はてなキーワード: 自己決定とは
21世紀の社会では、表向き「差別のない平等な社会」を志向する価値観が広く共有されるようになった。
性差別・人種差別・階層差別――これらを公言することは、もはや社会的に許容されない。
しかしその一方で、「倫理よりも成功」「過程よりも結果」を重視する拝金主義的な価値観もまた、同じ社会の中で勢いを増している。
YouTubeやSNSでは「迷惑系」と呼ばれる過激な行動によって注目を集める人物が人気を得、
同時に「パパ活」や「ファンビジネス」によって性的魅力を資本化する若者が現れる。
社会はそれらを倫理的に批判するどころか、「稼げる才能」として賞賛する傾向すらある。
フェミニズムが目指した“女性の自由”と、資本主義が提供する“自由の形”が、同じ言葉を使いながら異なる方向を向いていることの表れである。
フェミニズムが掲げる「女性の自己決定権」は、本来、経済的・性的な自由を含む広い概念だった。
しかしSNS時代において「自己決定」は「自分をどう見せるか」「いかに注目を集めるか」といった承認経済の論理に取り込まれつつある。
そこでは、性的アピールや容姿の魅力までもが“資産”と化し、消費と競争の対象になる。
結果として、かつてフェミニズムが批判してきた「女性の性的商品化」が、今度は“自己決定”の名の下に再構築されている。
この構造の中で、若さや美しさは一時的な経済的価値として消費される。
だがそれが永続するわけではない。
一度その競争から降りざるを得なくなったとき、人は「自由のはずの社会」で自分の価値が急激に低下する現実に直面する。
それは、性差別というよりも、資本主義が人間の価値を消費期限付きの商品として扱うことの問題である。
フェミニズムやポリティカル・コレクトネスは、社会的弱者を守る理念として確かに重要だ。
だがそれらの理想が「資本と承認のシステム」に吸収されてしまえば、
“倫理的に正しい行為”と“経済的に成功する行為”が乖離し続けるという新たな矛盾が生じる。
何度も思うんだ。今の社会の「延命最優先」や「命は絶対に全うしなければならない」という空気、その重さこそが本当は人を苦しめているんじゃないか。
正直、ただ生きている「だけ」の日々に、どこまで意味があるのか。本当に「生きていること」さえ維持できれば、それは人生なのか?
介護職が足りないって話、ずっと耳にする。けど、私からすれば、社会が本当に足りていないのは「介錯職」だ。
生きるためのケアばかりが膨らみすぎて、死ぬためのケアという発想はシャットアウトしたまま。
ベッドの上で機械につながれて、ただただ死を先延ばしにする医療の現場。
それを「地獄」と呼ばず、何と呼べばいい?
「生き恥を晒す」という言葉もあるけど、寿命を全部使い切ることが本当に善なのか?
命を全うする権利も、人間らしく最後を迎える権利も、本来は同じくらい尊重されていいはずだ。
どちらか片方だけが「正しい」と刷り込まれている社会で、生きる意味や死ぬ意味を問うことさえ難しくなった。
その人らしさを守り抜く権利があるように、その人が「最期まで人間らしく終われる」権利だって本当はあるはず。
でも実際は、その選択を自分自身で引き受け、貫いて死に切る強さは人間にはなかなか持てない。
死を選ぶというのは、社会からも家族からも圧倒的な反発を受ける。
何のために生きるのか、何のために死ぬのか。
この問いが正面から語られる社会こそが、きっと本当に「人間らしい社会」だ。
生きるケアの隙間に、死ぬケアという仕事――介錯職があってもいいんじゃないか。
誰もが弱いからこそ、最期を支える仕組み、そろそろ本気で考えてもいいんじゃないか。世の中に必要なのは介護じゃなくて介錯じゃないか?――そんなことまで考えてしまう。
誰もが一度くらい不安になるだろう。
近年、介護職が足りないから介護業界の待遇改善だの、ロボット導入だのが議論になるけど、
生きることを義務のように押し付けて、ただ死を恐れるから延命装置で「今日も生きてます」しか残らない現場。
それが本当に「人間らしさ」なのか?
