スカウト活動が苛烈を極めるに至る号砲となった1993年の逆指名制度導入。阪神は朝日生命の藪恵壹からの逆指名を取り付けているが、最後までつば競り合いが繰り広げられていた。
担当スカウトだった菊地敏幸氏は藪が東京経済大学時代からほれ込み、朝日生命の監督からの信も得て、他球団の追駆を封じ込んだ。
前編記事『逆指名ドラフト元年、その舞台裏で何が起きていたのか?阪神の名スカウトが振り返る「虎のエース・藪恵壹」との出会い』より続く。
逆指名制度の幕開けで、球界は争奪戦モードへ
藪にとってドラフト解禁イヤーとなる社会人2年目の93年は逆指名制度がスタートした年です。この制度が検討されていることが報道されたのは、同年5月の12球団の代表で構成する「プロ野球開発協議会」のあと。その後、アマチュア側の意向も確認しながら正式に決まったのが9月下旬。
ドラフト会議は11月20日ですから、そこから交渉していては間に合いません。ですが、我々スカウトの間では春先には改革がなされるものとして伝わっていて、どの球団も動き出していました。
私も横溝桂編成部長から「自分の担当地域でそういうレベルの選手がいたら推薦するように」と言われ、「藪しかいません」と迷わず推薦。横溝部長に5月に控えていた社会人野球の九州大会で藪を視察してもらうことになりました。
私の中では藪がナンバー1という考えに揺るぎはなかったのですが、不安にさせる存在がいました。日本生命の杉浦です。高校時代から藪よりも脚光を集め、同志社大学でも明治神宮大会で優勝。名門社会人チームに進み、92年のバルセロナオリンピックで日本代表に名を連ね、主力として銅メダル獲得に貢献。藪とは対照的にエリート街道をまっしぐらに進んでいた。
大学、社会人も関西で、阪神は杉浦だろうという見方もあったが、実際にそうであってもおかしくはなかった。もちろん杉浦がプロよりもオリンピックにこだわったということもありますが、当時の関西担当スカウトは積極的な働きかけはしていなかったですね。知名度だけでなく実力も間違いない。私が関西担当のスカウトだったら「杉浦が1番だ」と絶対に推薦して、なんとか口説き落とそうとしたでしょうね。