はてなキーワード: 言論の自由とは
関内関外日記 https://blog.tinect.jp/?p=90366 の 黄金頭@goldhead 氏が直腸腫瘍に侵されたとのことで、度々ホッテントリに上がっている。どうも、直腸癌~カルチノイド(NET)、直腸傍リンパ節転移があるかもしれないという状況らしい。氏の投稿を見ている限り、医療はまともに仕事をしている。ただ、FDG-PET/CT が必要かは正直分からない…patho で NET 成分が含まれるかなど、どちらかと言えば patho の方が治療方針に影響しそうだ。
なんで PET を撮るんだろうね? 直腸 NET は low grade が多く、 low grade なら FDG はあまり入らない。リンパ節転移判定に FDG-PET が有効かどうか疑問だ。
しかし CT の撮影・読影時点は直腸癌想定だった。このサイズの直腸癌でリンパ節転移はまれだし、転移の有無は術式選択に大きく影響する。また、直腸癌のリンパ節転移判定なら FDG-PET は有用だから…という状況だから PET 薦めたのか。まぁ patho が出るまでに時間はかかるし、FDG-PET による delay はないだろう。
patho で NET が含まれるなら、FDG-PET の結果がどうであれリンパ節は取りに行くだろう、人工肛門になる可能性が高いだろう。NET なら化学療法や放射線治療はあまり効果がない。手術だ。
「生老病死」などという言葉があるとおり、生まれた時から常に老いや病はいつも隣にいる。誰だって今日死ぬとも限らない生を生きている。老いや病、死に目を向けずに生きてきて、ふとそれが目の前に迫ってきた時に慌てている様は、実に見苦しい。
40台よりも若くに、より悪性度の高い腫瘍や治らない病気に冒され、苦しむ人もたくさんいる。たくさんいた。「この程度で大騒ぎするのか」とあきれる限りだ。
良くもまぁこの短い文章の中にレッテリングを詰め込めたもんだ。俺が書いた文章が不快だって言うのは分かる。なら不快だと書けば良い。同じように、彼のブログは俺にとって不快だ。彼よりも苦しんでるやつはいっぱいいる。いっぱい見てきた。もっとかわいそうな人がたくさんいるんだよ。彼よりも救うべき人たちが、いっぱいいるんだよ。そいつらのことをオマエはどうするんだ。無視か?
普通に生きて、税金や社会保障費を払っていることで、苦しむ人たちをサポートしてるんだよ。別に彼をことさらにサポートする必要もない。普通に生きるだけで、みんな彼をサポートしてるんだよ。勿論俺だってオマエだってな。
彼の投稿を見れば、医療はきちんと仕事をしている。なんの問題もない。
CHU、傲慢でゴメン。
オマエまず日本語読めよ。日本語理解出来てないだろ。「黙ってろ」なんて書いてない。馬鹿はどっちだ。
この程度のやつはたくさんいるのに「地獄だ」とか、情けないって言ってんだよ。
へー。 言論の自由は無視? 基本的人権は無視? 日本国憲法に反対なのか。 びっくりだな。 憲法は尊重しろ。
他人には「黙れ」。でも自分は言いたい放題。二重基準だな。自分さえよければいい、他人を尊重しないってことだ。いや他人も自分と同じく尊重しろよ。
「馬鹿なんだな」「はて爺ってクズ」こういう人格否定・印象操作・レッテリング、まぁ何でも良いけど。こういう言葉が自然に出てくるって、思考パターンヤバいよ。
「この程度の病気の人は日本中に山ほどいる。これより苦しんでるやつだってたくさんいる。この程度のことで『地獄だ』とか、恥ずかしいな」、それだけ書いても信憑性ないだろ。伝わらないだろ。
ウンチクって「NETがどう」とか書いてるやつのこと? 普通のだろ。キャンサーボードとか教授回診で普通に話されるレベルだよ。ふつうのはなし。これくらい知っとかないと教授回診で困るだろ。大勢の前で吊るし上げられるのが嫌ならこれくらい知っとけ。
「何でカルチノイドを疑ったのにPET取ったんですか?医療費の無駄じゃないですか」とか「PET取らなければ先週のカンファに出せたから手術枠だって空いてたのに、手術が集中してる or 学会で人手がない今持ち込まれても困るんです」って言われたらお前はどう返すんだよ? 手術枠調整するのも大変なんだよ。
だから「ゆとりは…」って言われんだよ。甘えんなよ。命扱う仕事なんだよ。お前は研修医からやり直せ。
see comment:https://anond.hatelabo.jp/20251019125903