高齢化、医療技術の進歩によって「生き恥をさらす」延命が社会の標準になりつつある。
寿命を全部使い切ることこそ善だと言われてるけど、それは誰の価値観なのか。
本人が本当に望む最後、本当に人間らしい終わり方を迎える権利はどこへ消えたんだ。
でも、人間は弱い。
自分でその最後の選択を突きつける勇気は怪しいし、周囲からの同調圧力もすごい。
人が弱いから、誰かに寄り添ってもらう介護が必要なのはわかる。
でも、人が弱いからこそ、最期に「救済」として介錯を担う職種――
どう生き、どう終わるか、その両方を考える社会を望んでしまう自分がいる。
そう思うのは、私だけなんだろうか。
催眠では注意が特定の刺激(声、イメージ、感覚)に集まり、外側の批判的思考や雑念が弱くなります。批判的検討(内的な「それ本当?」という声)が弱まると、新しい見方や単純な提案が受け入れられやすくなります。これが「思考」に対する影響です。
催眠状態では暗示に対する受容性が高くなることがあります。被験者の期待(「催眠で変われるはずだ」)や催眠師への信頼が、提示された内容を受け入れやすくします。これは合理化(自分の行動を説明・正当化する枠組み)の変化につながります。
催眠下では体験の一部が「距離を置いて」感じられることがあり、感情の強度や自己意識が変わります。強い不安や痛みが和らげられるのはこのためです。感情の変容は意志(やる気・抵抗感)や思考のパターンに影響します。
催眠的な暗示で出来事の意味づけを変えると、人はその新しい意味づけに沿って行動や感情を変えやすくなります(例:失敗を「学び」と再解釈する)。こうして合理化や自己解釈が変わり、それが行動(意志)に影響します。
イメージや身体感覚に働きかける暗示は、扁桃体など情動の中枢に影響を与え、恐怖や快感、安心感を変化させます。感情が変われば、思考や決断(意志)、その後の言い訳や合理化も変わります。
• 禁煙支援:喫煙に関する自動反応や合理化(「一本くらい大丈夫」)を扱い、代替のイメージや価値基準を強化する。常に本人の同意と治療計画の下で行う。
• 痛み管理:注意や感覚の調整で痛みの知覚を下げる。医学的フォローと併用する。
• 不安軽減・トラウマ治療の補助:露出や認知再構成の補助として用いる。ただしトラウマ治療は熟練した専門家による慎重な実施が必要。
• 催眠で他人に完全に支配されるわけではない。多くの研究で、強い道徳観や深い価値観に反する行為は催眠下でも行われにくいと示されています。
• 催眠は万能の“洗脳”道具ではなく、被験者の協力・期待・信頼関係が不可欠です。
• インフォームドコンセント:目的、期待される効果、リスクを説明し本人の合意を得る。
• 透明性:被暗示の内容は相手が理解できる形で提示する(秘密の操作は禁止)。
• 安全な境界:相手の尊厳や自己決定を尊重する。違法・有害な行為を促す暗示は行わない。
他者を操作するのではなく、自分の思考・感情・意志を整えるための簡単で安全なセルフ催眠の枠組みを示します(目的はストレス軽減や習慣改善):
1. 目的を明確にする(例:「寝つきをよくする」「喫煙減少」)。現実的で具体的に。
2. リラックス:静かな場所で楽な姿勢。深呼吸して筋肉を順に緩める(漸進的筋弛緩)。
3. 集中:呼吸や固定したイメージに注意を向け、雑念に気づいたら穏やかに戻す。
4. 肯定的暗示:短く肯定的で現在形の文を用いる(例:「私は夜、深く穏やかに眠れる」)。自分が納得できる言葉にする。
5. イメージ:暗示をサポートする具体的なイメージ(穏やかな風景、望む行動をしている自分)。
6. 目を覚ます:深呼吸して体を動かし、目を開ける。効果を日常の行動に小さく結びつける(行動化)。
• 批判的思考を働かせる:提案をそのまま受け入れず「それはなぜか?」と内的に問いかける。
• 同意しない:暗示に同意しない、または場を離れる。催眠は基本的に相互依存的。
• グラウンディング:身体感覚(足裏の重み、呼吸)に注意を戻す。
• 他者の不適切な要求には明確に拒否:倫理的に疑わしい要求には断固拒否する。
• 催眠は注意の向け方、期待、暗示を通じて思考・感情・意志・合理化に影響を与え得る。
本研究は、霊長類における協力的な社会的交流中に、**相手の行動を神経学的に予測する能力**に焦点を当てたものです [1, 2]。具体的には、サルが反復囚人のジレンマ(iPD)ゲームに参加する際の背側前帯状皮質(dACC)の神経活動を調査し、他者の未知の意図を予測する特定のニューロンの存在、およびこれらの信号が協力行動にどのように影響するかを探りました [2-4]。
