2019年も終わりが近づいてきていますが、1月早々の西武・そごうの広告から、記憶にあたらしい赤十字の献血ポスターに至るまで、今年も女性表象をめぐっていくつもの「炎上」がありました。こうした「炎上」はなぜ繰り返されるのでしょうか。言い換えれば、表象の作り手と批判者の間には表象に対するどんな理解の齟齬があるのでしょうか。
ここでは特に理解の齟齬が生じやすい性的な女性表象の問題点について、私が以前に書いた小論「表象はなぜフェミニズムの問題になるのか」(『世界』2019年5月号)をふまえて、少し突っ込んで考えてみたいと思います。あわせてお読みいただけると嬉しいですが、この記事単体でも読めるようになっています。
ふくろ:兵庫県生まれ宮崎県育ち。東京外国語大学外国語学部卒業。編集職を経て現在は英日ゲーム翻訳者、字幕翻訳者。AAAタイトルを含め多数の作品の日本語ローカライズに携わる
表象は「誰かが作る」もの
まず「表象はなぜフェミニズムの問題になるのか」の内容を簡単に解説しておきます。そこで私が述べたのは、表象の「悪さ」について、たとえば「子どもがマンガの中の暴力的な行為を真似してしまう」とか「広告に表現された差別的な価値観を身につけてしまう」といった「現実への悪影響」とは違った水準で考えよう、ということでした。
ポイントは、表象は必ず「誰かが作る」ものだという当たり前のことです。この当たり前のことを踏まえると、「表象/現実」という区別を離れて、表象を作るという現実の行為について考えることができます。女性表象は――なにしろ女性の表象として作られるのですから――多かれ少なかれ「女性とはこういうものである」という、私たちの社会にある考え(女性観)をもとに作られるものです。
問題なのは、そうした女性観の中には、歴史的・社会的に性差別的な意味を帯びて使われてきたものが多くあるということです。たとえば「ケア役割の担い手」という女性観があります。要は「家事育児介護は女がするものだ」という考え方です。こうした考え方が差別的であることについては現在では多くの人が同意するでしょう。
しかし残念ながら、こうした考え方はまだ私の社会のあちこちに見られます。「女の子だからと家事の手伝いをしなさいと言われる(お兄ちゃんや弟は何も言われないのに)」というのは女子学生がよく挙げる不満話のひとつです。「赤ちゃんはママがいいに決まってる」と言って批判を浴びた政治家もいました。こうした発言は「家事育児は女性がするものだ」という考えのもとににおこなわれていると言えるでしょう。
表象の作成も同様です。たとえば「家族」を描くとき、家事育児をしているのをもっぱら「女性」にするならば、その表象はやはり「ケア役割の担い手」という女性観を前提にして作られています。つまり、家事育児を女性ばかりがしているような表象を作ることは、「ケア役割の担い手」という女性観を前提におこなわれる、数ある現実の行為のうちのひとつなのです。
「累積的な抑圧経験」
このように考えると、表象の「悪さ」についての考えを少し広げることができます。差別的な女性観を当然の前提としている表象は、それによって「女性とはそういうものだ」という意味づけを繰り返してしまっているがゆえに「悪い」のです。
特に私が重要だと思うのは、ある表象が差別的な女性観を前提に作られているとき、日頃からその女性観に苦しめられている人にとって、表象はその抑圧の経験との繋がりの中で理解されるだろうということです。たとえば「家事育児は女性がすべき」と言われてその負担に苦しんでいる女性にとっては、女性があたりまえのように家事育児をしている表象は、「ここにも同じ女性観がある」というように自らの抑圧経験と意味的に繋がったものとして経験されるでしょう。
要するに、差別的な女性観による抑圧の経験(あるいはそうした経験を多くの女性が持つという知識)は、その女性観を前提にした表象を理解する際の文脈を形成するということです。同じ女性観を前提にした抑圧経験との意味連関のもとで特定の表象がより「悪く」感じられることを、「累積的な抑圧経験」と呼んでおきましょう。「炎上」の繰り返しを引き起こす、表象作成者と批判者の間の齟齬の一端は、この累積性に対する理解が両者で異なることに由来すると私は考えています。
このように、「表象を作る」という行為に目を向けると、そこでどのような女性観が前提にされているのか、その行為は他の行為や出来事とどんな関係にあるのかといったことが考えられるようになります。表象は誰かが作り、その意味も特定の歴史的・社会的文脈のもとで理解されるものなのですから、表象の「悪さ」について考えるときにも私たちはそのような視点をもつ必要があるのです。
