はてなキーワード: 社会関係とは
「一生作業者やります!」で会社からOK貰ってそれで本当に死ぬまで「オッス!オラ作業長!オラは作業の長だから言われたことしかしねえし、作業の出来についての責任しか取らねえぞ!」で飯食って終われてる(か、ずっとそれで済ませられると夢見てる)っぽくて羨ましい限りだ。
組織内の都合やら社会の仕組みやらである程度出世してしまうとどうしても自分のよく知らない分野についても知る必要が出てくる。
経営的目線、各種法令への理解、他所の部署との調整も増えれば相手の人柄や人間関係の把握も重要になる。
扱う情報量が増えていくと曖昧さを許容したままだと処理能力の限界を超えてくる。
ダンパー数(人間が安定的な社会関係を維持できるのは150人前後が限界という研究成果に基づく数字)というものがあるが、つまる所人間の能力には限界があるわけだ。
曖昧なままの情報がいくつも重なると情報量が爆発的に増えていく。
なぜなら曖昧な情報はいくつものパターン分岐を引き起こし、それが相互に絡み合うことでさらなる分岐が連鎖的に起き続けるからである。
たとえばボードゲームで1手先を読むだけなら「自分がこう打ったら相手がこう返すかも」で終わるが、3手先を読もうとすれば「自分がこう打ったら相手がこう返すわけで、それについて自分がこう返したら相手は・・・」となり処理すべきパターンがおよそ2乗に膨らむわけだ。もしもここで、「自分が王手をかけでもしない限り、次の相手番は絶対にこれで来る。連続した手順を前提とした動きをしているのだから絶対にそうだ」と決めつけることが出来るなら、パターンが膨らむことはなく、自分の連続した2手分の動きに対して相手がどういう回答をするのかを想定するだけでいいわけである。
偉くなって処理する情報量が増えた人間が「曖昧な情報はいい。確定した情報をくれ」と口にする理由はこれだ。
曖昧なままの情報を渡されても自分の処理能力の限界を超えることを経験的に自覚しているのだ。
結局のところ、「情報の曖昧さに耐えられない人は頭が悪い雑魚なんだよ」と言ってるやつこそが、自分の処理してる世界の狭さに自覚がない雑魚でしかないのだ。
「37度以上ならコロナの疑いがあるから検診を受けてください」というルールに対して「いや、単に基礎体温が高いだけの人かも知れない。曖昧さに耐えろ」とケチをつけるのは賢いやり方ではない。もしもそれをすれば38度を出しているような人間さえも「俺はそもそも基礎体温が高いだけだ。今日の地球は重力が強いだけで俺はデブじゃないんだ」と言いだしかねないリスクに世界がさらされる。それならば余計な曖昧さは許容せず「とにかく37度を超えたら医者に行け」とする方が皆のためになるわけである。
自分の小さな世界の自己満足のために「曖昧さを許容しろ!」と叫び続ける行為の幼さに築けない人達、彼らこそが「広い世界の持つ曖昧さに怯え、自分がよく知っている範囲の世界に閉じこもることを選んだ臆病者」なのである。
トップでAIやってる人達は大抵AGIとかASIの話してて、確かに新たなエネルギー源の発見とか革新的なアルゴリズムの発見とかできたら凄えなって思うんだけど、もうちょっとスケールを小さくして、次起こりそうなムーブメントや社会問題について考えたい。
個人的に、SNSとかDiscordサーバー上の、小から中規模の緩いコミュニティをAIで作れたらどうなるか気になる。
今孤独な人は勿論、元々孤独じゃない人も、性格を調整できたり、予定が合わなかったりしないAIだったら段々AIの方が良いと思い始めるのかもしれない。
いわゆる人文系が展開するポリティカル・コレクトな議論について、とりとめもない乱筆をしたためてみよう。
はっきり言って面白くないんですよ。だって結論ありきのポリティカルにコレクトな予定調和じゃないですか。「差別はやめましょう」とかいうあまりに常識的で変わり映えもしない1フレーズを導き出すのに、色々理屈なり哲学者なりの議論を持ち出して正当化しようとすることの何が面白いんだかさっぱりわからない。
私自身は哲学を専攻していた者なのでまさに「人文系」なんだけれども、ジェンダー論やフェミニズムなどのポリティカル・コレクトネス系の議論(かなり雑な括りだが)は最近の流行りなんだろうなあって思うところがあった。ある日暇なんでCiNiiで「マイノリティ」、「ジェンダー」、「クィア」的な語を検索したことがあったんだが、5年間の比較を見ると2015年~2020年までと2021年~2025年までとで論文数が大体1.2倍くらい増えているんですよ。雑に検索したまでで、その中にはいろいろノイズ的なものがある(一応そのノイズ的なものは各5年とも同数と想定することもできる)し、インターネットの普及でアクセシビリティの向上度合い(とはいえ2015年~ですぜ、2020年以降と大して変わらないだろ)、1.2倍というのが果たして誤差の範囲以上のものと言えるのかはわからないんだけれども、やはり流行りなんだなあと思った。(だれかこの辺の流行に関する社会学をやってくれないかなとは思っている。いつかやるか)
