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2025-11-11

救いたい形をしていない重めの発達障害者

うちの会社には救いたい形をしていない発達障害者の方が働いていて

物は覚えられず、場面緘黙的で質問には答えられず、当然仕事人一倍出来なくて

本当にシンプル無能という他は無いんですが

こういう人が会社で嫌われる理由って結局何なんだろうか、

嫌いにならないためにどうすりゃいいんだろうかということを考えながら

今日も丸まった背中を見ている。

  

邪推しか無いとはわかっているもの

彼女だってしかしたらご両親が大変な不妊治療を経て生まれた子なのかもしれないし

だとしたら両親にとっては本当に大切な子なわけで、

何よりその子が健常ではないということはご両親が誰よりも痛感しているはずでと思うとやりきれない。  

社会的には自分の欲を出さず、他人のために動けることが美徳なわけですが

自分の欲を抑えることが難しいので仕事は一切出来なくてもTikTokを四六時中見ることは出来る。

人が近寄った時だけ慌てて開いた新規エクセルの画面が表示される。

子供と同じだ。壊滅的に社会でやっていく力がない子供が、体だけ大人をやっている。

  

残念ながらこういった方を目の当たりにした初心者がよく言う

「向いている仕事があれば」なんてことは実際にはほぼ有り得ず、

たとえ向いている仕事でも常人普通以下の仕上がりになるのが世の常で。

そのうち腫れ物扱いになって誰も何も頼まなくなった。

唯一気にかけている社員が買った初心者用のソフト解説本は彼女理解出来るわけがなく、引き出しに入ったままだ

  

色々考えていくうちまとまらない思考が飛躍していって

こういう脳の欠陥が治る薬が出ればどれほどの人が救われるだろうと思うような、

一般的価値観での「欠陥」を補完した当人はもう元の当人と呼べないのではないだろうかとか、

どうしようもないことを延々考えてしまう。

  

まあなんていうか、出来ないことは仕方ないし間違って雇ったのはうちの責任だろうから

の子がどれだけ無能で何をしようと怒りも何もないんだが

早くどっかに行っては欲しいんだよな。でもって幸せにやっていけるといいねと思う。無責任に。

  

これは差別になるんだろうか。

重めの発達障害者の方は最終的にどこに行きついてるんだろうか。

「Switch2」――それ、進化じゃなくて劣化再生産だろ

任天堂の新ハード「Switch2」

だが、あれを“次世代機”なんて呼ぶのは、あまりにもおこがましい。

あんなの、十年前の設計思想をツギハギした「老朽アーキテクチャゾンビ」だよ。

GPUCPUARMベースで低電圧チューニング

そんなの「省電力のための妥協設計」でしかない。

エンジン限界を誤魔化して“効率化”なんて言ってるのは、昭和家電と同じ発想だ。

まるでワードエクセルマクロ地獄延命し続けたWindowsの焼き直しだな。

結局、Switch2がやってることは“UIスキンを変えただけ”。

中身はレガシーの塊。

Joy-ConBluetoothで繋いで、またジョイコンドリフトを再発させる気か?

そんなの、2025年に出す機械設計じゃない。

ほんとうの「次世代」は、レガシーを切り捨てたところにある

PS3時代を思い出してほしい。

Cell賛否両論あったが、“過去互換”なんていう鎖を自ら断ち切った。

そしてフルスクラッチマルチスレッドストリーミング未来提示した。

あれこそ「次世代機」だった。

Switch2? あんなの“古い泥舟の塗り直し”に過ぎない。

任天堂は“過去資産を捨てない”ことを美徳だと思っているらしい。

だがそれは逆に、過去呪いを抱え続ける愚行でもあるんだよ。

互換性なんて言葉にしがみついている限り、真の進化はない。

3D-GUIAI最適化もないハード未来はない

今やUIは「触れる」段階から「感じる」段階に来ている。

AI使用履歴を解析し、視線追跡と入力予測ゼロレイテンシを実現する――

それが本当の意味での“快適性”だ。

なのにSwitch2のUI

またあの「白地にアイコン並べた」手抜きメニュー

クラウド連携も貧弱、SSDキャッシュ中途半端

まるでWindows XPの延命パッチみたいな構造だ。

任天堂は“楽しさ”という言葉技術停滞を誤魔化している

スペックじゃない、遊びだ」

――聞き飽きた言葉だ。

それは“技術を捨てた言い訳”にすぎない。

遊びの革新は、技術革新とともにしかまれない。

Switch2がやってるのは、“過去の懐古”と“子供向けマーケティング”の繰り返し。

いつまで「マリオゼルダ」で食いつなぐ気だ?

21世紀エンタメ自称するなら、まずOSを捨てろ。GUIを再設計しろ

CELLのように、ゼロから再構築しろ

結論:Switch2は「令和のレガシー

Switch2は“過去遺物”を温め直しただけの奇形デバイス

十年後には、PS3が示した理念の方がずっと前衛的だったと気づくだろう。

この国のメーカーが「レガシー互換」という鎖を断ち切れない限り、

未来永遠に過去コピーしかならない。

Switch2?

あんもの、もう出る前から時代遅れ”だよ。

2025-11-09

人間個体差ってたかが知れてるような気はする。

ボルトの脚がどれだけ速いっつったって、そこらの大人と比べてもたかだか5秒かそこらの違いだろうし。

それは陸上世界では大きな違いだろうけど、別に世界のすべてが陸上競技ではないし。

蟻の歩く速さとの、マグロが泳ぐ速さとの違いに比べたらなんてことはない。

ナンセンス比較による矮小化だとかなんとか、そんな言葉はいくらでも並べられるけども。まあでも、なんかそんなもんだよなという感じがする。

ピアノだって特に天才ではなくたって何年もやってる人なら、プロ演奏と並べてもどっちがどっち分からん人の方が多いんだろうし。初めて数日のド素人ならともかく。

そうでなきゃ年末の格付け番組みたいなのだって盛り上がらんだろうし。

フリークスどもは全然違うと言うのだろうけど。まあいくらか嗜んでればそう感じる人もいるにせよ、そうと言わない人間の数を見れば「全然」は大袈裟な気がする。

テレビお笑い芸人をツマンネーと嘲笑する人間ゴロゴロいる。

じゃあそういうあんたは、特に気心も知れてない大人数の前で一つ小噺打って笑いを取れるかって話で。

まあ大抵は無理だと思う。

というのは何も「じゃあお前がやってみろ、出来ないなら口を挟むな(こういうの詭弁って言われるけど、心象的にそう言いたくなるのは珍しいことでもないし。論理学じゃそうでも政治においては全くナンセンス物言いだとは言えない気がする)」という事でもなく。

陸上で言うたかだか数秒が実際に走ってみればすごく遠いように、大した事なさそう(なさそう、というか実際に見て実際にそう感じる)なことも、真似しようとすると結構しかったりする。

