この画像を大きなサイズで見る「あの老人ホームで死ぬくらいなら、野原で息絶えた方がまし」そんな強い決意をもって、老人介護施設から脱走したのは平均年齢85歳の3人の修道女たちだ。
彼女たちが目指したのは、オーストリア、ザルツブルク郊外のふもとに、ひっそりとたたずむ古びた修道院だ。
かつて数十年を我が家として暮らしたその場所は、長らく放置され、電気も水も使えず、半ば廃墟と化していた。
それでもどうしてもそこに戻りたかった彼女たちは、元教え子たちと鍵屋の助けを借りて、修道院への再入居を果たし無断で住み始めた。
この行動に対し教会当局は強い不満を示しているが、修道女たちは喜びでいっぱいだという。もしかしたら「修道女たちのランページ」とかいうタイトルで映画化決定しちゃうかもしれない、そんな実話だ。
突然の退去命令、介護施設へ
2025年9月初頭、オーストリア・ザルツブルク郊外の古い修道院「シュロス・ゴルデンシュタイン(Schloss Goldenstein)」に、3人の高齢修道女が姿を現した。
ベルナデッタさん(88歳)、レジーナさん(86歳)、リタさん(81歳)は、かつてこの場所で数十年を過ごした最後の修道女たちでもある。
この建物は、1877年から修道院兼女子校として使われてきた歴史ある施設で、現在も学校として運営が続いている。
ベルナデッタさんは1948年に生徒として入学し、のちに教師として勤務した。レギナさんは1958年に修道院に入り、その4年後にリタさんが加わった。
3人とも長くこの学校で教鞭を取り、レギナさんは校長も務めた。しかし修道女の人数は減り続け、2022年、修道院の運営はザルツブルク大司教区とアウグスチノ会のライヒャースベルク修道院に引き継がれることになった。
だが2023年12月、3人は修道院から退去を命じられた。彼女たちによれば、何の説明もなく、本人たちの意思は無視されたという。
「私たちは何も聞かされなかった」とベルナデッタさんは語る。「ここで最期を迎える権利があるはずなのに、それが奪われたのです」
その後、3人はカトリック系の老人介護施設へ移されることになった。しかし、そこでは強いホームシックに悩まされることになる。
この画像を大きなサイズで見る脱走を決意、教え子と鍵屋の手を借りて再び修道院へ
2025年9月初旬、ベルナデッタさん、リタさん、レギナさんの3人は、ついに決意を固めた。かつての教え子たちと連絡を取り合い、施設を出て、修道院に戻る計画を立てた。
だが、なんとか修道院までたどり着いたものの、と鍵はすでに変えられており、中に入ることはできない。そこで教え子たちは鍵屋を手配。3人はついに、再び修道院の扉を開いた。
建物には電気も水道も通っておらず、長年放置されていたため荒れ果てていた。それでも3人は、そこでの生活を再び始めることの喜びの方が大きかった。
「私は人生ずっと従順でいたけれど、もう我慢できなかった」とベルナデッタさんは語る。
この画像を大きなサイズで見る支援者の助けで再び始まる修道院での暮らし
修道女たちの生活を支えているのは、かつての教え子たちだ。非常用発電機や飲料水、日用品、さらには医師まで手配してくれている。
当初は電気も水もない状態だったが、現在では一部が復旧し、最低限のインフラが整いつつある。
彼女たちは修道院を「終の棲家」にするために日々の努力を怠らない。
昇降機のない階段を手すりにつかまりながら慎重に上り、詰まった流しを自ら掃除し、荒れ果てた礼拝堂を丁寧に拭く。そして日課の祈りを欠かさない。
この画像を大きなサイズで見る日々の暮らしはInstagramで発信されており、ミサの準備や質素な食事、階段を慎重に上り下りする様子などが投稿されている。
フォロワーはすでに1万人を超え、多くの人々が彼女たちを応援し、その暮らしを見守っている。
教会側は大反発
だが教会側は修道女たちの行動を認めたわけではない。
ザルツブルク大司教区のマルクス・グラースル大司教は、「まったく理解できない」「エスカレートした行動だ」と非難。
「修道院の部屋は居住や介護に必要な条件を一切満たしておらず、修道女たちの健康状態は非常に不安定だ。ここでの自立生活は不可能」と断じている。