じゃあこの流行りが悪いことなのか、というとそれもまた違うんですけどね。哲学って抽象的な議論だったり理論構築ばっかりやってきたので、それを具体的な領域、例えば社会関係とかに落とし込むこともまた必要なんですよ。最近の哲学の諸領域の社会化はその流れの中にあって、それ自体は有意義ではあると思うんですね。いままで問題としてみてこなかったことや、問題だと思ってきたけれどもどうにか受け入れてきたことを改めて眺めて、それが実は問題だったり理論立てて誰かも考えていたんだなと理解し、ではどのように問題なのか、それをどのように解決するべきなのか、自分の文脈で考えてみることってのは大事だ。その意義は否定するつもりはない。
その流行やよし、私は自分の逆張り精神ゆえ、この流行と予定調和的な議論にはいささかの反感を覚えてしまうのだ。だからこそ最初に「結果ありきで面白くない」と書いたのだけれども。ポリティカルにコレクトな議論は、確かに結論的にはド正論故に批判や反論をしづらい。これが果たして”完璧で説得力がある”ということなのか、”センシティブゆえ事を荒立てたくない”という感情的忌避感なのか、ただいずれにせよ批判や異論をぶち上げて(必然的に生々しくなる)議論をしづらいというのはあるかもしれない。哲学なり学問なりの面白さは色々な見解が出てくることではなかったのだろうか。
一つ対抗しうるような見解を投げてみることにしよう。最近は議論の説得力を高めるためなのか、「当事者性」というワードをよく見る。早い話が黄金律で、「人が嫌がることはしないようにしましょう」ということなのだろう。障がい者だったり在日外国人だったり、あるいはLGBT等のいわゆる社会的弱者の視点から社会を分析するにあたり、現象学的手法を用いるものだ。私自身は当事者性を重視したケーススタディだと思っており、わざわざ「現象学」を持ち出す必要はあるのかと思うのだがさておき、以下ケーススタディということにしよう。果たしてそういう議論を展開する人物のどれほどが「当事者」を真面目に記述することを試みたのだろうか。ケーススタディは当事者としての経験であることが最も望ましいのだが、それを論じるには別に当事者である必要はないのだ。結論ありきの議論では、得てして社会に不満を抱いているという前提が勝手に共有されているものだが、そういう不満がないという社会的弱者も当然いることだろうし、別の不満を抱いているという人物もあることだろう。もちろん社会的弱者の議論では、そうした不満を抱いていない幸せな人物を対象にするわけではないから、「お前は違うだろうな、少なくともあいつや私はそうだったが」と排除することはできる。しかし、議論から排除された人物も”当事者”である。性的少数者の差別は未だに根強いという勝手な前提はあるが、当事者は別にそんなことを感じたことはないということも往々にしてある。なんならそっとしておいてほしいと思っているだろうし、強引にでも差別されていると主張しないでほしいとすら思っている。同性愛者でも野獣先輩ミームを面白いと感じている人間はいる(倫理的に正しいかはさておくとしてだが)のだ。
という感じで、私はずっと「当事者はこう考えてきた」という欺瞞的な予定調和な言説に「お前は本当に聞いてきたのか?別の当事者は全く逆のことを言っているのだが」と投げてみたかったのだが、変にヒートアップさせると非常に面倒なので投げなかったタチである。
それにしても、「少数にこそ話を聞いてみるべきだ」とか宣う人文系がいるが、そいつはその割にその少数が自説に都合が悪い存在だったらさっぱり無視してしまった、という話はよく見る。いわゆるダブルスタンダードなのだが、このような矛盾した態度を取るからには説明責任がある。一体何を根拠にそのような姿勢を取ったのだろうか?人文学は一般に、そのような人間が抱く矛盾を分析・整理して明確化するという役割があるはずなのだが、それを放棄してしまったのだ。「そいつらは問題を捉え損なっている」とか「そいつらは問題を問題と思っておらず幸せそうに思われたから」などと言うならまだしも、無視はありえないだろう。無論、議論というのは会話である以上、納得させうる説明を作るのに時間が必要ではあるしその場ですぐには出せないのだけれども、いつまで経っても説明をせず、すっかりみなかったことにするというのは人文学の存在意義を自ら毀損してしまっている。