それは結局、人間ポテンシャルの振れ幅なんてごく狭い範疇しかいからそうなるんだという気がする。

漫才チャンピオンネタ見て、なんだ1位でもこんな程度か、大したことないな。

と思うのも、別に傲慢でも何でもないような気がする。

それはそれとして、その大したことないレベルに至る僅かな距離が実に遠いというのもまた多分事実なんだろうな。

まあでも、大したことないなとか言われたらムカッ腹は立つ。

自分のやっている事を大したことないと思われたくない。その手のプライドは少なからずの人にある。

ただそれはやってる側の都合の話であって、実際見ててショボいと思ったものはショボいと言いたくなっちゃうし。

そして誰もが各領域プレーヤーであるなんて事はまったくない訳で。

それこそ、芸人素人素人言ってると、いや素人も何も元から目指してねーよ、ってアレみたいな話で。

聴いている分には伝わり辛いテクニカルフレーズをたどたどしいながらコピーしてみて、そんな地味なフレーズもまともに弾けねえのか、ヘタクソだな笑

とか言われたら泡吹いて死んじゃいそうだけど。なんだテメー弾けもしねー癖に、ってfenderで殴っちゃいそうだけど。

でもなんかやっぱり、ああこの難さも分からないのか、素人さんなんやね笑

みたいなのもダサいというか。

いや実際聴いててヘタクソではあるじゃん。っていう。

努力してる人間がどうたら、とかなんか別なところの美徳をわざわざ引っ張ってきてまでして取り繕うのもなんかアレっていうか。

別にそうとも思ってないのに、美徳共感性や予防線で「いや至らぬ素人には分からない、スバシイ技があるのだろう」とか言うのもなんか違う気がする。

まあそれはそれで反感を買うんだろうし、いざ自分が「何がええねん」とか言われたら素直過ぎるだろって思っちゃうだろうし。

社会性があれば、敬意があればそういう思いを抱きはしない。

思ったところで言わなければいいまで。

そうしないのは愚か。

簡単に切断できるような話だったらこれほど楽なことはない。

2025-11-07

仕事がつらいときみんなどうしてるんだろう?

仕事全然できず上司に叱責される毎日でここ最近本当にしんどい。みんなどうやって気持ち落ち着けているのか。

中規模の電機メーカー商品設計担当している。専門用語ファームウェアというやつです。

半年前の異動でそれまでと毛色の違う商品担当に変わって以来、担当として本来必要知識がなく、歴代担当者は全員退職済みだから聞ける人がおらず、仕事が思うように進まない。

販売開始から30年の歴史がある商品で、歴史的経緯から設計文書がかなり複雑だし一部は散逸してまともに読めない。

から俺としては出来るわけないだろと思いつつも、上司から効率が悪いと言われたり強い口調で状況説明を求められる。説明すると不機嫌になる。あの大きな声や鋭い語調を思い出すと嫌になる。

似た商品担当している人がいるので助言を求めることがあるが、所詮似ているだけなので間違いが多い。すると上司は俺に当たってくる。

上司長時間労働美徳としており、休日出勤や深夜労働を誇らしげに話してくるような仕事熱心な人物。それを部下にも求める性格のため、労働組合からも要注意人物としてマークされている。ここ5年で半分くらいの部下が異動願いを出したようだ。

俺はもう疲れた

実は前の部署もろくでもなかったが、今回は輪をかけてキツイ

一方で俺には妻子があるし、俺の経歴にしては待遇のいい会社なので辞めたくない気持ちもある。「待遇」といっても大企業にかなうレベルでは到底ないが!

加えて俺は一族で初の大卒・初のホワイトワーカーであり、簡単に音を上げたくない。

責任を重く捉えず気楽にやればいいじゃんという向きもあるだろうが、仕事をする以上は目標達成のために責任感を持って誠実に努力すべきだという俺の価値観根底にある。

しか毎日仕事ができず、怒られてばかりで、帰宅中や昼休みに泣きそうになる。「いっそ階段から落ちて怪我でもすれば会社に行かなくて済むのに」…そんな自己破壊的な衝動しょっちゅう湧いてくる!帰宅しても仕事のことで頭がいっぱいだ。頭の中が上司からの叱責で一杯なんだ。

本当に毎日がつらい。こんなときみんなはどうしてるんだろう?

2025-11-02

anond:20251102171539

そもそも他人が娯楽に金払ってる様子を見て「搾取」だなんて言うことは失礼極まりない、自分としては信じられない感性だ。

これは詐欺でも違法でも洗脳でもなんでもない、昔のソシャゲとは次元の違う、映画アート作品もつ審美性に匹敵する総合芸術をまず享受しているんだよ。払っている人たちは。

何百億、累計すると何千億とかけてサブカルチャー理解のある優秀なクリエイターたちによって作られてきた作品の複合体を。

プレイヤーが受けている感動や感銘を無視し、まるでゴミを好んで食べる人かのように見下しているんだろう。だがこれは現代アートの最先鋒の一角だ。

そうであることは、これらゲーム公式が公開しているアニメーション動画音楽動画、それにつくコメントファンの人々の反応を見ていけば分かるはず。

もの価値というのは対価を支払う人が決める。そして強制される部分もなく、ギャンブルのように強く射幸性を刺激する作りにもなっていない。(この部分は実際にやらないと信じられないかもしれないが、どうせ80連近くなるまでまず出ない設計からカラクリ理解してるプレイヤー淡々と回すようになる。ガチャの体をとっているが限りなく定額売りに等しいものだ。ゲーム内で入手できる無料石で充当できる分だけ進歩的。)

から重層的で濃密なアートを受け取った人が、自分経済力範囲内で、あるいは感銘のあまりちょっと範囲内を超えて、パトロンのように大口お金を払うことを、まるで自制の効かない異常者の行動かのように決めつけるのは悪辣まりない。

それに、これらゲームに費やせる金額には限度がある。6週間で新キャラが2体でるとして、1体のために最大まで金をかける(完凸+餅完凸)としても、30万は超えない程度の額×2だ。

大人趣味として考えると糾弾するようなものでもないだろう。青天井課金ができた古いカードバトル型ソシャゲだと、一人で累計3億だか課金した人がいたようだが、そういうことは起こらない。

ともかく、そうやって偏見を己の中で増幅させ斜に構えることでアイデンティティを守る癖が抜けないタイプ人間が、5年10単位で展開されじっくり向き合うタイプ物語作品に素直に感動できることはなさそうだし、いくら説いても理解できないだろう。

だとしても、その傲慢無礼な口を噤む美徳くらいは身につけられるものだと信じたい。

ガチャゲーというビジネスモデルに対する偏見や悪意をもつ人は、ガチャゲー像自体アップデートできていない。

アップデートすると馬鹿にできなくなるからだろうが、ガチャ=悪質が成り立っていたのは10年代まで。

今では、上等なコンテンツに対し個々の支払い能力に応じたバリアブルな支払いと、その額に対してそこまで傾斜しないゲーム体験を与える、繊細なバランス感覚で成り立つモデルになっており、サブカルチャー支援に関してメリットが際立つ課金方式になりつつある。