また、「介護施設では専門的で良質な医療ケアが提供されていた」と強調し、修道女たちの希望も一定程度は尊重してきたと主張している。
また、現在修道院の管理を担っているライヒャースベルク修道院も、「介護施設への帰還は避けられない」とする教会側の立場に歩調を合わせている。
だが修道女たちは断固として退去を拒否しており、ベルナデッタさんはBBCのインタビューで次のように語っている。
「あの老人ホームで干からびるくらいなら、野原でぽっくり逝った方がマシ」
例えボロボロの修道院でも、青春時代を過ごしたこの場所を3人は気に入っており、今の暮らしに満足しているのだ。
追記(2025/09/21)2025年を誤って2024年と記載していたため、訂正して再送します。
References: Defiant nuns flee care home for their abandoned convent in the Alps / Three Rebellious Nuns Escaped a Nursing Home to Return to Their Old Convent
















結末はどうあれ、映画化して欲しい
日本も「死ぬときは病院や介護施設より自宅がよい」という人の割合がそれなりにいるそうです。
介護施設で不適切な支援(虐待とか)がないとしても、やはり一番落ち着くのは生まれ育った故郷や自宅なのでしょうね。
うちの曾婆さんは都会(横浜)に出てた伯父に引き取られたが
「住みにくい」って東北ド田舎のポツンと一軒家に逃げ帰ってそこで一生終えた。
友人の母親もそうだった。孤独死だったけど、子供たちに迷惑をかけずに旅立ったって。
女性の方が肝が坐ってるのかなぁ
場合によるね
自宅介護が限界で心中が毎年数十件起きてるし
老人ホーム入れるだけで勝ち組の時代では
年初に4aの癌で1ヶ月程入院し、
家に帰りたいという親を、自宅で3ヶ月程介護して看取ったよ。
色々大変だったし、喪失感まだ残ってるけど、
家族としては最善尽くしたと思ってる。
「ラスト・ミッション~不自由への脱出」とかタイトル付けたくなる
幸福ってつくづく人それぞれなのね
映画化決定!
老人ホームの老人たちによる破廉恥行為や嫌がらせがなかったようでよかった
ほのぼの記事かな
>脱走を決意、教え子と鍵屋の手を借りて再び修道院へ
映画化待ったなし
あたいたちは天使じゃない
え~ キャストは ジェーン・フォンダ ヘレン・ミレン メグ・ライアン
社会正義のパラドクスなんだと思うわ。
市民は弱った老人を見捨てるのは正義に反するとして教会や行政に文句を言う。世俗の生活を捨ててる誓いを立て何十年もがんばってきた修道女達からしたらソレは人生の完全否定でしかない。でもそれは市民や教会や行政が弱った老人を見捨てる悪にする行為。
で、修道女3人が我儘だって事になっちゃうんだよね。3人が我慢すれば自分達は可愛そうな老人を見捨てた悪にならないで済むから。可愛そうな老人を助けた正義に感動できるから。
教会本部が信仰よりも優先すべきものがあると考えるのがそもそも終わってる。
そんなだから修道女の人数も減っていくんだよ。
じゃぁ修道女が信仰を優先して他人の敷地で好き勝手することを教会は許して良いわけ?
この人たちは病院のベッドで点滴と呼吸器をつけて最後を迎えるより、
修道院で最後をむかえたいだろうし
せめて介護施設ではなく、別の修道院に移すべきだろ
(若い世代の修道女に少しでも教えを伝えてほしいとかなんとか説得して)
修道院の管理であって運用ではないって所が反発を生んだんだろうね
後任の修道女がいたのなら説得できていたのかもしれないのに
信仰に生きて最後はそこから引き離されるのは納得はいかないよな
もう最後を考える時期なのだから介護施設はいやだというならしょうがないじゃないか
俺も老人ホームみたことあるけど本当になにもできない場所だからなあそこは
老朽化した他人の建物に自分勝手な理由で居座る老人を放置している状態やで? 自分の家の玄関前に信仰を盾にした老人が居座っても「しょうがない」で放置できる?ご近所の目も気にせず居られる? 話を聞いた同類がいっぱい押しかけてきたら?
