映画の殿堂の杮落としに選ばれた宮崎駿監督
2021年9月30日、米国カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビバリーヒルズ地区の真ん中に、アカデミー映画博物館がオープンした。アカデミー賞主催で有名な米国・映画芸術科学アカデミーによるもので、約2万8000㎡の施設には23万7000本のフィルム、1250万点の写真、それに衣装やデザインなど映画史の記念碑が収められている。
築82年の旧名門百貨店をリノベーションし、さらに球形の不思議な展望台が設けられた建物は建築家レンゾ・ピアノが設計、6年の歳月をかけて完成した。500億円以上とされる建設費用のほとんどは米国の映画・エンタテイメント界の企業・個人を中心とした寄付である。米国の映画芸術を讃える殿堂だ。
このオープニング杮落としの目玉企画に「宮崎駿回顧展」が組まれている。『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』『魔女の宅急便』といった宮崎駿監督のアニメ映画の資料300点以上を並べた“空前”の展示会だ。
米国の映画業界を祝祭する重要なシーンでの日本のアニメの巨匠起用は、「宮崎駿」が映画業界、そして現代カルチャーを代表する存在だと示している。同時に米国映画芸術科学アカデミーが宮崎駿の持つ「大衆性」に、オープニングに相応しい動員を期待する思惑も垣間見える。
宮崎駿の経歴は華やかだ。2002年にベルリン国際映画祭で『千と千尋の神隠し』がアニメーション映画として初めてグランプリにあたる金熊賞を受賞。翌03年には米国アカデミー賞・長編アニメーション映画賞に輝く。
以後も『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』など、新作をリリースするたびに大ヒット、国内外の映画界を賑わせてきた。
2013年には大戦前の日本を舞台に大人の恋を描く『風立ちぬ』を撮り、70歳を超えてなお変わり続ける才能が多くの人を驚かせた。その公開直後に発表された引退宣言、さらに引退宣言の撤回と話題もこと欠かない。現在は吉野源三郎の小説『君たちはどう生きるか』を原作に再び長編アニメの制作に挑む。完成は2022年以降とみられるが、一挙手一投足の注目の高さは依然変わらない。
しかしなぜ宮崎駿は、世界でもこれほど有名なアニメーション監督になったのだろう。いまでこそ誰でも知る巨匠だが、もちろんキャリアのスタートから世界、日本でも広く知られていたわけではない。そもそも大卒入社時の役職はアニメーターで、当初は演出・監督を目指していなかった。宮崎駿がどのように世界で名前を知られるようになったのか、大回顧展開催を機に初期のキャリアから辿ってみたい。
東映動画を退職、渡り歩いた制作現場
宮崎駿は1941年東京生まれ、学生時代からアニメ、マンガに高い関心を持っていた。長編アニメ映画『白蛇伝』に感銘を受けて、学習院大学卒業後にアニメーターとして東映動画(現東映アニメーション)に入社した。
以後60年近くアニメ制作に携わる。東映動画入社後から才覚を示し、なかでも先輩で盟友とされる高畑勲と共に、日本アニメ史上に輝く傑作となった『太陽の王子 ホルスの大冒険』が初期の大きなキャリアだ。
その高畑との出会いが後の人生を大きく変える。
当時、東映動画は制作の中心を長編劇場映画からTVシリーズへと舵を切っていた。納得のいかない高畑勲は1971年に東映動画を退社、高畑に誘われた宮崎駿も同社を離れる。その後、2018年に高畑勲が亡くなるまで、2人の盟友関係は続く。
新たな創作を求めて東映動画を辞めた宮崎駿だが、制作環境は安定していなかった。
移籍直後に所属したAプロでは『パンダコパンダ』に参画、その後は『アルプスの少女ハイジ』はズイヨー、『未来少年コナン』は日本アニメーション、また『ルパン三世 カリオストロの城』は東京ムービー新社と制作現場を渡り歩くかたちだった。
本格的な演出は1978年の『未来少年コナン』となる。米国の小説『残された人々』を原作にした冒険SF作品である。『未来少年コナン』には、その後の宮崎駿監督の特徴がでている。
原作から離れ、オリジナルなストーリーが展開するのもそのひとつだ。絵のうまさだけでなく、ストーリーテラーとしての才覚を発揮する。
また「テーマ性」と「エンタテイメント」の両立も挙げられるだろう。視聴率は高くなかったが、NHKが本格的に取り組んだ初の30分枠アニメ、ゴールデンタイムの放送ということもあり、時代と世代を代表するアニメになっていく。