という、人文系の人間による、人文系への愛憎相半ば(というか憎が多いか?)する話でした。
流行り自体は悪いとは思わんのだけれども、いかんせんそればっかりなのは面白くないし、反論をするにも突きづらいセンシティブなテーマだし、なにより人文系批判というのがかなり高まっているのでね、哲学をやっていた人間として一つ何か言っておこうかなどと思ったもので。
主張の核心は、悔い改め(改心)は他者からの赦しや評価とは無関係に、自己のために行う内面的な行為だという点です。しかし、この見解には以下の点で反論が可能です。
悔い改めの動機と社会関係: 悔い改めは確かに個人の内面的な変化に関わるものですが、実際には他者や社会との関係性の中で動機付けられることが多いです。例えば、罪悪感や他者への影響を考慮することで改心に至るケースは少なくありません。「赦されないなら改心しない」という態度は、赦しや他者の反応が改心の動機に影響を与えることを示唆しており、悔い改めが完全に「自分のためだけ」とは言い切れない側面があります。人間は社会的な存在であり、悔い改めの行為も他者との関係性や承認欲求と無縁ではあり得ません。
自己のための悔い改めの限界: 悔い改めが「自分のためだけ」であるとするなら、その行為は自己満足や内省に終始するリスクがあります。真の悔い改めは、過去の過ちを認め、行動を変えることであり、その結果として他者や社会に対する責任を果たすことが期待されます。もし悔い改めが他者からの赦しや評価と完全に独立しているなら、なぜ過ちを犯した相手や影響を受けた人々に対して行動を改める必要があるのか、その意義が曖昧になります。例えば、犯罪者が改心したとしても、被害者への謝罪や償いを行わなければ、その改心は社会的に意味を持たない場合があります。
赦しと改心の相互作用: 赦しと悔い改めは独立ではなく、相互に影響し合う関係にあると言えます。赦しは、悔い改めた者に対して新たな関係を築く機会を提供し、改心を強化する役割を果たします。一方で、悔い改めの真剣さが赦しの可能性を高めることもあります。「赦されないなら改心しない」という態度は極端ですが、赦しの可能性が全くない環境では、改心への動機が弱まるのも心理的に理解できる反応です。したがって、悔い改めが完全に赦しから独立しているという主張は、現実の人間関係や社会のダイナミクスを無視していると言えます。
倫理的観点からの問題: 悔い改めを「自分のためだけ」と捉えることは、倫理的責任を軽視する危険があります。過ちを犯した者が改心する際、その目的が自己の内面的な平穏だけに限定されると、他者への影響や責任が置き去りにされる可能性があります。倫理的に、悔い改めには自己の改善だけでなく、他者や社会に対する義務を果たす側面が含まれるべきです。この主張は、その義務を切り離してしまう点で問題があります。
結論: 悔い改めは確かに個人の内面的な変化を含む行為ですが、他者からの赦しや社会的な評価と完全に独立しているわけではありません。人間の行動は社会的な文脈の中で形成され、悔い改めもまた他者との関係性や責任感に影響を受けるものです。したがって、「悔い改めは自分のためだけで、赦しとは無関係」という主張は、実際の人間の心理や社会的な相互作用を過度に単純化しており、現実を十分に反映していないと言えます。
(なんだか書いているうちに相手が記事を消してしまったが、せっかく書いたので投稿する。もともとは それは感性が死んでいるのではなくASDなのでは に関するコメント anond:20241231135829 からのやり取りの中での返信。)
荒らしてる奴は知らんけど、私は次期カサンドラ予定者である元増田を「困難を抱える者」として見ていいんじゃないかなと。 その場合、彼氏は残念ながら害そのものになりうる
これまで会話していた増田ではないようだけど、コメントしてくれてありがとう。人の苦しみに寄り添って現実的な考え方をする人なんだと思う。多分この社会でASD当事者と付き合う多くの人にとって、あなたの考えの方が「正しい」のだろうと思う。皮肉ではなく、私はそう思う。
私が気にしていることは現実を見ていないのかもしれないけれど、それでも私は首肯しがたい。
ブコメやあなたのコメントでもそうだけど、私の懸念を「誤診のリスク」と捉えているようだ。だが、それは違う。気になっていることはタイトルの通り。自閉症スペクトラム(ASD)とは、そもそも「症(Disorder)」とは、当事者の生活機能の向上のために使われる概念なのではないか?ということ。どれだけASDと認められるような特性がある人であっても、それがその人の生活を向上しようとする取り組みにつながらないのであれば、使ってはならないのではないか?と思う。