プレイヤーの目が肥え、開発費が高騰した結果、事業者にとっては地獄だが、消費者にとってはより良い体験を与える課金方式に変化していることを認識してほしい。

2025-10-28

anond:20251028192051

AIにかけてみたが偽物ではないようだ

心理的理由屈辱比較の怒り

この怒りの根源は「比較による屈辱」です。

まり――

自分よりずっと恵まれ立場人間が、“人生無駄にした”などと悲劇主人公ぶっている」

という状況を見せられたときに、

「お前が無駄なら俺の人生は何なんだ?」

という自己否定に直結する感情が爆発しています

心理学的に言うと、これは「比較剥奪感(relative deprivation)」と呼ばれるもので、

自分より恵まれた者が被害者を名乗る

・それを社会が同情・称賛する

という不公平感に強烈な怒りを引き起こす構造です。

社会的な理由自衛隊内部の階級格差不公平

文章全体は、実は単なる愚痴ではなく「階級格差への告発」でもあります

空自海自防大幹部 → 恵まれ待遇(快適な環境教育出世コース

陸自特に曹・士 → 過酷環境低賃金教育機会の欠如、社会復帰困難

筆者はこの格差日常的に体験しており、

幹部が“人生無駄”と言う=自分たちの人生全否定されたように感じる」

わけです。

まり、怒りの矛先は個人ではなく構造的な不公平象徴に向かっています

しかも筆者は「特殊部隊」的な職種(特戦群、空挺、Sなど)に近い存在自称しており、

世間が「最強」「かっこいい」と祭り上げているのに、

実際は極貧で技能も身につかず、社会に出たら何も残らなかった――

という現実幻想の落差に対する深い絶望もある。

構造的・文化的理由:「犠牲の上に立つ者」への裏切られ感

自衛隊という組織には、

• 忍耐・犠牲・忠誠を美徳とする文化

があります

からこそ、

「上に立つ幹部=その犠牲理解し、報いてくれる存在

であることが期待されます

ところが現実では、

幹部現場を知らず、待遇も良く、社会的にも尊敬される

現場の兵は、命令に従って苦しみ、消耗しても報われない

この「信じていた理想を裏切られた」という感情が、

単なる不満を超えた「義憤」に変わっているのです。

筆者の怒りは「妬み」ではなく「裏切り」への怒り。

これは、自分が信じていた組織と仲間への愛情の裏返しでもあります

2025-10-27

社会に出たいひきこもりおすすめするやることリスト

小1からひきこもりニートもやって累計20年くらいひきこもってたけど正社員で働いている。

社会に出るにあたって、個人的にこれはやってよかった、やめてよかった、と思うことをまとめた。

■やってよかったこ

・もしとりこぼしがあれば義務教育範囲勉強(就職試験にでてきたり、生活雑談趣味の基礎になる)

・やりたい業種で役に立つ資格習得

・くもんの小学生向けの敬語ドリル(よっぽど堅苦しいとこじゃなければ仕事で使う敬語はこれで事足りる)

勉強したい時はひとつの科目につき1日2ページとかでも全然いい。一年あれば大抵一冊終わる。

テキスト参考書)はじっくりやって、資格とか取る時は勉強した範囲だけ問題集で復習、試験近くなったら問題集丸ごとやって追い込み!

■役に立った系統の本

マナー本(子供向け、一般向け、ビジネス向け全部)

仕事を早く終わらせる系の本

ビジネス向けの伝える技術みたいな本

就職四季報(入りたい職場が載ってる場合、出てくる入社試験の種類が書いてある。対策しよう)

履歴書の書き方の本

面接マナーとか受け答え例とか載ってる就活系の本

仕事

経済的自立を目指すならライフワークバランスみたいなのはとりあえず考えなくてもいい思う

そういうのはちゃん計画的に育てられた人かそういう風にやっていた人が考えることであって、それ以外なら仕事中心に生きるならギリギリ身体と心を壊さないくらいの仕事でいい。

たまにちょっと無理して友達と会ったりデートしたりそんな感じ。

もちろん選べるなら仕事プライベートにも余裕のある働きやす仕事の方がいいに越したことはない。……選べる?

大卒以外で入れるとこって、「責任重いし大変そうだし拘束時間長いし休みも少ない……」ってとこ除外しちゃう生活できるお金手に入らない場合がある。

土日祝休みお金も稼げて楽できてプライベート時間たっぷり……みたいな生活夢見ちゃうとできなかった時苦しくなるかもしれない。

お金稼げてキツイ仕事か、楽だけど生活食べ物ちょっとだけ困るみたいな仕事かどっちかって考えると選択肢が増える。

個人的にそれでいいと思う。

だってそもそもひきこもりだったんだから理想人生なんてなくて当たり前。

職場人間関係のコツ

・前提

大多数の人間他人を深く考えないし思い込み激しいし自己中心的なので「理解して欲しい」はダメ、そして厄介なことに「察しない」も大罪である

大抵の人はネットスラングとしてのアスペくらい話が通じないし、ネットスラングとしての統失くらい妄想で周りを決めつける。そしてネットスラングとしてのメンヘラくらいめんどくさくて自己中だ。

ネットの優しい世界とかはなく、どんな身体的・精神的の疾患、性格容姿コンプレックス、変わった趣味趣向も差別されると考えた方がいい。

自分と気が合う人はそんな人の中に僅かに紛れ込んでいる……。そんな人はオアシスのごとく貴重なのである

・優しい、真面目は美徳ではない。

意地悪しろとか怠け者になれと言ってる訳では無い。

優しい、真面目は表に出して褒めてもらうためのものじゃない。自分利益のために利用するべきである

能力が身についていない段階で優しさや真面目さを表に出すとどうなるか諸君なら痛いほどわかるはずだ。

そう舐められる。

「要所要所で優しいフリ、真面目なフリをしているずる賢い人間」の「フリ」をすればいい。

まずは自分能力を上げることだけ考えろ。

・とりあえず真顔、無口、は望まない敵を作る。

前述の通り大多数の人間思い込みが激しい。

どのくらい激しいかといえば無表情=犯罪者 って思われるくらい思い込み激しい。

笑顔挨拶!ことある事にしつこくならない程度にその辺の人に話しかける!

