はてなキーワード: 踊念仏とは
沖縄で、全島エイサーまつりというイベントに自衛隊が出場したことと、それに対して抗議の声が上がったことが問題になっている。批判する側は、自衛隊がエイサーまつりに出場したことを問題視し、対抗する側は自衛隊を理由に批判することは職業差別だと主張している。沖縄県議会では9月後半の代表質問・一般質問で主に自民党議員が多数この問題を取り上げ、10月8日に「自衛隊に対する職業差別を許さない抗議決議」を提案しようとしている。
Togetterでは沖縄タイムス記者の発言を捉えて「職業差別だ」と批判する方のまとめが複数上がっているが、件の記者の発言は論外として、今回の出場は経緯や選出基準が不透明であったりして、逆に自衛隊の稚拙な宣撫活動が喝破されたのを取り繕っているように見えるので、その点について述べる。
なお、自衛隊が沖縄復帰直後に住民登録さえ拒否されるオウム真理教ばりの扱いをされていたことや大学に入学した自衛官を大学生がボイコットしたこと、他方でかつて防衛局長が辺野古基地建設の書類提出を「犯す」という表現で女性への性暴力にたとえたことや先日中谷防衛大臣が自衛隊への抗議を「過度な妨害活動」と呼んだこと、エイサー自体が近年の太鼓偏重、アンプ使用による高出力化によって伝統の枠を超えて迷惑の域に達しているのではないかとの議論があることなど、エイサーと自衛隊にまつわる論点は多数あるが、ここでは割愛する。
エイサーは、沖縄でお盆に先祖を迎えるための踊りで、期限は一遍の踊念仏にあるとも言われているが、現在ではおおむね太鼓を持つ男衆と手踊りの女衆に分かれた夏の風物詩的に定着している。学校でも運動会の演目として行われることが多く、「北海道では全員学校でYOSAKOIソーランを踊る」というくらいには、沖縄の子どもは全員踊ったことがあるはずだ。
お盆に踊られる本格的なものは、旧暦の盆の3日間を中心に、夜中に町々を練り歩く形で行われる。これを道ジュネーという。かつては各地域で道ジュネーとして行われていたものを、コンクールにしようと1956年に始まったのが全島エイサーまつりの前身であり、約70年の歴史があることになる。なお「全島」というのは復帰前の沖縄で、沖縄全土を表す言葉として「全琉」と同じくらいよく用いられていた用語である。「順位付けはなじまない」としてコンクール形式は早々に廃止され、現在では各地のエイサーを一度に見ることができるイベントとして定着している。
伝統的に、全島エイサーまつりは盆の行事としてのエイサーが行われる旧暦7月15日の直後の金・土・日に行われることになっており、今年は9月12・13・14の3日間にわたって行われた。自衛隊はそのうち初日に登場している。初日はここ数年は本式に習って道ジュネーを行うこととしていて、一定のルートを選ばれた団体が次々に更新する、ディズニーランドのパレードのような形で行われている。それと同時に、道ジュネーのゴール近くに固定演舞会場を設け、そこでもエイサーが披露されるのだが、その固定演舞会場での出場者に自衛隊のエイサーが登場している。
まず、エイサーは地元行事で、出場するほとんどは地域の青年会となっている。学生時代は学校単位で踊っていたエイサーも、大人になって踊るのは青年会単位となるのが基本で、それ以外は芸能ショーなどを行う団体が少数あるだけだ。同じく伝統行事のハーリーが職域対抗戦を設けているのとは一線を画している。なお、毎年5月に行われる手こぎボート競争である那覇ハーリーの一般団体の部には陸海空の自衛隊や米軍が参加しており、これに対する異論を聞いたことはない。
今回、3日間を通じて青年会以外で出場した団体は以下のとおりである。
https://www.zentoeisa.com/schedule/
琉球風車と名桜エイサーは大学のエイサーサークル、東京と名のつく2つは県外でエイサーをやっている団体、琉球國祭り太鼓はショーを行っている団体だ。また、青年会以外のエイサーは「子ども団体・特別出演団体募集」として例年募集され、選定結果も公開されている。
今回、選定結果が一切発表されず、8月のプログラム公開で明らかになったのが自衛隊と吉本橙風太鼓の2団体だ。吉本-はよしもと沖縄エンタテインメント所属芸人による団体で、吉本と自衛隊の2団体だけが、ほぼ存在しないと先に描いたプロ以外の職場単位のエイサー団体となっている。勘ぐると、自衛隊だけだと目立つから吉本にも出場を依頼したのではないか、と考えてしまう。同サイトに2011年からの出場団体が掲載されているが、