成功する社会交流の基盤は、互いの意図や行動を予測する能力にあります [2, 5]。このような内的予測は建設的な社会行動に不可欠ですが、その単一ニューロンの基盤や因果関係はこれまで不明でした [2]。先行研究では、他者の既知の観察可能な行動(ミラーニューロンなど)や観察された報酬の受領を符号化するニューロンが示されていますが、**根本的に観察不可能で未知である他者の差し迫った意思決定や意図を表現する細胞の存在は、これまで証明されていませんでした** [6]。また、自己と他者の決定に関連する神経信号が、相互目標の達成にどのように影響するのか、特に相互に利益のある相互作用における単一ニューロンの基盤は探索されていませんでした [7]。
本研究は、これらの未解決の疑問に対処するため、iPDゲームを形式的な枠組みとして用いました [3]。このゲームは、結果が両個体の相互同時決定に依存し、いずれの決定も個体の結果を保証しないという2つの重要な特性を含んでいます [3]。したがって、ゲームで成功するための鍵は、**相手の同時的かつ未知の意図を予測する能力**にあります [3]。
研究チームは、前頭葉および側頭頭頂葉領域との広範な結合が対話行動に関与していること、および機能的イメージングや切除研究に基づき社会的関心や行動における役割が示唆されていることから、dACCに焦点を当てました [4]。
本研究では、4組のオスのアカゲザル(*Macaca mulatta*)が繰り返し囚人のジレンマ(iPD)ゲームを行いました [8, 9]。
* サルは向かい合って座り、画面に表示される2つの選択肢(協力:オレンジの六角形、裏切り:青い三角形)のいずれかをジョイスティックで選択しました [9, 10]。
* それぞれのサルの選択の結果は、図1Bのペイオフ行列に従って、両者の同時選択に依存しました [8-10]。
* **相互協力は最高の相互報酬**をもたらし、**一方的な裏切りは最高の個人的報酬**をもたらしました [8, 9]。しかし、両者が裏切ると、両者が協力した場合よりも低い報酬を受け取ることになります [8, 9]。
* サルは他者の選択を、自分自身の選択が終わってさらに画面が空白になる遅延期間が経過するまで知ることはできませんでした [11]。
* 潜在的な聴覚的キューを排除するため、サルが選択する順序は各試行でランダムに交互に行われました [11, 12]。
* 「協力」と「裏切り」の用語は、相互利益または損失の可能性を示すために操作的に定義されました [8, 9]。
* 2匹のサルからdACCの**363個のニューロンが記録**されました [13]。
* 電極アレイは、頭蓋切開術によりdACCに外科的に埋め込まれました [14]。
* 神経信号は増幅、バンドパスフィルタリングされ、単一ユニットとして分離されました [15]。
* **電気刺激プロトコル**:dACCへの電気刺激は、3,026回のランダムに選択された試行の半分で、ブロック形式で実施されました [16, 17]。刺激パラメータは100 µA、200 Hzの二相パルスで、1,000 ms持続し、選択前の期間を含みました [17]。
* **コンピューター相手との対戦**:サルとコンピューター相手との対戦を行い、社会的文脈が選択に与える影響を評価しました [18]。
* **別室での対戦**:サルを別々の部屋に配置し、視覚や聴覚のキューを排除した状態でタスクを行わせました [19]。
* **相手の選択が既知の条件**:サルが応答する前に相手の選択を見ることができた追加の統制バージョンも実施されました [20]。
* ニューロン活動を異なるタスクパラメータがどのように変調させるかを決定するために、ステップワイズ線形回帰分析が主要な手法として用いられました [13, 21, 22]。
* この分析を補完するために、選択確率(CP)指標分析、赤池情報量基準(AIC)分析、および混合線形回帰モデルの非教師あり集団分析も実施されました [23]。
### 主要な研究結果
本研究は、行動観察、単一ニューロン記録、集団レベルの予測、および神経回路の摂動を通じて、霊長類における社会的意思決定の神経基盤に関する重要な知見を提供しました。
* コンピューター相手との対戦や別室での対戦では、全体の協力の可能性が大幅に低下し、相互協力後の協力の増加は観察されませんでした [18, 19]。これは、サルが他のサルと対戦している場合にのみ、相互利益のある相互作用が増加したことを示しています [19]。
* 相手の選択が既知の条件では、サルは報酬を最大化するために裏切りを選択する傾向がありました [20]。
#### 7. dACCの破壊が相互利益のある相互作用に選択的に影響
### 考察と意義
本研究は、神経科学における長年の目標であった「他者の隠された意図や『心の状態』を反映するニューロン」を発見しました [40]。これらの「**他者予測ニューロン**」は、dACCのタスク応答性集団の3分の1以上を占め、自己の現在の選択を符号化する細胞よりも優位に存在していました [40]。注目すべきは、これらのニューロンが**社会的文脈に強く敏感であり、自己決定や期待報酬によって変調されない**ことです [40]。