『未来少年コナン』の経験が、1979年の『ルパン三世 カリオストロの城』での監督起用につながる。初の長編監督として演出のキャリアを広げた。ただ『カリオストロの城』の制作期間は極めて短く、ハードな制作体制を強いられた。こうした環境を覆そうとするエネルギーが、逆に熱量の高い作品を生み出した。
本作はアニメ関係者や一部のアニメファンに高評価だったが、シリーズ前作の『ルパン三世 ルパンVS複製人間』と比べて興行数字を大きく落とす厳しい結果となった。初期の監督作品はいずれもビジネス的には必ずしも十分ではなかった。『カリオストロの城』は後に何度もテレビ放送が繰り返されることで、普遍的な人気を獲得していった。
『風の谷のナウシカ』の誕生
宮崎駿の名前が知られ、作家性が注目されるのは『風の谷のナウシカ』以降だ。1984年公開の『ナウシカ』は、当初アニメ雑誌「アニメージュ」(徳間書店)の連載漫画から始まった。世界観やデザイン、ストーリーといったアイディアは宮崎駿の頭から生まれる。
しかし『ナウシカ』の映画制作も順調だったわけではない。80年代は漫画原作がなく、当たるかわからないオリジナルの劇場アニメ企画を通すのはハードルが高かったからだ。当時「アニメージュ」の編集者で、後にスタジオジブリをともに立ち上げることになる鈴木敏夫は、そうであれば原作から作ればいいと『風の谷のナウシカ』の連載を始めた。
漫画連載は映画公開後も続き、完結は連載スタートから12年後の1994年。2021年には世界各国で翻訳出版され、累計発行部数は1200万部を超えている。映画とは異なる結末、複雑なテーマが盛り込まれている漫画は、映画だけでない宮崎駿の表現者としての才能を示す。
映画はヒット作となり好評を博した。オリジナル作品、原作も手がけたことで宮崎駿の認知も増す。鈴木敏夫の狙いどおりである。
個性を消された米国の『風の谷のナウシカ』
『風の谷のナウシカ』は、80年代当時すでに海外向けに番組販売されていた。しかしその扱いはいまの宮崎駿の立場からは想像もつかないものだった。
映画を購入したニュー・ワールド・ピクチャーズは新興映画配給会社で、主な仕事は低予算映画やB級映画の配給だ。配給権が低価格で購入できる海外映画にも積極的だったのである。
ニュー・ワールドの『ナウシカ』の扱いは褒められたものではなかった。低価格の海外映画のひとつとしての位置づけだ。利益が取りやすく、SFアニメーションであれば文化の違いも観客に感じさせないとの思惑もあっただろう。ニュー・ワールドが求めたのは、大衆受けするSFファンタジーアクションだった。
1986年の劇場公開では、そうしたニーズに合わせるための大幅な改変がなされた。タイトルは『Warriors of the Wind(風の戦士たち)』に変わり、ポスタービジュアルもアクションバトルが強調される。上映時間は116分から95分に大幅に短縮された。
ニュー・ワールドの改変は後年、多くの研究者やファンから批判されるが、当時は日本アニメを改変するのは一般的であった。むしろ改変が容易なことが、日本アニメの魅力のひとつとの見方もあった。スタッフどころか日本産であることを表示することもない時代である。
『風の谷のナウシカ』のオリジナル版の北米リリースは、ウォルト・ディズニーが北米配給権を獲得する2005年まで待つことになる。しかし旧作でもあり、その時も大きなプロモーションはなかった。
作品がようやく広く知られたのは、2012年に配給権がGKIDSに切り替わった後である。GKIDSは世界の良質な映画に特化した中堅配給会社で、作品選びの確かな目とマーケティング、プロモーションのうまさに定評がある。現在はスタジオジブリ全作品の配給権を持ち、北米展開になくてはならない存在だ。
GKIDSは2017年にオリジナル版『風の谷のナウシカ』を北米でリバイバル公開。また今年は『ルパン三世 カリオストロの城』も公開する。宮崎駿の初期作品発掘に意欲的だ。この2作品は今回のアカデミー映画博物館の宮崎駿展での上映プログラムにも含まれている。
『NEMO/ニモ』で海外進出も
80年代に世界に知られていなかった宮崎駿だが、それでも海外との接点は早い時期からあった。
宮崎駿の初の海外渡航は、1971年のスウェーデンである。当時Aプロで企画が進んでいた『長くつ下のピッピ』のアニメ化の許諾を取るためにプロデューサーの藤岡豊と現地に赴いた。結局『ピッピ』のアニメ化許諾は下りず、企画は実現することはなかった。宮崎駿も、当時名前も知られていないスタッフの1人だったのだ。
70年代末に制作が始まっていた日米合作映画『NEMO/ニモ』でも海外に関わりがあった。原作は米国コミックの開拓者ウィンザー・マッケイの伝説的な傑作『リトル・ニモ』である。当時アニメーションでの海外展開を考えていた東京ムービーのプロデューサー藤岡豊は、これをテレコム・アニメーションによる海外合作の長編映画にすることで世界進出を目指した。
