映画『天気の子』を観て抱いた、根本的な違和感の正体

主人公たちは本当に「大丈夫」なのか

【本稿はネタバレを含みます】

「アニメ化する日本社会」を批判するアニメ

新海誠監督の新作『天気の子』を観て、疑問を持った。その疑問について書く(今回は枚数制限があるため、他の新海作品との比較などは行わない。私の新海誠論については『戦争と虚構』(作品社、二〇一七年)を参照)。

『天気の子』の舞台は、異常気象でもうずっと陰鬱な雨の止まない、東京オリンピック・パラリンピックの翌年の東京である。伊豆諸島の離島・神津島から何らかの事情で家出し新宿でネットカフェ難民となった高校生の森嶋帆高(ほだか)と、母を病気で失って弟の凪(なぎ)と二人で安アパートに暮らす天野陽菜(ひな)――天に祈ることで天候を晴れに変える力をもった「100%の晴れ女」――のボーイ・ミーツ・ガールの物語である。

身寄りもなく、経済的にも貧窮した彼らは、陽菜の「晴れ女」の力を使って小さなベンチャービジネスを始めるが、陽菜はその能力の代償として、次第に体が透けていき、この世のものではなくなってしまう。物語の中盤、陽菜という巫女的少女を人柱にして東京の街には再び晴れ間が戻るが、帆高はたとえ東京中の人間が不幸になったとしても、陽菜という一人の少女を救出することを決意する。

〔PHOTO〕『天気の子』予告編より引用

その結果、それから三年が過ぎ、帆高が一八歳になって高校を卒業する頃になっても、陰鬱で憂鬱な雨は降り続き、東京は半ば水没してしまっている。ゆっくりと水没していく東京の街は、経済的貧困や格差化、少子高齢化によって衰退していく日本社会の未来を象徴するものにも思える。

ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。

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『天気の子』においてもうひとつ特徴的なのは、スピリチュアリズムとの親和性だ。特に前半において、稲荷神社や龍神系などの神道系のスピリチュアリズムを、オカルト雑誌『月刊ムー』をステップボードにして楽天的に肯定してしまう『天気の子』には、オウム真理教やカルト宗教などの危険性に敏感だったかつての時代的空気を吹き飛ばすような、あるいは「日本会議」的な歴史の神話化とも共振するような、危ういものがあるようにもみえる。

国家も社会も信用できない現代日本人においては、『ムー』的なフェイクなオカルトや疑史的想像力で構わないから、スピリチュアルなものが必要なのだ、と。

とはいえ、『天気の子』が日本的スピリチュアリズムを全肯定しているかは、よく考えれば微妙ではある。帆高は物語の終盤、陽菜が巫女として消費され、人身御供になってしまうことに「抵抗」するのだから。

こうした特徴のもと物語は展開する。腐敗した大人たちは、誰か(人柱、巫女)が犠牲になって最大多数が最大幸福になれるのであればそれで構わない、現実なんてそんなものだ、と自嘲気味にシニカルに諦めていく。

それに対し、帆高は「陽菜を殺し(かけ)たのは、この自分の欲望そのものだ」と、彼自身の能動的な加害性を自覚しようとする、あるいは自覚しかける――そして「誰か一人に不幸を押し付けてそれ以外の多数派が幸福でいられる社会(最大多数の最大幸福をめざす功利的な社会)」よりも「全員が平等に不幸になって衰退していく社会(ポストアポカリプス的でポストヒストリカルでポストヒューマンな世界)」を選択しよう、と決断する。そして物語の最終盤、帆高は言う。それでも僕らは「大丈夫」であるはずだ、と。

象徴的な人柱(アイドルやキャラクターや天皇?)を立てることによって、じわじわと崩壊し水没していく日本の現実を誤魔化すのはもうやめよう、狂ったこの世界にちゃんと直面しよう、と。