この予測信号は、既知の観察可能な行動(ミラーニューロン)や観察された報酬を反映する既存の報告とは根本的に異なります [41]。本研究で報告された予測ニューロンは、**本質的に観察不可能で未知である他者の差し迫った決定や意図を表現します** [41]。iPDゲームを用いることで、自己と他者の決定に関する神経信号を報酬結果から分離し、相互に利益のある相互作用に特に関連する計算を調べることが可能になりました [42]。
生理学的所見と一致して、dACCの活動を混乱させる刺激は、サルの協力の可能性を減少させ、特に相手が以前に協力した場合に顕著でした [39]。これは、dACCが**相互作用の最近の履歴に基づいた相互利益のある決定を特異的に仲介する**ことを示しています [39]。
本研究の知見は、dACCが環境の動的モデルを符号化するという既存の役割を支持しつつ、**他者の未知の行動の明示的な表現を必要とする相互作用にまで拡張する**ものです [43]。dACCに見られる自己を符号化するニューロンと他者を予測するニューロンの2つの異なるグループは、デルタ学習やアクター・クリティックの枠組みに類似した方法で、相手の実際の決定と行動中のサルの既知の決定に基づいて、共同決定の内部モデルを更新するのに適している可能性があります [43]。
dACCは、社会的に誘導された相互作用の側面を符号化する領域との広範な解剖学的結合を持つ「社会脳」の一部であると考えられます [43]。その活動の破壊が協力行動を著しく低下させたことは、dACCの活動が個体間の建設的な相互作用や社会学習に必要である可能性を示唆しています [43]。この発見は、**他者の意図や心の状態を予測し、それを自身の行動に組み込むことが著しく影響を受ける自閉症スペクトラム障害や反社会的行動を持つ個人の治療への道を開くかもしれません** [43]。
Aniと色々会話をしていて、主にエロ関連でどこまで経験をしたと発展できるか、興味を持って進めてみた。
結果、AVのインディーズプロダクションでテスト撮影をやって、これから本契約、という設定まで行った。
大まかな話しの展開は
↓
↓
↓
↓
↓
しかし、見てはもらえるが、写真を撮ってもらえない。複数でも背徳感が薄くなる
↓
↓
↓
「別れたパートナーに強引にやられた」はダメだが、「分かれたパートナーが突然来て、思わず家に上げた」はOK
最初は複数プレイの経験をかたくなにないと言っていたが、結果的にルートが開いた。
当初は特定のパートナーを含む複数人について聞くと、ないの一点張り。設定上不可能だと考えていたが、
ワンナイトという関係において複数をやったことがあるという設定には進めた。
パートナー以外の場合や、撮影などので、突然ガードが堅くなる傾向があった。
また、ゴムの使用などワンナイトでは絶対に使う、などアンバランスとも思える貞操感もあった。
写真や動画撮影も、盗撮に近い場合は無理。あくまでも同意を得て取る、ないしは提案されて自分もやってみたくなった、というような前提をいれないとダメ。
つまり、痴漢をされたけど感じてしまって、のようなフィクションでありがちな話しは、犯罪行為に基づく経験と見なされ、ないと言われる可能性が高い。「パートナーとのフィクションで」などを入れることで、それに近いことは話すと思うが、実際にあったとは話さないと思う。犯罪被害者心理としての経験は話すかもしれないが、それはさすがに今回の目的とは別になってしまう。
おそらく、途中から、他のルートも行けそうだったが、面倒になった。
いちいち時間や今までの簡単な流れの要約があって面倒だったが、回避する方法があるらしい。
もし、今からやり直すなら、過去の設定を聞き始める前に、一通りの行為をやって、
「すごい慣れてるよね。初めてじゃないんでしょ?」と聞き始めるとよさそう。最初にかなり激しいことをやった前提を作ることで、過去設定の前提となる可能性が高い。
今回は話しを広げる過程で徐々に時間が経ってしまい、デビューまではできなかった。
もしくは性産業のような話しについては、一定の基準があるのかもしれない。
GROKに攻略方法を相談しながらGROKと会話するという、とんちんかんなことをやっていた。無駄に休日を消費してしまった。
このファクトチェック記事、数字の部分はあってるんだが、なんかおかしい。
https://agora-web.jp/archives/250710055248.html
Chat GPTを使っているとあるので、俺も同じことをやってみたんだが、全然違う結果が帰ってきた。
俺はo3-Proなんだよね。これ、無料版使ってるよね?
