なろう系はなぜ『人気でつまらない』のか(2025)
(長いよ! 短く説明して! という人向けの雑文章は以下の通り)
なろう系が流行する以前からWeb小説は二次創作を中心に、素人が読者に向けて直接的に発信し、大量消費されるコンテンツだった。そのため、即物的・短絡的な欲求・読者の後ろ暗い欲望に傾倒しやすく、アングラな性質を持ち、商業作品とは異なる独特の文化圏を形成していた。
後の人気作品の原作ですら例外ではなく、決して表に出せないような欲求の発散を第一目的とした“快楽装置”としての色が強かった。
テーマや物語をメインとして、そこに快楽的な面を添えているのではなく。読者の薄暗い快楽が重視される場所で、快楽を原点として作劇が作られ、消費されていた。
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そこに不況の出版社が目をつけ、Web小説の人気作品を次々と書籍化・漫画化・アニメ化し、局所的なヒットを元に大々的に売り出した。
しかし、アングラな界隈で生まれた原作であるが故に大衆向けの再構築(脱臭)が足りず、それ故にコミカライズ化・アニメ化でヒットしたはずの有名作品ですらアングラ文化に基づく原作の内容(舞台類似性、主人公が気持ち悪い)が大衆消費者のヘイトを買った。
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そしてこれらの作品のヒットから、ヒット作の成功を狙う素人作家がWeb小説投稿サイトに大量に流入し、人気作のフォーマットをひたすら模倣した「目立つこと」にばかり特化したテンプレ作品が量産されるようになった。その結果、元からアングラで歪な環境ではあったが、そこからテンプレを好む読者だけが残り、それ以外の読者層は離脱。
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こうして、新しい作品や流行が生まれなくなり、Web小説というコンテンツは閉じコン化。すでに衰退フェーズを通り過ぎ、このままでは某動画サイトのように劣化を続けるだけとなる。
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この状況を打開するには、Web小説投稿サイトはそこにいる読者の(権威や言論の介在しない)評価を直接的に拾いすぎる構造を改めることと、新規参入の敷居を上げつつ、作品とユーザー層の多様性を確保する必要がある。また、出版社は目先の利益や欲に捉われて「人気順」で素人の書いたネット小説を拾い上げ、勢い任せにひたすら売り出す手法を見直すことができなければ先はないのだがSNS・YouTube・TikTok・Web漫画・Vtuberなどが読者の時間を奪っている現状、運営・出版社側も「今さらWeb小説だけで勝てる」とは思っていないため、本気で投資をしていない。
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Web小説というコンテンツ発信媒体は衰退を続けており、過去の遺産を切り売りしてるだけの限界産業となりつつある。
なろう系小説・なろう系アニメはなぜ普及するのか。
なろう系はなぜ「気持ち悪い」と嫌われて、つまらないと批判されるのか。
結構ブレがちな『なぜ』を解決するために、この記事ではやたらと批判されがちな『なろう系』がここまで蔓延する理由と、同時に批判されてしまう理由。そしてその二つを通じてWeb小説の現状や今後を考察している。
なろう系が嫌い、不快であったり、なろう系のアンチになっていたり、なろう系にヘイトを抱えていたり、なろう系にうんざりしているユーザーが『言語化できない負の感情』に振り回され『短絡的な罵詈雑言』を吐いてそのまま終わってしまわないように、なろう系が評価される理由やサイトを取り巻く環境や構造的な面など様々な観点から考察を行っている。
なろう系小説・アニメが流行する理由と、それが『つまらない』と貶される理由を理解すれば、短絡的かつ感情的な批判や罵倒で終わることなく。冷静な議論ができるようになるかもしれない。
・この記事で言いたいことまとめ
現代は、情報やコンテンツ(アニメ、漫画、ゲーム、映画、音楽、動画、スポーツ、小説、ゴシップ、社会問題など)が大量に溢れ、高速で模倣・消費され、見切りをつけられ、捨てられていく時代である。
本記事の内容が読者にとって「興味深い」または「有意義」であるという保証はどこにもないため、先に筆者の考えを先に簡潔にまとめることにする。
①Web小説はアングラで独特の文化を持っている
そもWeb小説はアングラな文化圏で発展してきたため、大衆が消費する商業作品とは根本的な部分で価値基準が異なる。
Web小説で人気を得た名作ですら、必ずしも一般大衆に受け入れられるとは限らない。「なろう系=気持ち悪い」と批判される背景には、Web小説が根本的に持つ「世間の価値基準との乖離」があるのだ。

↑Web小説の文化は、上記の画像ほど極端な例ではないにせよ、
アンダーグラウンド性、独特のカルチャーによる内輪文化、そしてオタク的な距離感の喪失、社会普遍的な価値観とは乖離した消費者の後ろ暗い欲求・快楽を叶えるための舞台装置といった要素を多分に含んでいる。
つまり、Web小説というコンテンツは、もともと一般社会の価値観とは異なる「独自の文化圏」で発展したものであり、世間的な偏見を受けやすい層のユーザーが強い影響力を持ちやすく、その狭い場にいる読者に対して直接的に好まれる作風に傾倒しがち。
そのため、Web小説というコンテンツへの評価は単なる作品の質や流行の問題ではなく、文化的背景やコンテンツの成り立ちそのものが関係している。
つまり、「名作なら面白い(売れている)から許されるが、粗製濫造された駄作が問題」という単純な話ではないのだ。
日本のトレンドであるWeb小説という文化の潮流そのものがアングラなものであり、大衆からの評価や偏見を受けやすく。そういう環境でヒットしうる(生き残れる)作品は大衆的な価値観と摩擦を起こしやすい性質を持っていると言える。
(自分の好きな作品を貶されるのは不快かもしれないが、この部分を取り違えてはいけない。特にアニメ化や商業化によって“脱臭”された後に触れた層は、その摩擦を感じにくいだけだ。なろう発祥の人気原作の多くは、物語や世界そのものが快楽と自己慰撫の構造でできており、キャラクターも展開も「作劇のため」ではなく自己愛をなぞるための装置として存在している。
その結果、感情の循環は作者と読者の間で完結し、世界は外部に開かれない。 この自己愛的な循環構造こそが、外部から見ればどうしても“キモい”としか言いようのない湿度を放ってしまう。 少なくとも、Web小説という文化は、あの規模でヒットすれば「そりゃ文句も言われるよね」と思われても仕方がない程度には、社会的文脈から切り離されたまま肥大化した閉鎖的世界観を内包しているのである)
②こうしたアングラ性を持つWeb小説文化の下地がある中で、ライトノベル出版社は目先の利益を優先し、売り上げが安定しそうな作品を優先的に出版する戦略を取った。
つまり、固定層の支持を得ているWeb小説を、人気順に拾い上げ、そのアングラ性を気にせず大々的な商業展開をしたのである。
「小説家になろう」発の作品は、Webサイトで応援している固定層や、もともとかつてのライトノベルの人気ジャンルを愛好する層が購入するため、編集者が介入せずとも一定の売り上げが見込める。
そのため、出版社はサイト内評価が高い作品をそのまま出版し、売れるだけ売るという戦略を取った。
売り上げが保証される作品は、同じ理由で漫画化・アニメ化され、さらに市場へと広がっていった。
こうした流れによって、もともとアングラ的な要素を多く含んだWeb小説作品が、大衆向けに大々的に売り出されるという矛盾が生まれ、後の批判や反発へとつながっていった。
(似たようなケースは他にも存在する。狭い界隈から大人気になって、後続のヒット作も出てファンが増えていく流れは昨今のVtuberなどでも同じものだ。
しかし、これらのコンテンツの抱える問題は共通していて、その大元の土壌がアングラで、消費者の欲望に過度に迎合&依存しているという部分だ。
