いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

半世紀の漂流を経て、「オタクを差別してた人間はどこへ行ったのか」を考えてみた。


anond.hatelabo.jp


僕が中学・高校生くらいのときは「オタク」とみなされるのは「死の宣告」に近いものがありました。

fujipon.hatenablog.com
fujipon.hatenablog.com


現在、2025年の(少なくともネット越しにみた)世の中では、大人がアニメやマンガやテレビゲームの話をしていても、「いい大人が」と言われることもないし、中高生だって、同級生に「気持ち悪い」と白眼視されることもなくなっているのではなかろうか。

Netflixの再生数ランキングとかをみていても、アニメが上位にたくさん入っているし、大人がマンガやアニメを好き、と公言することへの抵抗も確実に少なくなっています。
アイドルとかアニメのイベントなどは、さすがに50代はきついかな、という印象ではあるのだけれど。
(逆に、このくらいの世代の懐古をターゲットにしたイベントもけっこうあります)


冒頭のエントリに書かれている

オタクを差別してた人間はどこへ行ったのだろう


という問いに関しては、僕は「オタクを異物だと差別していた当時の大人たちは、年を取って意見表明の舞台から退場してしまったか、これまでの自分の価値観が通用するコミュニティ内であまり変わらず生きているかのどちらか、だと思っています。

僕自身、50歳を過ぎて、自分の子どもたちの成長をみてきて、また、周りの同世代の人たちと接していて痛感するのは、「アニメやゲームを子どもの頃からやってきた人たちが、社会の中軸を担う世代になったことで、アニメやゲームは『ごく普通の娯楽』になった」ということです。


人びとの価値観の変化については、この瀧本哲史さんの講義を思い出します。
fujipon.hatenadiary.com

 みなさん、パラダイムシフトって言葉、聞いたことありますよね?
 パラダイムチェンジとも言うかもしれませんが、要は、それまでの常識が大きく覆って、まったく新しい常識に切り替わることです。
 最近では、スマホが登場してガラケーに取って代わったことなんかは、典型的なパラダイムシフトでしょう。
 一般的な用語として広まっていますが、でもこれ、もともとは科学ジャンルの言葉で、トーマス・クーンという科学史の学者が『科学革命の構造』という著書の中で使い始めたものなんですね。
 たとえば、超有名な天動説から地動説への大転換があるじゃないですか。ガリレオ・ガリレイとかの。
 あれって、どうやって起きたと思います?
 どういうふうに、みんなの考え方がガラリと変わったんだと思います?
 じゃあ、そこの方。はい。



生徒1「学会とかで議論して、認められた?」


 なるほどなるほど、非常に良い答えですね。ありがとうございます。
 他にいますか? はい、あなた。


生徒2「古い学者がみんな死んじゃって……」


 そう、そう。そうなんですよ。
 クーンはですね、地動説の他に、ニュートン力学やダーウィンの進化論など、科学の歴史上で起きたいろんな科学革命を調査・研究した結果、たいへん身も蓋もない結論に達してしまったんですね。
 ふつうに考えれば、天動説を超えるような人に対して、地動説の人が「こうこう、こういう理由で天動説は観察データから見るとおかしいから、地動説ですね」って言ったら、天動説の人が「なるほどー、言われてみるとたしかにそうだ。俺が間違ってた。ごめんなさい!」っていうふうに考えを改めて地動説になったかと思うじゃないですか。
 でも、クーンが調べてみたら、ぜんぜん違ったんですよ。
 天動説から地動説に変わった理由というのは、説得でも論破でもなくて、じつは「世代交代」でしかなかったんです。
 つまり、パラダイムシフトは世代交代だということなんです。


実際、僕の周りの同世代、あるいはちょっと上の世代をみても、「大人になって、中年以降にゲームやアニメにハマった」って人はほとんどいないと思います。

若い頃からずっと好きだった、あるいは、好きだったけど、オタクだと思われるのが怖かったから、表に出していなかった、という人たちが、コンテンツを消費し続けている、という印象です。

あの「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」が1988年から89年。犯人がアニメ好きだった、ということで、アニメ、オタク文化差別が高まったわけですが、その時代の中高生だった人たちが、現在の10代から20代の若者の親としてのボリュームゾーンを占めているのです。

子どもというのは親の影響を多かれ少なかれ受けるもので、「アニメやゲームが好き、楽しい!」という親に育てられれば、少なくとも抵抗感や差別意識は薄れていくはずです。
インターネットという「広範囲のコミュニケーションツール」の存在も大きくて、それまで学校のクラスで「オタク差別」されていた学生たちは、「視野を広げれば、同世代や上の世代にも『仲間』がたくさんいる」ということを知りました。

そして、自分たちがアニメやテレビゲーム、ライトノベルなどの「オタク文化」で育ってきた親たちは、自分の子どもたちに「テレビゲームばかりやっているとバカになる」なんて言わなく(言えなく)なったのです。