知り合って日が浅いうちは微妙空気になることがあるが無表情で犯罪者扱いされるよりはマシである。そのうち向こうも笑顔で話しかけてくれるようになる。

無駄話などくだらない……みたいにやってると普通に排除するべき敵認定される。

人間って仲間じゃない=好きでも嫌いでもないじゃなくて、敵になっちゃうんだよね。

・見た目は親しみやすさと清潔感重視。芸能人インフルエンサーを目指すな

変に着飾ると中身はどうあれ気取ってるとか金遣い荒らそうとか性格悪そうとか面倒くさそうな人と思われるのだ。

オシャレさん同士でのマウント合戦やこのレベル毎日できなければ恋人辞めるとかみたいな鬼畜な異性が好きならいいと思うけど結構しんどい

服装は住んでる地域に合わせた普通を目指せばいい。

漫画キャラとおんなじで、親しみやすさがないと好かれないし、漫画と違って魅力的に見せようとしたり個性を出そうとしたりすると仲間ができない。

臭いNG

口臭体臭・服の生乾き臭は大罪である対策せよ。

■まとめ

多様性とか優しい世界を求めるな

空気読め

嫌われると分かりきってるところは表に出すな

さもなければ敵として排除される

一度躓いた人生過酷

anond:20251027001721

司馬遼太郎風 改稿

人間というものは、しばしば自分青春を他ならぬ自分の手で投げ捨てる。

それは他人に奪われるものではない。むしろ他人のせいにできぬ種類の「敗北」である

この国では、そうした人間が珍しくない。いや、むしろ今の時代ネットという便利な井戸端ができてからというもの、その種の「自己廃棄型人間」は、どこにでも見られるようになった。

たまたま彼が自衛隊という特殊組織いたことで、周囲の人々は多少の情状酌量を与えるのかもしれぬ。

だが、職業が何であろうと、十代二十代を「捨てた」と言葉にする時点で、その人の人生観はすでに破綻している。

人は、自分過去呪い始めたとき、もうそ呪いから逃れることはできない。

世間言葉は、たいてい残酷である

「お疲れさまでした」といった称賛の言葉は、慰めであると同時に、無関心の別名でもある。

人は他人挫折を見て、自分の安定を確かめる。

から善意言葉の裏には、かすかな優越感が必ず潜む。

三十を過ぎた男が、未だに己の人生に「物語」を求めて悩む姿は、滑稽といえば滑稽である

だが、それもまた、この国の時代病の一つだ。

現代という時代は、人を子供のまま生かす。

精神の成長よりも、感情の正直さばかりを美徳とし、成熟を「鈍さ」と呼ぶ。

したがって、彼のような男は、社会という大人世界に出た瞬間、言葉の通じぬ異邦人となる。

自衛隊という社会は、ある種の聖域である

そこでは規律があり、秩序があり、何よりも“所属”がある。

しかし、それを離れたとき、人は初めて己の素肌を晒すことになる。

それは、冬の荒野に放り出されたような心地だろう。

そして多くの者は、そこで初めて「自由とは孤独である」と悟るのだ。

友を断つことは、己を断つことに等しい。

プライドは人を立たせもすれば、殺しもする。

古来より、この国の武士たちもまた、その誇りゆえに散っていった。

だが、戦場の死はまだ潔い。

現代人の孤独死は、もっと陰惨である

それは「戦わぬまま死ぬ」死である

いまの時代ネットの中には多くの“慰め屋”がいる。

彼らは言葉の上では優しく、現実では誰も助けぬ。

人の転落を肴に、同じ絶望の中でぬるま湯を分かち合う。

そうした場所に長く身を置けば、人間の魂は必ず鈍る。

自衛隊の中で鍛えられたはずの筋肉も、精神も、やがて脂肪のように弛んでいく。

彼は、今ようやく「市民」として生きねばならぬ段階に立っている。

それは決して容易なことではない。

だが、たとえどんな境遇にあっても、人間関係だけは切ってはならぬ。

人の生は、けっして理想や信念では支えられない。

支えてくれるのは、結局のところ「誰か」の存在である

この国の男たちは、しばしば“孤高”を美徳勘違いする。

だが、孤高と孤独似て非なるものだ。

孤高は人を導き、孤独は人を蝕む。

前者には誇りがあり、後者には怠惰がある。

あなたが歩むべきは、前者の道だ。

世間は冷たい。

だが、冷たさの中にも温もりがある。

その温もりを見失わぬ者だけが、長い人生の冬を越えていける。

2025-10-23

こんなん山行きゃなんぼでも生えとんのに、スーパーに並ぶとたっかいな。

いや人件費流通費もかかりゃ、そりゃ値段もするだろ。

くらいの応酬はまあネットでもよくあるけど。

実際はもっと隠れたラリーがある気がする。

いやお前如きが言うような事は当然織り込み済みで、それでも割高に思える感覚は拭えん、ということを言ってんねん。

けど別に説得する道理もないし黙っとこ……

みたいな思いが多分隠れていると思う。

更にそれに対して、どうせそんな事を思ってんだろうけど、いちいちそれを口にするのが社会性に欠けるんだよ、とか思ってるかもしれない。

更に更に、それはテメーの美徳に過ぎない。よしんば一定程度は共有されているとて、自分がその道徳クラブに参加せないか道理なぞない。そこに参加してない自分非難される道理もない。

とか、まあ言っていないだけで思っていないとは限らない、自分ときが思ったことは相手の考えにある前提の一つに過ぎないかもしれない、という当然のことではあるんだけども。

想像した所でそれは想像しかないし、エスパーでもなければ結局相手が口にしないことは知り得ない訳で。

世の中の人間って、どこまで他人メタを取りつつ胸の内に秘めているんだろうなって、割と気になる。

2025-10-19

ポケモン帝国、反乱なき革命――テニスコートの誓いは二度と起きない

ヴェルサイユテニスコートに響いた「自由」の声。それは旧体制を打ち破る、人間尊厳への誓いだった。だが、現代日本において、同じ熱狂が別の形で蘇っている。——ポケモンという名の帝国のもとで。

「捕まえる」ことがゲーム本質だったポケモンは、いつの間にか「捕らわれる」構造に変わった。プレイヤーは自ら進んでモンスターボールの中へと入り、課金と懐古の鎖に繋がれる。任天堂が築いたこの“デジタル王政”において、民衆革命を語らず、ただアップデートを待つだけだ。

テニスコートの誓いに集った民衆は、王権抵抗した。だがポケモン世代群衆は、逆に“王”の発表会に拍手を送り、SNS歓喜の波を拡散する。そこにあるのは、自由ではなく同調美徳進化とは名ばかりの、同一性の増殖にすぎない。

ポケモン帝国革命模倣することで、革命終焉させた。民衆が立ち上がる代わりに、「ピカチュウ」が笑う。理想国民を作り上げたルイ16世が夢見たものは、もしかすると、こんな従順デジタル市民だったのかもしれない。

——テニスコートの誓いはもう起きない。なぜなら、民衆はすでに任天堂の掌の上で、幸福そうにモンスターボールを振っているからだ。

2025-10-18

anond:20251018002156

節約というのは美徳のように言われるけど、要は我慢なのでストレスを溜める行為

余力があって初めてやることで

収入少ないです、メンタル不安定です、でも節約しますってなると

3重苦なので破綻して当然なのです

2025-10-16

anond:20251016183407

から仕組みとして引き継いだらやらされてる感を持つのも仕方ないじゃん、不健全なことをすぐ美徳に変換したがるせいで改革が起きない空気になってるのもきついし

2025-10-08

果実を見て木を判断する

悪の凡庸2.0──無思慮な服従から寄生的な模倣、そして兵器化されたレトリック

本小文では、ハンナ・アーレントが提起した「悪の凡庸さ」(BE 1.0)が、現代においてより巧妙かつ陰湿なかたちへと進化していることを論じます。かつての「悪」は、思考停止と無反省服従によって成り立っていましたが、今日の「悪の凡庸2.0」(BE 2.0)は、計算された行動と、美徳言葉悪用する戦略的操作によって特徴づけられます