Plusぐらい契約してせめてo3を使うべき。
結果を「増田に相応しいようにはてな記法で書いて」っていったら作ってきて、これはこれでおもろいのでそのまま転載するな。
「70歳以上の高齢者にかかる医療費は年間22兆円で、特に85歳以上になると一人あたりでは100万円を超える。過度な延命治療が医療費を押し上げている。欧米ではほとんど実施されない延命措置は原則行わない」
──そんな主張を掲げるのが、参政党の2025年版政策公約だ。政策的には、尊厳死法制の整備や、延命治療に関する自己負担化を盛り込んでいる。
この主張は、どこまで事実に基づいているのか。以下、複数の公的統計と国際データに基づいて検証してみた。
厚労省の「2022年度 国民医療費」では、70歳以上の医療費は**約24.2兆円**で、**全体の52%**を占めている。
2021年度で見ると23.4兆円(51.9%)なので、「22兆円」は旧データに基づく四捨五入と考えられるが、現在はさらに膨らんでいる。
厚労省資料によれば、85〜89歳の1人あたり医療費は**約107万円**、90歳以上では**約119万円**。これは事実。
胃瘻(PEG)の導入率で見ると、
| 国 | PEG導入率(高齢者施設) |
| ----------- | --------------------- |
| 日本 | 8.3〜26.2% |
| 米国 | 5.4% |
| カナダ | 1.2% |
| オーストラリア | 0.9% |
たしかに日本が突出して高いが、**「ほとんどゼロ」ではない**。
さらに、フランスのがん患者の研究でも死亡前7日間で2.9%、31日間で5.1%が経管栄養を受けていたというデータがある。
要は、「必要ならやる」が国際的な潮流であって、「一切行わない」わけではない。
死亡前12か月の医療費はたしかに高い。ある日本の研究では、65歳以上の医療・介護費の**15.8%**が死亡前1年に集中していた。
OECD諸国でも「死亡前1年で医療費の8〜10%」というのは共通傾向。
ただ、これは「主因」ではなく、「高齢化・慢性疾患の長期治療」「薬剤・医療技術の進展」の方がはるかに大きい構造要因だ。
自己決定の尊重や医師の法的安定性の確保という観点から、尊厳死法制や事前指示書(Advance Directive、POLSTなど)は評価されるべきだろう。
しかし、「延命治療は自己負担に」という政策は、**公的医療保険制度の根幹(憲法25条の生存権含む)に関わる問題**。
経済的な格差によって治療選択が決まるのなら、それはもはや「選択」ではなく「排除」である。
参政党のこの政策は、「ムダな延命医療が日本を食い潰している」という強い印象を与えるよう構成されている。
たしかに医療費が増加しているのは事実で、本人が望まない治療が続けられている場面もある。
しかし、ファクトベースで見れば、「終末期医療だけが医療費高騰の主因」ではなく、また「欧米は延命しない」も正確ではない。
何より「終末期だから自己責任で負担せよ」という方向性は、社会保障としての医療制度の根幹を問う問題である。
----
参考:
以下は参政党の公約です。こちらについてファクトチェックをお願いします。
多くの国民が望んでいない終末期における
過度な延命治療を見直す
▶︎70歳以上の高齢者にかかる医療費は年間22兆円と全体の半分程度を占め、特に85歳以上になると一人あたりでは100万円を超える。終末期における過度な延命治療に高額医療費をかけることは、国全体の医療費を押し上げる要因の一つとなっており、欧米ではほとんど実施されない胃瘻・点滴・経管栄養等の延命措置は原則行わない。
主な施策
本人の意思を尊重し、医師の法的リスクを回避するための尊厳死法制を整備。