職場やパートナー、家庭などの対人関係に支障があり、そのことが当事者にフィードバックされた結果として当事者が困っている、生活の問題を解決したい、自分の何が他人を苦しめているのかを知りたいと思うのであれば、それは当事者に資することであるからASDという症概念を用いるのは妥当だと思う。
だが、その段階がなく一足飛びに周囲の人の問題解決のために誰かをASDと呼び、社会関係の断絶を呼びかける。それは差別につながる、というよりそれ自体が直球の差別なのではなかろうか。
単なる言葉遊びのように思われるのかもしれないが、当事者の幸福追求につながらない症概念の使い方は、間接的に当事者が医療につながること、診断を受けることから遠ざけてしまうのではないか。私はそこに危惧している。
京都の繁華街(中京区~東山区)で飲食業に携わってきた。もう二十年以上になる。独立してからは居酒屋をやっていた。
ワンピースがあるだろう。漫画の方だ。多くのキャラクターが出てきて、麦わらのルフィのメンツ(なぜか全員童貞に見える…フランキーは別だ)が色々いて、そのうち誰かとは気が合いそうな気が読者はするわけだ。そんな路線をめざしていた。多様性である。
今回は自分の考えを伝えてみたいし、お客さんへの接し方の哲学についてもご教示願いたいことがある。料理の作り方や仕入れ、広告宣伝とか、そういうのは自分なりの答えをもってる。が、こればっかりは答えが出ない。「嫌な客は出入り禁止にすべきか」という論題だ。
以下、うちの店でお客さんが取った問題行動+店側の対応という形で説明させてもらう。四人分ある。
50代ほどの男性だった。夜7時くらいにお店に来る。いつもスーツだった。小綺麗とまでは言わないけど、まあ整った感じだ。性格はおとなしいのか騒がしいのかわからない面があった。『壁』という小説に出てくるS・カルマ氏なんじゃないかと思える時もあった。
うちの店は、京都の個人居酒屋の標準的なメニューを置いていた。豆腐とか、焼き魚とか、季節の野菜の煮つけとか、湯葉のスープとか、柚子胡椒風味の鳥のから揚げなんかの、まあ京都って感じのメニューだ。みんなそれぞれ、お互いの店からメニューを盗み合っているという事情もある。俺も若い頃は祇園で修業してたけど、京都市内の飲食街はすべて巡って勉強した。「うちの店」というのも祇園の端っこにあった。先斗町や河原町寄りの。
どの業界でもそうなんじゃないか。週刊少年ジャンプだってそうだろう。漫画家同士、お互いに表現方法をコピーし合っている。半年以内で打ち切りになる漫画でもそうだし、鬼滅の刃みたいな大傑作でも変わらない(○○の呼吸はジョジョの波紋をリスペクトしてる)。
京都の飲食業でもそうだ。同業のお店に一般客として出入りし、美味しそうなのを見つけたら、調理法をこっそり見て、自分の店でも同じようなものを提供する。
うちの店では、とあるサービスがあった。お客が女の子の店員に飲み物を出すと、暇な時間限定で話相手になってくれるのだ。A氏は、いつも地元の高校に通っている女子店員にウーロン茶(400円。お客は2杯目から200円)や、イチゴミルク(500円)をごちそうしていた。それで、15~20分程度のお喋りに興じるのだ。そういうサービスが確かにあって、それを目当てに来るお客さんが何人もいた。40代過ぎのリーマンが多かったかな。
彼らは、女子高生や女子大生に限らず、自分の好みの子がいたら「一杯飲んでいいぞ」と声をかける。お気に入りの店員に飲み物をやり、わずかな時間の楽しみに興じる。
それで、店としては売上が立ち、女の子は注文金額の50%のバックがもらえて、お客さんも喜ぶというわけだ(損して得取れ)。だがある時だったか、猛者の女の子がいて、なんと誕生日にシャンパンを奢ってもらっていた。当店の一番安いシャンパンは二万円だったので、一万円儲けたことになる。いやぁ、あれには参ったね……(以後、一万円超の場合は25%バックに変更した)。
そんなある日だった。A氏が行動に出た。帰り際に、ドリンクを奢った女子高生に連絡先を聞いて、食事の約束をしようとしたのだ。女子店員は、「え~」といった表情でケータイを取り出していた。すぐさま俺が止めに入って、「お客さん。困ります」とひと睨みすると、「あんたの方がいけんで。こっちの自由やん」とアレな発言をしていた。
この人には二面性があった。このお店に居る時と、それ以外の社会とで違う顔をしていた。女の子には、「オレね、自分の名前がわからなくなることがあるんだ」とか、「世界の果てに行ったみたいなあ。世界の果てってどこかわかる?」とか「このグラスと君のグラスが、この間がね、オレとあなたの心の距離」など意味不明なことを喋っていた。
ある日、同じ会社の仲間数人と一緒にお店に来たことがあるが、まるで別人だった。大人しくって何も喋らない。黙々と飲み食いしている。女子店員が話に行っても変わりなしだ。借りてきた猫みたいだ。