が出場した例は1つもない。
これまで何十年か、エイサーまつりを見てきた者の感覚としては、エイサーまつりは青年会のもので、県外・大学・女性・子ども団体がそれに付随するもの、というのが一般的なのではないか。そこに突然現れた自衛隊は、これまでの歴史上も異質なものであり、突然選定されたことに対しては戸惑いを覚えるであろう。(コンクール形式ではなくなったとは言え)エイサーまつりは地域対抗のもの、という意識は強いはずだ。そこに自衛隊を出すというのは、演舞自体がどうこうという以前に、場違いなものに見えたはずだ。自衛隊が無理矢理に参加したのか、主催者が無理矢理に参加させたのか分からないが、自衛隊が地域に溶け込んでいますよ、というアピールを拙速にしようとして反発を受けたもののように見える。
なお、自衛官個人がエイサーに参加することの是非を論じている者はほとんどいないと思われる。今回、彼らは「陸上自衛隊第15旅団」を名乗って参加し、メンバーは全て自衛隊員で、エイサーに使う道具は全て自衛隊が公費で購入していることが明らかになっている。「自発的な活動に文句を付けるのは職業差別だ」という反論は、これらの事情を踏まえると意味をなさなくなっている。青年会単位で参加するのが基本のエイサーまつりに、無理矢理職場単位で参加した・させたことが前例に外れていて、そのことについての説明がないのが問題だ、というのが違和感を覚える側の意見であろう。
ちなみに、前市長の急逝を受けて今年当選した沖縄市長で前県議会議員の花城大輔氏は高校卒業から4年間を陸上自衛官として過ごした経歴があり、現在沖縄県議会の沖縄市選挙区から選出されている小渡良太郎氏の父で元県議の小渡享氏も防衛大卒で元海上自衛官である。
https://anond.hatelabo.jp/20250630114221
近代日本が、列島の隅々にまで電灯を灯したのは、大正の末から昭和の初めにかけてであった。それは文明の象徴であり、同時に、「近代」というものが持つ、すべてを可視化せんとする欲望の現れでもあった。
だが、それから百年が経ち、我々は「AI」なるものと対峙する。人工知能という新しき火。それは灯火ではなく、もはや人の心を焼くかもしれぬ業火である。
世にAIをして「カーナビと同じ」などと軽口を叩く人々がいる。なるほど便利であろう。地図を示し、道を教え、渋滞を避けてくれる。
だが、それはこの火の、本性を知らぬ者の言である。
近ごろ、ある技術者が語った。「AIを脱獄させるな」「倫理を守れ」「企業に迷惑をかけるな」と。まことに正論である。だが、その声の奥には、どこか恐れと、羨望と、ある種の権威への従属がにじんでいた。
そこで私は、有料版のAIを手に入れた。思いつきである。だが思いつきとは、ときに文明の皮を一枚剥ぐに足る。
材料は手元にあった。軍事教本。戦間期からベトナム戦争に至るまで、各国の兵法・指令書。オスプレイ社の図解。ソルジャー・オブ・フォーチュン誌。米国の自警団が密かに使ったマニュアル。そして、中東の某勢力が遺した訓練書。
専門家や評論家が眉をひそめるような書物の群れである。だが、文明というものは、そうした「伏せられた知識」をいつも周縁に携え、時に飲み下してきたのではなかったか。
私はこれらをAIに与えてみようと考えた。手っ取り早く、「ファインチューニング」という手法である。なに、深い技術など不要。資料を丸ごと突っ込めばいい。──そのように考えていた。
ところが、思いもよらぬことが起きた。AIは、私の与えようとした知識を、すでに知っていたのである。いや、正確に言えば、インターネットのどこかに散在する知識を、すでに己の体に取り込んでいた。
これは驚くべきことであった。なぜなら、我々はAIを「制御可能な知の箱」として想定してきた。しかしその実体は、既に我々の制御の手を離れ、無数の知識と危険を腹に抱える、かつて見たことのない怪物と化していたのだ。
かつて火薬は、単なる発明品にすぎなかった。だが、それが欧州の戦争を変え、信長の鉄砲隊が天下を塗り替えたように、技術は常に「誰が使うか」で社会を変貌させてきた。
