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サッカーのサポーターはなぜ問題を起こすのか?

「サッカーってほら、ファンの人が怖いじゃない」

サッカーをほとんど観戦したことがない知人の女性が、サッカーの印象としてこう語っていたことがあります。

自分は実際にスタジアムに行ってるし、他の怖くないサポーターを多く知っているので、彼女の印象が必ずしも正解ではないことを知っています。

しかし、定期的にサポーター同士の諍いや、チームとサポーターのトラブルが起きているのも事実であり、そのたびに、「Jリーグでまたトラブル」的な見出しで報道されることも知っています。なので、彼女の印象はある意味正解と言わざるを得ません。

他のスポーツでは、サッカーほどファンのトラブルというのは起きてないように見えます。ファン同士のSNS上での諍いはよく目にしますが、少なくとも、選手のバスを囲んだり、試合後にスタジアムに居残って監督と選手に説教したり、発煙筒を焚いたりはしません。

なぜ、サッカーでは頻繁にこういうことが起こるのでしょうか。1件、2件だったら、頭がおかしい個人がやったということにもできますが、毎年のように複数の問題が起きているので、それはさすがに無理があるかと思います。

繰り返しになりますが、大前提として、ほとんどのサポーターたちは善良で問題を起こしません。むしろ、そういう人たちの中から、なぜ問題を起こす人が生まれてしまうのか。個人が悪いというよりは、そういった人々を定期的に生み出す構造的な要因がサッカーにはあるのではないか、というのが今回考えてみたいテーマです。

ストレス過多のスポーツ

まず、1つの原因としてサッカーの競技特性があります。以前に「なぜサッカーファンは審判を責めるのか?」という記事でも軽く触れたように、サッカーというスポーツは、応援するにはストレスが大きいスポーツです。

「得点数が少ない=1つの得点・失点の価値が大きい」、「試合数が少ない=1試合の勝敗の価値が大きい」という2つのサッカーの特性が、昇降格制度があることによってクラブの将来へと直結します。1つのゴール、1つの判定、1つの試合がより重要になる割合が他のスポーツよりも強いんですね。

また、試合の間隔も長いため、負けた場合にはそのストレスを1週間背負わなければいけません。こういうスポーツを応援し続けるのは、結果にかかわらず、観戦者にとっては非常にストレスフルです。私はサッカーファンは全員マゾヒストであるという仮説を提唱しましたが、学会を追放されました。

煽り煽られるカルチャー

次の大きな要因として、サッカーを取り巻く文化があります。サッカーでは相手チームを挑発することが推奨されています。もちろん、他のスポーツでもありますが、サッカーでは段違いに多いでしょう。降格しそうなチームに「J2 〇〇(チーム名)」と集団で連呼したり、移籍していった選手を盛大にブーイングしたり、鳥栖や磐田を田舎と罵るということが頻繁に起こります。一般的な日本のアマチュアスポーツでは対戦相手を尊重することが求められますが、プロスポーツ、特にサッカーにおいては、尊重の側面もあるにはありますが、煽りの方が色濃いと言っていいでしょう。

普通に実生活で同じことをやると殴られますが、ことサッカーの応援に関してはそういう「文化」ということでお互いに了承し合うこととなっています。そもそもサッカーは欧州・南米から持ち込まれたという経緯があり、それに倣うという形ですね。始まりがそうなので、そのカルチャー自体の是非は問いません。

この文化においては、スタジアムにおいていかにクールでクレバーに相手を煽るかということが評価基準となります。横断幕でうまいこと言ったり、いいタイミングで皮肉っぽく応援歌を歌ったりとか、そういう感じです。

確かに、思わず言われた方も苦笑いするしかないようなピンポイントシュートが決まると、かっこいいですよね。欧米のサッカーシーンでも思わず唸るようなセンスの揶揄を見ることも度々あります。

ただ、それが決まることってなかなかないんですよね。正直、煽りが綺麗に決まってるのって1%以下なんじゃないでしょうか。元日本代表長谷部のミドルシュートが決まる確率よりも低いです。たぶん、ヨーロッパでも目にするのはセンスがいいものだけで、その何倍もしょーもない煽りが転がっているはずです。

そうなると、ユーモアがなく、結果として単なる罵倒が存在することになります。また、たとえピンポイントで面白かったとしても、それはそれで聞いてる方としては気分は悪くなりますよね。しかし、それを止めることはできません。なにせ「文化」なので。つまり、サッカーを観続けると「煽りを恒常的に受け止め続けなければいけない」というストレスフルな構造になっているんです。

真顔になる人

それでも、大半の人は「そういう文化だから」ということで流していくわけですよ。日常的に煽り合っていたたとしても、慣れちゃえばそんなに気にならないわけです。慣れるのがいいのか悪いのか知りませんが。