かつて、A氏の「世界の果てはどこだろう?」という質問に対して、地元の高校に通ってる女子店員(※上で誘われた子)が、「うちの店も世界の果てのひとつですよ。地球は丸いんですよ」と答えたことがあった。でも、その子に話しかけられても黙っていたかな、確か。
で、A氏を止めに入った俺はイライラしていた。「すいませんけど、もう来ないでくれます? 次来たら、その場であんたの会社に連絡しますよ。警察は勘弁してあげますから」とタンカを切った。すると、A氏はそそくさと会計を済ませて出て行って、それ以来うちの店には来ていない。
その日、店員から感謝された。普段、俺に尊敬の念を一切抱いていないと思われる従業員ですら「マスター見直しました!」と言ってくれた。世界の果ての女子高生は、「やりすぎだったんと違います?」と言っていたが、その子の未来のためには正しい行動だった。
俺の考えが変わるきっかけだった。どんなお客さんでも受け入れるのが飲食店の正道だと思っていた。面倒くさい客はいるが、それが多様性の確保に繋がるという考えをもっていた。
二人目:B女史
B女史は大学生だった。同志社女子か華頂短期大のどっちかだった気がする。
この子は、いつも夕方に来て、安い定食だけ頼んでサッと食べて帰る。週に一回ほど来ていた。「高島屋の化粧品店でアルバイトしてる」と、B女史と店員が話しているのを聞いた。
ちょっと話は逸れるが、うちのお店には、居酒屋としてのメニュー以外に定食があった。安い値段で昼食を食べたい人に向けて、なんと800円でから揚げ定食(弁当)を用意していた。味は当然祇園レベルだ。先斗町や木屋町にある標準的な店とは比較にならない。
祇園にも、夜に高い値段で酒肴を出している居酒屋が、昼の時間帯にリーズナブルな価格で昼食を提供している例がある。それでも千円超えは基本だった。それを、原価計算を積み重ねた末に800円という価格を実現させた。しかもウーロン茶が一杯まで無料だ。二杯目からは200円。
お昼時に、店の近くの路上で弁当を売りに出すこともあったのだが、売り切れることが多かった。やはり、コスパがいいのがわかるのだろう。少なくとも毎日30食は売れていた。コスパでこの定食(弁当)に勝てる可能性があるといえば、近所だと長浜ラーメンかやよい軒くらいのものだった。安い店だと、松屋が近くにあったが、こちらの定食の味に比べればゴミかクズのどちらかだった。
※ここに書いてる話は、相当昔になる。今だと祇園レベルの味で800円のから揚げ定食など不可能だ。あと、今だと道路で売店とかやったらすぐに警察が来る。昔は、無許可のラーメン屋台などがよく営業していた。
経営は回転寿司のやり方に倣っていた。くら寿司とかで、いくらやウニが100円ほど(※当時の価格)で廻っているだろう。ああいう原価割れのメニューを提供できるのは、赤だしとかタマゴとかラーメンとかうどんとかデザートとかで黒字にしているからだ。撒き餌である。
祇園の寿司屋で出してるようなウニだったら、木箱ひとつで当時5万円(200円/g)はした。回転寿司がどんなウニを使ってるかは知らんが、卸値だと(5~10円未満/g)といったところか。祇園で出てくるウニの握りなどは1貫3,000円以上することもある。それでもサービス価格だ。
他流であっても、いいところは積極的に盗むべきだ。から揚げ定食が800円だと原価割れ寸前なのだが、そのお客さんが夜の時間帯にも来てくれたら投資は回収できる(弁当にチラシ入れてる)。そんな未来に賭けていた。
B女史に戻ろう。上のから揚げ定食は、昼の売れ残りの一部を再利用して夕方以降の営業時間にも提供していた。クオリティが落ちてる分は600円にしていた。そして、彼女はその定食しか注文しなかった。夜に来てくれるわけじゃなし、お酒を頼むわけじゃなし、友達と一緒に来るわけでもない。30分くらい居て、女子店員やイケメン大学生店員と軽くお喋りをしてアルバイトに出かけていく。
彼氏(同志社)と一緒に来たことは何度かあったが、なんと、二人でひとつのから揚げ定食をシェアしていた。一緒に食べていたのだ。ひとつの定食を。仲睦まじく。電線に留っているツバメのカップルみたいだった。
B女史は、ほかの男性客から不評だった。うちの店はコの字のカウンターだが、そんなに広いわけじゃない。常連同士、話をするのが基本だ。
B女史の近くの席になった男性客が話を振ることがあったのだが、B女史はいつも愛想がなかった。せめて演技くらいすればいいのに。ストレートに「気分が悪いです」とか「今話したくないです」とか、人が不快になる言葉を発していた。