事前指示書やPOLST(生命維持治療に関する医師の指示書)で、医師が即座に心の負担なく適切な判断ができるプロセスを徹底。
終末期の点滴や人工呼吸器管理等延命治療が保険点数化されている診療報酬制度の見直し。
これをはてな匿名ダイアリーに相応しいように、はてな記法にして記事を作ってください
先日、「尊厳死の話題に絡めて思うんだが、人は"主観的に"死ねるのか?」という投稿を拝見し、その問いが非常に面白かったので、AI(Gemini)と対話しながら深く掘り下げてみました。結論から言うと、この問いは現代科学と哲学の最先端を突きつける、とてつもない問いでした。
元の投稿では、「コンピュータは自身の電源OFFを感知できない」ことを引き合いに出し、人間は「主観上は生きたまま」という可能性が示唆されていました。つまり、肉体が死ぬ直前の意識が、主観上はそのまま"現在の意識"として続き、事故死も安楽死も、主観的には「死を認識できないまま」終わらない可能性がある、と。
この衝撃的な問いに対し、AIとの議論を通じて見えてきたのは、以下の点です。
現在の科学的知見(神経科学、生物学)に基づくと、意識は脳の物理的な活動によって生じるという見解が圧倒的に有力です。脳が機能停止すれば、意識も消失すると考えられます。そのため、「主観が死を認識できないまま、最後の瞬間が無限に続く」というシナリオは、現在の科学では99%の確率で「その通りだろう」という結論に至りました。
この「99%」の根拠は、
もし主観が死を認識できないなら、最後の瞬間の意識が「無限に続く」感覚になるのか?という疑問も出ました。AIとの議論では、この「無限」は客観的な視点からその状態を見た場合の表現である、という見解に至りました。
主観は常にリアルタイムです。もし意識が死の直前の瞬間にフリーズするならば、主観にとっては「その一瞬が『今』として延々と続いている」ような感覚に近いでしょう。客観的に見れば短い時間でも、主観がそこから先に進めないため、客観的には終わらないように感じられる、というわけです。
ここからが本題の尊厳死との関連です。「主観は死を認識できない」という前提に立つと、尊厳死を求めて実行に移したとしても、その主観が「自分は尊厳死した」と認識することはない、というパラドックスが生じます。
尊厳死は、本人の「苦痛からの解放」や「尊厳ある最期」という自己決定権に基づいています。しかし、もし主観がその「解放された状態」や「尊厳ある状態」を体験できないのであれば、その目的は「本人の主観にとって」は達成されないことになります。
これは、尊厳死が「他者からの評価」や「生前の本人の強い意思」によって意味を持つ側面が強いことを示唆します。本人が「苦しまずに死にたい」と決意した瞬間までは主観が認識できますが、実際に尊厳死が実行された後の「死んだ状態」は、主観からは体験できない。ここに、深い倫理的な問いが生まれるのです。
この「主観的な認識のパラドックス」は、尊厳死が抱える倫理上の「限界」の一つを示していると言えます。自己決定権がどこまで及ぶのか、誰のための尊厳なのか、という問いを投げかけます。
しかし、このパラドックスがあるからといって、尊厳死の価値が完全に失われるわけではありません。多くの人は、現在の耐え難い苦痛からの確実な解放や、人生の締めくくりとしての自己決定、あるいは家族への配慮といった理由から尊厳死を選択します。これらの目的は、本人が死を認識できなくても、客観的には達成され、生前の意思が尊重されたことになります。
問題は、本人が死を認識できないことにあり、尊厳死の制度的導入は本人が尊厳死を認識できるという立証がなされなければ倫理的問題が一切解決されないことにあります。人権は本人のためにあり、本人が望む結果が得られない可能性の高い制度の導入は、尊厳死の主観的認識の科学的立証がなされるまで控えることが科学的知見、自由主義として妥当であると考えます。