社会的には正しいのは教会の方なんだよ。だけどその正しさはこの3人の人生そのもの否定になる。だからって信仰だから老人だから「仕方ない」で許したら他の人も許さないといけなくなる。
社会という空気が「老いた修道女を保護すべき」ってことですね。 こんなことを書いてはあれだけど、あと 20 年、長くても 30 年経てば一人になって不自由になると思うわけで本人たちが望むまで教会は待ってもよかったんじゃないかなと個人的には思うわけです。 そもそもスタートが誤っていたのだとね
老人ホームが何も出来ない場所なんでなく、入所する頃には自活・独居が出来ず能動的に行動できない人がほぼだからですよ。家庭で自分の面倒看させたら家族の人生奪うって理由で行く人もいるだろうけど。
独居の孤独死は悲惨ですよ?田舎だと誰が何で死んだかわかる事多いし、後始末に組内の耐性ある若いの集められたりするけど、安らかな最後迎えた人なんて極わずかよ?
(多分自殺だよな~)は4割越え、誤えんでテーブルに突っ伏して…風呂場で素っ裸で…とか結構ある。
布団の上に死んでてもテーブルの上のカレンダー切って作ったメモに、びっしり世の中に対する怨みつらみ書いてあったりね…
だったら老人ホームで同年代の話が合う人と暮らした方がマシって人も多いと思うけどね、本当は。
でも後期高齢辺りの老人は老人ホーム行くって考えにはネガティブで、家族のお願いで民生委員なんかが説得しても結局聞かんよね。
マイナスついてるけど理解できる
日本の神社は場所やら方角やら重要だったりするがキリスト教はどうなんだろう?
その地を離れたら信仰できないというのであれば是が非でも戻るというのは理解できる
聖地と定めた場所から遠く離れても信仰を失わず神に仕えるのが信者であり信仰というなら、この修道女たちは道を誤ってるとも言える
信仰はさておき、単に長年暮らした場所に戻りたいと言うのなら物凄く理解できるが、人様の土地家屋なら勝手にしちゃ駄目だろうし
敬虔な信者なのか最後に我を通そうとしている老人なのか合わせ技なのか
あと信仰理由に法やマナー犯すと弾圧のルートに突入するよね
その気概は素晴らしいけど、土地の持ち主は改修や建て直しで土地の利用も出来ないし、不法侵入もしている。賛美して終わっていいわけないし、
正当な権利を持つ人には不満がたまる酷い話だよね。
お婆さんだから許されているし、彼女達は思いやりも遵法精神もないよ
気持ちわかる。施設なんて絶対入りたくないね。
孤独死なんていうけど、一人をなぜ孤独と決めつける?
私は自立死したい。
こういう所が何百年かして「聖地」とか呼ばれるようになったりするんだろうか
世が世なら三人とも聖人とされたかもしれんね。
そこまで元気なら、修道院の管理人にでもしてやったら良くね?