後から大衆向けに商業展開されるにつれて、多少は脱臭されることで、後から好きになったファンももちろんいるのだが、このようなコンテンツ群はどうしても元々の“キモさ”が残り香のように漂ってしまうため批判が続く)
③ヒット作の書籍化・アニメ化の流れを受けて小説家になろうのアクセスは年々増加。
Web発祥の人気作品が話題になることで、無名のユーザーが大量に流入し、書籍化や商業的ヒットを狙うようになっていった。
注目度を重視する作者達が、大ヒットした人気作品を模倣し、似たような作品が大量に生まれる。
次第に内容そっちのけで、「小説家になろう」の評価システムに迎合し、読者の関心を惹いて、目立つことだけを重視した低品質な模倣作品が次々と執筆されていくように。
結果、元からアングラ的な要素の強かったWeb小説の傾向がさらに先鋭化し、極端な内容や歪な構成の作品が大量発生。
サイトや界隈全体が、共通の類似性を持つ作品群に埋め尽くされるようになる。結果、人が集まれば集まるほど、サイト内の多様性は失われ、特定のフォーマットの作品ばかりになっていった。
④上記の②(出版社の商業化戦略)と③(サイトの評価システムから発生した模倣と先鋭化)のループが繰り返されることで、独特の構造を持つ「なろう系」の作品群はさらに量産される。
それでありながら商業化の流れは止まらず、世間一般の創作基準を経ることなく、アニメ・漫画などの異なるフォーマットへさらに進出していき、一つのジャンルに収まりきらないほどの衆目を集めるようになった。
⑤このような流れで「なろう系」が衆目を浴びた結果、流行の初期段階ではWeb小説の源流にある偏った価値観(隠しきれなかったアングラ性)が批判の対象となった。
次に、粗製濫造による低品質な作品の増加により、似通った作品群が大量に長期間にわたって世に出続けたことで悪目立ちし、さらに批判されることとなった。
元から腫れ物だった『なろう系』という言葉のイメージは年々悪化、特にウェブ上では完全に蔑称となってしまっており、作品のジャンル問わず「なろう系」というくくりで批判されるようになってしまった。
結局のところ、「なろう系」の“つまらなさ”は、個々の作品の内容そのものよりも、以下の二つの要因によって生じる「創作評価のギャップ」から生まれている。
Web小説というコンテンツのデザインや歴史
元々アングラ的な文化空間の中で形成されたため、(有名作品であっても)大衆向けの創作評価基準とは相性が悪く、目立てば目立つほどアングラ読者が好む価値観が批判される。
小説投稿サイトの「注目度重視」の評価システム
年々作品の質よりも「瞬時に読者の興味を引くこと」が重視されるようになった。その結果、似たような展開や設定が繰り返され、テンプレ化が進行。
これにより、作品の個性や深みが失われ、全体的に「浅くてワンパターン」な印象が強まってしまったことによる全体イメージの悪化。
そして、現在はそういった環境に適応できた作者・読者だけが自然と生き残っているというだけの話でしかない。
むしろ、Web小説の外にいるユーザーが好むような隠れた名作のような扱いをされている作品は、Web小説の歴史から紐解くと「人気を博して参入母数が増えたが故に、一時的に登場した少数派」なのである。
そして粗製濫造が繰り返された結果、かつての巨大で一時的なブームも過ぎ去り、熱意を持って最新のWeb小説トレンドを本気で支持しているユーザーはほとんどいない。(故に目の前のなろう系ユーザーに対して、怒ったり批判して攻撃をするのは議論を行う上ではあまり本質的ではない)
サイト内部で模倣を繰り返した結果、元から歪だったWeb小説というジャンルは時間をかけて読み込む従来の小説よりも、次々と安心できる展開を流し見するファスト動画のような形式に傾倒していってしまっている。
その結果、それ以外のジャンル・書式の(非テンプレートな)作品を取り扱う、流行ではなく作品の内容で勝負するユーザーは評価を受けられなくなり、次第に淘汰されていくようになる。
マイナーな作風やジャンルに関しては、そも「潜在的な読者」達が界隈に見切りをつけてそのほとんどが出ていってしまったため既に存在しておらず。新しい大きな流行がそこから一切打ち上がらなくなってしまった。
(動画や配信サイトなど、他の創作プラットフォームでも似たようなことが起こっている。新規参入するユーザーが増加すると、人気のコンテンツにぶら下がって、注目されることだけに過剰に特化した、似たような低品質のコピーコンテンツが増加し続ける。圧倒的な物量がコンテンツの多様性や全体の質を次第に低下させていき、次第に誰も彼もが同じことを繰り返し続けるだけになってしまい。それを漫然と消費できるユーザーのみが生き残って環境の支配者となってしまい次第に廃れていく)
⑥『小説家になろう』の経営母体であるヒナプロジェクトは30~40人でやっている小規模な会社。
広告収入を得るためにサイト全体のアクセス数の「確保と維持」を行うことが最優先であり、たとえアクセス数が多少減少したところで、固定費リスクは低く、経営への直接的な圧迫は少ないため危機感を感じる必要がない。
経営的な危機を感じていない限り、運営者がサイトを率先して改善することはまず起こりえない。大改革よりも現状維持を優先し、たまにヒット作が出れば十分という保守的で現実的な判断をしていると考えられる。
男性ユーザー層から女性ユーザー層の入れ替えこそあったが、結局は現状維持をするだけで運営規模に見合わないような利益が出続けている。
そのため大きな改善は今後も期待できない。
つまり、現行のサイトデザインや評価システムに意見を言うだけ無駄である(なのにサイトの運営に過度な期待をしすぎているユーザーがとても多い)。
⑦「小説家になろう」というサイトが消えても、なろう系は形を変えて生き残る
仮に「小説家になろう」というサイトがなくなったとしても、Web小説というコンテンツの本質は変わらない。
Web小説はもともと、
参入の敷居が低く、素人や創作能力の低い若年層が読者に向けて、直接的に、大量に投稿する
作品の面白さが保証されないまま、読者がスマホで高速に取捨選択し、隙間時間にスナック感覚で消費する
という特性を持っている。
さらに、Web小説は誕生した当初から「世間一般のメジャーな創作」とは異なる、編集者を介在しないアングラな短絡的・即物的な娯楽として発展してきた。そのため、
大衆にとって不快感のあるアングラな性質を捨てられない
「途中や最後まで読まないと評価できないテーマの深い作品」は誰にも読まれない
読者がすぐに満足できる「注目されやすい構成」の作品が次第に増加する
という流れに必ず傾倒してしまう。
また、Web小説投稿サイトが生き残るための構造にも問題があり、収益を得るためにWeb小説投稿サイトが最も効率よく規模を拡大する方法は「多様性を減らし、ごく少数の看板作品に読者を集中させること」である。その結果、
大量の「売れ筋」を狙う素人作家が集まりやすい環境が形成される
その場にいる読者の短絡的な欲求を土台に構築される「なろう系」作品ばかりが打ち上がる
そこから一度ブームが起これば、模倣が繰り返され、作品の劣化が進む
こうした仕組みの中では、最終的には「読まれること(注目されること)に過剰に特化した極端な構成のなろう系」ばかりが人気になる。
そこから作品の多様性が増えていくことはなく、質は低下していく。
たとえ「小説家になろう」が衰退し、別のWeb小説投稿サイトが覇権を握ったとしても、Web小説というコンテンツの本質は変わらない。
母数の多い素人作品は、人気作品の模倣による「お約束展開」「ご都合主義」「テンプレ」に頼らざるを得ない
素人アングラ文化の強いWeb小説の基本構造、評価環境、収益構造(アフィリエイト方式)が変わらない限り、どのサイトが覇権を握っても「なろう系」の構造は続く
つまり、今後もWeb小説は、①局所的に集まった歪な感性の読者が人気作に群がり、②その模倣と劣化を繰り返すだけの環境が維持されるということになる。
たとえジャンルが変化しても、Web小説の根本的な仕組みが変わらない限り、「なろう系的な作品」のみが評価される状況は今後も続いていく。
⑧大衆読者に対して『世間一般的な価値基準で、名作を自力で選別してもらい評価をするように働きかける』のは完全に無駄な行為。