本小文では、ハンナ・アーレントが提起した「悪の凡庸さ」(BE 1.0)が、現代においてより巧妙かつ陰湿なかたちへと進化していることを論じます。かつての「悪」は、思考停止と無反省な服従によって成り立っていましたが、今日の「悪の凡庸さ 2.0」(BE 2.0)は、計算された行動と、美徳の言葉を悪用する戦略的な操作によって特徴づけられます。
BE 2.0は、二重のメカニズム──すなわち、道徳的言語を兵器化する巧妙な操作者と、その偽りを見抜こうとせず、あるいは恐れて沈黙する共犯的な大衆──によって機能します。
アーレントの洞察は、ホロコーストの実行者アドルフ・アイヒマンが、激情による加害者ではなく、ただ命令に従うだけの「無思慮」な官僚であったという点にありました。
それに対し、現代の加害者たちは「善人」を装い、美徳的な言葉を駆使しながら、実際にはアーレントが描いた「悪」の構造と変わらぬ行為を実行しています。
BE 2.0が「凡庸」であるのは、加害者に意図が欠けているからではなく、加害者自身も社会全体も、絶え間ない露出──特にソーシャルメディアを通じたもの──によって感覚が麻痺し、悪のパフォーマンスが日常化しているためです。この日常化は、「相手が悪いのだから自分は正しい」という自己免罪のロジックを生み出します。
明確な思想や信念に基づいて行動し、動機を「正義」や「権利」といった語彙の裏に巧妙に隠す操作者たち。彼らの悪は、分散的かつ非階層的に機能し、いわば「(サルの)群れの知性」のように動きます。また、共感は狭い部族的サークルに限定され、普遍的な倫理感覚は麻痺していきます。
観衆、同僚、制度、そして傍観者として、彼らは悪の遂行に直接加担していないように見えて、検証を怠り、言葉だけの美徳に騙され、結果的に悪の温床を支えています。リーダーの言葉にうなずくだけで、その後の行動全体を黙認してしまう、この「暗黙の承認」が共犯関係を形成します。
BE 2.0は、「正義」に見える言葉の衣をまといながら、実際には害を与えるための操作的アーキテクチャとして機能します。以下の六つは、その主要な「マスク(ベクトル)」です。
本来、異議申し立てを保護するための「言論の自由」が、憎悪や排除の言説を正当化するために使われます。権力者が被害者を装い、権利の言葉を用いて多元主義そのものを抑圧する──これが洗練された悪の典型です。
社会構造に根差す不正義が、象徴的な「個人」に押し付けられます。
• システムの生贄化:制度の失敗を覆い隠すために、ひとりの個人が「償い」の対象とされ、構造改革の必要性は棚上げされます。
• イデオロギーによる自動攻撃:あるカテゴリの人々が「攻撃してよい存在」として事前に定義されており、指示がなくても攻撃が発生します。まさに、無思慮な脚本の遂行です。
歴史上の重大な暴力や抑圧が、軽んじられたり、相対化されたりします。これは、現実の被害を正当化する方便として使われがちです。
進歩や変化を認めず、過去の不正義を手放さないことで、継続的な要求や道徳的優位性を確保しようとします。目的は「癒し」ではなく、「不満」の永続です。
複雑な現実が、単一の枠組みや道徳コードに押し込められ、それ以外の価値観は「後進的」として排除されます。
自らが行っている行為を、先に相手に投影し、正当化の材料とする。この「合わせ鏡」の構造では、真の責任追及が不可能となり、対話はエスカレートする一方です。
すべての誤りや偏見が「悪」となるわけではありません。「悪」が成立するのは、次の三つの条件が重なったときです。
他者を、尊厳ある主体ではなく、単なる機能や道具として扱う「存在論的な消去」が、悪の第一条件です。暴力の前に、すでに尊厳の剥奪が始まっています。
個人の悪意を超え、イデオロギーや制度に組み込まれることで、悪は再生産され続けます。
悪は、善を単に否定するのではなく、模倣し、利用します。たとえば、「権利」の言葉が、本来守るべき弱者ではなく、強者の防衛に使われるとき、それは善の腐敗です。
技術的な修正や制度改革だけでは、BE 2.0に対抗できません。というのも、これらは逆に「寄生的模倣」に取り込まれてしまうからです。根本的な解決は、私たち自身の内面から始まる変容にあります。
東洋の智慧は、個と社会は分かれたものではなく、同じ意識の運動の異なる側面であるという洞察を共有しています。内なる断絶が癒されるとき、外なる対立も自然に鎮まります。
1. 内的な道:瞑想、自己探求、倫理的明晰さを通じて、自己の中にある認識の否定構造を解体する。
2. 外的な道:未変容な人々が存在する現実においても害を防ぐための、法や制度、規範といった堅牢な外部構造を整える。
その行為は開かれた交流を促し、複雑性を許容するか?それとも、対話を遮断し、イデオロギー的な純粋性を要求するか?