もちろん特定の表象がどのような文脈のもとで理解されるべきかは議論の対象となりうる事柄ですが、差別的な女性観を前提にしたものを作れば、女性差別の歴史と現状に照らしてその表象が理解される可能性が出てくるのは当然のことでしょう。
「エロい」ことが問題なのではない
さてそのような視点から、ここでは性的な女性表象について考えてみましょう。性的な女性表象が差別的な女性観を前提にしていると言えるのはどのような場合でしょうか。またそのような表象は、どのように累積的抑圧となりうるでしょうか。
性的な女性表象の持つ差別性は、フェミニズムの中では「性的客体化(sexual objectification:対象化やモノ化と訳されることも)」の悪さという観点から議論されてきました。この考え方を知るにあたって真っ先に理解しておくべきことは、それは「エロいから悪い」という考えとはまったく違うということです。
たとえばポルノグラフィ批判で有名なキャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンが繰り返し主張していたのは、ポルノは「わいせつ(性欲を刺激するもの)」だから悪いのではない、ということでした。マッキノンたちのポルノグラフィの定義には、女性が「人間性を奪われ」「辱めや苦痛を快楽とし」「性暴力によって快感をおぼえ」「特定の身体部部位に還元される」ような「性的な客体として提示されている」という項目が含まれています。要するに、女性を「性的な客体」として提示することが悪いと考えられているのです。
マーサ・ヌスバウムというフェミニスト哲学者は、ずばり「Objectification」というタイトルの論文の中で、マッキノンたちの考えを引き継ぎつつ、「客体化」とは何を意味するのかをより明確にしようとしました。ヌスバウムによれば「客体化」は7つの相互に異なる要素に区別できます。簡単に言えば次のとおりです。
「道具性」:対象を自分の目的達成のための道具とすること。「自律性の否定」:自律性や自己決定能力を欠いたものとして対象を扱うこと。「不活性」:行為者性や活動性を欠いたものとして対象を扱うこと。「交換可能性」:他の対象と交換可能なものとして対象を扱うこと。「毀損可能性」:壊してもよいものとして対象を扱うこと。「所有性」:買ったり売ったりできるような所有物として対象を扱うこと。「主観性の否定」:経験や感情を考慮しなくてよいものとして対象を扱うこと。
その上でヌスバウムは人を「道具」として扱うことこそが「客体化」の悪さの中心だと考えました。ヌスバウムのこの考えがどこまで正しいと言えそうかにはここでは踏み込みませんが、問題になっているのはやはり「わいせつ」かどうかではありません。問題は、女性が上記7種のようにさまざまに性的客体として扱われることの悪さにあるのです。
性的客体化の表現技法
こうした議論を踏まえるなら、女性表象についてフェミニズムの観点から考えるとき、私たちは「わいせつ」かどうかとはまったく違った水準でその問題点を考えなければなりません。
たとえばとても扇情的な性行為の描写があったとしても、女性のみを一方的に性的客体として意味づけるような描き方がされていなければ、その表象は差別的だとは感じられないかもしれません。逆に性的な行為も裸体も一切描かれていなくても、女性のみを性的客体として意味づけるような描写がそこにあれば、その表象は差別的だと感じられるかもしれません。
つまり、まず考えるべきなのは、女性の描き方の中で「女性は性的な客体(道具的、非自律的etc.)である」という女性観が当然の前提とされていると理解できるかどうかだということになるのです。
では、具体的にどのような描き方をするとそうした理解が生じるのでしょうか。これは一かゼロかではなく程度問題なのでなかなか難しい問いですが、ここではフェミニスト分析美学者のアン・イートンが「(女性)ヌードの何が悪いのか」という論文でおこなっている分類をヒントに、「性的客体としての女性」という考えが前提にされているという理解を生みやすい表現について考えてみたいと思います。
イートンはヌスバウムの議論などを参照しながら、西洋絵画において女性が客体化されて描かれる技法を9つに分類しています。ただイートンの分類はあくまで絵画の裸婦像を前提にしたものなので、ここでは広告やアニメ、マンガなどにもあてはまるよう、分類を5つに再構成した上で「表現技法」の具体的考察をしてみましょう。あくまで試験的なもので、網羅的なものでも十分整理されたものでもありませんが、議論の手掛かりにはなるでしょう。
(1)性的部位への焦点化
