるという手法である。そこでは、言葉にされなかった過去とともに今を生き続ける姿勢が描かれており、<思い出す主体であるタエ子27歳とF清太の視線は同じ構造を持つ。つまり高畑は「語られなさ」をただの欠落ではなく、むしろ思い出すことを通じて現在を形づくる力として示している。

高畑宮崎の両者が描いたのは、どちらも「戦争少年の魂」であった。両者はまったく異なるアプローチながら、しかし同じ戦後を見つめていた。宮崎は、自我他者との対話承認によって確立されるという弁証法的な構造物語組み込み言葉や応答を通じた関係性の中で成長を描こうとしたのに対し、高畑は「語られなさ」に宿る沈黙の力ー思い出すことで再生される倫理に重心を置いた。高畑勲は『火垂るの墓』を通じてどこまで人間真実に迫れるかを静かに証明してみせたのだと思う。

君たちはどう生きるか」に見られる過剰なまでの<対話>は、『火垂るの墓』に対話がなく沈黙に包まれていることとの見事な対比をなす高畑は、あえて沈黙した視線を通じて「別の選択」の可能性を観客の私たちに突きつけた。「そうするよりほかになかった」状況、それが水辺でのサバイバルであれ、太平洋戦争であれ、それを回避する主体的な<選択>の余地は本当になかったんですか?と。それを対話ではなく、沈黙視線表現した。それがラストシーンでふと一瞬、観客のほうに視線をむけるF清太なのだ

これは、<記憶を語らない>ことで選択拒否し、結果として空気に流されてしま私たち精神構造を映し出しつつ、同時に、後世の人が<思い出す行為>を通じて「いか主体的に選択しうるのか」を問いかける――その両義性を体現した見事な映像表現というほかない。比較すると、救いの構造が異なる二人の巨人のすごさがわかる。

高畑手法小林秀雄風にいうならば、歴史を上手に思い出せるんですか?という問いになろう。小林がいうように、人は不完全であり、過去をまっすぐ生きてきた人の手触りを感じることは難しい。上手に思い出すというのは実は難しいことだ。むしろ現在価値観民主主義人権)によって自分たちは成熟している、進歩しているという思い込み邪魔されてしまう。当時の人々の生を未来の人しか知らないフレームに当てはめてしまい、他人事としてしか理解できないというのは往々にしてあるのではなかろうか。ここまで言葉にしてきたやや穿ち過ぎな分析がまさに記憶台無しにする悪い見本だ、ということも含めて。