当時勢いのあった消費者金融のレイクがスポンサーになり、破格の55億円もの製作資金を投じた大作だ。制作にあたり日本、アメリカ、ヨーロッパから煌めく才能がロサンゼルスに集められたが、そのなかに宮崎駿、高畑勲、大塚康生らの姿もあった。
しかし共同製作の枠組みの難しさから多くのクリエイターが途中離脱、宮崎駿、高畑勲も本作に参加することはなかった。それでも当時の海外関係者とのやりとりは、宮崎駿にグローバルでのアニメーション制作での印象を残したはずだ。後に長い友人関係を続けるジョン・ラセターと初めて出会ったのもこの頃だ。ラセターは『トイ・ストーリー』をはじめピクサーとディズニー両スタジオで数々の世界的ヒット作を生みだすが、宮崎駿からの影響をたびたび語っている。
当時宮崎駿はアメリカの漫画家リチャード・コーベン原作の『ROLF』のアニメ化企画にも携わったが、結局これも実現しなかった。その後1984年に放送されたイタリアとの合作『名探偵ホームズ』だけが宮崎駿の海外共同制作作品になる。
一方の『NEMO/ニモ』は長い時間をかけて1989年に完成、日米で公開したが興行は厳しく、興行収入は製作費を大きく下回った。日本と海外の共同制作ビジネスの困難さを示す例となる。
ベルリン国際映画祭で一躍名を挙げる
『風の谷のナウシカ』の制作後、宮崎駿のキャリアは大きな転換を迎える。1985年のスタジオジブリの設立だ。『ナウシカ』を制作したトップクラフトを発展的に解散、これを母体に高畑勲と宮崎駿のクリエイティブを実現するスタジオを目指した。設立には『ナウシカ』でプロデューサーだった鈴木敏夫が大きな役割を果たし、鈴木の出身会社である徳間書店が出資した。
トップクラフトは1972年設立、北米からの制作受注に特化したスタジオだった。それを引き継いだジブリだが当時は海外を意識した形跡はなく、むしろ海外受注から国内長編映画に体制転換する。
『魔女の宅急便』『もののけ姫』の大ヒットもあり、90年代には国内で宮崎駿の知名度と人気は一般層に到達する。一般メディアでも作品の批評や分析が載るなど、評価はすでに固まりつつあった。
しかし海外での評価は、2002年のベルリン国際映画祭が転換点と言っていいだろう。『千と千尋の神隠し』が日本映画として39年ぶりに金熊賞に輝いたのだ。アニメーション映画の受賞は初。ベルリンは数ある国際映画祭でもカンヌと共に飛びぬけた存在なだけに、その受賞はサプライズと共に受けとめられ、宮崎駿の存在は、日本だけでなく世界でも一気に知られるようになる。
しかしこの時期に『千と千尋の神隠し』が、ベルリン国際映画祭のコンペティションにあがったのは、幸運だけではない。宮崎駿の名前は90年代を通じて世界の映画ファンの間に静かに広がり、コンペティションに選ばれるための評価が築かれつつあった。
『カリオストロの城』の英語版は『風の谷のナウシカ』ほどではないが、やはり改変を含むかたちで1992年に日本アニメを専門とするストリームライン・ピクチャーズが米国でビデオリリースした。ストリームラインは続いて93年に『となりのトトロ』をフォックスビデオからリリースしたがこれが転換点になる。『となりのトトロ』は60万本の大ヒットになったのだ。宮崎駿の観客はアニメファンから一般層に移り始める。
このヒットにディズニーが関心を示し、98年に『魔女の宅急便』をビデオ発売、99年にはディズニー系のミラマックスで『もののけ姫』が北米公開される。ディズニーのネットワークもあり、宮崎駿作品を観る映画人は増えていく。
映画祭では通常、数人の審査委員が合議で受賞作を選ぶ。審査委員の作品に対する熱意や想いが反映される。さらに映画祭にはイノベーターが新しい才能をそこで見つけ、世界に引き上げるトレンドセッター的な役割もある。こうした理由が重なり、宮崎駿は世界で評価されるべきと、ベルリンで見つけられたのだ。
日本では米国アカデミー賞の長編アニメーション映画賞の受賞も、業績としてよく引き合いに出される。ただこれもベルリンの影響が大きい。
米国アカデミー賞は「映画祭」とは受賞作品決定のプロセスがかなり異なる。アワードは何千人ものアカデミー会員の投票で決まるため、幅広い知名度とブランドが必要となる。アカデミー会員でも必ずしも多くの映画を観るわけではないし、アニメーションではさらにその傾向が強い。ベルリン国際映画祭のサプライズな受賞で、作品が広く知られて注目度が上がったことは間違いない。世界での宮崎駿の評価の起点は、ベルリン国際映画祭にあったと言っていい。
宮崎駿は何が素晴らしく、何が評価されているのか?