現在の環境では、「なろう系=低品質でつまらない」という固定観念が蔑称共にすでに定着しており、Web小説のアングラな価値観やコンテンツ構造に適応できなかったユーザーは既に界隈から離脱している(そも、そういったユーザーの方がWeb小説では元来異端かつ少数派)ので、今までと全く違う新しい作品がヒットすることはない。
作者も読者も様々な作品が大量に溢れては高速で捨てられていく昨今の流れに適応するしか手段はない。
作品を掘り上げる存在であるスコッパーも結局は界隈の色に染まっているユーザーでしかないため、今までと全く違うような新しい作品は目につかないし最初から彼らの眼中に無い。
仮にトレンドにとらわれない作品を見つけ出すユーザーがいたとしても、その作品は現行のWeb小説読者層(価値観が偏っているメイン層)から評価を得られない。結果として読者が集まらず、評価も伸びず、やがて新規層の作者が更新をやめてしまう。
なろう系以外のWeb小説作品が評価される手段があるとするのならば、読む前に「面白さの保証」が(読者の好みに合わせて)完璧にされるシステムや、選別する手間すらかけたくないユーザー向けの「レコメンドシステム」の導入くらいであり、どちらも非現実的である。
加えて、現代インターネットは資本主義による自由競争が加熱しすぎた結果、広告収入のためのアクセス数や目先の売り上げばかりを過剰に重視する傾向にある。
そのため、多種多様なジャンルの粒揃いの作品を紹介するサイトよりも、ごく少数の作品に大衆を一極集中させ看板にしているサイトの方が圧倒的な覇権を握って、流行が変わる都度ごっそりと人を減らしながら長期にわたってだらだらと劣化を続けていく。
この流れが続く限り、資本の競争が激化すればするほどその場にいる読者の声に答えるための快楽を土台としたヒット作を皮切りに、次第にフォーマット過剰に適応したわかりやすい『なろう系』がこれからも生まれては死んでいく。(作者も読者もそれが嫌なら諦めるか、Web小説以外の創作ジャンルに手を出した方が良い。Web小説界隈になろう系を受け入れられない人の居場所は存在していないためである)
なろう系が死ぬ(オワコン化する)時は、即ちWeb小説そのものが死ぬ(オワコン化する)時である。
作品には責任を持って語る目線が必要だ。
内輪向けに作られ、名もなき直接的に大勢に持ち上げられただけの作品は、外に出れば「多少翻訳した程度」では気持ち悪がられて終わってしまう。
もし「読者の声をそのまま反映した作品」が本当にヒットするなら、編集者という職業は最初から存在しないはずだ。しかし、現実にはそうなっていない時点で、コンテンツを調整する役割は不可欠だと分かる。
目の前の読者の声を過剰に、直接的に拾うことを是とする環境は、作品を劣化させるどころか、様々な創作媒体の価値を破壊していく。
⑨Web小説に限らず、『アクセス数と連動した広告収入システム』と、『スマホ』が異常に普及した現代は、(他の創作コンテンツでも)面白さの保証がない消費に時間がかかるコンテンツが取り沙汰されるような時代ではない。
創作に限らず様々な分野で、素人の自由な発信が許されれば許されるほど、金銭での利益を得られるようになればなるほど、コンテンツ発信者の競争は激化してモラルも低下する。無秩序な環境でトップの人気作品の模倣が行われることで、コンテンツの全体数が爆発的に増え続け、「資本主義の主役である大衆」に注目されるためのテンプレートが蔓延していく。その結果、消費者の選別や消費が次第に追いつかなくなり、大量の即物的でわかりやすい刺激的な物ばかりがユーザーの目に付くようになっていき、全体の質がどんどん劣化してコンテンツとしての信用を次第に失っていく。(GoogleやYouTubeですら、現在この問題に晒されている)
界隈の間口・すそ野を広げることは肯定的に捉えられがちだが、敷居を無秩序に下げすぎる行為は選民思想と同レベルの悪であり、オタク化とは真逆の方面でコンテンツは瞬く間に腐敗していくし。編集者や第三者の介在しない環境で、読者の直接的な評価に答えようとすると、コンテンツは破綻する。
SNS、動画、配信、イラスト、小説など、インターネット上の発信が自由すぎる様々な創作媒体で『悪貨が良貨を駆逐し続ける現象』は今後も加速し続ける。
これを止める手立てはなく、WEBという自由で無秩序なプラットフォームでは世代が進めば進むほどに、消費に時間がかかるカロリーの高い。テーマが重く深いコンテンツは次第に敬遠されて、ショートコンテンツに傾倒していき、際限なくつまらなくなっていく。
以上、ここまでがこの記事の概要である。
以下は上記の内容をさらに細かく、わかりやすく説明したものになる。
興味を持てた部分だけでも、一読していただければ幸いだ。
・前提として、この記事における「なろう系」の定義について
「なろう系」という概念の定義は人によってあやふやになりがちだが、この記事では「なろう系」は単なるストーリーの型ではなく、Web小説特有の文化の中で発展した独自の潮流を持ち、読者のニーズに応じた特定の特徴を持つ作品群を全て指している。
① 小説家になろう発祥であるか否かは必須条件ではないが、
② なろう系の文化、もしくはテンプレートを『大小問わず』踏襲しているかどうかが重要となる
つまり、なろう系は「俺TUEEE」「異世界転生」「ゲーム的スキル」「ストレスフリー展開」などのいずれか、または複数の要素を持ち、なおかつWeb小説文化の中で形成された文脈を大小問わず持つ作品を指している。
つまり小説家になろう発祥の書籍作品どころか、例え名作であっても「なろう系」と一緒くたに扱っている。
この定義に対して狭いコミュニティで「レッテル貼りだ」と反論する愛好者は少なくない。典型的には、
「どうせきちんと読んでいない」
「人によって好き嫌いがあるだけ」
「人気でも、作品ごとに違いがある」
「名作は“なろう系”とは違う」
といった言い回しで批判を無効化しようとする。
しかし、筆者は当該記事を相応の数の作品を実際に消費したうえで論じており、そこには確かに共通項が存在する(後述)。
だからこそ批判対象として“なろう系”と呼ぶことに意味がある。
はっきり言って、なろう系ではないと断言できるWeb小説作品とは、界隈の中で直接的に評価されていない(そもWeb小説文化や読者に容認されない or 評価の仕組みに迎合していない or 評価システムなどではなく外部のSNSでのバズが主体などの)作品だけなのである。
『自分の好きな作品だけは別だ』と切り離したい気持ちは理解できる。
だがそれは単なる感情論にすぎず、これらの常套句で批判を無効化しようとする態度こそ、批判者に“レッテル貼り”をして封殺しているに他ならない。
・初めに
近年、Web小説投稿サイト『小説家になろう』から書籍化された作品がコミカライズされたり、アニメ化されたりする流れが一般的になっている。
しかし、これらの作品がアニメや漫画アプリで台頭するたびに、作風を問わず(「異世界転生」「追放モノ」「学園モノ」「悪役令嬢モノ」などの)作品が、過剰なまでの辛口批評(時には誹謗中傷)に晒されているように見える。
もちろん、どんなコンテンツでも批判は避けられない。
音楽、映画、動画、漫画、アニメ、ゲーム、小説、さらにはスポーツの試合ですら、多くの人の目に触れる以上、何らかの形で否定的な意見が生まれる。しかし、「なろう系」は他のメジャーな娯楽コンテンツと比べても、特に強い嫌悪感を抱かれやすく、作品のジャンルを問わず一括りにされて嘲笑や侮蔑の対象になりやすい。
近年では、昔から存在していた物語の構造すら「◯◯ってなろう系じゃん」と蔑まれる風潮が生まれており、「なろう系」という言葉自体がネット上では完全に蔑称化している。
「特定の作品がつまらない」などという論は本来は個人の主観でしかないはずなのだが、なろう系は作品単位ではなく「なろう系というカテゴライズ」そのものでつまらないという批判をされてしまっている。
例えば、少年ジャンプ発祥の作品が「ジャンプ系」などという言葉で一括りにネットなどで批判されることはあまり見かけないし、ネガティブなイメージで使われることはない。
「なろう系」という蔑称で批判を受けているということは、そのような作品グループの内容に特定の偏りのようなものがあり、他創作媒体と比較して共通的に批判される部分が明確に存在していることを意味している。
では、なぜ「なろう系」だけがこのように取り沙汰され、特定のカテゴリとして批判されるのか?