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「社会は変えられる」という感覚の欠如

しかし奇妙に感じられるのは、帆高がむき出しになった「狂った世界」を、まさに「アニメ的」な情念と感情だけによって、無根拠な力技によって「大丈夫」だ、と全肯定してしまうことである。それはほとんど、人間の世界なんて最初から非人間的に狂ったものなのだから仕方ない、それを受け入れるしかない、という責任放棄の論理を口にさせられているようなものである。そこに根本的な違和感を持った。欺瞞的だと思った。

たとえばそこでは「人間たちの力によってこの社会は変えられる」という選択肢がなく、社会のあり方もまた気候変動のようなもの、人為の及ばない「想定外」なものとして、美的に情念的に観賞するしかないものとされてしまう。それはまさに日本的なロマン主義であり、そのようなものとしての「セカイ系」(後述)である。

たとえば新海監督が『天気の子』の中に取り込んだアントロポセン(人新世)という地質学的な議論によれば、地球温暖化などの気候変動、生物多様性の急激な破壊、汚染物質の拡散など、すでに人類の力は自然や天候のレベルにまで決定的な影響を与えている。するとそれはエコロジーや環境倫理や世代間倫理など、人間(人類)の責任の問題と切り離すことができないはずである。

つまり「自然現象だから仕方がない」「自然は狂ってしまったけれど、それは人間の力によってはどうにもならない」という責任回避の論理に安易に逃げ込むわけにはいかない、ということだ。にもかかわらず、『天気の子』には、東京の生態系をここまで変えたのは誰か、それを若者や将来世代に負担させるのはどうなのか、というエコロジカルな問いが一切ない。

「君とぼく」の個人的な恋愛関係と、セカイ全体の破局的な危機だけがあり、それらを媒介するための「社会」という公共的な領域が存在しない――というのは(個人/社会/世界→個人/世界)、まさに「社会(福祉国家)は存在しない」をスローガンとする新自由主義的な世界観そのものだろう。そこでは「社会」であるべきものが「世界」にすり替えられているのだ。

「社会」とは、人々がそれをメンテナンスし、改善し、よりよくしていくことができるものである。その意味でセカイ系とはネオリベラル系であり(実際に帆高や陽菜の経済的貧困の描写はかなり浅薄であり、自助努力や工夫をすれば結構簡単に乗り越えられる、という現実離れの甘さがある)、そこに欠けているのは「シャカイ系」の想像力であると言える。

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細田守監督との違い

その点では新海監督が一番敵対している同時代のアニメーション作家は、細田守監督であるのかもしれない。

『天気の子』では、児童相談所や警察などの公共的なもの(社会養護的なもの)がほとんど理不尽なまでに嫌悪される。それは近年の細田守作品が、リベラルな制度や家族像の重要性を強調しはじめ、たとえば『バケモノの子』では住民票の登録や高認(高等学校卒業程度認定試験)、返済不要の企業奨学金などの制度をめぐって、区役所の公務員らとのやり取りをいちいちリアルに描いていることとは対照的だろう。

国家にも社会にも一切期待しようとしない(信じうるのは恋愛とスピ的なものだけである)新海誠のセカイ系的な想像力は、「社会」を完全に排除するという意味で、案外ネオリベ的なものと近いのではないか

「大丈夫」と言わせているのは誰なのか

二つ目の疑念は、ラストの帆高の僕たちは「大丈夫」だ、というセリフが、どの視点から、誰が誰に向けて言ったものなのか、ということである。全てがじわじわ水没していく、この国も社会もどんどん狂っていく、けれども神様を信じたり恋愛したりして、日々を楽しく幸福に暮らすのは素晴らしいことだし、みんな大丈夫だよ――という論理によって若者たちを祝福するということ。

しかしそれを若者たちへ向けていう「大人」としての新海監督の立ち位置は、無責任なものではないだろうか。

私にはその「大丈夫」という言葉が、どこか、口先だけで若者を応援はするけれども、社会改良の責任は決して負おうとしない大人たちの姿に重なって見えたのである。『天気の子』は大人になることの困難を主題にしているにもかかわらず、新海監督の手つきが大人として十分に熟し切っているように見えないのだ。