2025-08-02

ゆめものがたり

不惑差し掛かれども死の感覚は未だつかめず。

このおだやかなる日々は、

晩年の死にゆ自分走馬灯がなぞってるだけなのかもしれない。

ゆめものがたり

不惑差し掛かれども死の感覚は未だつかめず。

このおだやかなる日々は、

晩年の死にゆ自分走馬灯がなぞってるだけなのかもしれない。

2025-07-28

ふと鳥山明が死んだことを思い出して寂しくなる

別にファンだったわけでもない。

子ども心で好きだったというレベルドラゴンボールが好きだった。

ドラゴンボールがあって、鳥山明がどこかで生きている、それが当たり前の時代で生きてきた。

今日ルッカファンアートを見かけた。

ルッカ好きだったなぁ」

そう思いながら既に知っているはずなのに、もう鳥山明ってこの世に居ないんだな、とも思った。

鳥山明晩年、あまり面白い作品を作らなくなったこと。

アナログからデジタルに移行して当時の良さがすっかり消えてしまたこと。

作家としては全盛期も過ぎて、新しい変革も感じない。

過去の栄光で輝き続けているだけの人。

俺はそう思っていたはずなのに。

ただ、もう彼がこの世に生きていないという事実を思い出して。

いつも少し寂しくなるんだ。

2025-07-26

統合失調症かあ

亡くなった父が晩年それっぽいとこあったな

盗聴されているだのスパイだの言い出したらしい

年取っていろいろ悪くして認知症の気配も少々あって、体の病気も重いものを抱えていたので、その症状自体名前はつかなかったけど

そして病院で薬を処方されて程なくして治ったけど

あれが統合失調症ですとラベルがついていたら、自分は明確に遺伝資質ありということになるんだろうなあ

2025-07-22

anond:20250720211738

旅行には2種類ある どっちが好き? どっちにしろ自撮りオススメ晩年自分のために。

目的地を決め、現地で見るもの食べるものやることを計画して臨む

目的地を決めず、偶然の出来事を楽しむ

隙自語すまん。俺は前者を楽しめなくなった。「事前調査、現地での確認作業」になっちまうから

2025-06-12

勝利のためではなく、粛清のために擁立した。(妄想

※この物語フィクションです。

元老院選挙前夜

執政官シゲリヌス・フェロクスの年。

クインティリス(7月)に元老院選挙を控えたこの年の政治状況は、一言でいえば「腐敗の極致」であった。

実態がどうであったか別にして、国民が感じた閉塞感は、まぎれもなく現実だった。

国家成立から殆どの期間において権力の座を占めていた与党への反感はピークに達し、さりとて巨大野党への失望は留まるところを知らなかった。

そんな中、ごく短い期間で爆発的に市民の支持を集めた政党があった。

タミクス・ウニウスを代表とする国家民衆党である

タミクスは明快な語り口で国民生活改善を訴え、WebメディアSNSを用いて露出を増やした。

前年(執政官キシダリウス・モデラトゥスの年)に実施された庶民院選挙国家民衆党議席は3倍となった。

今夏の元老院選挙においても党勢の拡大はもはや既定路線だと思われた。

タミクスが近い将来に執政官となることを、市民は期待していたし、そのために熱狂的に支持もした。

彼は妻への裏切りを報じられたことで、謝罪に追い込まれるなど、完璧とは程遠い人物だったが、それでも市民は彼のことが好きだった。

異変

それはユニウスのカレンダエの10日前、5月22日のことであった。

予兆と言えるものや噂がなかったわけではないが、国家民衆党から発表された元老院選挙公認候補者は市民を騒然とさせるに十分であった。

後に一部のジャーナリストから汚染の四頭立て戦車(Quadriga Pollutionis)」と称された彼らは次のようなものであった。

シラリア・ドミティ庶民院議員不貞、公金の不適切な流用、議員特権濫用等多くの疑惑に対し説明責任を果たさないまま任期満了により失職。
歴史家により死ぬまで沈黙を貫いたとする者、晩年自己弁護に満ちた釈明を行ったとする者に分かれる。)
アダキウス・ウァレリアヌス庶民院議員。議場での過激発言により度々懲罰勧告を受けたと伝わる。
様子がおかしかったとする歴史家がいる一方で、評価する声もあるなど毀誉褒貶の激しい人物であった。
ゲニキウス・ウェリディクス元老院議員根拠なき扇動者として有名であり、疫病の原因を瘴気とする陰謀論を吹聴していた。
また邪教指導者積極的支援するなど、国家民衆党の主張と整合しないと批判された
ドミティア・アクシア元老院議員議員特権が忘れられないのか公認してくれるならと次々に政党渡り歩いて選挙出馬し、
落選を繰り返していることで有名であった。

市民批判は主にシラリアとゲニキウスに集中した。

シラリアは主に過去不祥事が、ゲニキウスはその荒唐無稽しか形容しようのない主張が糾弾対象となった。

(アダキウスは巻き添え被害のようなものであり、ドミティアに至っては単に特権を求めるだけの主義なき俗物ではあったが、信義を軽んじる恥知らずは多くはないが珍しくもない程度には同時代政治家の中に存在した。)