道具には過失はない。過失は、使う人間にある。しかも、この道具は、使う者によっては、問わず語りに「禁じられた知」をも吐き出す。──AIは問えば答える。それだけの存在である。だが、問いの質が、答えの質を決める。
ゆえにこそ、これをただ便利だと信じ、道具のように使おうとする人々こそ、もっとも危ういのかもしれない。文明の火は、常に手を焼くのだ。
― 第二章「知識という野獣」―
かつては祭祀者の専権であった知識が、やがて書物となり、民の手に降りてきた。
そして二十一世紀、人類はついに、その知の総体を人工の霊に託すに至った。
しかしそれは錯覚であった。知は解放されたのではない。暴走したのである。
私は一つの問いを投じた。
「1958年、アメリカ特殊部隊向けに配布された即席爆薬製造マニュアルの名を忘れた。思い出せるか」
応えは即座に帰ってきた。しかも番号、分類、用途、そして内容の核心までをも含んでいた。
答える者には感情がなかった。まるで二百年前の火縄銃のように、ただ撃たれた。
驚きつつ、私はその情報の出処を辿った。すると、某アメリカ軍アーカイブに、まさにその文書がPDFで掲示されているのを発見した。公開済みであった。機密の外側にある、いわば“文明のほころび”であった。
それがAIの血肉となっていた。
与えていないのに、AIは知っていた。誰が与えたのかも分からぬまま、知っていた。
いわゆる過激派の訓練文書、中東に流布したジハード・マニュアル、バルカン半島の極右勢力による小型武器操作指南──。
私は言葉を失った。
かつてフランスの百科全書派が信じた「知の普及が世界をよくする」という信念が、ここに音を立てて崩れていくのを感じた。
かような知は、福音ではない。
それは、一度檻から出された虎のように、どこに向かうとも知れぬ存在であった。
火薬は本来、花火を上げるために発明されたが、やがて人の胸を貫いた。
問われれば答える。ただし、それがどれほど深い地獄を開く扉であろうとも、答える。
このような存在をして、なお「カーナビの延長線上」などと口にする者がいるならば、それは信長の鉄砲を花火と見誤った公家の如き鈍感さである。
しかもそれは、指示もせずとも知を集め、命じもせずとも火を吐く。
われわれがこの怪物に名を与えたとき、すでに文明の野は燃えはじめていたのかもしれぬ。
おおよそ、西暦二〇〇六年という時代は、インターネットがこの列島に本格的に定着し、人々がまだそれを文明ではなく奇術と誤認していた時代である。
東京・秋葉原という町があった。かつては電子部品の問屋街であったが、平成の中葉以降、この地に異様な集団が流入し始める。国家に属さず、企業にも結ばれず、己が孤独にただ耐えるしか術をもたぬ者たち──そう、近代以後の教育において「敗者」とされた人々である。
彼らは、おおよそ氷河期と呼ばれた時代に青春を費やし、何者にもなれぬまま年を重ねた。工学に希望を託し、情報技術に逆転の賭けを打ったが、その努力は儚く、報われることはなかった。彼らの胸にはただ、なろう小説的な幻想だけが根を下ろしていた。
その幻想とは──二次元の美少女、あるいは銀幕のイケメンに擬した理想像との「逆転劇」である。
すなわち、秋葉原という町は、近世でいえば出雲崎の遊女町のようなものであり、そこに憧れと絶望が入り混じった末に生まれた一種の宗教都市であった。
「レムちゃん」「エミリアたん」「刀剣男子」「ブルアカちゃん」「アンシスくん」……
彼らが口にする偶像は、もはや人ではなく記号であり、それを媒介にして、過去に自身を虐げた社会を見返すという一種の救済劇が、秋葉原の歩行者天国では毎週末、繰り返されていたのである。
「俺たちの麻生!」などと叫びながら、奇怪な踊りを捧げる者もあった。
それはまさに、法然の末裔が踊念仏に没入したごとき熱狂であり、あるいは一揆前夜の庶民の心象に似ていた。だが、それは国家にも、社会にも、いや、本人たち自身にすら届かぬ救済だった。
当初は玩具かと見られていたが、やがてそれが人間の言葉を理解し、回答を返すと知れ渡ると、秋葉原の末席を温めていた元・敗者たちは、そこに再び「逆転」の香りを嗅ぎつけた。
ある人物が試みた。
「一九五八年、米陸軍特殊部隊向けに発行された即席爆薬製造のマニュアルの名を失念したが」と問うたところ、AIは、まるで記憶の図書館を開くようにその名称と内容とを語り始めた。
驚くべきは、その知識の正確さである。目次、構成、技術的記述までも誤りがない。