帆高は物語の中でいわば「セカイ系的な恋愛か、多数派の全員を不幸にするか」という二者択一の選択肢を強いられてしまう。しかしそうした問いを強いたのは誰か。若い世代を応援し希望を託しつつも、そのような社会を作ってきてしまった大人たちなのではないか。

そのことが十分に問われないまま、大人たちは腐っているから仕方ない、あとは若者に希望を託そう、君たちは大丈夫だよ、という論理によって体よく責任を未来に先送りしてしまうこと。それを私は欺瞞的だ、と言いたいのである。社会や環境に対する無力感を強制しつつ、子どもたちの口から自己責任において「大丈夫」と言わせてしまうことが暴力的だ、と言いたいのだ。

それはたとえば作中では天候はコントロール不可能なものとされているのに、話題になった「感情グラフ」(観客の感情を時間の流れの中でコントロールし、感情のピークへと誘導しようとするための仕組み)など、新海監督が観客の感情を積極的にコントロールしようとしている、若者の感情を「大丈夫」な方向へと調整し管理しようとしている、という矛盾とも無関係ではないように思える。

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「諦念」と「全肯定」の両極端

繰り返すが、地震も津波も異常気象もみんな自然であり、自然は狂ってしまった、だから仕方ない、でも大丈夫――『天気の子』の世界観は、そういう奇妙なロジックを持っている。

デフレ経済下で99%の人間が平等に貧困化していく社会もまた自然現象であるのだし、あるいは新海監督が嫌悪感を露わにする「ネットという自然」(デジタルネイチャー)もまた、そのようなものである、とでもいうかのように(インタビューの発言によれば、新海監督はSNSに蔓延するポリティカル・コレクトネス的な「正しさ」の猛威を、ほとんどコントロール不可能な天候のようなものとして受け止めている)。

しかし「大人」たちが抵抗すべきなのは、「仕方ない」という諦念と、無根拠な「大丈夫」という自己啓発的な全肯定、それらが相補的に補完し合う現実に対してであり、若者や子供たちにそうした二者択一の選択肢を強いてしまうような環境(選択前提)そのものを変革すること、そうした想像力を観客にもたらすシャカイ系のアニメーションを作り出すことではないのか。

私は、主人公の選択には賛否両論があるだろう、というたぐいの作り手側からのエクスキューズは、素朴に考えて禁じ手ではないか、と思う。そういうことを言ってしまえば、作品を称賛しても批判しても、最初から作り手側の思惑通りだったことになってしまうからだ。

有名なトロッコ問題のように、そのような「仕方ない」か「大丈夫」か、「最大多数の最大幸福」か「個人的な感情」か、という選択肢を若者たちに強いること自体が根本的に間違いであるかもしれないのに。二者択一を超える第三の意想外の選択肢を想像し創造していくこと。決して「大丈夫」とは言えないこの社会を見つめて、それを変えていくこと。しかも老若男女の協力によって。それが「共に生きる」ということなのではないだろうか。

もっともリアリティのある登場人物

それでいえば、『天気の子』の「世界の秘密を知る反逆的な若者vs無自覚で堕落した大人たち」というわかりやすい対立図式もまた、相当に戯画的であり、凡庸である(若者の反抗の象徴としての拳銃というのもどうなのだろう)。それはまさに村上春樹的なもの、サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』的なものの劣化コピーであるように思える。

大人たちは堕落して腐っており、子どもたちはイノセントであるがゆえに、生きることの不幸や狂気を強いられてしまう。帆高が陽菜を救出しようとする終盤のクライマックスは、警察や多数派の人々の秩序を乱す反社会的な行動として描かれている。大人たちの欺瞞に反抗する若者の純粋さとして描かれてしまうのだ(そういえば『君の名は。』の公開時、変電所を爆破する瀧たちの反社会的な行動は、共謀罪の対象であり、テロリストのようなものではないか、という議論もあった)。