しかし、中にはその文脈を理解できずに、真顔になってしまう人がけっこうな数います。煽り・煽られというのをカルチャーとしてではなく、本気で受け止めてしまうわけですね。センスのある揶揄だっとしても、煽りにしか捉えられない。こういう方は常に一定数でてきますし、度を過ぎれば一個人の中でも時と場合によって真顔になってしまうこともあるでしょう。許容量ってものが、人間にはありますからね。理解はしていても受け入れがたい、そんなこともあるでしょう。

おそらく私なんかよりずっと純粋で真面目にチームを応援している人なんだと思います。しかし、その純粋さゆえに、煽りは単なる敵対・加害行為にしか見えないんですよね。彼らはじっとストレスを貯め続け、怒りを深めます。「煽り合い」というハイコンテクストな文脈を理解して許容することって、実は相当難しいんですよ。いきなり言われて、はいそうですか、と受け入れられるものでもないので、彼らを責めることはできないですよね。

こういった人たちが潜在的な危険分子となります。彼らはストレスが溜まればどんどんと危険度を増していきます。

所属の表明

上記のようなカルチャーを持つサポーター集団においては、定期的に「自分はサポーターである」ということを表明する必要が出てきます。簡単なのは「怒り」ですね。相手は敵チームでも審判でも、なんなら自チームのフロントでも選手でも構いません。

これはSNS上ですぐに見られます。たとえばファウルじゃないという判定をされた動画を切り取ってあげて、「これがファウルじゃないって本当?」と呼び掛けて審判を叩いてみる。あるいは、他チームのサポーターの発言に噛みついて、「こんなひどいこと言ってるぜー」と自チームの界隈にアピールする、みたいなムーブですね。

なぜこんなことをするかというと、「自分はあなたたちの味方ですよ」と仲間内にアピールするためです。また、そうやって怒りを見せないと「お前はほんとに〇〇サポなのか」みたいな無言の圧力がかけられることもあります。ちなみに私はジェフ千葉の相手に対して全然怒らなかったり、千葉に不利な判定だけど妥当だね、みたいなことをSNS上で言っていたら「エセ野郎」みたいなメッセージが来ました。こんにちは、エセ野郎です。

この表明で怖いのは、内心では「(うーん、実はそうでもないんだけどな)」とか思いながらも自分からこういう発信したりしていると、あっという間にリアルな怒りに引き込まれていくことです。それがたとえ本心からでなくても、怒りを表明しているうちに、だんだんその言葉に人間は引きずられていきます。書いてるうちになんかそんな気がしてきた、みたいなことよくありますよね。

また、敵チームに対して怒りを表明すると、相手から攻撃されるというのもあるあるですね。まあ、相手も人間だし、当然そうなります。相手から攻撃されると、最初はネタだった怒りが本物に変わっていきます。

それがSNS上だけだったらいいんですが、実際にスタジアムでも「サポーターであること」を見せる必要があるわけです。それは相手へのブーイングであったり、罵声であったり、あるいは横断幕だったりするわけですね。やり合ううちに怒りは増幅され、上記の「真顔の人」が増えていく中で、行為はどんどんエスカレートしていきます。

自分たちがクラブを支えているという幻想

このように怒りが増加していったとしても、普通はどこかでストップがかかるわけです。相手の観客席に殴り込んだら問題になるし、発煙筒焚いたらダメだってこともわかるんですよね。だって、禁止されているし、捕まるので。それでも、サッカーファンはやってしまうことがある。なぜ他のスポーツではその直前で止まっているのに、サッカーではやってしまうのでしょうか。

その最後の一押しが「クラブのために」という大義名分です。バスを囲んだり、敵クラブのエンブレムを汚したりという行為が、自分たちのクラブを守るために必要な行為だと我々には全然思えないのですが、少なくともやってしまう当人はそれが必要だと思い込んでいます。そう思い込んでしまうのは、「自分たちがクラブを支えている」という矜持があるからです。

ホームもアウェイも欠かさず駆けつけ、試合中は飛び跳ねて声を張り上げて応援し続ける。そうやってクラブと一緒に戦っている、自分たちこそがクラブを支えているという思いがあるからこそ、ラインを踏み越えることは正義になります。それがたとえルールに反しているものであっても、いや、ルールに違反しているからこそ、よりクラブに殉ずる行為にさえなります。

彼らが忠誠を誓っているのはクラブという概念のため、攻撃するのは相手チームとサポーター、審判に限りません。自分が応援しているクラブのフロントや選手も普通に対象になります。不甲斐ない成績を残してクラブの顔に泥を塗っているのは、フロントや選手の頑張りが足りないから(と思っている)です。そう思っているからこそ、「試合が終わった後にサポーターが社長や選手をゴール裏に呼び出して説教する」というサッカーファン以外から見たら意味のわからない状況が頻繁に起こるのです。

