医学部入試で出た「他人のおにぎり問題」あなたはどう答えますか?

「食べたくない」という人もいる……

「他人が握ったおにぎり」を食べられる?

センター試験の後継テストとして、2021年から実施される「大学入学共通テスト」の影響もあるのだろうか。医学部一般入試、推薦入試の2次試験で問われる小論文試験や面接試験の内容が、大きく変容しつつある。

ひと言で言うと、従来のように定型的で1つのテーマに絞られた「1行問題」ではなく、実質的で具体的な出題が増えているのだ。いわば、日常で遭遇するさまざまな題材を引用し、考えさせる問題が増えていると言える。これは現在進んでいる大学入試改革の方向性とも合致している。

新たに実施される「大学入学共通テスト」は、その概要で「社会生活や日常生活の中から課題を発見し、解決方法を構想する」場面や「資料やデータなどをもとに考察する場面」などを重視するとしている。

今回は実際に医学部入試で出題された問題をもとに、試験がどう変化するかについて考えてみたい。

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上に述べた傾向は、この11〜12月に集中して実施される医学部推薦入試、AO入試にも当てはまるだろう。今年の春に実施された横浜市立大学医学部の問題(改題)に、すでにその特色が表れている。

まずは問題を見ていただこう。以下は、今年の2月に実施された2次試験の小論文の問題だが、出題の背景で問われている概念をさらに明確化するため、今回は問題文に少々手を加えさせていただいている。

【問題】
あなたは高校の教師である。ある日、授業の一環として稲刈りの体験作業があり、僻地の農家に田植えの体験授業に生徒を連れて出かけた。稲刈りの体験作業の後、農家のおばあさんがクラスの生徒全員におにぎりを握ってくれた。しかし、多くの生徒は他人の握ったおにぎりは食べられないと、たくさん残してしまった。

[問1]
あなたは、おにぎりを食べられない生徒に対しどのように指導しますか。

[問2]
あなたはこの事実をおばあさんにどのように話しますか。

(2019年 横浜市立大学 医学部医学科小論文試験 改題)

なかなか趣のある問題である。

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昔は喜んで食べたものだが…

この問題を目にして、筆者がまず想起したことは2つの事柄だった。1つは中学校時代に読んだ太宰治の『斜陽』に出てくる一節である。『斜陽』は太平洋戦争後、家が没落してしまった上流階級(貴族)のあり様を描いたものだが、冒頭に母が娘のかず子に語りかけた言葉として、次のような一節がある。

「おむすびが、どうして美味しいのだか、知ってゐますか。あれはね、人間の指で握りしめて作るからですよ」

当時の私は中学3年生。母のこしらえてくれた温かいおにぎりをよく食べており、妙に納得してしまったのを覚えている。

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もう1つの記憶は、高校1年生の頃の話だ。父の転勤のため、都会からある地方へ転居した。

高校1年生といえば育ち盛りである。当時私は、1時限目の授業が終了した休み時間に、いつも早弁として母が作ってくれたおにぎりを2個食べることにしていた。サイズは、今で言うコンビニのおにぎりよりは少し大きめのものであった。

すると、毎日美味しそうにおにぎりを食べる私を見て、クラスメイトの男子1人が私の机の前で毎日その様子を見つめるようになった。最初は、1人早弁をする私を珍しいと感じ見ているのだと思った。しかし、ある日「お腹が空いているので、僕にもおにぎりを分けてもらえないか」と告白された。憐憫の情からではなく、私はおにぎりを分け与えた。

時代が違うとはいえ、昔はこのように他人の作ったおにぎりを嫌うどころか、他人の弁当のおかずを勝手につまみ食いするというようなことさえあった。潔癖症、きれい好きは明らかに少数者であるか、いや見かけることも稀であった。

上記の問題を見た後、たまたま気分転換に見ていた深夜番組の『月曜から夜ふかし』(日本テレビ)で、「他人の握ったおにぎりを食べられない人が増えている」という情報が紹介されており、驚いてしまった。

番組では突撃取材のような形式で、「他人の握ったおにぎりを100%食べられる県」として新潟県が紹介され、一方、「全く食べられない県」として熊本県が挙げられていた。

取材自体が路上インタビューのような形式で行われているため、偶然性を排除できず、取材対象者に偏りができること、また、サンプル数自体が数十名程度であることから、データの信憑性に疑問を感じた。

筆者が念のため熊本県庁の広報グループに取材したところ、県民性として「他人が握ったおにぎりが食べられない」という傾向については、何とも言えないし、県庁の関係各所に問い合わせても、そのようなデータを裏づけるものは見当たらないということであった。まあ、他人の握ったおにぎりが違和感なく食べられるかどうかのデータなど、県庁にも無いだろう。

ただ、教え子の熊本県人に電話取材したところ、「私の身のまわりの知人を見渡すと、他人の握ったおにぎりが食べられないという人は、50人中2~3人ではないか」と、のコメントが返ってきた。これが真実なら、全く逆ではないか。

番組には視聴者の興味を引き付けるため、内容に多少の誇張があったと思われる。だが、いろいろ調べてみると、小学生を対象としたものだが、有力な関連データが見つかった。

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半数以上の子どもが「食べられない」

ベネッセ教育情報サイト(2018年)によれば、小学生の子どもを持つ保護者を対象にしたアンケートで、「お子さまは、どのおにぎりなら食べられますか?」(複数回答)という質問に対し、お母さんが握ったもの(85・6%)、友人・知人が握ったもの(45・8%)という結果が出たそうだ。この数字からすると、54.2%の子どもが「他人(知人・友人)が握ったおにぎりを食べられない」と感じていることになる。