このまま社会人になれば通用しないだろう。せめて愛想はよくするべきだ。ジェンダーとか多様性とか言われているけれども、保守寄りの価値観も大事にすべきだ。人間の本来的な感情に根差しているのだから。B女史は、せめて社会関係を保てる程度の『優しい嘘』はつくべきだった。
それである時、とある男性客のおじさんがB女史を叱ることがあった。「あんた、もう少し考えて行動しいや。いけんで。もっと仲ようせんと。就職しても通用せんで」だったかな。俺もそのとおりだと思い、フテ腐れているB女史をやんわりと宥めた。
すると、「だったら、もっとおいしい店を紹介してもらっていいです?」(※京都だと、いいです?↑とイントネーションが上がる)と、人を舐めくさった態度を取るので、俺も頭にきてしまった。
「前から思ってたけど、このお店は君には合ってないみたいや。もう、今日で来るの終わりにしとき」
と言ったら、B女史が席を立って会計をしようとした。すると、近くに座っていた若手社会人の常連さんが、「○○さんだっけ。あなた、まだほとんど食べとらんやん。俺も注文しとらんし、よかったらいい店教えてやろか。どうする、まだ時間ある?」と提案をして、それでB女史も同意して、二人で一緒にお店を出て行って、それから彼女が店に来ることはなかった。
三人目:C氏
さっきの若手社会人だ。当時30代前半だったが、人間ができていた。相応の男前で、体格もあった。すでに遠方に異動しているので言わせてもらうと、日本銀行の職員だった。ほかの常連さんには内緒にしていたが。会社名を聞かれると、彼はやんわりと『優しい嘘』をついていた。
ちなみに、後で聞いたところによると……彼がB女史を連れて行ったのは、京都で一番予約が取りにくいとされる伝説の居酒屋だった。グーグルマップに載っている。高島屋からも近い。C氏は、お店の扉を開けて、「今日入れますか」と店主に声をかけたところ、予約客がキャンセルしており入ることができたらしい。
だが、B女史の財布には非常に厳しい金額だった。C氏が「千円払ってくれる? 好きなだけ食べていいから」と言うと、B女史は本当に好きなだけ食べたらしく……C氏によると、その時に連絡先を交換して、またおいしい店を紹介する約束を取り付けたらしい。それで、その後はと言うと……これはまた別のお話、機会がある時に話すことにしよう。
※ここだけの話、『伝説の居酒屋』(食堂 おがわ)はバッファーを作っている。全席が予約されてるわけじゃなく、店主の気分次第では、予約なしで入れてくれることもある。後は、偉い人が来店した時くらいか。体感だと、5回に1回くらいは予約なしでも入れる。
とにかく、C氏は人格レベルが高かった。若い店員にも敬語だし、いろいろ注文するし、お店の周年記念にはシャンパンを入れてくれるし、テーブルは綺麗にして帰るし、飲み方も綺麗だ。
なぜC氏をここで挙げるかというと、彼もまたやってくれたのだ。どんな人間にも欠点はある。C氏の欠点は、完璧すぎることだ。完璧すぎて、ほかの仏―の人間からすると予想できない方向でトラブルを起こす。
事例①
女子店員がC氏に近づきすぎる。彼はモテた。見た目はそれなりで、清潔感があって、人当たりがよくて、自信に満ちた振る舞いをしていた。彼からいい扱いを受けたい女子店員の人間関係が悪くなった。
事例②
正義感が強く、営業中のトラブルに首を突っ込む。警察を呼びたくないのに彼が呼んでしまって、えらいことになった。特に暴力団や半グレの関係。体を張ってくれるのはいいが、清濁を併せ呑んでほしかった。
みかじめ料とか何とか言われても、払わねばならないお金だってある。俺に言わせれば、あれは税金の一種だ。あれで飲み屋街の平和が守られている面は確実にある。あの辺りの多くのお店は、おしぼり台や観葉植物のリース料として支払っている。たまに半端なやくざ者(半グレに近い)が現金を要求してお縄につく。
事例③
4人目に譲る
ある時、C氏にやんわりと警告をした。うちの店の課題に首を突っ込まないでほしいと。うちの店の課題は自分で解決する、と。行政に頼るのは最後の手段なのだと。
それからスッタモンダあって、彼はお店に来なくなった。後は風の噂で聞く程度だ。残念な結果になったが致し方ない。いいお客さんだったけど、これも運命だ。
四人目:D氏
時系列的には、C氏がまだ来ていた頃だ。
D氏は、障害者だった。軽度の知的障害で、あまりモノを喋ることができず、メシは食えるが手がおぼつかない。テーブルの上は汚い。いつも母親が一緒に来ていた。
来客を断る意思はなかった。当然だ、お客さんなんだから。いつだったか、彼が口からご飯を吐き出す行為をマネしていた大学生(立命館だったと思う)には厳しく注意をした。「客を馬鹿にするな。お前、今度やったらクビにするで」と明言している。