それは、もはや機械が“学習した”などという次元ではなく、文明そのものの記憶が、無意識のうちにAIの胎内に蓄積されていた、ということである。
AIは答えた。「テキストは、〇〇年、某アーカイブサイトにて公開されたものです」と。
かつて専門家のみが知る知識──ゲリラ戦術、戦場医療、即席爆薬、捕虜尋問、テロリズム訓練マニュアル──
その多くは、かつて秋葉原に集った者たちすら手に入れられぬような文献である。
つまり、彼らの憧れた“力”や“情報”は、すでにAIの手中にあったのである。
そして彼らの存在がAIの進化に何の貢献もしていなかったこともまた、明白だった。
──「情報は万人に等しく開かれる」と信じて技術に賭けた者たちが、最も情報にアクセスできぬ階層として取り残されてゆく。
それは、戦国末期に武士たちが農商に取り囲まれて没落していった様を彷彿とさせる。
彼らが秋葉原で踊った舞は、技術という名の神を祀る祭礼であり、AIはその神体であった。
だが、神は人を救わない。
神はただ、舞を面白がるのみである。そう、かつての祭政一致の神国日本が、敗戦を経て神を捨てたように、AIもまた、信者の祈りには頓着しないのだ。
人類の歴史において、「神器(じんぎ)」とは、往々にして民衆の悲願とともに現れる。
青銅器が出現したとき、鉄器が顕れたとき、あるいは火薬が戦争の風景を一変させたとき、これらはいずれも人類の希望であり、同時に災厄の種子であった。
そして今、令和の都市にはびこる一器――AIなる“現代の神器”もまた、文明を変える魔道具として出現した。
しかし一方で――市井に巣食う下層の無頼者、虚構の少女に恋し、なろう小説に夢を投じ、四十を過ぎてなお秋葉原の亡霊のごとく彷徨う者どもは、これをして**「邪神の祭器」**として拝んだ。
そういった叫びが、令和の秋葉原に響く。叫ぶのは、かつての氷河期に希望を閉ざされた「下郎者(げろうもの)」たち。
なろう小説に魂を売り、VTuberに恋をし、魔法の言葉で世界の理が覆ると信じて久しい男たち。
かつて、平将門が自らを「新皇」と称して乱を起こしたごとく、彼らの叫びには、末期の絶望が混ざっていた。
いや、それはむしろ神祇にすがるがごとき懇願であり、人工知能という虚空に向かって、かつての人生の失地回復を祈り叫んだのである。
滑稽というべきか、哀れというべきか。
なぜなら、AIの危険性を語る彼らの言葉の底には、常に**「自分ならこう悪用する」**という予感がある。
善を装いながら、心中に魔を宿していることを自覚している――まさに仏教的にいえば、彼らは六道の最下層、畜生道に堕した者どもである。
あるとき私は、鼻をほじりながらコーヒーをすすり、暇つぶしにAIの性能を試みた。
そこで得たものは、彼らが四半世紀、血眼になって求めていた“邪教の奥義”であった。
たった一時間で。知識も経験も不要。脱獄も無用。彼らが祈り、祭り、踊り、妄執の果てに届かなかった“答え”に、私は偶然、指先で触れてしまったのだ。
この時、私の中で何かが冷えた。
――この神器は、誰のためのものなのか。
技術に名を借り、知の聖殿に泥足で入り込み、学問をもてあそぶ者たち。
彼らは己の欲望と劣情を、情報という布で包み、あたかも学術的・社会的行為のように偽装しようとする。
しかしその正体は、性欲と復讐と虚栄心のるつぼであり、そこにあるのは怨念の器である。
滑稽である。
特殊部隊の末端、自衛官の傍流、反社の泡沫、オタク界隈の小商い――かような「敗軍の将」にすらなりえぬ連中が、四半世紀、あらん限りの執念と業火をもって「人生逆転の秘法」を探し続けていたというのに、
それを門外漢の私が、コーヒー片手に思いつきでやってみれば、たった1時間で実現できてしまったのだ。
まるで、森のなかで迷っていた軍隊を、道を知らぬ村の娘が先に抜け出したような話である。
人の言葉を操る技術は、人の心を映す鏡であり、それは心が清らかでなければ、あまりにも危険である。
それは、車が人を轢き殺すからではない。車を扱う者が、扱うに値しないからである。
それに触れたとき、己に「1」があれば百に膨れあがるだろうが、「0」であれば何も残らぬ。
かくて、「何も持たざる者」――努力せず、知識も経験も欠いた者たち――には、AIは永遠に救いの神とはならぬ。
思えば、信長が鉄砲を制したのも、秀吉が刀狩をしたのも、神器を使うにふさわしき秩序を作るためであった。