前編記事『なぜ「読解力崩壊」は放置し続けられるのか…じつは多くの人が誤解している「国語力」の意味』で見たように、若者の「国語力」や「読解力」の低下はこれまでずっと指摘されてきた。
社会の要請があったにもかかわらず、“適切”な国語教育が行われてこなかったのは「国語力」や「読解力」の定義が曖昧なままだったからだ。
「国語」「読解」は新しい言葉である
「国語力」「読解力」の意味に揺れがあるのは、仕方のないことでもある。
というのも、そもそも我々が使っている「国語」や「読解」という言葉は、比較的最近に「作られた」言葉だからだ。
突然だが、皆さんは「国語」という科目はいつから存在していると思うだろうか。
「国語」としての日本語は日本の歴史の最初から使われているのだから、「教育」が行われているときから「国語」があったと思う人もいるかもしれない。しかし、それは違うのだ。
歴史上、「国語」という科目が誕生したのは、1900年である。その年に行われた小学校令改正という法律の変更があったときのこと。なんと、「国語」といういかにも古臭そうな言葉は、まだ120年ほどの歴史しかないのである。
かつて、現在の国語にあたる科目は「読み方」や「綴り方(つづりかた)」、「作文科」などと呼ばれて、分かれていた。江戸時代の寺子屋では「読み、書き、そろばん」を習う……というのはどこかで聞いたことがあるかもしれない。ここでも「国語」ではなく「読み・書き」と分かれている。「国語」はそれらをまとめた新しい「概念」としては生み出されたのだ。
そして、「読解」に至ってはもっと新しい。言葉としては、「国語」が生まれたのと同じ1900年あたりにすでに存在していたらしいが、用語として定着したのは、戦後の1950年頃のことだ。わずか70年、言葉としては赤ちゃんぐらいの年月しか使われていない(幸田国広『国語教育は文学をどう扱ってきたのか』)。
「国語」も「読解」も、言葉としてまだまだ若いからこそ、さまざまな意味を見出せてしまう。だから、立場による定義のズレは避けられない。「国語力低下」「読解力低下」という論調には、そうした罠があるのだ。