いまや、アニメやゲームは、もはや日本の基幹産業、それも「日本らしさ」を象徴する産業のひとつになりましたし。
僕も、中国との関係が悪くなっても、アニメやゲーム、ネットでのつながりがあるかぎり、なんとかなるんじゃないか、と思っています。

「産業」として考えると、いまの日本で株式投資をするのであれば、任天堂とかサンリオとかを無視はできない。

「世代交代と産業としての巨大化」で、かつて「オタク」だと叩かれていたコンテンツは、いまや、メインストリームのひとつになっています。

個人的には「オタクがオタクとして生きやすくなった」時代が羨ましくもあり(本当に、いま自分が中高生くらいだったら、と思うよ)、僕の時代にはアンダーグラウンドな趣味だったからこそ、「オタク的なもの」には妖しい魅力があったと、懐かしくもなるのです。

そもそも、僕は「オタク」にもなりきれなかった人間で、学校のスクールカースト底辺近くの、でも底辺ではない「オタク男子グループ」のなかで、「でも、俺はこいつらほどオタクじゃない」と妙なプライドを持っていた、いけすかない人間だった。

そういえば、「あなたはなんでも趣味としてそこそこやるけれど、『これ!』というものを持っていない。中途半端!」と言われたこともあったなあ。それがバランス感覚なのか中途半端なのか、いまだに僕にはわからない。でも、そういわれたことは、けっこうショックだった。


真面目な話、その人の本質や価値観なんて、そう簡単には変わりません。
でも、他者への態度は、状況・環境によって、拍子抜けするほどあっさり変わる。

太平洋戦争に負けたあとの日本では、それまで教育勅語を教えていた先生たちが教科書の不適切な部分を消させて「民主主義」のすばらしさを語るようになり、「軍神」とあがめられていた特攻をした人たちの実家は、ご近所から「お前たちのせいで戦争に負けた」と石を投げられました。
今から考えると、コロナ禍での「他県ナンバーの摘発」なんて、異常ですよね。

たぶん、いまの世の中だって、アニメやゲームの隆盛を苦々しく感じている人は少なからずいるはずです。

思い返せば、戦争シミュレーションゲームで、「大勢の人が亡くなった戦争をゲームとして楽しみ、人の死を数値化してしまうのはおかしいのではないか」と問題提起をした人が、1980年代から90年代前半くらいにはいたのです(ほとんどのゲーマーから「スルー」されましたが)。

昔はアニメやゲームを「支持」するのがリスクだったけれど、いまは「批判」するほうが高リスクになりました。
だいたい、「アニメやゲーム」っていうのも、ひとくくりにできるようなものではなくなり、さまざまなジャンルに細分化されています。
「アニメ」だからといって、『ドラえもん』と『ぬきたし(抜きゲーみたいな島に住んでる貧乳はどうすりゃいいですか?)』を同類項に入れるのは無謀でしょう。

「アニメ」だからと差別される時代ではなくなったけれど、「アニメ」であるという理由だけで擁護される時代でもなくなった。


ちなみに、瀧本哲史さんは、前述の話のあと、こんなエールを若者たちにおくっています。

 でもこれ、逆に考えると、めちゃくちゃ希望だと思いませんか?
「世の中を変えたい」と考える人はいつの時代も多いですけど、なかなか世の中って思うようには変わらないですよね。選挙に行って一票を投じても変わった実感はぜんぜん得られないし、努力して上の世代の考え方を変えようとしても、徒労に終わるばかりです。
 で、そこで「やっぱり世の中は変わらない」って諦めちゃう若い人も多いんですが、みなさんが新しくて正しい考え方を選べば、最初は少数派ですが、何十年も経って世代が交代さえすれば、必ずパラダイムシフトは起こせるってことなんですね。
 つまり、世の中が変わるかどうかっていうのは、若者であるみなさんとみなさんに続く世代が、これからどういう選択をするか、どういう「学派」をつくっていくか、で決まるんですよ。
 たしかに時間はかかりますけど、下の世代が正しい選択をしていけば、いつか必ず世の中は変わるんです。
 だから僕は、おじさん、おばさんたちではなく、わざわざ次世代に向けて、メッセージを送っているわけです。


いま、アニメやゲームが「あたりまえの娯楽」になったのは、黎明期から「良いもの」をつくってきた先人たちと、それを逆風のなかでも応援しつづけてきた人たちの「積み重ね」の結果なのです。

ただ、オタクはデジタル社会やインターネットとの親和性が高いから、いまの時代は声が大きくなった感じはするけれど、「観ない人は観ない」し、逆にネットに表明されない意見や生きかたが見えづらくなってしまった、という面もあると僕は感じています。


fujipon.hatenadiary.com

アクセスカウンター