和解と修復を育むか?それとも、分裂と戦略的な不満を永続させるか?
力、尊厳、自由をより広範に分配するか?それとも、特定の部族のために力を集中させ、特権を溜め込むか?
「言論の自由」が一貫して沈黙を生み出すとき、「学問の自由」が一貫して排除するとき、私たちは戦略的な操作の兆候を特定できます。
民主主義は、BE 2.0の条件が蔓延するとき、集団的な凡庸な悪が集約され、最高位の舞台に投影されるベクトルとなりえます。現代の指導者たちの台頭は、システムが日常的な否定、投影、兵器化された美徳のパターンを増幅し、正当化するようになった論理的な結果です。
サイクルを終わらせるには、外部の敵を探すのをやめ、内的な変容という困難な作業を始める必要があります。それまで、私たちは悪が選ぶ新たな仮面のすべてに対して脆弱なままです。
dorawiiの主張を最も強い形で再構築してみましょう:
「民主主義は利害調整に時間がかかり、緊急性の高い予算決定すら停滞させる。実際アメリカは2025年10月に政府閉鎖に陥り、フランスも予算成立が2月まで遅れた。決断の速さが求められる現代において、独裁制のような迅速な意思決定システムの方が優れているのではないか」
この論理は一定の説得力を持ちます。しかし、三つの重大な盲点があります:
第一に、独裁制が実際に効率的だという前提に証拠がない。歴史を見れば、独裁国家でも政策の迷走、経済危機、突然の方針転換は頻発しています。意思決定者が一人でも、その判断が正しいとは限らない。むしろ、チェック機構がないため、誤った決断が止められないリスクの方が深刻です。
第二に、dorawiiは「予算が決まらない」ことの意味を誤解しています。民主主義における予算審議の遅延は、実は「多様な利害の調整プロセスが機能している証」です。フランスで社会党が年金改革の見直しや医療従事者の増員などの譲歩を引き出したのは、弱者の声が反映された結果です。独裁制なら「速く決まる」かもしれませんが、それは少数者の利益が無視されるだけです。
第三に、dorawiiは短期的効率と長期的コストのトレードオフを無視しています。予算決定が1ヶ月遅れることと、言論の自由や人権が失われることのどちらが深刻ですか?独裁制は決断は速いかもしれませんが、その代償として払うもの—自由、権利、修正可能性—を本気で考慮しましたか?
dorawiiに問います:「ええ(良い)」の基準は何ですか?決断の速さですか?それとも決断の質ですか?そして、誰にとって「ええ」のですか?