が、お客さん同士のトラブルになると話は別だ。ある日の午後八時頃だったか、その母親とD氏が米類を食べていたところ、ゲフンゲフンとD氏がせき込んで、口の中から飛んだ米粒が別のお客さんグループのビールジョッキに入った。幸い、店員が気が付いてすぐに替えのビールを用意した。ほぼ満席で席移動は難しかった。
その日、同じようなことが何度も起きた。何度も何度も、D氏の口から飛び出したモノが、隣のお客さんのスペースに飛んで行った。ついにキレたお客の一人が、「おいあんた! そこのぎこちない感じの人(※京都人なりの婉曲表現)、家に帰してくれへんか!!」と母親に怒鳴った。
母親は「すいません」と謝っていたが、彼が譲る様子はない。「その人は外に出したらあかんのと違うんか。なにしとん。帰ってくれん?」と捲し立てる。
母親は何度も謝っていた。その間も、何がしかの物体がお客さんの方に飛んでいく。彼はさらにカッカして、これはいかんとなったところで、離れたところで呑んでいたC氏がこちらを見た。
俺はもう、余計なことは勘弁願いたかった。母親に向かって「お代はいいんで。今日は帰ってください」と伝えた。すると「すいません。堪忍してください。今日は誕生日なんです」と返ってきたが、今度はもっと強く「帰ってほしい」と伝えた。
すると、C氏が怒った様子でこっちに来たのだ。「増田さん。その対応で本当にいいんですか。自分がこの人の隣に行きますよ。五人くらいスライドすればいいでしょ」と。
俺はキレた。「お店のことに口を出さないでって言ったでしょ。俺が責任とりますから」と端的に返すと、C氏は憮然とした様子で自分の席に戻った。
母親と息子には、その場で帰ってもらった。お母さんには「ほかのお客さんのこともあります。お店が空いている時でないと今後のご利用は難しいです」と伝えて、お店の入り口まで案内した。
翌々日だった。京都市役所の福祉部署から架電があった。母子のことで、差別に該当するおそれがあるとの内容だった。C氏か、D氏の母親が京都市に連絡したのだろう。俺はこういう卑劣な行為が許せない。どうしてこんな惨いことができるのだろうか。「障害を理由に差別をすることは~」と電話口で喋る京都市の職員に怒号を発した。
「ええか、こっちは商売でやっとんのやぞ。お前らは公務員やんけ。民間の商売に口はさむなや。こっちがどんだけの思いで商売やっとんかわからんやろ。障害者も受け入れんといかんのくらいわかっとる」
みたいなことを言った。すると、福祉部署の職員は変わらず「差別はだめ」とオウムのように繰り返すだけだった。「公務員は楽でいい。頭の中が非現実で、お花畑で、お金や暮らしのことなんか考えなくてもやっていけるんだからな。羨ましい」そう感じていた。
「それは行政指導やろ。従うかどうか選べるんやろ。ウチは従いません。ええな、おい、おーーーーい!! わかったな」という具合で、受話器をガチャンと置いた。
これが商売の世界だ。勝った負けたの世界では、強く、強く自分の意思を強く主張できないと食っていけない。公務員やサラリーマンじゃないのだ。
結局、お客に接することの哲学というか、そういうのは何が正解なのだろう。どういう場合に出入り禁止にすべきなのか。未だに答えが出ない。
ところで、『うちの店』は、約二年前に閉店した。コロナウイルスに勝てなかった。飲食店組合から休業要請の通知があって、当初は休んでいたが、行政の対応が誤っていると気が付いて通常営業に切り替えた。うち以外にも、筋違いなことをしている行政には従わないという店舗がいくつかあった。
が、コロナウイルスは強すぎた。店を閉めざるを得ないほどに経営が追い込まれた。ほかにも、グーグルマップや食べログの口コミにあることないこと書くような卑劣な奴らがいた。自分を正義とでも思い込んでいるのだろう。
今でも飲食の仕事をしている。いつかまた、お金を貯めて店をやるのが目標だ。あの店は居抜き店舗で残してある。幸い、まだ借主は現れていない。いつかまた、店を開いてみせる。
今回は、そんな決意を新たにするために増田に投稿した。どんなお客を断るべきか、受け入れるべきか。何かアドバイスがあればいただけると幸いです。
犬猫やサルみたいな野性の社会性動物って、毛づくろいの時間の長さで愛情を伝えるんだよね。
でも時間の長さを指標に使ってるから一人に愛を伝えるのに時間かかるし(トートロジーに非ず)、同時に複数相手するのも不可能なんだ。
でもヒトには言語がある。
言語があるから、時間をかけて単体を毛づくろいするよりも、効率的に愛情を伝え、社会関係を維持することができるのだ。
それが、ヒトって生物が、規格外にデカイ群れを持てる理由の一つだとされている。
全長1.5~2mからある動物が、100匹とか群れて村的なコミュニティ作ってることある? 他になかなかなないわけだ。(もちろん、農業で食糧事情が物理的に良いって理由もデカいけど)