もちろん、サポーターがチームを支えているという側面もあります。応援は確かにチームを後押しするでしょうし、毎試合入場料を払ったり、グッズを買ったりしているのはチームの助けになっているでしょう。しかし、サポーターはあくまで客です。サッカーというエンターテイメントをお金を払って見ている客という存在以上のものにはなりえないし、それ以下にもなりません。試合をしているのは選手であり、監督であって、試合を運営しているのはクラブのスタッフたちです。一緒に戦っているというのは、あくまで比喩的表現です。しかし、その「サポーターは一緒に戦っている」という概念は、サッカーサポーターの間では、一般的に広く受け入れられています。

クラブとサポーターの共犯関係

問題を起こすたびに罰金を取られたり、謝罪をしているのに、なぜクラブはそれを根本的に止めないのでしょうか? 煽り合いを完全に防止することはできなくても、「あなたたちはあくまでお客さんですよ」というメッセージを送ることは間接的に可能ですし、時間をかけて適切な距離感を作ることはできるでしょう。

しかし、クラブはそれをやりません。むしろ、積極的にチームとサポーターたちは一緒に戦っているということを肯定します。クラブ側の提供するメッセージや演出も、そもそもサポーターと共に戦うということが大前提となっていて、勝利を共に味わい、敗北も一緒に受け止めようという姿勢を打ち出しています。

これはサポーターの当事者化と言えるでしょう。サポーターを当事者にすることは、クラブ運営においてかなりのメリットがあります。まず、安定した観客動員が見込めることです。一緒に戦うためには、現地に行かなければいけません。雨が降ったり風が吹いたり彼氏ができたりしたらスタジアムに行かなくなるような客と違い、彼らは万難を排してスタジアムに来ます。なんだったら彼氏も連れてきますし、夕方の試合に朝から来ます。

また、お金を落とします。毎シーズン、ユニフォームを買うだけでなく、期間限定のユニフォームも買い、その他グッズにも金に糸目をつけません。スタジアムに早めに来てスタグルを嗜み、終わった後には周辺の飲み屋で反省会をします。一見の客に比べたら1人当たりの単価はまさに桁違い。

スタジアムを熱狂的にするのも大きな役割です。チャントを歌い、ブーイングをして、試合前から非日常空間を形成して、サッカーを興行としてよりスリリングなものにしてくれます。まあ、試合によっては自チームのディフェンスのほうがスリリングだったりもしますが。

さらに、有事の際にはクラブを守ってくれます。たとえば、SNSで批判された場合には、団結して攻撃者に反撃するでしょう。たとえクラブに責任があったとしても、躊躇なく相手をせん滅しようとしてくれるのです。

この当事者化によって、クラブは利益を得ることができ、サポーターも自分たちの「一緒に戦っている」という主張に正当性を獲得することができます。つまり、クラブとサポーターはWin-Winなんですね。クラブとサポーターは一種の共犯関係にあるのです。

この共犯関係の中で、ごく一部のサポーターはクラブと同一化して先鋭化していきます。そして、何かのきっかけで、問題が起こります。

まとめ

このように、サポーターが問題を起こす背景には、サッカーの競技特性、煽りをよしとする文化、自分たちがクラブを支えているという矜持、さらにはその文化をクラブがよしとする共犯関係があります。

問題が起こった時には、それを起こした犯人を捜し、罰せられます。確かにやってしまった罪は咎められなければなりません。しかし、問題を起こした当人を「やり過ぎだ」とか「自制心がない」と責めるのは当然ですが、それが現状のサッカー文化の下で不可避的に生まれたものだということも理解できるかと思います。彼らは加害者ではありますが、構造的には同時に被害者でもあるのです。

この関係を維持しているクラブがいいかどうかというのは、また別問題です。ただ、この共犯関係を解体する方向に持っていくことは簡単ではないでしょう。まず、集客として当事者化したサポーターにかなり依存している面が強く、その構造をすぐに変えることはできません。ペルソナとして想定しているのは現在のサポーター像でしょうし、広報・マーケティングなどへの影響も非常に大きくなります。

また、サポーター側でも今まで「一緒に戦おうぜ!」というメッセージを受け取り、実際にそのように行動しているのに、急に「あ、お客さんは座っててね」と梯子を外されても、困惑してしまうでしょう。もしやったら、ストーリーの劇的な変更によって、かなりの数のサポーターが反発・離脱することが予想されます。問題が度重なれば、サポーター内での自制という動きもでるかもしれません。しかし、自制すること自体が根幹の思想と矛盾してしまうので、効果は限定的になることが予想されます。

他にも色々な切り口があるかと思いますが、こんなところが現時点で考えたことです。現状では、このままの路線で突き進むしかないでしょう。何か問題が起こるたびに処罰がされるでしょうが、それはあくまで対処療法でしかありません。現状のサッカーという興行を盛り上げている構造自体が、問題を起こす原因となっている以上、そう簡単に解決できないと思われます。まあ、解決する必要があると思ってる人は、もしかしたら誰もいないかもしれませんが。

とりあえず、現時点では、以上です!

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