まずは一番わかりやすい「性的部位への焦点化」から。性的部位(胸や尻など)を強調し、そこに目が行くように女性を表象する手法です。極端なのは顔の部分を外してしまう、映画の広告でいう「顔のない女性」のような構図でしょう。そこまでいかなくても、やたらに胸の谷間が強調されたり、謎のセルフボディタッチがあったりと、性的部位周辺に焦点を当てる手法はさまざまです。下の図解のとおり、いわゆる「乳袋」を始め、マンガやアニメにも性的部位を強調するための描画手法がいろいろあります。
図1. 性的部位への焦点化
こうした技法は、性的鑑賞の対象となるよう女性の身体部位を(時には現実にありえないような仕方で)強調するものです。それゆえ特に性的である必要がない文脈でそのように描くことは、見る者を性的に楽しませるための道具としているという点で、「性的客体としての女性」という考えが前提にあるという理解を生みやすくなります。
また、顔をフレームから外すような構図などは、女性の自律性や主観性を軽視し、性的部位にのみ価値がある(その点で交換可能な)ものとして描いているという印象を強めるでしょう。
(2)理由のない露出
続いてわかりやすいと思われるのが「理由のない露出」です。一昔前は、ビールのポスターといえば水着の女優さんがジョッキを掲げているものばかりでした。ビール自体の魅力を訴えるのにいつも水着の女性が必要な理由はないでしょうから、要するにターゲット層である男性の「目を引く」ために肌を露出した女性を使っていたわけです。いわゆる「アイキャッチ」として女性を使うことの、より露骨なバージョンと考えてもいいかもしれません。
似たような表現として、映画などでは物語上の必要性があまりないのに女性のシャワーシーンや着替えシーンが挟まれたり、マンガやアニメ、ゲームなどでは女性の衣装ばかり露出が多いといったことがあります。衣装でいえばいわゆる「ビキニアーマー(ビキニタイプの鎧)」はその古典的な例ですが、まったく機能的ではないですよね。
図2. 理由のない露出
こうした技法はやはり性的な鑑賞のために女性を用いていると言えますが、同時に商品や物語とは関係のないところでそれをおこなっている点において、商品や物語を単に装飾するためだけに女性を用いているという理解も生むでしょう(ちなみにイートンは、「一見物語上の理由があるように見えて、単にヌードを描くためのその物語が選ばれてることあるよね」という話もしています)。
(3)性的なメタファー
「性的なメタファー」は、直接性的な行為を描いたり、特定の身体部位に焦点を当てたりするわけではないけれど、メタファーを用いて性的な行為や関係を表現するような描き方です。以前「炎上」した宮城県の観光CMでは、女優の壇蜜さんが亀の頭をなでる描写がありました。ビールやマヨネーズのCMで商品が精液のメタファーになっていると批判されたこともありました。他にも、棒状の物体をペニスのメタファーとして、それとともに女性が描かれることで、性的な行為を連想させるような表現もあります。
図3. 性的なメタファー
こうしたメタファーは、あからさまではない仕方で女性を性的な鑑賞のために用いているわけですが、あからさまではないがゆえに、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされているという理解を生むでしょう。特に女性当人は性的なメタファーに気づいていないかのように描かれるときには、女性の自律性、主観性を軽視して一方的に性的な鑑賞のために用いているという印象が強まります。
(4)意図しない/望まない性的接近のエロティック化
「一方的」という点でもっとも極端なのが「意図しない/望まない性的接近のエロティック化」です。女性にとっては性的な意図や願望があるはずのない状況を、あたかもエロティックであるかのように表現することです。上に挙げた「性的部位への焦点化」によってその状況が性的な鑑賞の対象となるよう描かれたり、女性が大して嫌がっていない(どころか快楽を感じている)かのように描かれたりするのがそれにあたります。
かつて「私作る人、ボク食べる人」というラーメンのCMに抗議した「行動する女たちの会」は、ウィスキーの広告に描かれた女性像が性暴力被害を想起させると抗議しました。また、マンガやアニメでは、意図しない性的接近が「ラッキースケベ」と呼ばれたり、女湯覗きから場合によっては性暴力まで望まない性的接近がエロティックなものとして描かれることがありますね。
図4. 意図しない/望まない性的接近のエロティック化
もちろん現実には、「意図しない/望まない性的接近」はそれを受ける女性にとってはエロティックであるどころか侮辱的で侵害的なものです。にもかかわらず、それをエロティックなものとして描くことは、女性の自律性、主観性を無視して性的な鑑賞のために用いているという理解を生むでしょう。