なぜ書籍、アニメ、漫画、小説といった様々な媒体で展開される作品群が、これほどまでに厳しい評価を受けるのか?
その理由は、原点となるWeb小説文化や、それを取り巻く環境、評価構造に潜んでいる。
結論から言ってしまうと、なろう系は作品が評価を受けて打ち上がるまでの環境(システム)自体が極端に歪かつ『Web小説という素人色の強い(コアな)文化で生まれている作品群』であるからだ。
そして、そのコアな文化の中で評価された内容や構成のまま大っぴらに世に出回ってしまうため価値観の齟齬から批判が起きやすく、その結果、ジャンル丸ごと過剰な批判を受けてしまうのである。
①小説家になろう発祥の作品は独特の文化を持っている
1.Web小説が根強く持っているアングラな文化について
まず、現在のWeb小説投稿サイトの根底にあるWeb小説文化について致命的な誤解をしている消費者や創作者が多数いるのでこの場を借りて説明をしたい。
そもそも、Web小説文化の最大手、つまり「スタートライン」となる時代の根底には、アングラな要素が常に色濃く存在しており、『大衆目線で面白い作品』を選別して消費する文化など全く無かった。
Web小説は、「誰でも簡単に発信できるWeb環境」を活用し、創作経験のない若年層や素人が、既存のキャラクターや作品をそのまま流用・模倣(二次創作)し、編集者などの第三者のチェックが一切ない環境で、お互いに狭い界隈で即座に消費・評価し合う「刹那的なごっこ遊び」の場として発展してきた。
若年層が無料で消費するため消費サイクルが早くて、読者と作者の距離がとても近く、「道徳的に正しいか」より「面白いか、ウケるか、気持ちよくなれるか」ばかりを優先しがちで、刺激の強い表現が好まれるネット文化との親和性が高く。ノリと空気感を楽しむ色が元来強いのである。
かなり昔から、原作の主人公を大胆にアレンジしチューンナップして無双させる作品や、一次創作で力を持った主人公を描く作品が多く見られた。
また、実在する人物を異世界に転生させるといった設定も人気があった。
これらの作品は「俺TUEEEE系」として親しまれ、読者の強い支持を集めていた。
共通のフォーマットを利用して、素人でも気軽に創作できる文化が形成されていたのも特徴的だった。例えば、ブーン系小説や、やる夫系小説といった形式がその代表例だ。
これらはテンプレート的なスタイルを活用することで、創作の敷居を下げ、多くの人が参加しやすい環境を作り出していた。
同時に、アングラな界隈の主流であった当時の人気作品群を本気で商業に(一般向けに)出そうなどと考えているユーザーは当時存在していなかった。紙で書店に並ぶなどありえないという空気感すらあった。
つまり、歴史を紐解いても商業と比較して、本格的であったり、オリジナリティに富んだ(模倣のパーツが小さく細かな)作品が好まれていない期間の方が圧倒的に長く。素人が主体となり、読み手と書き手の距離が近いWeb小説文化には、独特のアングラな消費者層、オタク的な側面、社会普遍的な価値観とは乖離した読者の短絡的な欲求がどうしても強くなりがちなのである。
この部分こそが、大衆が消費する創作文化とは一線を画する特徴だろう。
そも何故、日本という国は素人の創作文化が『直接的な金銭獲得(個人の独立)』に繋がらないのか?
そして、日本のWeb小説文化、及び個人の創作行為全般が素人文化(テンプレや既存の人気作依存で、無償の応援が中心となり、読者の欲求に迎合しがちで、趣味的創作にとどまりやすい)に傾倒しやすいのには、構造的な理由がある。
『え、個人の創作行為なんて、どこも素人がやることだろう? きちんと金儲けがやりたきゃ、そういう連中で集まって会社でも建てるなり、そういう会社に就職すれば良いのに』
――この考え自体が、実は日本特有のものだったりする。
「企業を介さない個人の創作は趣味であり、仕事にするようなものではない」とする価値観が育まれてきたからだ。
日本では 「プロ」=金を取る存在 だから、完璧を求められる減点方式で評価される一方で、「アマ」は遊び・趣味 と見なされるので、「粗があって当然」「一点でも良ければOK」という加点方式で途端に甘く評価される。
「アマのままなら甘い評価で承認は得られるが、金銭化をするほど、途端に厳しい目にさらされる」ため、個人が独立して創作を職業化しにくい。
さらに、お金を稼ぐことへの抵抗感も根強く、「好きで書いてるくせに金を取るな」という無言の圧力が、昔から書き手に対してプロ意識や対価の追求を遠ざけている。
日本において「好きでやってることに金を取るな」という無言の圧力が存在するのは、“労働とは我慢の対価”という価値観が根底にあるからだ。日本社会では、仕事とは「つらくても社会の役に立つものを、我慢してこなすこと」とされてきた歴史がある。だから逆に、「好きなことをしている=我慢していない」人間が報酬を得ていると、不公平だと感じられてしまう。
特に企業が介在しない個人創作のような「傍目で見ると楽しそうなこと」に対しては、「そんな楽なことで金を取るなんて」と無意識に線引きされる。
加えて、日本の教育や社会構造では、“努力は見せずに黙ってやれ”、“周りと足並みを揃えろ”という美徳が強く、それに反するような自己主張や金銭の要求は「出る杭」として扱われる。
そしてもう一つ、日本には“お金を介すと関係が汚れる”という美意識もある。企業に対しては金を払うにしても、個人単位になると「好きだからやってる」「タダで感動した」が純粋で、そこに金が絡むと急に「商売っ気が出て冷めた」と言われてしまう。
これは“無償の奉仕こそ美徳”とされてきた過去の文化(寺社・職人・部活動など)とも結びついている。

その結果、日本では創作をする素人は「評価されたらラッキー」「読まれたら満足」という姿勢に落ち着きやすく、「素人が企業を介さず(権威を持たずに)直接的に個人としての自立や職業化を目指す」という行為が時代を経ても浮いてしまう。
また、創作とは本来自己表現のはずなのだが、日本という島国では「みんなが読める」「共感される」ことばかりが最優先され、そこから外れるような権威を持たない(有名でない、企業が関わっていないような)作者の独創的な作品のほとんどが、理解される前に拒絶されてしまうのである。
(逆に言えば、本当に「目の肥えた」日本の読者層は、ある程度の対価を支払う場、もしくは支払えるユーザーが集まる場所にしか存在しない。しかも彼らは彼らで、プロに対する極端に厳しい評価基準を持っている)
よって、せいぜい少しだけズラしたテンプレ程度の作品や、既存の人気概念にぶら下がる二次創作ばかりが好まれ、大胆な挑戦は避けられてしまう。
日本における素人の創作文化の特徴は、見かけ上は「自由で誰でも発信できる」ように見えて、その実「共感の空気」と「無償性の美徳」にやたらと縛られており、企業を通さず(権威を持たず)に個人が革新を目指すと浮いてしまう構造にあるわけだ。
もちろん企業やスタジオが文化に革命をもたらすのは世界共通なのだが、国によっては個人がそれに“火をつける存在”として参加できる制度や語り口がある。しかし、日本ではその通路が文化的・制度的に断たれてしまっている。
(そのため、日本の創作は表面上は“純粋”を装っているが、実際にはWeb小説家の構造的な収益モデルの構築拒絶につながってしまっている。結果として表面だけ「純粋で綺麗」に見えるが、しかし実態は収益化の文化・手段が舗装されていないが故に、手段を選ばないユーザーによって読者に迎合し続けた結果、テンプレと即消費に特化したショートコンテンツが氾濫している状態を加速させてしてしまっているのである。※この『コンテンツの粗製濫造問題』については後述)
