見出し画像

今、英語を喋らないのは損をしている

マーカスとダニエルとは、ゴールデン街のバーで二年前に知り合った。
ゴールデン街には大勢の外国人観光客がやってくる。

そんな彼らと色々な話ができるのも、ゴールデン街の面白いところだ。これまでに僕は、欧州の量子物理学者やジョーク本の著者、ロンドンの機関投資家なんかと出会った。アメリカ海兵隊や海軍兵も居た。

AI翻訳が発達したおかげで、街のバーテン達はあっという間に英語で会話できるようになった。それは、いざという時は翻訳機をつかえばほぼ完璧なニュアンスで意思疎通できるようになったという安心感があるからである。

中でもとりわけ仲良くなったのがこのマーカスたちだ。彼らは二年前、シカゴのハイスクールの仲間たちで揃って日本旅行を楽しんでいた。毎日のようにゴールデン街で飲み歩き、「最高の店を教えてくれ」とせがんだ。僕が最高の店は東十条埼玉屋しかないと教えると、彼らは翌日飛んでいって、その足でゴールデン街に来て、「確かに最高の店だ!」と大興奮していた。

トチオンガーがたまたまその日東京に来ていて、紹介すると、翌日栃尾まで出かけていった奴もいる。とにかくフットワークが軽いのだ。

マーカスは去年は一人で来て、今年はダニエルと来た。これまで知らなかったが、彼らはエンジニアで、アニメオタクだった。

中野ブロードウェイに連れて行くと目を輝かせて喜んでいた。

「なあリョウ、もしここに置き去りにされても、俺はここに何週間でも居たいよ」

俺は英語の専門教育を受けていない。英会話スクールに通ったこともないし、学校で英語の成績が良かったわけでもない。ただ、俺は21の時に初めてパスポートを取ってから、いきなりレドモンドの会社のエンジニアと話をしなければならなくなった。発音はデタラメだし、もちろんLとRの区別なんかつけられるわけもない(未だにできない)。それでも会話しなければ仕事にならなかったから、できる限りの表現を使って会話した。

会話というのは、知識でするものではない。フィーリングだ。文法がめちゃくちゃでも、伝わることが大事なのだ。

マーカスとダニエルと日本のあちこちを歩いてみると、意外なほど日本人が、英語で話しかけることを躊躇していることに気づいた。普段ゴールデン街にいると、大学も出てないバーテンが臆せず英語を喋っている。彼らはもともと英語が得意だったわけではない。東京オリンピック、そしてラグビーワールドカップで世界中から観光客が押し寄せ、やむにやまれずスキルとしての英語を覚えただけだ。しかし立派に会話が成立している(まあてんでダメな爺さんもいるにはいるが、爺さんだからAIが使えないんだ)。

ある時、馴染みの店に顔を出すと、一人しかいない客が、バーテンの女の子にスマートフォンの画面を見せていた。この町ではよくある光景だ。

彼はしばらく何度かスマートフォンに書いては女の子に見せるということを繰り返して、それから諦めたように店を出ていった。

「どうしたの?」と聞くと

「彼、ずっと私を口説いてたの。」

「え?Google翻訳で?」

「そう。韓国語しか喋れないんだって。せめて英語ならもう少し会話できたんだけど」

要はガッツだ。たとえダメでも、意思疎通できることが大事で、今はAIが自由に使える。翻訳に関してはAIは時には人間の通訳よりずっといい。

AIのおかげで、海外の論文を読むのが恐ろしく楽になった。
昔は、俺の価値の半分くらいは、英語の本を読めることだった。これだってただのガッツであって、英語が得意だったわけじゃない。学生時代のアルバイトで、誤訳だらけの300ページの下訳を渡されて、全て書き直したことがある。レドモンドの会社のスライドも、あるイベントひとつ分、丸ごと日本語訳は俺が書き直した。それはただ英語ができるだけのやつにはどだい無理だからだ。

例えば3Dプログラミングで出てくる「eye」は「目」と訳してはいけない。「視線」または「視点」だ。それがどちらなのかは文脈によって決まる。

プロの翻訳者でも、「eye vector」という言葉を「目ベクトル」と訳してしまう。これでは意味が通じない。「視線ベクトル」と呼んで初めて意味を成す。つまり、目からその物体をどのように見ているか、という文脈ナラティブが背景にあって、それが「eye vector」を「視線ベクトル」という翻訳にさせるのだ。

ちなみに今、文脈に「ナラティブ(narrative)」というルビを振ったが、これもただ英語が得意なだけな人間が同じ訳をするのは難しい。普通は、文脈と言えば、コンテキスト(context)だからだ。

ではなぜ今俺は、敢えて辞書的に間違った訳語をルビにしたのか、それは、ナラティブの方がより実態に近いからだ。

辞書なんか同人誌のようなものだ。どんなに偉い先生でも、英語の発明者でも日本語の発明者でもない。決める権利などない。誰にも正しい訳語など決めることは出来ない。より正しく伝わると思う表現を使うべきなのだ。

つまり、翻訳とは二次創作なのであって、辞書も当然、そうだ。英語に少し詳しい人なら日英辞書など使わない。英英辞典で語源や文脈から意味をつかもうとする。辞書には誤解や間違いも沢山ある。東大の大学院の授業を受けて良かったと思ったのは、そういう習慣が身についたことだ。訳は自分で考える。そのために両方の言語についてできる限り深く学ぶのだ。その背景、ナラティブを。そして翻訳をするときには、言葉の背景にある著者の真意を読み取らなければならない。そのためには、著者と同じくらいその問題に詳しくなくてはならない。

かつての俺の価値の半分は英語の文献をビビらず読めることで、もう半分は当該分野の技術に誰よりも詳しいということだった。少なくともその時点では。

ところがAIによって、俺の価値は半減したとも言える。英語の文章を読むのに今更ビビるプログラマーはどこにもいない。AIを使えばいいからだ。なんなら要約までしてくれるし、NotebookLMなら論文をネタに動画を作ったりPodcastで教えたりさえもしてくれる。

AIは俺よりも遥かに英語にも技術にも詳しいので訳そのものを間違うことがまずない。英語ができることしか取り柄のない日本語話者の人間(そんな人間は掃いて捨てるほどいる)の価値はもはやほぼゼロになった。これはあまりにも不都合な真実なので誰も敢えて指摘しない。

でもそれでも英語は話したほうがずっと良い。それはなぜか?

ここから先は

5,472字

¥ 300

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
1,000円分のAmazonギフトカード
が当たる!