こういう老人から人生の張り合い取り上げちまったら、たちまちボケちまう。
修道院の所有権や帰宅手段の不法はどうであれ、3人の希望を教会は聞き入れてもらいたい。
今の世は若い修道女になると新約聖書に反してベールも被らない修道女も居る中で、ベールと修道服に身を包む経験な修道女ではないか。
さらに修道会の戒律は修道会によってピンからキリまであるが、教会のはからいによって小さな修道院を見物した際にそこの修道女から聞いた話しでは深夜でも何回か寝床から抜け出して聖堂で祈りを捧げる期間もあるとかで、もし老人ホームでそれをやられたら他の同居の老人達にはたまったものではない。
一般のカトリック信徒でさえ今日金曜日は肉食は断たねばならない教会則がある。老人ホームの集団生活で自分だけ別の食事をと行くわけにはいかない。
そして、カトリック信徒の私は晩御飯に唐揚げを美味しくいただきました。主イエズス・キリストよ、ごめんなさい。
介護してほしい人、他人にやってほしい人が施設に入って、自分でやろうと思う気持ちがあってある程度できてるなら自立して暮らせばいいんじゃないかな
日本の田舎のお年寄りだって100歳近くても元気な人は山で暮らしてるでしょ
老人ホームって小綺麗で快適そうなんだけど死ぬほど退屈しそうなんだよね。入居してる祖母にたまに会いに行くけどいつもロビーの椅子に座ってボーっとしてる。絶対に痴呆が進行する。
施設でひどい目にあって逃げたんじゃないなら良かった
そもそも「介護される」ということ自体人間の尊厳をある程度捨てないと受けられないわけだから、それそのものが精神的に耐え難いってことはあるよね…
姥捨て山も一説によれば老人らがワイワイ集まり、自立した生活を送ってた
という一種の楽園だった説もあるし、今回もその説に沿ったものかもな
しかも自分らで自立し生活しなきゃいけない世界だとぼけるなんて出来ず
意外にいいところかもね
いろいろ考えさせられるエピソードですね。
ところで修道院の名称、直訳すると「金石城」となりそう。
中高のほんの6年しか過ごしていない全寮制の学校の建物を、ババアになった今でも時々懐かしく夢に見る。
青春時代から老齢までほぼ一生を過ごした場所ならなおさらなんじゃないかな。
大司教も、そこ住める環境じゃないし法的にアウトだから遺憾の意を表明してるけど、強制執行してるわけじゃないし好きにしれって本音があるかもしれないね
自分はカトリックだけど、このシスターたちに拍手を送りたい。豪州の教区も教会も保守的なのが違和感。寄付を募ってでもこの修道院とシスターたちを守る手段はあったはず。このシスターたちはかつて教職に就いていたということで、修道会の中では教員免許を持ってると地位が高く、ぞなざぃな扱いを受けるとは驚いた。修道生活の基本は祈りと労働で、日々のおつとめを何十年も続けてきた人たちが施設に強制的に入所とはとても悲しかったのでは。近年、洗礼志願者も修道者も減り、少子高齢化の波が及んではいるが、彼女たちの行いは素晴らしいと感じた。気になったのは記事の中の「ミサの準備」という言葉だが、「朝の祈り」「夕の祈り」の準備では?もちろん司祭がミサをあげに来てくれるだろうが、教区と対立した関係で円満にミサをあげに来てくれるのか疑問。救いなのは教え子たちが協力してくれていることだね。教区も見習ってほしい。
散々突っ込まれてそうだけど、オーストリアね。
感情的には彼女らに共感できる話ですね。しかし無断で居住を強行しているのは良くない。その修道院は広い視点で見たら、十分な役割を果たせなくなっていたのだと思う。介護施設よりも修道女として最期を迎えたいという彼女らの気持ちを尊重し、かつ管理側の労働環境管理の事情も汲むならば、”その”修道院に戻りたかった彼女らには申し訳ないけど、高齢者向けの十分な設備の整った別の修道院に移してあげるのが現実的な妥協点だと思う。無理やり介護施設に移ることを矯正すれば、修道女をやめさせたいと思っていると思われても仕方ないよ。
信徒だけど、年齢的にできなくなることは当然増えていくと思う。だがたいていの場合、異動させて同じ修道会の他の修道院で晩年を迎えたり、最期は病院や施設でというケースが多い。また系列外の修道院で受け入れたりというケースもある。この修道会の分布がわからないけれど、高齢化で成り手がなく年寄り三人になり、ほかの修道院が似たような状況だったり、異動先が見つからなかったとか事情はありそう。カトリックは共同体を重んじるので、体が動くうちは最期まで修道生活を続けた方がいいのかと。もちろん見守りは必要で、今後周囲がどのように見守り支援するか気になるし、続報があれば知りたい。それと聖職者は身上調査があり、この司教は左遷になる可能性があるね。昔は隠匿できたけど、今は厳しくなって問題起こせば左遷される。事実自分の教区で司祭が信徒にパワハラ行為で左遷された。