結果として、多くのWeb小説家は昔から個人での職業化など目指しておらず、①読まれれば満足、②企業の力を介さずに自己主張をすることはまずしない、③その場にいる読者が望んでいるものを直接的に発信するという創作スタイルにばかりとどまり、文化としては広がっていても、個人として力を得ることができず、多様性や専門性、創作の深みや可能性が極めて発展しにくい構造が出来上がってしまっているわけだ。

そう考えると、現段階で個人の独立が成立しやすいイラストなどの視覚的なコンテンツは日本の歴史の中でもむしろ例外的な側の存在なのだろう。
(こちらも結局はテンプレや流行、二次創作にばかり依存しているという点ではWeb小説と同じ構造を抱えているが、視覚的・装飾的であるがゆえに、「思想的な主張」と見なされにくく、文化的バリアを潜り抜けやすいため個人の収益構造の先進性はWeb小説よりも前進していると言える。しかし、「応援サイト」なのに「課金サービス」として見られるギャップと、日本人の“金を取る以上は完璧に”という減点文化の2点が原因で、トラブルやクレームが表に出やすい構造になっているという一面は存在する)
さて、話を戻すが、そんなこんなで、日本の中で発展してきた――
匿名性が強いネットという環境の中の素人を中心とした小説。
これがどういった内容に傾倒していくか想像するのは容易だ。
思想性などは皆無。エンタメ性を追求するあまり、作劇としての深いテーマ性や洗練さを求めることはどちらかといえば稀であり、即座に楽しさを感じられる内容に傾きがちなだけではなく。個人的な妄想や即物的な趣味嗜好が色濃く反映されやすい土壌が形成されていくのは必然だ。

ヒットする一次創作が存在していたとしても(世間的なヒット作と比較しても)大衆性は低く。アングラな層が喜ぶ、即物的な娯楽という面ばかりが強すぎる究極の無法地帯だった。
この結果、Web小説というコンテンツは大衆の目には理解しにくい独特な雰囲気や価値観が際立つ文化が根付いてしまっている。そして、現代の小説投稿サイトはどこもかしこもその流れを多分に汲んでしまっているのである。

↑実際に小説投稿サイトのユーザー動向を調べると、その傾向は一目瞭然である。 無作為にユーザーのブックマークやランキングを覗けば、偏りは明確に見えてくる。ジャンルの多様性が乏しく、特定のフォーマットの作品が圧倒的多数を占める。
「言い方は悪いが大衆目線だとちょっとな……」と感じる独特の空気感や価値観が強く出ている。
なんなら、これらの作品を愛好しているユーザーたちすら学校や職場などの公の場で、「自分はこういった作品が好きだ」と主張できないという自覚があるだろう。
これは決して悪質な切り抜きや誇張ではなく、どの小説投稿サイトを見ても読者のブックマーク傾向に大きな違いはない。
この現状が示しているのは、Web小説が「特定のジャンルに偏った作品を愛好するユーザーたち」が中心となっている文化である、という事実である。
お判りいただけただろうか?
Web小説とは本来、大衆向けではなく、アングラな色ばかりが強くなる創作文化だった。その独特な価値観が、今も小説投稿サイト全体に受け継がれ、主流を占め続けている。Web小説、及び小説家になろう発祥の名作の価値感の源流とはまさにこういった部分にあるのだ。
つまり、現在のWeb小説の状況は、単なる一時的な流行ではなく、Web小説というコンテンツそのものが持つ本質的な構造によって生まれた必然的な結果なのだ。

↑Web小説投稿サイトでは、あまりにも特定のジャンルや要素に偏った作品が大量に投稿されるため、公式で「除外ワード」が設けられていることが多い。
これは、Web小説の読者層が「ある特定の傾向を持つ作品群を大量に消費する文化圏」であることを示している。
確かに世間的にヒットする大衆向けの有名作品にも、これらの要素が含まれることはある。実際、過去にはこれらの要素を堂々とプッシュして成功したメジャー作品も存在している。
しかし、少なくとも「大衆向けの人気作品すべてに常に氾濫しているわけではない」。Web小説の独特な文化とは、まさに「このような要素が氾濫しすぎて、公式が除外ワードを用意しなければならないほど大量に発生してしまう」部分にある。
これは、通常の商業創作環境ではバランスよく散らばるはずの要素が、Web小説という文化圏では極端に集中してしまうことを意味する。
その結果、 Web小説のメインユーザー層である若年層は、これらの作品を短期間で大量に消費する「雑消費」スタイルをとる。
評価システム上でも、そうした作品ばかりが目立つため、さらにその流れが強化される。結果として、Web小説投稿サイトは「無法地帯」になりがちであり、作品の多様性が損なわれる。
歴史を紐解くと、オリジナルの作品に関しては個々人が自ら運営するサイトで細々と小説を投稿していた時代が平和な時代の最後(しかもこれらは社会的な流行にはなっていない)であり、『Web小説投稿サイト』という概念が定着して以降は、この界隈は基本的には素人の短期快楽に特化した二次創作を中心に、無法地帯に偏りがち。
加えて、出版社などの直接的な拾い上げを経て人気になった作品を除いた場合、Web小説界隈に限って言えば動画投稿界隈などとは違って少数のしかし多様な精鋭コンテンツが直接的に牽引して一大時代を構築しているような状態である『昔は良かった』という概念自体がほとんど存在していないのである。

少数の作品が社会現象レベルの流行的な牽引をしたわけではない。
つまり、一般とは違うアングラすぎる価値観がデフォルトの無法地帯の中で、たま〜に芽吹く作品があったということになる。
しかし、土そのものが異質だと、芽吹く花も異質なものになる。
確かにWeb小説にも、社会現象レベルではないがオタク文化やネットカルチャーに親しむ層の中でヒットする作品が存在していた。
もしもそれらの作品が「Web小説読者の欲求(快楽)」を根源に据えるのではなく、社会普遍的なテーマや物語を主軸に据えつつ、短絡的な快楽的要素は最低限、添える程度に抑えて、時間をかけて質を高めて、成長していけば、作者のブランドも高まり得た。
その場合、かつてのType-moonの『Fate』シリーズ のように、強い個性やアングラ寄りだがオタク的に魅力的な要素を持ちながら、一定の社会的地位を獲得できていた可能性があるし、仮にWeb小説がもっと大きなムーブメントになれたなら、その「地位」はそうした方向性で確立されていたはずだ。
②そういったアングラ発祥の作品群を派手に打ち上げて、衆目に晒されるようになってしまった
1.始まりの火、Web小説書籍化時代の黎明期
しかし、現実にはWeb小説というコンテンツはその領域にまでは到達できなかったし。
そも、Web発祥の作品は昔から、長い時間をかけてクオリティや価値観を調整して、適切な層に草の根的な売り方をするようなことを一切していなかった。
即物的であろうと、どれだけアングラな内容であろうと、ウケているのならば売れるだけ派手に売れの精神があまりにも強かったのである。
当時のWeb小説の人気作品の派手な市場台頭に転機をもたらしたのは出版社であり、編集者だった。
娯楽コンテンツが溢れる昨今、出版業界が不況に陥りライトノベルが売れなくなった。そして、様々なレーベルがゼロから作家を育てるパワーを失った。
新規の市場を開拓したり、潜在的な未来の読者(中高生)を育てるための名作を作り出したり、作品を拾い上げる余裕を失ってしまった。
(二年で結果を出さないといけない非正規の編集者が増えているようだ)
そして、彼らは思いついた――
『ふむ……作家をゼロから育てたり、売れるかどうかわからない名作を我々が時間をかけて見出したりブランドを作るよりも、固定読者がいる人気のWeb小説作品をそのまま拾い上げて書籍にして、売れるだけ売ったほうが簡単に儲かるのでは?』
これは確かに目先の数字を確保するという目的ならば名案だった。
このやり方なら、わざわざ血眼になって作品を選別する必要も、売れるかどうかの分析をする必要も、売れるか売れないかの博打をする必要もない。