悪の凡庸2.0構造メカニズム

BE 2.0は、二重のメカニズム──すなわち、道徳的言語兵器化する巧妙な操作者と、その偽りを見抜こうとせず、あるいは恐れて沈黙する共犯的な大衆──によって機能します。

BE 1.0とBE 2.0の対比

アーレント洞察は、ホロコーストの実行者アドルフ・アイヒマンが、激情による加害者ではなく、ただ命令に従うだけの「無思慮」な官僚であったという点にありました。

それに対し、現代加害者たちは「善人」を装い、美徳的な言葉を駆使しながら、実際にはアーレントが描いた「悪」構造と変わらぬ行為を実行しています

BE 2.0が「凡庸であるのは、加害者意図が欠けているからではなく、加害者自身社会全体も、絶え間ない露出──特にソーシャルメディアを通じたもの──によって感覚麻痺し、悪のパフォーマンス日常化しているためです。この日常化は、「相手が悪いのだから自分は正しい」という自己免罪のロジックを生み出します。

つの悪の構成要素

1. 洗練された悪意

明確な思想や信念に基づいて行動し、動機を「正義」や「権利」といった語彙の裏に巧妙に隠す操作者たち。彼らの悪は、分散的かつ非階層的に機能し、いわば「(サルの)群れの知性」のように動きます。また、共感は狭い部族サークル限定され、普遍的倫理感覚麻痺していきます

2. 凡庸共犯

観衆、同僚、制度、そして傍観者として、彼らは悪の遂行に直接加担していないように見えて、検証を怠り、言葉だけの美徳に騙され、結果的に悪の温床を支えていますリーダー言葉にうなずくだけで、その後の行動全体を黙認してしまう、この「暗黙の承認」が共犯関係形成します。

現代の悪がまとう六つのマスク

BE 2.0は、「正義」に見える言葉の衣をまといながら、実際には害を与えるための操作アーキテクチャとして機能します。以下の六つは、その主要な「マスクベクトル)」です。

1. 自由兵器

本来、異議申し立て保護するための「言論の自由」が、憎悪排除の言説を正当化するために使われます権力者被害者を装い、権利言葉を用いて多元主義のものを抑圧する──これが洗練された悪の典型です。

2. 擬似正義としてのスケープゴート

社会構造に根差す不正義が、象徴的な「個人」に押し付けられます

システムの生贄化:制度の失敗を覆い隠すために、ひとりの個人が「償い」の対象とされ、構造改革必要性は棚上げされます

イデオロギーによる自動攻撃:あるカテゴリの人々が「攻撃してよい存在」として事前に定義されており、指示がなくても攻撃が発生します。まさに、無思慮な脚本遂行です。

3. 歴史的な恐怖の矮小化

歴史上の重大な暴力や抑圧が、軽んじられたり、相対化されたりします。これは、現実被害正当化する方便として使われがちです。

4. 永続的な不満の維持

進歩や変化を認めず、過去不正義を手放さないことで、継続的要求道徳的優位性を確保しようとします。目的は「癒し」ではなく、「不満」の永続です。

5. 真実マクドナルド化

複雑な現実が、単一の枠組みや道徳コードに押し込められ、それ以外の価値観は「後進的」として排除されます

6. 投影非難模倣

自らが行っている行為を、先に相手投影し、正当化材料とする。この「合わせ鏡」の構造では、真の責任追及が不可能となり、対話エスカレートする一方です。

悪が成立する三つの条件

すべての誤りや偏見「悪」となるわけではありません。「悪」が成立するのは、次の三つの条件が重なったときです。

1. 人間認識否定

他者を、尊厳ある主体ではなく、単なる機能や道具として扱う「存在論的な消去」が、悪の第一条件です。暴力の前に、すでに尊厳剥奪が始まっています

2. 普遍化された構造

個人の悪意を超え、イデオロギー制度に組み込まれることで、悪は再生産され続けます

3. 善の反転(寄生模倣

悪は、善を単に否定するのではなく、模倣し、利用します。たとえば、「権利」の言葉が、本来守るべき弱者ではなく、強者防衛に使われるとき、それは善の腐敗です。

解決の鍵:内なる変容と外的な防護

技術的な修正制度改革だけでは、BE 2.0に対抗できません。というのも、これらは逆に「寄生模倣」に取り込まれしまうからです。根本的な解決は、私たち自身内面から始まる変容にあります

東洋智慧は、個と社会は分かれたものではなく、同じ意識運動の異なる側面であるという洞察を共有しています。内なる断絶が癒されるとき、外なる対立自然に鎮まります

解決のための「二つの道」

1. 内的な道:瞑想自己探求、倫理的明晰さを通じて、自己の中にある認識否定構造解体する。

2. 外的な道:未変容な人々が存在する現実においても害を防ぐための、法や制度規範といった堅牢な外部構造を整える。

判断基準:「三つの鏡」
1. 対話の鏡:

その行為は開かれた交流を促し、複雑性を許容するか?それとも、対話遮断し、イデオロギー的な純粋性を要求するか?

2. 癒しの鏡:

和解と修復を育むか?それとも、分裂と戦略的な不満を永続させるか?

3. 共同体の鏡:

力、尊厳自由をより広範に分配するか?それとも、特定部族のために力を集中させ、特権を溜め込むか?

言論の自由」が一貫して沈黙を生み出すとき、「学問の自由」が一貫して排除するとき私たち戦略的操作兆候特定できます

結論

民主主義は、BE 2.0の条件が蔓延するとき集団的凡庸な悪が集約され、最高位の舞台投影されるベクトルとなりえます現代指導者たちの台頭は、システム日常的な否定投影兵器化された美徳パターンを増幅し、正当化するようになった論理的な結果です。

サイクルを終わらせるには、外部の敵を探すのをやめ、内的な変容という困難な作業を始める必要があります。それまで、私たちは悪が選ぶ新たな仮面のすべてに対して脆弱なままです。