他者に迷惑をかけるような認知症にでもならない限りは、
最期まで「どのように生活するか」は本人の希望に沿うべきだと思う。
不治の病気にでもなれば病院で亡くなるだろうし。
元気なままならピンピンコロリで逝くだろうし。
老化で栄養の摂取もままならなくなるようなら、
そのまま衰弱死を選ぶ権利はあって当然だと思う。
いずれにしても「覚悟」が肝心
>入居してる祖母にたまに会いに行くけど
>いつもロビーの椅子に座ってボーっとしてる
>絶対に痴呆が進行する。
本当にこれ。
施設の中では日々の生活のハリがない、頭も使わないからね。業者はきれいごとしか言わないけど。
ワシも現在進行形の問題を抱えておる。 施設側とすれば介護される人がおとなしくしていてくれるに越したことがなく、職員も楽に仕事が出来ればベストという事実は動かしがたい。
それを外国人労働者に背負せて切り抜けようとする現状は、いつか日本社会にツケが回って来る。
まあ現実問題として、バリアフリーにもなっていないであろう修道院で年老いた修道女三人が暮らしていくのは無理があるっていうのはその通りでしかないんだよね。
記事内で貼られてる動画では階段の昇降機を撤去されて手すりに掴まって一生懸命階段を降りてる姿が映されてる。その事に非難してる人も多いけど、その昇降機を使う電気代は誰がまかなうのか。誰かメンテナンスをするのか。それを考えたら自分は安易に教会側を非難できない。
この修道女達3人のためだけに古びた修道院を最適化させ、修道女達の面倒を見るのにも費用がかかる。
本人達は自分は修道女なのだから、不便な生活も構わないし病気になったって運命に身を任せるという覚悟はあるかもしれない。でも今は宗教家が宗教家らしく死ねる時代じゃない。
「そこじゃないと駄目なんだ」という気持ちはよくわかる。でもそれを支えなければならない立場の人達の気持ちもよくわかるよ。
そもそも3人が退去させられたとき「何も聞かされていなかった」のが問題では?
教会側の事情と彼女たちの心情をちゃんとすり合わせて、説得ないし妥協点を探る手間を惜しんだ結果ではないだろうか。
教会は会社でも役所でも無い、人々の信仰の為の組織だからこそ信者の心に寄り添って欲しいと思うのは唯の理想論だろうか?
信徒だけど、一方的に強制的に退去させられたのが問題ですよ。一昨年フランシスコの時に大々的なアンケート調査や改革を進めるために話し合いなど行われたし、今は教会もコンプライアンスを重視しているし、バリアフリー化も進めている。豪州の教区のやり方はありえないわけです。まずは三人や修道会の本部、支援者たちと話し合いをするべきだったし、敷地内にゆとりがあれば寄付を募り三人のための小さな建物を用意するとか、方法はあったのでは。ほかの土地の修道院に異動するのが嫌なら、今の修道院の建物の近くにバリアフリーの建物を用意する方法もあるかと。そうすればこの三人も納得したのかと。話し合いの不足は問題ですね。騒動が大きくなればバチカンの方でどう対処するのかある意味興味がある。司教も司祭もおとがめなかったらそれはそれで問題。
これだけ手厚く支援してもらえるって事は本当に教え子達に慕われてたんだな
映画化が実現したら観に行くね。
2025年9月なのか、2024年9月なのか。
あと、長年放置ってあるけど2025年だとしても強制退去から2年も経ってなくない?
咽び泣いた
人生って素晴らしいんだ。
彼女たちが笑顔でカーテンコールを迎えられることを遠くの国から祈ってます。
ラピュタのドーラママ思い出した。
「40秒で支度しな!」
「女は度胸だ。お前たち、援護しな!」
病院の個室みたいな老人ホームじゃなく、ケアハウス的な住居を用意してあげられなかったんだろうか。
自分の食事は自ら用意したり、周囲の目を気にせず修道女としてのお務めを果たせる環境があればこんなことは起こらなかったのかも。
彼女らの希望を伺うこともせず老人ホームに強制収容したんだろうな、としか思えないわ。
宗教観の違いが大きいんだろうけどここまで純粋を貫き通すのは日本ではどうしても見られないなぁ
その昔、介護施設なんか無かった時代はどうしてたんだろうね?
後輩シスターが介護士の代わりをしてたのかな?