評価が高いWeb小説作品を書いている作者を直接引き抜けばよいので、編集者としてのスキルやセンスなど一切なくても金になる。
文庫本用に文章の体裁を整えるように原作者に依頼だけして、基本的な内容はそのまま、書籍として販売すれば良い。
『固定読者がいる人気作を無差別に書籍化→売れたじゃん! 漫画化だ! →さらに売れたぞ! 今度はアニメ化だ!!』
この考えの元、固定読者がいるWeb小説の人気作を書籍として売り出すことで出版社は利益を得ようとしたのである。
この戦術は最初の段階で見事に功を奏したし短期的には作品を自ら審美して拾い上げるよりも遥かに効率が良かった。

『小説家になろうで大人気!』というフレーズを、一つの権威として取り扱って売り出した。
本来大衆に受け入れられにくい作品がただ存在しているだけならば、別にそれで問題はないのだ。そんな作品はWeb小説など関係なしに世の中にごまんとある。そういった作品群がこの世に存在してはいけないなどという論は極端であり、暴論だろう。
当事者たちが内輪でやっていたりとか、商業化をするにしてもきちんと価値観の調整をした上で適切な層に適切な規模でリーチしていって、時間をかけてニッチ層の中で次第に支持を得ていくとか、相応の規模で時間をかけて支持を得ていくとか、売り手側が局所的なヒットであることを理解して作品の内容を大衆向けに丁寧に調整するとかしていたならば、ここまでWeb小説発祥の作品群がヘイトを買うようなことはなかったはずだ。
しかし、ここでの最大の問題はWeb小説という独特の文化でヒットした作品群を、そのままの勢いで、まるで大衆向けの王道人気作品であるかのような勢いで、大々的に世間に向けて大量に打ち上げてしまったという点にある。
するとどうなるか? そういった作品は特定の層を中心にかなり売れるに留まらず、派手な打ち上げ方をすればするほどに。本来の消費者層とは違う層の消費者が作品に触れる機会も増えていく。
もちろん、中にはこういう作品群を違和感なく受け入れたユーザーも間違いなく一定数はいただろう。世に出てから好きになる人もいる。そのきっかけは、作品の長所や尖った部分、あるいは表立って批判されていない優れた作劇部分にあることも多い。
また、中には売れているから面白いのだとそのままコンテンツを受け入れた層も一定数いるだろう。

そして、そういった作品の全てが毛嫌いされたわけではない。中には、後述するコミカライズを元に大衆向けに内容をうまくチューニングして(あえて露悪的な言い方をするとアングラ文化特有の気持ち悪さ、臭さを上手く薄めることで)ヒットした作品も多数存在する。
(※余談だが、しばしば「媒体の入り口の違い」からなろう系をめぐる擁護と批判の衝突が生じることがある。コミック版やアニメ版といった、ある程度“脱臭”されている媒体からこれらの作品の消費を始めた層は、原作小説特有の濃い文体や“キモさ”、さらには界隈が抱える根源的な問題を十分に理解していないことがとても多い。そのために批判者との間で齟齬が生じ、議論が平行線になる。これは結局のところ、擁護側が“なろう文化”の根幹や、問題点を把握していないことが、衝突の主因となっている)
しかし、全体の根本にある、一般には受け入れられにくいアングラ的な性質や、色濃く存在している特有の文化的背景の全てが大衆に受け入れられたわけではなかった。

↑過度な拝金主義、売り上げ思考、売れているものこそ神であり、売れていないものはゴミという思想は資本主義社会で生きる人類間でついつい蔓延しがちだが。
実際のところは良いものが売れるとは限らないし。
売り上げに比例してコンテンツが何倍も面白くなったりするわけではない。
その創作物を売りに出す関係者にとっては目先の売り上げをあげてしまえば正義であったとしても、禍根という物が長期的に残ってしまう。
ヒットを構築してきちんと売れたしても、その作品を構築している価値観の全てがそのまま一般大衆に受け入れられるかどうかは全くもって別の話なのだ。
結局のところ、Web小説がヒットしてきた文化の原点は、「独特の雰囲気」「内輪ノリ」「アングラな色が強い環境」に根ざしている。
そのため、Web小説投稿サイトで「名作」とされる作品が大ヒットした時点で、避けがたい対立が生まれた。
それは、
① Web小説発祥の大ヒット作品に根差す価値観
vs
② 他創作媒体に適用される世間一般的な価値観
という「二者間の致命的な乖離」である。

↑「なろう系批判」について、後述のWeb小説の粗製濫造にのみ言及するユーザーがやたらと多いが、実はそれだけが問題ではない。
Web小説作品(特に原作)を愛好しているユーザーは自覚がない(自分自身を客観視できていない)ケースがあまりにも多いが、むしろ、この界隈の根本的な問題は「Web小説発祥で大ヒットした作品を取り巻く環境や価値観すら、一般大衆の価値観とは大きく乖離している」という点にある。
Web小説界隈の中ではどれだけ名作とされる作品であっても、それはあくまで特定文化のユーザー層にとっての話である。
一般大衆目線では、価値観が大きく異なるために「拒絶反応」を起こすことがある。
これ自体は実はWeb小説特有の珍しい現象などではなく、これまでにも「狭い消費者層の熱狂的な支持によってヒットしたコンテンツが、売れているからと一般大衆向けにいきなり展開されることで長期的な批判や反感を受けた事例」は多数存在する。
似た事例として:Vtuberなどの急激に発展したアングラコンテンツは、なぜ嫌われるのか。
この摩擦の典型例として、Vtuberの大衆向けコンテンツへの介入が挙げられるだろう。
Vtuberはアングラ文化から発展し、狭いファン層の熱狂的な支持を受けて短期間で急激に成長した。
しかし、大衆向けのアニメやゲーム作品とコラボすることで、一般消費者層との摩擦が発生。
結果的に、従来のコアなファン層と一般層の間で反発が生まれるケースが多発してしまった。
また、特定シリーズのソシャゲの事例なども同様だ。
商業的に大成功した結果、大きな注目を浴びたが、元来のファン層が濃すぎたために一般層には受け入れられなかった。(むしろ急激に、売れてしまったが故にファンが大手を振って活動したり、衆目を浴びてしまったせいで過剰な衝突と批判を加速させた)
「節々の描写がキモい」「オタク向けが過ぎる」といった批判を受け、シリーズの別の作品群は分相応に成功していても、ソシャゲ版だけは「オタク専用コンテンツ」として扱われて批判されてしまった。
「なろう系」も、こうした現象とまったく同じ構造を持っている。
もともとアングラな環境で生まれたコンテンツを、一般向けに、しかし再翻訳することなく急激に、派手に展開すれば当然ながら強い反発を受ける。
しかし、有名作品のファンは「売れているから我々は市民権を得たのだ」「一般人に受け入れられたに違いない」という誤った認知・擁護をしがちで、外部の視点を無視して大衆向けに押し出した結果、批判の的になってしまった。
こういった批判は単なる「アンチの批判」で終わる話ではなく、「元々の文化の性質」と「大衆文化の性質」の間に生じるギャップの問題である。
このような現象が繰り返されてしまうのは、アングラなコンテンツのファン層の中の一部のユーザーが、自分たちの文化を世間からどう見られているかを客観的に理解できていないためである。
「売れている=どのような文脈で商業的なヒットをしているのかを理解せず、一般層に受け入れられた」と勘違いする
しかし、実際には外部から「アングラ文化」であったり、空気を読めていないような「オタク向け」としてのイメージが払拭できていない
この認識のズレが、摩擦を生み、大衆向けの展開で反発を受ける原因となってしまう