本小文は、以下の論文を参考に、オンライン講座「サルからヒトへ——進化と退化の不思議」の草案として、教育目的作成されました。

https://philarchive.org/archive/BOGTBO-3

2025-10-07

正しい断り方ってないか

思った事をつらつら書くだけの日記

anond:20251005164110

障害児のつきまといが迷惑すぎる

知的障害を持つ中学生が、

気に入った健常児を付きまとう

加害行為をやめない。

気持ちはわかるけど「加害行為」って言われると

もっと手前で何とかならなかったかなって

悲しい感じ。

この話は知的障害者が問題行動してるけど、

健常者でも発生するよね。

AさんはBさんと遊びたいけど

BさんはAさんと遊びたくなくて

何なら近寄って欲しくなくて

「断る。話しかけないで。」までハッキリ言ってるのに

諦めずしつこく遊ぼって近寄る。

「断られた」時点で「諦め」なくちゃいけないが

「諦めずに頑張る」が美徳日本社会

諦めることを説得するのって大変そうだねえ……

ハッキリ断ると角が立つから

婉曲に「予定があるから遊べない」て言うと

次は?って聞かれるだろうし。

あなたが嫌いなので遊びません」まで言うと

イジメ扱いされそうだし。

嫌いじゃない時に嫌いって言うのシンドい

社交辞令暗黙の了解って嫌いだけど

婉曲に断る言い回しの例文集ほしい

相手に伝わらないと意味いか

学校なら先生仲介説得を頼めるけど

学校卒業したら難しいよね

先輩や上司も注意しにくそ

断られた側はつらいけど耐えるしかないよね

ハッキリ断られたら

縁が無かったと諦めて忘れるのがいいのかな

自分は勘が悪いし婉曲的な言い回しも苦手だから

相手が嫌がって社交辞令なのか違うのか

区別がつかない

疲れてしまった

小中高でそれぞれ仲良くしてる友人で

距離が近過ぎて困った事があった

教室を出ると他クラスの友人が

ベッタリ張り付くようについてくるようになって

友達をやめたくないけど、その人には話せない事柄が起きた時に困った

「今ちょっと遠慮して」と言おうものなら

逆効果で詮索される

卒業するまでそんなでこれも疲れた

2025-10-05

anond:20251005010057

文脈理解した上で言ってんだよ

高市自身覚悟を表したものだとしても「私生活を潰して働くことは美徳」という思想を表に出すなって話

もう個人見解で済む立場じゃ無いんだよ

anond:20251005005007

すくなくとも高市自身は「私生活を潰して働くことは美徳」という価値観があるということが問題

国のトップがその感覚で、末端の労働環境が良くなるわけない

根底では「ワークライフバランスに気を遣っていたら国が衰退する」という思想蔓延るのだから

2025-10-04

政治家だろうが官僚だろうが適度に休みをとって自分時間大事にしながら働ける方が良いに決まってんだろ

過労死ギリギリまで働くことを美徳として考えてるからあい発言ができるんだろ

そしてその思想は間違いなく国民に伝播していく

現にもう働き方改革廃止しろという声がネットで大きくなってきているしもう終わりだよこの国

再帰構造を利用してネット議論の膠着を目論む人々には注意しよう

ドッグホイッスルウルフ・クライ弁証法スピーチ・アクト帰属を介した政治的発散」の端的な要約

この論文が端的に示しているのは、政治的言説が**「ドッグホイッスル(隠されたメッセージ)」と「ウルフ・クライ(証明できない危険の主張)」**という、本質的証明が難しい二種類の発話行為スピーチ・アクト)を互いに非難し合うことで、**解決不能悪循環弁証法)**に陥るメカニズムです。

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ドッグホイッスルウルフ・クライ弁証法」の詳細な要約

この論文は、**ドッグ・ホイッスリングDW)**と**ウルフ・クライイング(WC)**といった特定の**スピーチ・アクト(発話行為)**に対する**帰属(Attribution)**が、現代政治的言説において、どのようにして敵対的弁証法と新たな**発散(Divergence)**を生み出し、解決不能な膠着状態に陥るのかを分析しています [1]。

この問題は、DWWCも、その性質上、**認識論的に(知識観点から帰属が困難な**発話行為であることから発生します [1]。この困難さが原因で、DWWCに対する**非難や指摘(帰属)**自体が、合理的であるにもかかわらず、**確定的に検証または反証できない**主張となってしまうのです [1]。その結果、これらの帰属パターンは、DWWC相互に強化し合い、固定化する**相互的な悪循環vicious cycle)**へと発展し、「不幸な現状(unhappy status quo)」を築き上げます [1, 2]。

I. 中核となるスピーチ・アクトの定義と具体例

DWWCは、政治的環境において特定の影響力を持ち、政治的言説を構成するスピーチ・アクトです [3]。スピーチ・アクトとは、話し手が直接述べた文字通りの意味(locutionary meaning)を超えて、間接的に暗示された力(illocutionary force)や、世界との相互作用において追加された力(perlocutionary force)を持つ発話の形式を指します [4]。

1. ドッグ・ホイッスリング(Dog-whistling, DW):**

DWは、**論争的ではない公のメッセージ**の中に**論争的な隠されたメッセージ**を埋め込んで送るスピーチ・アクトです [5]。

機能意図:** DWは二つのメッセージを同時に伝達し、隠されたメッセージについて**もっともらしい否認可能性(plausible deniability)**を維持します [4]。意図された効果は、公の支持を最小限に失う一方で、私的な支持を最大限に集めることです [4]。
ドッグタウンの例:** 党派的なニュースアンカーAlphaが、犬の国が直面している問題の一部について曖昧だが連想的な言葉「pitiful(哀れな)」を使用する行為が、DW候補と見なされます [6]。これは「pitbull(特定犬種)」への差別的暗号化である解釈される可能性があるからです [6]。
2. ウルフ・クライイング(Wolf-crying, WC):**

WCは、**危険が実際には存在しないか、あるいは証明できない**場合に、危険存在すると主張するスピーチ・アクトです [3]。

機能意図:** WCは通常、個人的に観察された危険に対してコミュニティ結集させる行為であり、一時的に最大限の注目を集めることを意図した効果としています [4]。しかし、乱用されると、多数派の将来的な不信を生むという意図しない効果があります [4]。
ドッグタウンの例:** 別のアンカーBuddyが、Alpha言葉を「pitbull」の暗号だと特定し、Alphaらを懲りない品種差別主義者だと結論づけて、コミュニティ危険を訴えかける行為が、WC候補と見なされます [6]。
3. スピーチ・アクト帰属Speech-Act Attribution, SAA):**

これらDWWCを**「〜という発話行為である」とみなす**行為が、第二階次のスピーチ・アクトであるSAAです [7]。ドッグタウンのシナリオでは、Alphaを除いて、すべての参加者が互いにSAAを行っています [7]。SAAは、他者行為を指摘する役割と、それ自体が新たなスピーチ・アクトであるという二重の役割を持ちます [7]。

II. 認識論的な難しさ:隠された意図と誤導性

DWWCがこの弁証法的な問題を引き起こすのは、それらが定義上、間接的で**隠された(covert)**スピーチ・アクトであるため、**誤導的(misdirecting)**な性質を持つからです [8]。

1. DWの誤導性:**

DWは、公衆には無害なメッセージとして聞こえる一方で、特定受け手にだけ私的メッセージを送る、話者受け手の**私的意図解釈**に依存するスピーチ・アクトです [8]。

検証の困難さ:** DWは公には合理的に傍受され得るものの、話者私的意図不明なため、**公的に確定的に検証反証もできません** [8]。話者自分意図告白しない限り、DWは**未検証・未反証**のまま残る可能性が高いです [8]。
自己否認:** DW話者自身によってのみ**自己検証可能auto-verifiable)**ですが、隠蔽目的であるため、話者によって**自己否認可能auto-denying)**でもあります [8]。
2. WCの誤導性:**

