はてなキーワード: 水戸学とは
水戸学はね、幕府の支配を天皇の権威を使って正当化して強化しようとしたら、
幕府の統治が失敗したときに、あれこれ天皇に政権返さないとダメじゃね?となってしまったのは壮大な皮肉だね。
実際、226事件とかのクーデターも政府がダメだから、クーデター起こして、そのよりどころに天皇を使おうとしたわけだし。
立憲君主制国家において、政府の正当性の強化に君主を使いすぎると、政府が失敗した時にそれを倒そうとする人にこのバグを突かれてしまうという。
今の日本国憲法の場合、君主を憲法でガリガリに縛り政治から完全に遠ざけて、国民主権をベースに出すことで、政府の正当性は主権者である国民の選挙の結果であることにしていると思う。
つまり、政府がダメなら天皇に政権を返そうじゃなくて、投票した奴は反省しろになって、次の選挙でちゃんとしたのを選ぼうとなり、怒りの矛先をうまくコントロールしている。
これは結構いい仕組みだと思うんよね。
ほかの立憲民主制国家もこれと似たような仕組みを採用してうまく機能しているみたいだし、いい仕組みだと思う。
それと、もし、水戸学が幕府の権威付けに天皇を使わなかったら、明治維新は遅れたか、本当の市民革命になっていたのか、それともダメな幕府の統治が続いて後の清王朝みたいに列強に食い荒らされて植民地ぽい支配を受けていたのかもしれん。
そう考えると、人間万事塞翁が馬といったところかな。
本論では、鎌倉幕府を中心とする中世武家政権が天皇の権威を不可欠な基盤として成立した事実を、制度的・経済的・象徴的次元から多角的に検証する。
日本史上の権力構造が「権威(天皇)」と「権力(武家)」の二元性によって特徴付けられることを示し、摂関政治から江戸幕府に至るまで一貫してこの原理が機能したことを論証する。
鎌倉幕府の創始者・源頼朝が1192年に「征夷大将軍」に任命された事実は、武家政権の法的根拠が朝廷の官位授与に依存していたことを端的に示す。
この官職は律令制下で蝦夷征討を目的とした令外官であったが、頼朝はその任命を以て東国支配権の公認を得た。
特に1185年の「寿永二年十月宣旨」において、頼朝が東国における荘園・国衙領の警察権を公式に認められたことが、朝廷との制度的紐帯を強化した。
承久の乱(1221年)後に全国に拡大した守護地頭制は、幕府が朝廷の荘園管理システムに介入する手段となった。
地頭による年貢徴収権の獲得(1221年「新補地頭法」)は、一方で幕府の経済基盤を強化しつつ、他方で朝廷へ一定の税収を保証する相互依存関係を形成した。
この共生関係は、幕府が朝廷の経済的存続を担保することで自らの支配正当性を補完する機能を有していた。
鎌倉時代後期の両統迭立期(持明院統と大覚寺統)において、幕府が皇位継承に介入した背景には、三種の神器の所在が正統性の根拠とされた神権政治の論理が存在した。
例えば後嵯峨天皇の治世(1242-1246年)において、幕府は神器の継承過程を監視しつつ、自らが「治天の君」選定の仲裁者となることで権威の源泉を掌握しようとした。
朝廷が主宰する新嘗祭や大嘗祭などの祭祀は、中世を通じて天皇の神聖性を可視化する装置として機能した。
幕府はこれらの儀式への供御人派遣や財政支援を通じて、伝統的権威への恭順姿勢を示すとともに、自らの支配を「神国」の秩序に組み込む戦略を採った。
特に伊勢神宮や賀茂社への寄進は、武家が宗教的権威を利用して支配を正当化する典型的手法であった。
鎌倉幕府の経済基盤となった関東御領(約500箇所)の多くは、元来が朝廷や貴族の荘園であった。
幕府は地頭を通じた年貢徴収の合理化を図りつつ、従来の荘園領主へ「得分」を保証することで旧勢力との妥協を成立させた。
この「本所一円地」への不介入原則が崩れた蒙古襲来後も、朝廷が幕府の軍事課税を追認した事実は、両者の経済的共生関係の強固さを示す。
平清盛の日宋貿易以来、朝廷が保持していた対外交易権は、鎌倉期においても「大宰府」を通じた外交・貿易管理として継承された。
幕府が実質的な外交権を掌握した後も、形式的には朝廷を窓口とする建前が維持され、明との勘合貿易(室町期)に至るまでこの構図が持続した。
藤原道長の「御堂関白記」にみられるように、摂関家が天皇の外戚として権力を掌握する構造は、後に武家が「征夷大将軍」の官位を媒介に権力を正当化する手法と同根である。
平清盛が「太政大臣」に就任した事実(1167年)は、武家が伝統的官制に依拠せざるを得なかった制度的制約を示す。
白河院政(1086-1129年)が開いた「治天の君」の政治形態は、北条泰時の執権政治(1224-1242年)において「得宗専制」として再構築された。
いずれも名目上の君主(天皇/将軍)を背景に実権を掌握する点で、権威と権力の分離という中世的政治構造の典型を示している。
北畠親房の『神皇正統記』(1339年)が主張した「神器継承の正統性」論は、建武の新政崩壊後も南朝方が政治的正当性を主張する根拠となった。
これに対し足利尊氏が光厳上皇を擁立した事実は、北朝方も同様の神権論理に依存せざるを得なかったことを示す。
鎌倉後期に伝来した朱子学の大義名分論は、水戸学における南朝正統論(『大日本史』編纂)を経て、明治期の南北朝正閏論争(1911年)にまで影響を及ぼした。
この思想的系譜は、天皇の権威が武家政権の正統性を超時代的に規定してきた事実を逆照射する。
以上の分析から、鎌倉幕府を頂点とする武家政権が天皇の権威を不可欠の基盤として成立・存続したことは明白である。この構造は単なる形式的従属ではなく、
③神権思想に基づく支配の正当化——という三重のメカニズムによって支えられていた。
明治維新に至るまで継続したこの権力構造の本質は、権威(祭祀権)と権力(軍事力)の分離・補完にこそ存し、日本政治史の基底を成す特質と言えよう。
徳川光圀。
辻斬りを頻繁に行い、家臣もその場で斬り殺す。
御三家の見栄のために石高を多めに申告し、そのために領民に重税を課す。
これがために藩の財政をさらに逼迫させただけに留まらず、水戸学を生み出し尊皇攘夷の震源地となり桜田門外の変を引き起こし、
その精神は薩長に受け継がれついには太平洋戦争を引き起こして日本は破滅へ進み、現在もその負の遺産を引きずっている。
水戸藩自体も天狗党と諸生党に別れて内ゲバを繰り返して優秀な人材は悉く失われ、茨城県の発展は遅れに遅れ、現在最も魅力のない都道府県ワースト1位に甘んじている。
このような現在に至るまでなお悪影響しか残していない暴君暗君の極み徳川光圀。
これを水戸黄門などと称して正義の味方のような扱いをするなど狂気の極みではないか。
例えるならヒトラーを正義のヒーローにしているようなものだ。(後世への悪影響という点ではヒトラーよりもタチが悪いかもしれない。現在の右翼団体のルーツも徳川光圀だ。)