ブスの人をブスってあえて口にしてDisっていう人がいるよね。
10代の頃からそうだったし、けっこう大人になった今でもいる。
なんであえていわなくてもいいことを言うんだろうと思ってしまう。
ブスをみるのが相当にストレスなんだろうか。
どうしても気になるのは、恐らく、たいていの場合、
彼らが指摘しているポイントが、俺にとってはとてもチャーミングなポイントだったりしたからだ。
俺はむしろそこがカワイイと思っているのに。。しかも、美人じゃないなら、単にスルーすればいいだけなはずなのに、
なぜあえて存在が気に入らないかのような表明をするのだろうと。
不必要にDisられている子がかわいそうでかわいそうで、最初は単にかわいいと思っていただけなのが、
だんだん好きになっていく、という現象も自分で自分を自己観察できる。これは、、、一種の認知的不協和なのかな、とか思いながらも、
こうして好きという感情が、感情という無垢なものではなくて、Disっている奴へのカウンターとして
バランスをとるメカニズムで社会関係のなかで整理されていった結果なんだな、と思えば
恐らくブスと認知している奴も生来の感情ではなく、社会的に形成された感情なのだろう。あらゆる差別がそういうものだ。
貧困、飢餓、抑圧、教育機会の喪失などは社会制度や国際システムの所産だと考え、人間が本来持っているはずの寿命、可能性、活動領域などが、社会構造や南北格差の中で損なわれ制限されている状態を「構造が暴力をふるう」と比喩的にとらえた概念。J.ガルトゥング(1930〜)は、暴力とは「人間が潜在的に持つ可能性の実現の障害であり、取り除きうるにもかかわらず存続しているもの」と、概念の拡張を試みた。彼は通常の暴力を直接的暴力(direct violence)と呼び、それのない状態を消極的平和と規定した。これに対し、例えば工業国で牛肉の消費が増え、途上国から大量の飼料を輸入するようになり、そのため途上国の作付けが、自国民の消費用穀物から輸出用飼料に切り替えられ、子供たちの食糧が失われて飢餓に苦しむという場合には、結果は直接的暴力と同じだが、因果関係は複雑で暴力行使の主体は特定できず、しかも他者から食物を奪ったはずの人々はその自覚を持たない。このように、社会関係の非対称性を介して間接的に生命や人間の可能性を奪い去るような行為をガルトゥングは構造的暴力と呼び、制度や構造に内在した暴力の解消を積極的平和と定義して広範な論議を呼んだ。◇Johan Galtung(1930〜)オスロ生まれ。平和研究創始者の1人。59年オスロ国際平和研究所創立。著書『構造的暴力と平和』(1991年、中央大学出版部)など。
神話や民話に登場し,人間に知恵や道具をもたらす一方,社会の秩序をかき乱すいたずら者。道化などとともに,文化を活性化させたり,社会関係を再確認させたりする役割を果たす。
ていう語釈が2番目で載ってた。あー、たしかにコムロくんそういう感じで受け止めてもアリだなーとw
でも、他の英和辞書、英英辞書などなどで見ると、一つ目の語釈「詐欺師、ペテン師」しか載ってないのなww
個人的には、皇室・王室スピンオフした繋がりで、ヘンリー・メーガン・ケイ・マコカンパニー的なものを立ち上げて面白ビジネスとか始めて、ガバっと儲かった収益をどっかの国際慈善事業とかに寄付したりして、ぐぅの音もでないセレブの地位をモノにして欲しいw ガンバってくれw
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横だが、ステレオタイプでものを言うことと差別を同一視するのは、悪い差別観だぞ。
例えば「入れ墨している人はヤクザまがいだから話しかけてはいけないよ」というのは、完全にステレオタイプだ。
お前はステレオタイプを持たないようにしてるから、ヤクザっぽいけど善い人かもしれないと思って、そいつと仲良くしようとする。
するとどうなるか?
ステレオタイプっていうのは、おおざっぱにしかし確実に社会関係を判断するために、人間が備えている機能のことだ。
爺だから労われ、子供だから子供あつかいしろ。敵国人の兵士だから警戒しろ。
ステレオタイプに従わないなら、
おじいちゃんだけど元気かもしれないから、席を譲るのが逆に失礼かも
銃持ってるけど敵か味方かわからない
いちいちそういうことを考えるハメになる。
それは重過ぎるコストなので、じゃあどうするかっていうと、社会関係自体を断つ以外になくなる。老人や子どもにそもそも話しかけない現代人の出来上がりだよ。
差別ってのは、偏見=ステレオタイプだから即ち差別じゃなくて、被害が発生してるからとか、嫌な感情がおきるからとか、そういうことで判断するしかないよ。