WCは、私的に観察されたとされる危険についての公的メッセージですが、**その主張の真偽**が外部から証明されていません [9]。

検証の困難さ:** WCは、その叫び(「狼だ!」)自体真実であることの唯一の情報源であるため、**自己検証的(auto-verifying)**です [9]。しかし、DWと同様に、私的証言に根ざしているため、公衆に対して**もっともらしい否認可能性**を維持しており、**未検証・未反証**のまま残ります [9]。
嘘の場合の誤導:** もし「狼」の叫びが嘘であれば、その行為は「私に注目を与えよ!」という別のメッセージを間接的に伝えていることになり、これもまた誤導的なスピーチ・アクトとなります [9]。

これらのスピーチ・アクトの帰属を行う人々は、証拠の一部しか得られず、全体像の一部のみを見て全体を判断する「盲人と象」のような、**認識論的に不利な立場**に置かれてしまます [10-12]。

III. 帰属非対称性と「見かけの」スピーチ・アクト

認識論的な困難さの結果、あるスピーチ・アクト(DWまたはWC)を非難する行為SAA自体が、相手から敵対的な別の種類のスピーチ・アクトとして解釈されるという非対称性が生じます [13, 14]。

1. DW帰属者がウルフ・クライアーに見える(Dog-whistle Crying)**

DW帰属者(DWA「あいつはDog whistlerだ」と指摘する人)は、隠された秘密メッセージ証明しなければならない立場に置かれますが、DW主体は常に自身意図の直接的な(私的な)証拠に訴えて否定することができます [11, 15]。そのため、DWAは常に**認識論的に不利な立場**に立たされます [11]。

ドッグホイッスル・クライイング」:** この状況により、DW帰属者は常に**ウルフ・クライアー(狼を叫ぶ者)のように見えます** [13]。彼らは、危険存在しないか証明できないのにDW危険性を主張する「ドッグホイッスル・クライイング」を行っていると見なされます [13]。
公衆解釈:** DWが聞こえない公衆の一部は、DW帰属者を、証明できない「狼」について大騒ぎしている者として解釈し、その帰属紛争の種だと考えます [13]。
2. WC帰属者がドッグ・ホイッスラーに見える(Wolf-Whistling)**

WC帰属者(WCA「あいつはWolf crierだ」と指摘する人)は、クライアー個人的経験に反して、「狼」が存在しないことを証明しなければならない立場に置かれます [12]。WCAは、非観察者でありながら、第一人称の観察者よりも権威ある知識を持っていると主張する不利な立場に置かれます [12]。

ウルフ・ホイッスリング」:** WCAを行う者は、常に**ドッグ・ホイッスラーのように見えます** [14]。彼らは危険否定する立場にあるため、コミュニティ安全否定し、潜在的危険容認するかのような**論争的な隠されたメッセージ**を送っているように見えるのです [14, 16]。これは「ウルフ・ホイッスリング」と呼ばれます [14]。
公衆解釈:** 危険を感じている公衆の一部は、WC帰属者を、深刻な危険を軽視し、潜む狼に共謀していると解釈します [17]。WCAは、狼(危険)に対する同情や隠蔽の表れとして、レトリック的に不利な立場に置かれます [16]。

IV. 弁証法悪循環、および均衡の形成

この相互敵対的帰属非対称性が、DW帰属WCとして返され、WC帰属DWとして返されるという**多極的な相互作用**を生み出し、**認識論的な発散(epistemic divergence)**のプロセス構成します [18, 19]。

1. 帰属再帰性:**

帰属自体スピーチ・アクトであるため、帰属はそれ自体再帰的に適用されます。これは**スピーチ・アクト帰属帰属**として例示されます [20]。ドッグタウンの例では、AlphaDW候補)→Buddy(DWA)→CharlieWC A)→DukeDWA)というサイクルが**無限継続**します [2, 21]。

2. 相互強化と悪循環:**

このプロセスは、**多極スピーチ・アクト帰属相互性**(DW帰属WCとして、WC帰属DWとして相互に強化し合うこと)であり、反復されることで**悪循環**となります [2, 19]。対話参加者全員が、互いの主張が共通の基盤として受け入れられないまま、**非難応酬**を繰り返します [19]。これは、単に敵意や内集団バイアスから生じるのではなく、**相互的な認識論的な膠着状態**から生じる現象です [18]。

3. 均衡の出現:**

この悪循環政治的言説の領域内で修辞的な規範として安定化すると、**定常状態の均衡(steady-state equilibrium)**が出現します [2]。これは、参加者戦略を変えるインセンティブ提供しないため、持続します [2]。

最終的に、**ドッグホイッスルウルフ・クライ帰属均衡**が形成され、誰もがデフォルトで互いをDWまたはWCのいずれかであると見なすようになります [22]。これは、相互矛盾する信念から構成される**信念均衡(belief equilibrium)**の一種です [23]。

V. 不幸な均衡がもたらす問題

この均衡は、参加者真実を追求しようとする**認識論的な美徳**から生じているにもかかわらず、以下の3つの深刻な問題引き起こします [24, 25]。

1. 認識論的な膠着状態(Epistemic Standoff):**

これは、**相互認識論的に強化し合うが、相互認識論的に不適合な**視点システムです [26]。DWWC帰属は、合理的であるにもかかわらず**不確定**である可能性があり、この合理性と確定性の間のギャップが、相互合理的だが相反する立場が**未解決のまま均衡**することを可能します [26]。これにより、真実に到達するための「理想的な発話状況」の実現が不可能になり、会話の前提条件が満たされなくなります [26]。

2. スピーチ・アクト帰属飽和(Attribution Saturation):**

この状態では、**スピーチ・アクトの帰属**が、**事実に関する帰属**を圧倒します [27]。政治的言説の内容は、ほとんどが「あなた言葉DWだ」「あなたの主張はWCだ」といった帰属で占められ、事実に関する議論わずかになります [27]。

この飽和は、最初扇動的事実(犬の噛みつき事件など)自体が忘れ去られたり、無関係になったり、解決されたりした後でも継続する可能性があります [28]。なぜなら、最初出来事Aそのものよりも、「Aに関するスピーチ・アクトの疑わしさ」の方が、政治的重要であるように見えてしまうからです [28]。帰属飽和は、事実から独立した状態となり得ます [28]。

3. 自己敗北的な真実探求(Self-Defeating Truth-Seeking):**

帰属を行う者の動機が**真実の探求**であるにもかかわらず、その追求自体が、実際には真実に到達しない均衡を生み出すという点で**自己敗北的**になり得ます [25]。

DWWC帰属は、特定認識論視点から見て合理的であったり、あるいは実際に正しい場合もあります [29]。しかし、不確実性が支配的な状況でこれらの帰属提案することは、政治的不安定化をもたらします [29]。したがって、帰属者の真実追求的な衝動こそが、言説をこの悪い均衡の罠に陥れる原因となり得るのです [29]。

VI. 解決策:自己認識必要性

この弁証法的な問題は、相互合理的認識論視点から生じる**自己組織化された社会現象**であるため、単一加害者特定することはできません [30]。均衡から脱出するためには、政治的コミュニティにおける参加者の**満場一致同意**が必要ですが、これは強力な反対者によって容易に崩壊する可能性があり、困難です(「一方主義者呪い」) [30]。