例えば、かつて忌み嫌われたアニメという媒体は、本来、中立的な表現形式にすぎない。 それが一時期“気持ち悪い”とされたのは、作品そのものではなく、それに過剰に没入する視聴者の振る舞いに対する社会の忌避反応だった。 つまり「キモい」とはアニメそのものではなく、それに向けられた“欲望の表出の仕方”に対して向けられていたのだ。
一方で、現代で批判されがちな推し活やなろう系などのコンテンツでは、隠しきれない“私的欲望の露出”が見え隠れしてしまっている。
それは自己愛や承認欲求を代替的かつ間接的に満たす手段であり、他者から見ればしばしば不気味に映る。
――にもかかわらず現代では、それが「経済効果」「消費行動」「ファンダム」といった言葉でポジティブに再定義され、“経済を効率良く回す行動”としてむしろ“良いこと”であるかのようにポジティブな概念としてパッケージ化されがちだ。
しかし、それは社会がその価値観を本当に理解し、尊重して受け入れたわけではない。
「商業論理の都合によって、欲望の正当化が成り立っている」だけなのだ。
つまり、あくまで一部の資本とプラットフォームにとって都合の良い存在であるがゆえに、一時的に仮の肯定が与えられているだけであり、その欲望の根源的な気持ち悪さや異質さや脆さは、依然として変わっていない。
それは本質的な受容ではなく、経済を回す歯車である限り、気持ち悪さも異様さも、すべて肯定的な言葉や経済効果という方便でラッピングされ、正当化されているだけなのだ。
かつて「オタク」と呼ばれた人々が“気持ち悪い”とされたのは、その欲望の出し方が社会の常識と明らかにズレていたためだった。 アニメやゲームといった表現形式そのものが社会的に受容されて大衆化していくにつれ、そこに付随していた“オタク”というレッテルも徐々に中立的な属性へと変化していった。
しかし現代で批判されがちな、これらのコンテンツでは根源的に持っている“欲望の露出”としての不快感が消しきれていない。
Vtuberの場合だと、例えば内部でどれほど熱狂や正当化、データ的な根拠(搾取をしているのはごく一部だという実態に基づいた主張)があろうと、世間の目には「消耗品」「顔のない偶像」「性的搾取ビジネスの歯車」としか映っていない。
むしろ、そうした社会的に持たれているイメージや評価に気づかず盛り上がっている“熱”そのものが、外部からは強い違和感を想起させたり、痛々しく見えるのである。
その根っこのイメージの部分がなんらかの形で変質しない限り(例えば、コンテンツそのものが完全に切り替わって内容が大衆化していくなどしない限り)、本質的な“キモさ”が消えることはなく。大衆的な社会的容認は得られないのである。
例えば、アニメが受け入れられたのは、文化装置としてディズニーなどの創作発信者がそれを“翻訳”して時間をかけて一般化していったからだ。
つまり批判されているVtuberが一般化するにはまず、「“人間ではない存在”が情報発信すること」に対する根本的な違和感が社会から取り払われなければならないし、その世界線に今人気のアングラ出身のVtuberは絶対に存在し得ない。
同じように、なろう系が大衆に受け入れられるとするのならば。
文体は再編され。主人公像はアップデートされ。社会的テーマとの接続が強化される必要が出てくる。
しかし、少なくともそれらはアングラ色を隠しきれていない過去の人気作品などではないのである。
↑どんなコンテンツにも、「世間的に許容されるライン」が存在する。
性的な要素やオタク的な表現を含むコンテンツは、一定数の人にとって「気持ち悪い」と受け取られることがあり、それ自体は自然な反応とも言える。
こうしたコンテンツが、時間をかけて狭い場所でひっそりと展開されているうちは問題視されにくい。
しかし、描写や文化的な価値観の調整が足りないまま、何らかのきっかけで過剰に急激に注目されると、それが炎上の火種となりやすい。
昨今で問題視されるような――例えば一部の過激派のフェミニストなどが過敏に反応して、意図的に問題化した場合、その責任は狭い場所から引っ張り上げた側(この場合は例えば過激派のフェミニストなど)にあるだろう。
しかし同じ理屈で、そもそもそうした“賛否が分かれる表現”を分不相応な文脈で打ち出し、社会的な注目を集めるように仕掛けてしまったのであれば、それはコンテンツを売る側の完全な判断ミスであり、責任もそこにあるべきなのだ。
結局のところ、問題の本質はコンテンツの内容そのものではなく、それがどのように“扱われ”、“表舞台に出されたか”という点にある。
そして、この事実を証明するかのように、これらのアングラ文化のファン層は、例えば大衆向けの漫画の人気作品の愛好者などとは明らかに異なる行動を取る。
学校や職場や家族など、公の場で「好き」と公言できる人が少ない
意見や反論を出すときもほぼ匿名で発言する
なぜなら、彼ら自身が無意識のうちに、「このコンテンツは社会的に普遍的な価値から乖離したもので、公に好きと表明することが不利益になり得る」と感じているためである。
それは、彼らが愛するコンテンツ群が、公的な承認規範――倫理性・普遍性・公共性――と乖離しており、消費者の劣等感や欲望に強く結びついた“快楽装置”としての性質を持つことを、どこかで自覚しているからに他ならない。
ファン層自身が、そのコンテンツが内包する「後ろめたさ」「世間的な目線」を無意識に感じている
だからこそ、表立って発信することを避け、匿名の場にこもる傾向がある
また、これらのコンテンツは共通して、『批判されるとファンが過敏に反応する傾向』がとても強い。
理由は以下の通りだ。
1. 没入しやすい構造が「個人の価値観」と結びつきやすい
「金」「時間」「感情」のいずれかを長期間にわたって投資する仕組みがあり、ファンが生活の一部として深く没入しやすい。
結果、コンテンツへの没入度が高いため、批判されるとまるで自分自身を否定されたかのように感じるユーザーが存在する。
「このコンテンツを守らなければならない」という使命感が生まれ、批判する相手を敵とみなす傾向がある。
2. 「居場所」としての役割が強くなりがちで、批判されると恐怖を感じる、精神的に余裕のない消費者が他のコンテンツと比較して多くなる
特にアングラな要素を持つコンテンツほど、(傾向として)現実で満たされない欲求を補う側面も強くなってしまう。
社会的成功や人間関係の充実が不足している、精神的に余裕のないユーザーの割合も比較的高くなる。(※当然ながら全員がそうと言っているわけではないのだが、こういったユーザーは特に精神的な恐怖から暴れるので悪目立ちしやすい)。
こうした一部のユーザーにとって、当該コンテンツは単なる娯楽ではなく。現実では得られない承認や居場所を与えてくれる「心の拠り所」 であり、「ここでしか得られないものがある」という確信を持ちやすい。
そのため、「これがなくなったら、自分の居場所も失われる」 という強い恐怖心を抱くようになる。
精神的に余裕がないので、「好きなら肯定、嫌いなら否定」といった二元論でしか物事を考えられず。部分的な批判や、グレーな立場を許容できない。
結果として内部から発生する批判を「裏切り行為」と見なしたり、外部から発生する批判を「単なる意見の違い」として受け流せないユーザーの割合も多くなるので、感情的に激しく反発する現象が起こりやすい。
3. 「信者 vs アンチ」の対立構造が生まれやすい
アングラ性が強いコンテンツは、支持者の熱量が異常に高くなりやすい ため、逆に嫌う側も強い嫌悪感を抱きやすい。
さらに、アングラで過激な側面ばかりが悪目立ちしやすく、拡散されやすい性質を持っているため、外部からのコンテンツ全体の印象が先鋭化しやすい。
こうした要因から、信者とアンチの対立が激化しやすく、互いに煽り合う関係が固定化する。
さらに信者の過激な防衛反応が、逆に外部から、いじめられっ子のように「玩具」として扱われる原因となり、