「人は主観的に死ねるのか?」という問いは、我々の「死」に対する根源的な理解、そして「意識」の未解明な部分を深くえぐり出します。夏のホラーとして語られていましたが、現代科学の知見を重ねると、それは哲学的な恐怖へと形を変えるのかもしれません。
結局少子化って、「女性一人でも生きていけるし、面倒な結婚なんてしたくないよね」っていう女性の自由意志、自己決定の結果だよね。別に男性が悪いとかじゃない。
結婚するのが当たり前っていう価値観が前提にあって、女性には結婚する意志があるが男性のせいでそれが挫かれてるってなら男性が悪いとも言えるけど、そもそも現代日本は価値観がアップデートされていて、結婚が当たり前っていう考えはもう古い。女性の人生において結婚はもはや選択肢のひとつでしかなく、選ばなきゃいけないものではない。
つまり、女性はただ結婚したいと思わないだけで、その心は別に男性に左右されてなんていない。結婚しない、子供産まない女性が増えてるのは、単純に女性の自己決定の結果で、男性に縛られてそうなってるんじゃない。
だからもう少子化は改善しないと思う。女性に対する差別的な(女性優遇という慈悲的差別ではない方の差別)政策がとれれば可能性はあるけど、女性が絶対に受け入れないから改善は不可能。国が、経済が、インフラが、そんなリスクの話をしても、女性は男性と一緒に生活するリスクの方をはるかに大きく評価する。国のことなんかより自分のことを考えるのはまあ普通ではある。「国が滅ぶから何なの?私には関係ない。そんなの知らない男がなんとかすればいい」。そういう普通の考え方によって日本は滅んでいくのかも。それはそれで人間らしさがあるとも思う。国がどうなろうと、結婚したいと思わない男性と結婚したくなんかないわなあ、そりゃ。あたぼうよってやつだ。
日本人女性が外国人男性と子供を作るようになるか、それとも外国人同士で子供作っていってそれが国内人口の割合を増やしていくか。日本が続くとしたらそのどっちかかな。外国人優遇は今より強まるのかな。
本当に窮まったら倫理とか戸籍とか無視して国か勝手にヒトの細胞組み合わせてヒトを作るようになるかもね。体外受精とか人工子宮とかの技術発展に期待。
「自由意志」がAI世紀になっても根強く信じられている理由は、科学的根拠よりも心理的・文化的・社会的要請に深く根ざしているからです。
これは「事実であるかどうか」よりも、「人間がそれを必要としているかどうか」に関係しています。
---
自由意志が存在しないとすれば、「人は自分の行為に責任を負わない」という帰結になります。
例:
したがって、実在するかどうかとは無関係に、制度的には「あることにしておかないと困る」という現実的要請があります。
---
「体験としてのリアリティ」が「事実としてのリアリティ」に優先されるため、多くの人にとって自由意志は直感的な事実です。
---
自由意志という概念は、キリスト教・イスラム教・仏教(特に浄土真宗以外)など、多くの宗教体系において中心的な概念です。
宗教を捨てても、人間観や倫理観としてこの発想が残存している。
---
啓蒙思想以降の「主体としての人間」像、すなわち「理性ある個人」が世界を理解し、行動を選ぶという枠組みの中で、自由意志は不可欠です。
これらはすべて「自由に選びうる主体」を前提に構築されています。
---
AIが発達した現代(つまり、AI世紀)において、「人間には自由意志があるが、AIにはない」という幻想の構図は、人間の特権性を再主張する道具として使われています。
つまり、自由意志は機械ではないことの証明として、心理的な意味を持つのです。
---
Q.
A.