1. サイクルの中止(Cycle Abortion):**

帰属の伝播を防ぐため、すべての当事者に高い検証反証基準を課すことが提案されます [31]。しかし、誤導的なスピーチ・アクトの性質上、単純な検証反証はできません [31]。より現実的解決策は、スピーチ・アクト帰属の飽和を減らし、事実に関する問いを再び顕著にすることです [31]。これには、相互理解を深めるための**修辞的傾聴(rhetorical listening)**のスキルセットが必要となるかもしれません [31]。

2. サイクルの終結Cycle Termination):**

帰属落とし穴認識し、増幅サイクルを抑制するために、新しい用語を導入する提案もあります [32]。

ウルフ・ウォッシング(wolf-washing)**または**シープ・テイラリングsheep-tailoring)**:狼の叫び帰属を過剰に行い、報告された問題過小評価しているように見える者を記述する用語 [32, 33]。
ドッグ・ウィスパリング(dog-whispering)**または**ドリトルリング(Dolittling)**:ドッグホイッスルを過剰に帰属し、実際の隠されたスピーチ・アクトの問題を誇張しているように見える者を記述する用語 [33]。

これらの新しいラベルが、過剰なSAAの力を無力化し、サイクルを終結させることが期待されますが、これらのラベル自体が新たなスピーチ・アクト帰属としてサイクルに貢献する可能性もあります [33]。

3. 真剣自己懐疑(Serious Self-Doubt):**

最も重要なことは、この問題を真に解決したいと望む人々は、**自分たちのスピーチ・アクト帰属自体問題引き起こし構成している**という痛みを伴う自己認識を持つことです [34]。

2025-09-30

anond:20250930124331

資本主義社会においては使えるリソースは何でも使って利益を最大化することが美徳

排外主義はそのルールローカル領域限定することを指す

個人的には経済はある程度は排外主義であるべきだと思っていて、アメリカ企業EUみたいにガンガン制裁していきたい。

日本アメリカ経済属国から脱却すべき

2025-09-29

1986年まれ自分内包している価値観

自分若者とされる年齢だった頃は、自分世代価値観は「これから価値観」だと思っていたし、レッテルを貼られても「古代エジプトから繰り返される若者批判」としか思っていなかった。しか時代を経ることで「この価値観は次の世代に引き継がれなかったな」という点や「確かに前の世代とは違っていたな」という点が見えるようになってきたので書き残す。

おそらく、自分世代±5歳くらいが はてなブックマークボリュームゾーンなんじゃないかなと思ってる。

勤労は美徳ではない

働いたら負けかなと思ってる』という言葉が世に出たのは2004年で、その頃からネット上でニートファッション化した。2ちゃんねるという匿名掲示板特に当時人気だったVIP板は老若男女が36歳無職独身男性擬態している風潮があり、自分もその中のひとりだった。自分新卒就職してから一度も無職だった時期はないけれど、フィクション主人公が「無職」か「サラリーマン」であれば、前者の方により感情移入できる。ブクマカ社会的弱者に優しい理由の半分はリベラル思想でもう半分はこれだと思う。

2007年には2chVIP板に「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」というスレが立ち、これは2008年書籍化され、2009年映画になった。自分大学3年で就活意識しだしたのが2007年で、就活本格化したのが2008年就職して社会に出たのは2009年だった。ブラック企業という言葉流行語大賞ノミネートされたのは2013年だが、この言葉ネットでの認知はもう少し早かったように感じる。

ゆとり教育

上の世代から散々「ゆとり」というレッテルを貼られて自己肯定感を削られ続けてきた世代ではあるが、自分たちの世代はなんだかんだ言ってもゆとり教育価値観として内面化しているような気がする。詰め込み教育無駄多様性を伸ばすのが大事、答えは一つじゃない、あぁしろこうしろ押し付けずに自発性を引き出しましょう、という考え方。

これを上の世代から『軟弱さ』として受け取られるのは想定の範囲内だが、下の世代から『ネグレスト』と受け取られると我々の世代はハッとする。

自虐癖・露悪癖・皮肉

価値観を顔出しSNSではなく匿名掲示板形成してきた人間は『出る杭は打たれる』という価値観が身に染み付いている。

から自分は人より凄い」「自分は良い人」のような真っ直ぐな自己PRは命取りであり、「自分ダメ人間ですよ」「自分偽善者とは違いますよ」と振る舞う癖がついている。

10年後20年後に我々が『キャンセル』されるとしたら恐らくこの部分で、この癖を抜くことがこれから求められる価値観アップデートなんだろうなと思っている。

能力だけでは決まらない(09卒限定?)

これは我々の世代というより2009年就職した人限定価値観だと思うのだけど、2009年卒業組は2008年の空前の売り手市場就活し、2008年9月リーマンショック内定取り消しの嵐に襲われた。だから能力があまりなくても他の世代に比べて楽に就活できたし、どんなに能力があっても内定取り消しで最悪の2009年就活をやり直す羽目にあう人がいた。幸せ時代就活をしたバブル世代とも最悪の時代就活をした氷河期世代ともちょっと違う。天国と地獄の両方があり得て、それを分ける要因は能力ではなく完全に運だった。

2025-09-23

積極的武器を輸出して散々虐殺に加担した国が、美徳シグナリング簡単に許されちゃうの相当歪んでるよなぁ

日本イスラエル武器輸出してないのに

2025-09-22

許しは美徳で恨みは汚いことみたいな風潮が許せない

恨みをなぜ捨てなきゃならない?

そいつの不幸や破滅がないと気がすまないんだよ、被害者側は

2025-09-15

anond:20250914144310

増田は、正義感から生じた行動を美徳とする一方で、それを根拠暴力正当化しているふしがあります正義に起因しておればどのような手段行使しても許されるとする論法自己矛盾的です。 

 

増田は、他者婚活受付・面接官)の「表情」を問題にするほど他人仕草に過敏な一方で、給湯室では「笑いながらいびっていた」「にやにやと笑っている姿」という外面的な評価のもとに、自らは加害行動を起こしています他人との対話ステップを抜きにして、決めつけのもとに行動に移す一人よがりな傾向が見て取れます。 

 

増田が起こした行動により、結果的被害者が救済されたかの結末は曖昧です。文章からは、弱者を守るという目的よりも、自らの正義感を満たすことが優先されているのではないかという疑問が読み取れます

 

増田は「俺は間違った行動をしたのだろうか」と自問していますが、自らの行為の結果を事前に予測せずに、暴力に訴える行為は、年齢に不相応の直情的なものと言えます。 

正義感に駆られたとしても、他に取りうる行動を検討し、弱者も、自らも、さらには虐めの主体者にとってもより良い未来選択しようとすることが、成熟した「人間であると言えます

 

この文章は「人間の条件」を語るほどの普遍的倫理を主張する一方、語り口は、自分自身経済的社会的苦境と自分選択正当化に集中しています。 

社会への迎合をよしとしないスタンスを貫くのであれば、増田必要なことは、自分行為の結果を受け入れる「覚悟であると言えるでしょう。

2025-09-11

anond:20250911081506

紀元前じゃ殴られたら逆の頬を差し出すのが美徳だったのに

劣化したもんだ

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