(5)利用可能性/受動性の表現
最後にポーズや表情にかかわる技法として「利用可能性/受動性の表現」を挙げておきます。「利用可能性」は、表象される女性がそれを見る者にとってあたかも性的に利用可能である(自分を受け入れてくれる関係にある)かのような印象を与える描き方です。寝そべっている女性を上から眺めている(見る側にとっての一人称視点のような)構図、女性が片手または両手を上げて性的な部位を無防備にしているポーズなどがそれにあたります。
関連して「受動性」は、性的に見られることに関して女性のほうが能動的、積極的ではない(かといって明確に拒絶しているわけでもない)印象を与えるような描き方です。仰向けで寝そべって見下ろされているようなポーズもそうですが、恥じらいや戸惑いの表情もそれにあたるでしょう。
図5. 利用可能性/受動性の表現
こうした描き方は、見る側にとって利用できそうなものとして描くという点で女性に対する擬似的な「所有」関係を、また性的に受動的なものとして描くという点で女性の自律性の低さや活動性の低さを、それぞれあらわしているという理解を生みやすいものでしょう。
性的な女性表象の差別性
いかがでしょうか。「なるほどありがちかも」と思っていただけたならまずは幸いです。その上で、こうして具体的に見てみると、これらの表現技法を用いた性的な女性表象がどのように差別的で抑圧的な意味を帯びるのかが考えやすくなります。
第一に、これらは圧倒的に、女性を性的に表象するための技法です。男性が同じような技法で表象されることはあっても稀で、実際こうした表象の数における男女間の非対称性はあきらかでしょう。「女性」を性的に表象するときに繰り返し用いられるパターン化された手法であるという点において、これらは単に個別の女性を描くためのものではなく、「女性」というカテゴリーを性的客体として意味づけるものとなっています。
第二に、「理由のない露出」「性的なメタファー」「意図しない/望まない性的接近のエロティック化」などに顕著なように、そうした技法はしばしば性的ではない状況を見る側にとって性的に楽しめるものにするために用いられます。この点でそれらは「一方的に向けられる性的関心」の表現となっており、「対称ではない関係」をエロティックに描くものになっています。
したがって、こうした技法を用いた表象は、女性一般に対して、一方的にそれを性的客体として意味づける点で、差別的な女性観の表現と受け取られやすい要素を持つことになります。もちろん表象は他にもさまざまな要素を組み合わせて作られるものですから、上に挙げた技法があれば必ず差別的な表象になるというわけでありません。しかし差別的な表象は多くの場合これらの技法を組み合わせて作られているとは言えるでしょう。実際、そうした技法を取り去れば表象の印象は全然違ったものになります。
図6. 客体化の技法のない表現
大事なことなので繰り返しますが、表象が「性的客体としての女性」という印象を与えるときも、逆に「主体的な女性」という印象を与えるときも、それはそのように作られているのです。
性的な女性表象の累積的抑圧
第三に、「性的客体としての女性」という考えはやはり表象以外の場所でも用いられています。
たとえば女性の胸の大きさを不躾に話題にするようなセクシュアル・ハラスメントには「性的部位への焦点化」にあるのと同様の女性観が含まれているでしょう。労働政策研究・研修機構の調査によれば、さまざまなセクシュアル・ハラスメントの態様の中で「容姿や年齢、身体的特徴について話題にされた」というのはもっとも多く経験されているものです。
また性暴力の被害者に対してしばしば言われる「露出の多い服を着ていたのは誘っていたからでは」「一人で部屋までついていったなら期待していたのでは」などといった二次加害発言には「望まない性的接近のエロティック化」と同様の考えが含まれていると思います。いずれも一方的に性的な関心を向けることで、相手の身体や経験に勝手にエロティックな意味づけをするものです。
そして、「性的客体としての女性」という女性観が表象の中にも表象以外の性差別的な言動の中にも見られるものであれば、そうした性差別的な言動に苦しめられている人にとっては、同じ女性観が前提にされている表象はやはり累積的抑圧を感じさせるものでしょう。
こうして、私たちは性的な女性表象の悪さについて、私たちはその「わいせつ」性とは違った観点から考えることができます。「エロい」ことではなく、表象作成の際に前提とされる女性観の差別性と、同じ女性観のもとでおこなわれる他のさまざまな行為との意味連関の中で表象が与える抑圧性が、性的な女性表象の問題なのです。
表象の読解の必要性
以上のような考えは性的な女性表象をめぐる議論の整理に役立ちます。
