『仮面の告白』『金閣寺』で知られる、戦後日本文学界の白眉・三島由紀夫。日本を愛し、憲法改正を声高に主張した勇猛果敢な作家の最期は、陸上自衛隊駐屯地での割腹自殺という凄惨なものだった。
2025年は三島由紀夫自決から55年である上に、三島由紀夫生誕100周年の節目の年である。「三島由紀夫が今の日本を見たらなんと言うか」という月並みな妄想に溺れるのではなく、改めて彼の自決が何を意味したのかを再考する必要があるのではないか。1970年11月25日、三島由紀夫は一体何をしたのか?
週刊現代1970年12月10日号の「三島隊長襲撃決行までの全行動記録」より再編集してお届けする。
第2回
『「三島先生は割腹自害をするだろう、ということもわかっていました」…三島由紀夫自決から45年、知人が明かした三島に潜む「死の匂い」』より続く。
三島が通ったサウナ
【証言4 警視 公安三課長代理】
「今年3月ごろから三島と森田の二人で計画し、10月になって小川、古賀、小賀の三人を引き込んだというのがスジです」
捜査本部の調べによると、具体的な計画は三島と森田の二人が練りあげたもので、二人は市谷駐屯地の自衛隊第32連隊にはたらきかけて決起させ、クーデターをおこすのが目的だったという。
このため連隊の訓練計画や付近の地形調べをおこない、9月にはほとんど計画が完了。
10月15日 三島隊長は五人の決死隊を編成。
10月19日 東京三宅坂の東条会館で五人の最後の記念写真を撮る。
11月10日 三島は六本木のサウナ「ミステー」のロビーで、檄文を小川らに見せている。
そのさい三島は、現状のままでは憲法を改正することもできない。政界は腐敗堕落しているので、もはやクーデターを起こすよりほかなく「自衛隊市谷駐屯地を革命の発火点にする」と強調した。それまでこのサウナには数回、みんなで集まったという。
【証言5 サウナ「ミステー」主任】
「三島さんは2月ほどまえから、私どもによく出入りされていました。最後にこられたのは11月10日の午後8時から9時ごろまでで、若い方が3人ご一緒でした。いつも冗談をとばされるくらい、のんびりしたムードで、あんな事件を起こすといった緊張感はまったくありませんでした」
11月21日 三島は市谷駐屯地を訪問、「25日に第32連隊の連隊長が不在なのを知ってクーデターを断念。対象を益田兼利東部方面総監に変更した」(警視庁公安三課)ものである。
11月23日、24日
皇居前パレスホテルに五人が集合して、最後の謀議。また登山ナイフやロープを持ちこんで人質を縛りあげるリハーサル。三島はまたこの部屋で市谷駐屯地のバルコニーからぶら下げた垂れ幕を書き、割腹のとき三島の介添え役は森田、森田の介添えは小川とまで決めた。