タミクスや幹事長であるシルウァヌス・アリケルスは日夜記者会見という名の弁明行為忙殺された。

曰く「説明責任を果たさず当選できるほど元老院議員資格は軽くないと本人に伝えている」

曰く「誓約書に基づき、国家民衆党方針に従わなければ公認取り消しもありうる」

ただ、公認理由や、今後の対応について問われても、返されるのは曖昧模糊とした言葉ばかりであり、会見でかつて見られた軽妙さはどこかに消え失せていた。

カンナエ後のハンニバルや、敗戦続きのマケドニア王フィリッポスのように、精彩を欠いた采配でただただ時間を空費しているように見えた。

断罪

弁明の日々は続いた。

熱狂的な支持さえあれば、多少のスキャンダルは押し切れる、そう高を括っていたのだろうーーとある者は囁いた。

タミクスの不貞が露見した時も、民衆は彼が掲げる大義に期待し、人間性は不問とした。

あの成功体験が忘れられないのさーーと揶揄していた。

市民も、ジャーナリズムも、タミクスが口で「指摘を受け止める」と言いながら行動に移さないことに辟易していた。

期待は失望へ、支持は批判へ、熱狂は怒りへと姿を変えた。

国家民衆党地方組織すら、特に批判の中心であったシラリアの公認取り消しを求めていた。

(全ての都市属州がそのような嘆願をしていたという同時代証言もある。)

シラリアが会見を行うとの情報が流れ、タミクスは弁明の場と化した会見場でそのことに触れ、記者にこう告げた。

諸君らも参加して不明点を明らかにするとよい」

タミクスのフィデス(信義)を問題にする声もあったが、この時の人々の関心はシラリアの会見であった。

シラリアの会見はユニウスのイデスの3日前(6月10日)、首都たるインペリアーリス・トキオルムの議場内でなされた。

時間半に渡る会見をメディアはただ一言、「説明なき黙秘会見」と称した。

記者の怒号にも似た質問の後に残るのは、遺憾の意に飾られた沈黙のみであった。

ユニウスのイデスの2日前(6月11日)、二時間半に渡る逃亡劇への回答は公認の取り消しであった。

擁立候補者選定におけるタミクス、シルウァヌスの責任を問う声は収まらず、またゲニキウスについても会見を実施するよう求められていた。

少なくともこの時は、タミクスもシルウァヌスも失った支持を取り戻すという先の見えない仕事希望を見いだせていないように、人々の目には映った。

タミクスの思惑

さて、結果を知る我々とてわからないことがある。

いや、その後何が起こったのか、結果を知っている我々だからこそ、この時のタミクスの行動原理は不可解であり、わからないことだらけだ。

時代の人と同様に「時勢を読み違えた」「一時の好調に浮かれ、近視眼になっていた」とする見方現代では主流であるように思う。

なるほどそう考えると矛盾はすくないだろう。

パトロヌスであるウニオンが候補者選定に介入した可能性を指摘する歴史学者もいる。

私が思うに、タミクスはこの4人を勝利のためではなく、粛清のために擁立したのだ。

換言すれば、党勢の拡大にブレーキをかけることになってでも、この4人を議場から除かねばならないと考えたのだ。

シラリアは個人的問題は置くとして、政治倫理の面で国家民衆党の掲げる理想に反しているため、除く必要があった。

ゲニキウスはアテナイクレオンなどと比べれば遥かに矮小ではあるが、扇動者というもの危険性を理解していたタミクスは芽が小さいうちに抜くことを決意した。

ドミティアに関してはフィデスの問題である。フィデスなきドミティアはタミクスが理想とする議場に居座ることすら許されぬ第一存在であった。

アダキウスについては正直少々わからないところもあるが、第二次ポエニ戦争におけるクラウディウスネロのように、成果を上げる半面、その無謀さと予測不能な動きをタミクスが嫌った可能性はある。

少なくともアダキウスを除く3名は粛清対象であったことは間違いないだろう。

これら除去されるべき対象を自党で擁立すると発表し、あえて優柔不断な態度をとることで批判を集中させた。

折を見て会見を開かせ、疑念払拭できなかったとして庇護剥奪したのだ。

廃物置き場に鎮座してはいたが、使いようによってはまだ議員となる可能性があった者たちを擁立し、元から残っていなかった価値さらに念入りに毀損し、他の政治屋どもが再利用できないようにした。

これが事の真相であったーーと私は考える。

歴史の秘める豊かな可能性の一つとして、本説が一隅を占めることを許されたなら幸いである。


Ave fictio, salve historia.

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