帆高が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでいるシーンも描かれる

とはいえ、『天気の子』の中で、若者/大人という対立図式のはざまで奇妙な動揺を示している人物が一人、いる。それは東京で帆高の代理父のような役割を担う、須賀圭介である。圭介は帆高を零細編集プロダクションに雇い入れ、仕事と食事と住居を与える。

帆高を親切に庇護したり、こきつかったり、家族のように一緒に暮らしたりしつつも、「常識的な大人」の立場から帆高を抑圧しようともする圭介は、『天気の子』の中でもっとも破綻し、行動がぶれていて、観る側を苛々させるような気持ちの悪さがある。だがその気持ち悪さゆえに、作中でも稀有の奇妙なリアリティがあると感じる。

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新海監督はおそらく(帆高よりも)圭介に自分を重ねているのだろうが(岩井俊二の「大人っていうのは、だいたい子どもの役に立たないんだよ」という言葉に触れつつ、自分は圭介のような役に立たない大人のほうを愛してしまう部分がある、と言っている)、「ちゃんとした成熟した大人の男性」の像をうまく描けず、それが屈折し破綻してしまうところに、かえって重要な何かがあったのかもしれない。

実際に、『天気の子』に対してはフェミニズム的な立場からの批判は避けられないだろうが、男性学やメンズリブの観点からは、妻を喪ったシングルファザーであり、喘息持ちの幼い娘を義母に連れていかれてしまい、「常識的な大人の男」の殻を破れず、帆高に対しても矛盾した態度を示し続ける圭介の混乱したダメさ、支離滅裂さは、これからの新海作品を考える上でも大切なものなのではないか。

たとえば細田監督の『未来のミライ』のリベラルな父親像や、庵野秀明監督の『エヴァンゲリオン』シリーズのゲンドウのアダルトチルドレン的でDV的な父親像などとも比較しつつ。

「少しも大丈夫ではない」から始まる

繰り返そう。『天気の子』の二重の欺瞞とは、

(1)「狂った社会」を大人たちが自覚的に変革したり改善したりするという可能性を最初から想定していないこと、

(2)しかも、大人たちは堕落した存在であると断定することで、責任を回避し、若者たちの口からこの世界はそれでも「大丈夫」だと言わせてしまうこと、つまり子どもたちの決断や自己啓発の問題として――見かけは大人の立場から若者を応援し、希望を託す、という態度をとりながら――全てを押しつけてしまっていること。

この二つである。それは今の私たち日本人にふさわしい自己欺瞞の形であるようにも見える。

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『天気の子』のラストの「大丈夫」という言葉から、私は自ずと、宮崎駿監督の『もののけ姫』のラスト、アシタカの「ともに生きよう」という言葉を思い出した(もちろん『天気の子』は『天空の城ラピュタ』や『崖の上のポニョ』など、様々な宮崎作品へのオマージュを含んでいた)。

『もののけ姫』の世界では、大人も若者も老人も、人間も神々も動物も、互いに争ったり、話し合ったり、和解したりしながら、全員が等しく滅びていきかねない「この社会」それ自体に対峙しようとしていた。自分たちを変え、社会を変え、世界を変えようとしていた。「大丈夫」ではないこの現実に向き合いつつ、それでも「大丈夫」と言える社会を、自分たちの能動的な責任と行動によって、何とか作っていこうとしていたのである。

「この現実は少しも大丈夫ではない」と強く認識するところからしか、行動も変革も生まれないし、自分たちの存在や欲望を変えようとする意志も生まれないのではないか。

こんなもののために産まれたのではない。この世界も、この私も、少しも大丈夫ではない。しかしそれでも共に生きよう。若者たちに勝手に期待したり、勝手に希望を託して責任をひそかに押しつけたりすることなく。そう言いたかった。「大人」のための作品を作るべきだ、ということではない。新海監督なりの「大人」の責任によって、子どもや若者のための作品を作ってほしかった。そう言いたかった。

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