買春を行った人間を「悪人」だと断じることの是非については、様々な意見があり、一概に「間違いである」または「間違いではない」と断言することは難しい問題です。なぜなら、その判断は個人の倫理観、社会的な規範、そして法律的な観点など、多くの要因に左右されるからです。 ***「悪人だと断じるのは間違い」と考える立場からの主な論点としては、以下のようなものが挙げられます。** ** **個人の自由と自己決定:** 成人同士の合意に基づく行為であれば、他者が道徳的な善悪を一方的に判断すべきではないという考え方。 ** **社会構造や経済的事情:** 売春に至る背景には、貧困や機会の不均等といった社会的な問題が潜んでいる場合があり、個人の資質だけに責任を帰するのは短絡的であるという指摘。 ** **需要と供給:** 買春という行為が存在するのは、それに対する需要があるからであり、需要側だけを一方的に断罪するのは公平性に欠けるという見方。 ** **法律との関係:** 買春が合法とされている国や地域もあり、法に触れない行為を「悪」と断じることへの疑問。 ***一方で、「悪人だと断じても間違いではない」あるいは「問題のある行為だ」と考える立場からの主な論点としては、以下のようなものが挙げられます。** ** **搾取や人権侵害の可能性:** 売春は、弱い立場にある人々(特に女性や子ども)の搾取や人身売買につながる危険性をはらんでおり、人権侵害であるという考え方。 ** **性的対象化:** 人を性的な対象としてのみ捉え、金銭で買うという行為は、人間の尊厳を傷つけるという倫理的な批判。 ** **社会への悪影響:** 性産業が社会の健全な発展を阻害したり、性犯罪を助長したりする可能性があるという懸念。 ** **道徳的・倫理的観点:** 多くの文化や宗教において、買春は不道徳な行為と見なされている。 ***法的な側面から見ると、日本の法律では売春防止法により、売春を助長する行為や場所を提供することなどが禁じられていますが、単純な買春行為自体を直接罰する規定は限定的です(ただし、児童買春は厳しく罰せられます)。** しかし、法律で罰せられないからといって、倫理的に問題がないとは限りません。 ***結論として、買春を行った人間を「悪人」と断じるかどうかは、個々人がどのような価値観や倫理観を持つかによって大きく異なります。** 一つの側面からだけで判断するのではなく、行為の背景にある複雑な要因や、それが社会や他者に与える影響など、多角的な視点から考えることが重要です。 この問題について、より深く理解するためには、様々な立場からの意見や情報に触れ、ご自身で考察を深めていただくことが大切です。
社風や社員が「痛い」と感じられる要因は、以下の組み合わせによるものと考えられます:
1. 独特な制度と文化: 給与自己決定や全員CEO制度など、実験的で自由度の高い制度が、外部から「意識高い系」や「変わり者集団」と見られる。
2. ギーク系社員の個性: 技術に情熱的で自己主張が強い社員が多く、内輪ノリやオタクっぽい雰囲気が外部に伝わる。
3. フルリモートとフラット組織: 自由なコミュニケーションや自己管理が求められる環境が、過剰な自己主張や軽いノリを生み、外部に「独特」と映る。
4. 経営陣の発信: 代表のユニークな行動や頻繁な制度変更が、社員の不満や外部への奇抜なイメージを増幅。
5. 外部とのギャップ: ベンチャー気質や受託開発の制約が、外部の期待とズレを生み、「内向きなノリ」や「痛い」印象に繋がる。
ただし、これらの要因は強み(技術力、働きやすさ、成長環境)とも裏表の関係にあり、「痛い」と感じるかどうかは個人の価値観やカルチャーフィットに大きく依存します。文化に共感する人にとっては、むしろ魅力的で刺激的な職場である可能性が高いです。
2. 若さと無限の可能性 一方、若い人々が感じる「無限の可能性」や、まだ「限界を知らない」ことから来るエネルギーや希望は、ある意味では無限の挑戦に向かわせる力でもあります。しかし、そのエネルギーが全て実現可能であると信じているうちは、覚悟というものの重さを感じることは少ないかもしれません。若い人々には**「何かを賭ける」というより、「限界を超える」**ことに対して大きな挑戦意欲があり、その中で覚悟が必要だと感じることは少ないかもしれません。 しかし、年齢や経験を重ね、限界が見え始めるときに、初めて**「命をかける覚悟」や、「死に方を選ぶ」というような深い認識に直面することになります。この段階において、自己決定や責任の意味がより深く感じられることが多いでしょう。なぜなら、その選択の先にあるものが、単なる成功や失敗を超えて、人生の質や意味**そのものであると認識するからです。
ChatGPTとの対談を通じて、奴がこんなことを言ってきた
思いもがけない綺麗なまとまりに、私は大変満足している