まず当然のこととして、身体の露出や裸体、性行為や性暴力を描くことそれ自体は、そこに性的客体化が表現されているかどうかとは別のことです。性的客体化の技法抜きにそれらを描くこともでき、そのときはフェミニズムの観点からはそれらは差別的ではないということになるでしょう。
また、問題は表現にどのような女性観が前提されているかという点にあるのですから、「二次元か三次元か」も本質的な論点ではなくなります。アニメやマンガに特有の技法は確かにありますがそれだけが問題だというわけではないし、逆にしばしば言われるように「ただの絵」だから「二次元は問題無い」わけでもありません。
さらに、問題は表象作成者の差別的意図にあるわけでもありません。ほとんどの場合作成者は女性を差別しようという意図などは持っていないでしょう。しかし「お約束」として安易にパターン化された技法を使えば、それは一定の仕方で女性を意味づけることになり、それゆえその是非が問われるものとなります。
逆に言えば、そうした技法を用いて作られた性的な女性表象があればその作品は常に差別的で抑圧的となるわけでもありません。たとえば性的部位を強調することが必要な物語内状況、主体的・撹乱的な「パフォーマンス」としての提示、あえてそう描いていることが主題となるようなメタフィクション設定、男性との対等な描き方、(この記事がそうであるような)批評的な表象使用など、「性的客体としての女性」という考えを当然の前提としているわけではないと理解できるような取り上げ方もいろいろあるでしょう。
要するに女性表象の問題を論じようと思うなら、表象作成/理解に用いられている技法、その技法が表現する女性観とその歴史的・社会的意味、そして表象の提示される文脈について、自覚的な読解をした上での議論が求められるようになるのです。
「法規制より論争を」
とはいえ、そうした読解はそんなに簡単な作業でもありません。表象がどの程度差別的と言えるのか、作品の公表される場がどの程度の公的性格を持つのかといったことについては一義的な判断を下すことが難しい場合も少なくありません。差別的であっても作品に高い芸術的、文化的価値がある場合だってあるでしょう。
また累積的抑圧について言えば、女性に対する性的な意味づけが表象以外の場でどのような被害や抑圧を生んでいるかについての知識や経験の有無も、表象の「悪さ」の理解と大きくかかわってきます。さらに言えば、ある女性観がどの程度差別的と言えるかも、歴史的・社会的に変化するものです。
こうした総合的で文脈的な作品評価の議論は法規制の是非という問いには馴染みにくく、安易にその問いに乗せることは望ましくないと私は思います。しかしだからこそ、その手前のところで、表象がどんな問題点を持ちうるのかについて議論することが重要です。
とりわけ公的な性格をもった作品、誰もが見る公共空間に掲示される作品、批評やファンタジーとして読解する能力の未発達な子ども向けの作品などについては、そこで本当に性的客体化の表現を用いるべきなのか十分慎重に検討すべき理由があることがこれまで述べてきたことからわかると思います。
「行動する女たちの会」は、フェミニズムに反発する人たちが持っているイメージとは反対に、「法規制より論争を」と主張していました。フェミニズムの観点から表象を批判する側は「わいせつ」批判と自分たちの主張との差異化に気を配り、表象を擁護する側は自分たちが気づけていない差別的な文脈がないか謙虚に学ぶことで、私たちは「エロはゾーニングしろ」「これのどこがエロいんだ」という不毛なやりとりの先へと進まなければなりません。そうやって議論を通じて多くの人が合意できる落としどころを探っていくプロセスは、「表現の自由」が守ろうとしているものでもあるはずです。
私たちは議論の出発点に立った
以上、性的な女性表象の問題点について述べてきました。けれど、ここで話は終わりではありません。ここで参考にしたイートンの議論に対しても「白人中心主義ではないか」といった批判があります。確かに西洋絵画で性的に描かれているのは多くの場合白人女性です。人種的、民族的マイノリティの女性やトランス女性が表象される仕方/あるいは表象されないという事態については、また違った問題を考えなければなりません。
だからここで書いたことは、表象についての考察の出発点に過ぎません。表象を作り/理解することが、言葉を発し/理解することと同じかそれ以上に(良くも悪くも)豊かな意味を湛えた社会的営みであることを、私たちは本当はよく知っているはずです。女性表象について、それがいったい誰のどのような視点から作られているのかに注意しながらその意味を読み解くことの必要性を、フェミニズムの議論は教えてくれているのです。