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どうしてこのような状況になったのか。一つ言えることは、他人が手で触れた食べ物に対する違和感、拒絶感があるのだと考えられる。人と人の交流が稀薄になったこと、さらには地域でのイベントや祭りの減少などにも原因がありそうだ。住宅の数は増加しても、家と家との距離が開き、人と人、心と心の距離も広がりつつあるのではないか。日本独特の和の精神や、村社会の概念も崩壊しつつあるのだろうか。

それにしても、我々指導者の目から見ると、本問はよく練られ、医師を目指す受験生の能力・資質を医学の話題を使用せずに探ろうとしている点で良問である。

私が本問に接しまず気付いたことは、医師という職業に従事した場合、将来遭遇するであろう3つの事項が、課題文の中にさりげなく盛り込まれているということである。

それは、(1)少数者の人権尊重・擁護に対する考え方、(2)高齢者に対する意識の度合い、(3)言いにくい事柄を他人に告白する際の話術の3点である。

受験生はどう回答したのか

私の教え子で現在、横浜市立大学医学部医学科に通う1年生が今年、2次試験の面接試験に臨んでこの問題を出題された。

彼は体育会系の学生だったためか、おにぎりを食べない生徒の人権には配慮しつつも、その態度を完全に容認するのではなく、食べる努力をするよう指導する旨の回答を記述したそうだ。この方向性はおにぎりを作ってくれた高齢者の気持ちを考慮したものであろう。

それに対し、その後に行われた面接試験では開口一番、君の小論文の回答では、少数者の人権、つまりどうしても事情があっておにぎりを食べられないような生徒に対する配慮はどうなるのか、と詰問されたそうである。

問題では、「多くの生徒は」知らない人の握ったおにぎりを食べられず、たくさん残しているので、これが少数者を象徴する出来事なのかは考慮の余地があろう。だが、大学の面接官の指摘の内容からすると、やはり(1)の少数者の人権に対する配慮を受験生が持ち合わせているか否かを見ているのは間違いない。近時はLGBTに関する質問も医学部入試の現場では多くなされており、その趨勢とも符合する。

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2つ目の高齢者に対する意識という観点は、問題文中にさりげなく盛り込まれているが、受験生の意識がさり気なく分かるような仕掛けになっている。2025年には我が国の高齢者の数は人口の30%を超え、800万人いると言われる団塊の世代が全て75歳以上の後期高齢者に一気に参入し、トータルで2200万人にのぼると言われている。

2025年といえば、今年入学した医学部の1年生が卒業する年なのだ。この状況で、高齢者と向き合えないというのは、超高齢化社会の医療従事者としては難しいであろう。

最後に3番目の論点は、これは「嘘も方便」(杏林大学医学部)などで過去に出題実績があるように、患者に言いにくい告知をする技術を、医師に必要な能力・資質として大学側が捉えている可能性がある。

ガン告知の現場も含め、医師は病を抱える患者と向き合う仕事であり、時には、患者に言いにくい内容を告げなければならないことがある。包み隠さずストレートに直球を投げることは簡単で清々しいかもしれない。しかし、美しい嘘、嘘も方便ということもあるのではないか。高齢者に言いにくいことをどのように告げるか、そのバランス感覚が問われているのだと思う。

ときには嘘をつく必要もある

ところで、本問を医学部受験予備校で教える60名ほどの受験生に問いかけたところ、5割ほどは「なぜこの問題が医学部受験の2次試験で問われたのかよくわからない」という風であった。関連が見出せないのだという。一方、5割ほどは医師の仕事と本問にやはり繋がりがあることを見抜き、中には次のようなそれなりの回答をした者がいた。

問1. お忙しい中、稲刈りの作業を体験をさせていただいた上に、とれたての米を炊いて美味しいおにぎりをこしらえてくれた農家のおばあさんには感謝しなければなりません。しかし、私は教師として、おにぎりを食べることを生徒に強制はしません。従来の社会常識、通念からは出されたおにぎりを食べることが妥当のように思えるかもしれません。しかし、他人の握ったおにぎりを食べられない人はこの事例のように確実に存在します、他人の握ったおにぎりを拒絶することは違和感のある行動と映るかもしれませんが、そういう人々の権利を擁護することも、教師の大切な役割だと私は考えます。
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問2. おにぎりを食べられなかった生徒がいることを正直にいうことは人間として大切な姿勢です。しかし、食べられない生徒の数が多すぎます。大半のものがおにぎりを残した旨を聞いた農家のおばあさんは、どう思うでしょうか。今どきの若者はそんなものだと割り切れるでしょうか。いや、むしろ自分の手が汚いから、私の握ったおにぎりは嫌われたのだとショックを受けることでしょう。どのような場合でも嘘は慎むべきです。しかし、「嘘も方便」ということもあります。クラスメイトの中には残ったおにぎりを全て平らげてしまう猛者も複数いるでしょうし、私も一緒に食べても構いません。おばあさんには「とても美味しく皆で分担し喜んできれいに平らげました。有難うございました」と伝えるのではないかと思います。

「問2」でおばあさんに架空の話をしている点は、評価が分かれよう。しかし、この嘘はおばあさんを騙すためにつかれたものではない。

悪事に結び付く嘘は許されぬであろう。だが行為の目的が手段を正当化する場合はあり、それぞれの利益を比較した上で、目的の価値が上回るのであれば、そのような嘘は許容されるのではないか。

あなたならこの問いに、どう答えるだろうか。

小林公夫HP:http://kobayashijuku.com

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