宮崎駿のこれほど高い評価は、そもそもどこから生まれているのだろうか。何が人々の心に響くのだろう。
ひとつは物語やテーマの複雑さにある。『千と千尋の神隠し』には善悪の明確な対立は設定されず、『もののけ姫』では正義の所在も結末も曖昧だ。
ディズニーなどのハリウッド作品は「良き人間であれ」といった教訓的なテーマがストレートに打ちだされる傾向がある。しかし、宮崎駿の長編アニメーションは芸術性と強いエンタテイメント性を兼ね備え、観客として成人を想定している。当時の欧米ではこれが驚きだったかもしれない。新しいアニメーションの発見だ。
スタジオジブリが劇場映画にこだわってきたことも評価につながっている。海外では映画監督の評価は「まず劇場映画」という風潮はいまでも強い。映画祭が重要な場所になる理由だ。日本では珍しい長編アニメ映画にほぼ特化するスタジオジブリの形態が、宮崎駿を映画監督として評価することを有利にしているのだ。
さらに海外のプロデューサーやスタジオとのつながりもある。長く続くジョン・ラセターや英国の老舗のコマ撮りアニメーションのスタジオ・アードマンとの信頼関係。欧米のアニメーション界でイノベーターとされる人々からの絶賛は、宮崎駿の人気と評価に大きな力を発揮した。
彼らの絶賛には、手描きによるアニメーション制作も大きな要素になっている。スタジオジブリの評価の高まりは、世界で手描きアニメーションが急激に姿を消していった時期と重なる。失われると思われた技術が、スタジオジブリでは咲き誇っていたのだ。
スタジオジブリの新たな道
世界で高い評価を受ける宮崎駿とスタジオジブリだが、ジブリ自身は長い間世界を目指していなかった。海外各国でのビジネスパートナーも、利益よりは信頼関係が第一に選ばれている。海外プロモーションもパートナー任せで、自らが作品を積極的に売り込むことはない。商品ライセンスやイベントなども、もっと大きな展開も可能だったはずだ。
『千と千尋の神隠し』も含めて3度あった米国アカデミー賞のノミネートで、宮崎駿が一度も授賞式に出席しないのはその象徴である。自分から出るのでなく、外から引っ張られ海外に広がっていく。2000年代初頭まであった他の多くの日本アニメに共通する特徴だ。
海外への積極的な展開は宮崎駿の引退宣言以降、むしろいまのほうが大きい。2020年の北米でのジブリ全長編作品の配信開始、中国での映画公開もここ数年の出来事だ。
今回の米国アカデミー映画博物館の回顧展も、スタジオジブリの全面協力がなければ不可能な企画だ。背景には日本アニメを取り巻く環境の変化もあるだろう。すでにアニメの視聴者の大半は海外にいる。アニメを作ることはそのまま海外発信に直結し、海外へのプロモーションも、日本のそれと地続きである。
ビジネス的な理由もあるかもしれない。宮崎駿監督の次回作『君たちはどう生きるか』はすでに制作スタートから4年以上が過ぎた。制作予算も膨らんでいるはずだ。いまや日本アニメの大作は海外市場も見通さなければなかなか回収できなくなってきた。それは宮崎駿ほどの監督でも無縁ではない。そうであれば海外への積極的なアプローチは必要だ。
そして2022年にはスタジオジブリのテーマパークといえる「ジブリパーク」が愛知にオープンする。ことし80歳を迎えた宮崎駿とその作品を国内でも海外でも、将来にわたって持続させる、そんな意図も感じられる。アカデミー映画博物館の回顧展も、そうした一連の活動のひとつに見える。
次作『君たちはどう生きるか』も含めて、宮崎駿が世界の映画史のなかでこれからさらにどのように位置づけられ、綴られていくのか。今後もその関心は国内外で続きそうだ。