ニューズウィーク「生物学的女性が、女性である」が画期的判決になってしまう時代
https://www.newsweekjapan.jp/joyce/2025/05/post-340.php
イギリス最高峰の法律家たちはここのところ、女性とは何かを決定する任務に専念してきた。彼らは、生物学的性別が女性である人が女性である、と判断した。
これは、何千年にもわたる多くの文明のあらゆる人の意見とほぼ同様だ。
これによりイギリスでは、何よりまず圧倒的に「常識が戻った」との安堵が広がったが、それが国の最高裁に付託されねばならなかったことにある種の不信感が残った。
一方、一部の人々にとっては驚きと絶望の判決になった──「数十年に及ぶ進歩が台無しになる!」「イギリスで弱い立場にある、疎外された人々の心を傷つける!」「トランスジェンダー嫌悪が蔓延する!」
今回の裁定は、主に権利のバランスに関するものなのだ。つまり、女性と女児が、歴史的に見れば比較的最近になって勝ち取った特権を享受する権利だ。例えば女性アスリートは、まだまだ男性選手と同等の資金や支援を得るのに苦労している。なのに、男性として思春期を過ごし、テストステロンのおかげで筋肉量を増やした人が、女性として競技するのは公平だろうか? それは「同じ土俵」とは言い難い。
苦労して勝ち取った女性の権利と「トランスの権利」が衝突すると指摘した女性は、「TERFS(トランス排除的ラジカルフェミニスト)」とこき下ろされた。デモではよく「TERFSを殺せ」のスローガンが目についた。
「トランスの権利」の潮流に逆らうのは危険なことだった。「ハリー・ポッター」の作者J・K・ローリングは、フェミニスト的視点からあえてそれを行い、ネットでは大炎上し、彼女のおかげでスターになった元子役俳優たちから非難を浴びせられた。
同じくトランス嫌悪と批判されたサセックス大学のキャスリン・ストック教授は、辞職に追い込まれるほどの迫害を受けた。今年に入り規制当局は、彼女と言論の自由の保護を怠ったとして、大学側に多額の賠償金支払いを命じた。
ローリングもストックも、トランスジェンダーの存在を否定したり、社会から拒絶されるべきだと唱えたわけではない。彼らの見解は大まかに言えば、今回最高裁が決定したことと同じ、ということだ。
寝そべり族=タンピン族=躺平族
寝そべり族
・頑張らず最低限で生きる
・何もしないという政府や社会への抵抗(言論の自由がない国だからこそ)
・食事をデリバリーに頼り、家から殆ど出ない、人とか関わらない
・活力がない、活動量が低い
・無力感、苦しさ、自嘲
たぶんだけど、寝そべり族はヒッピー、ネズミ人間はヒキニートだな
・チクリ屋(Snitch)
・コソコソ活動する人
その前段として、そもそも英語スラングにおけるratに小物と言う意味があるっぽい
ので、そこから来てる模様
要は「雑魚い俺ら」ってことかね
いくつかの新聞を取っている。最近はオンライン化も進み、紙が大量に届くということもなく、しかも海外のものも含めて購読しやすくありがたい。
その中の一つが日経新聞だった。国内の他の新聞がいわばオールラウンダーなのに対し、その名の通り経済関係の記事が豊富な日経は独自の地位を持ち、他紙とは重ならない情報をくれると思ったからだ。政治的には中立と評されることも多く、少なくとも変な記事は出ないだろうと思っていた。
ところが、だ。ここ最近のインタビューは違和感を抱かせるものだった。少し前にイスラエル関係の誰かがインタビューを受けていた。トランプ政権を批判する内容だ。しかし、その一部に「大学へのトランプの態度は正しい。こんなにもアメリカの大学に反ユダヤ主義が蔓延っていることに驚いた」という趣旨の発言があった。要するに、パレスチナ解放を求める運動を「反ユダヤ主義」とラベリングする右派の戦略に乗っかった発言をする人物を取り上げて、そのまま掲載したのだ。
そして今日、今度はイギリスの誰やらのインタビューが載った。トランプ政権下の言論の自由への抑圧について懸念を表明する内容だった。その中で、イギリスではすでに言論の自由が失われているという話題があった。出てくる例は、スナク元首相の外見を揶揄する人種差別的な発言が問題視された事件、トランスジェンダーへの攻撃を学生からの抗議を受けても辞めようとしない大学教授が、抗議の末に辞職した事件だった。要するにこのインタビュイーは、差別的な言説の自由を擁護する立場だった。大学教員の差別発言で安心して教育を受け、研究に携わる学生の自由が奪われようとお構いなしなのだろう。
その他の点で多くの不満があるわけではないし、やはり経済系の生地は勉強になる。けれど、これらのインタビューから受けるストレスは大きかった。そして今後も似たような記事が掲載される可能性がある。
勘違いしないで欲しいが、別に新聞にノーストレスを求めているわけではない。社会情勢や重大事件、戦争などの報道はストレスになるし、それらの報道の中で賛同できない発言の引用を目にすることもある。しかし、それが報道機関として一歩引いて語られていたなら、気にはならない。ただ、インタビューは言ってみれば内容とメディアの距離が近い。他所で起きた事件を取材しているのではなく、自らが積極的に発信をしている。それでそうした内容が盛り込まれるというのに、違和感が強いのだ。