批判されたファンが発狂する → アンチがそれを面白がって煽る → さらにファンが発狂するという負の循環が発生しやすい。
4. 売上や人気の高さが「被害者意識」と「布教意識」を生む
売上や視聴者数の面では成功しているため、ファンの間では 「世間が素晴らしさをきちんと理解していないだけだ!」という誤った被害者意識が生まれやすい。
こうした被害者意識により、「問題があるのはあくまで一部だけ」「本当の良さを知らないで文句を言ってるだけ」 という実際の世間の認識とはズレた自己正当化が強まる。
結果、「これこそが最高のコンテンツ!」という布教意識につながり、外部への攻撃的な態度を助長しがち。
5. 批判に慣れておらず、防衛反応が過剰になりやすい
歴史が浅く、長年にわたる批判に慣れていない ため、外部からの否定的な意見に対して 極端な防衛反応 を示しやすい。
古くから批判され続けたコンテンツ(例:高齢オタク向けアイドル・文学・ゲーム・特撮ヒーロー・ガンダムなど)に比べ、耐性がない。
そのため、自嘲したり、自虐するなどして批判を「上手く受け流す」ことができず、反射的かつ強烈な反発や粘着行為に発展しやすい。
特に近年のネット空間で批判されがちなコンテンツの擁護者がやりがちな行為として、「テキストの文量が多いこと自体を拒絶理由とする態度」(『長い』という言葉で議論を打ち切ろうとする)、および「SNS等で切り取られてきた断片的な情報のみに依拠、マウントを取って原典や全体文脈に対する精読を怠る姿勢」が挙げられる。
これは単なる読解スタイルの問題ではなく、認知的怠慢(cognitive laziness)と情報摂取態度の短絡化という、より深刻な問題を示唆している。情報の信頼性を評価するには文脈の把握と精読が不可欠であるにもかかわらず、「自分にとって心地よい情報のみを選択的に受容する」バイアス(confirmation bias)が強く作用しているため、論理的な議論に耐える素地がそもそも存在していないのである。
このような情報受容態度は、議論という行為の前提条件――すなわち、相互の主張を文脈内で正確に理解しようとする意志と努力――を著しく欠いていることを意味する。
従って、こうした態度を示す者は、議論の参加者として本質的に不適格であると評価せざるを得ない。
要するに、「長いから読まない」「切り抜かれた一部だけ見て判断する、批判する」という態度は、冷静な議論における認知的・倫理的インフラの欠如を周囲に示すようなものであり、このようなユーザーとは対話的関係を構築すること自体が困難となる。
結果として、話が拗れて炎上しやすかったり、周囲から軽んじられる原因となってしまうのである。
6. 信者とアンチの対立が長期化し、過激化する
上記の様々な要素が絡み合い、信者とアンチの対立は短期間で激化・長期化しやすい。
ファンは自らのコミュニティを守るために戦っているつもりで、経済的なヒットを理由に『このコンテンツを受け入れられないのはおかしい!』という主張を行うのだが、実際にはその行動のせいでさらなる対立を生み、コンテンツ全体の印象をさらに悪化させてしまう。
そして「発狂しやすい界隈」という評価が定着し、アンチにとっての格好のターゲットになり続けてしまう。
話を戻すが、先ほど述べたとおり、Web小説というものは根源的な部分にこのようなアングラな文化や空気、ユーザーを多分に含んでいる界隈なのである。
だからこそ、Web小説の発祥の人気作ですら、大ヒットして経済的な成功を収めても、大衆目線ではちょっとライン超えしてしまっているというか、どこかしら品がなく、人間の本能的な欲望を満たすことを重視しているように感じてしまう。
それが大衆の目に映った時に、結構な割合の消費者が『なんか気持ち悪いな』という薄らとした不快感を抱いてしまうことが多くて、作品に対してどこかしら嫌な感じがつきまとってしまった結果、根強い嫌悪感がやたらと取り沙汰される。
そして、それらを支持するユーザーもヒットの文脈を理解せず、売り上げを盾に過激な擁護・主張を行うため摩擦を起こしてしまう。
結果として大衆向け創作とは違って「なろう系」という蔑称が広まってしまう。
まず、この点に「なろう系批判」の源流が潜んでいる。

↑ 「小説家になろう」を経由していない作品であっても、Web小説特有の環境から局所的な人気を博し、マーケティングによって急激に世間へ打ち出された結果、根強いヘイトを受けてしまい、ネタにされたり、馬鹿にされるケースが存在する。
例えば、《ソードアート・オンライン(SAO)》のような作品は、「小説家になろう」とは全く関係がないにもかかわらず、しばしば「なろう系」と混同されている。
これは大衆消費者の間で、「Web小説発祥の作品=なろう系」という誤解が広まっているためで、Web小説特有の文化の影響を強く受けているため、結果として似たような批判を受けている。
このような作品が少年ジャンプ発祥の大ヒット作品のように、広く一般に受け入れられるかというと、まったく別の話である。
むしろ、Web小説特有の文化的な背景が大衆の価値観と乖離しているため、売れるほどに「なんか気持ち悪い」といった拒否反応を招きやすい。そのため、世間的には「なろう系」と同じような扱いを受けるケースが多く、ネガティブなイメージが定着しやすい。
このように、「なろう系」として分類されていなくても、Web小説特有の環境や評価システムの影響を受けた作品は、同様の批判を受けやすい。
「素人が集まって打ち上げるWeb小説=コンテンツが短絡的な欲望を主体としていて、オタク向けすぎる」という先入観が広まり、作品の内容に関わらず一括りにされてしまう 結果として、本来の「なろう系」とは異なる作品であっても、「なろう系批判」の対象になりやすいという現象が起こっているのである。
「とにかく売れれば正義」は、文化領域では成り立たない。
「正しい層に適切に作品を供給する行為」は作品を守り、ジャンルを守り、未来の作家の表現を守ることにつながる。
“目先の利益ばかりを重視して無責任に売れれば正義”などではなく、長期的な目線で“どの層にどんな覚悟で届けていくか”という部分こそが評価されるべきなのである。
次に、大衆目線で批判される具体的な作中の要素について説明させてもらう。
Web小説原作は匿名かつ単独で発信できる環境であり、昔から作品のクオリティや倫理観を管理・調整する編集者やフィードバックシステムが存在していない。
そのため、作者が序盤の段階で自作を客観視できないまま、声の大きいアングラな価値観の読者の意見を直接的に拾って話を進めてしまい、結果として大衆の価値観から逸脱した(問題行動の扱いを明らかに間違えている)作品が生まれやすい。
2.乖離しがちな界隈の価値観、批判されがちな人気作品の主人公たち
具体的には、一部の有名作品の主人公(の、特に序盤の行動や思考)が気持ち悪いと根強く批判され続けているようなパターンがまさにこれだ。
この主人公の言動がおかしい・気持ち悪いと批判される問題に関しては、価値観がどうこうの問題ではなく、シンプルに創作物としての習熟度が低くなってしまっていると批判してしまって問題ない。その理由は文化的な構造にある。
Web小説の作者は執筆序盤に客観的に自作を見ることができないので、世間とはズレた倫理観を抱えた状態のまま主人公のデザインや世界を構築してしまう。なおかつ、それを人気になる前の段階で一番最初に読んで感想を書くのは独特の感性を持つ、比較的アングラ側であるWeb小説のユーザーなのである。
そして、もしも作者側がまともな価値観を持っていたとしても読者に直接的に迎合する必要がある。
小説家になろう発祥のWeb小説は、たとえ完成度の高い名作であっても、文化的に「主人公=読者」という一体化を前提にしているため、主人公の失敗や弱さは共感の物語として消費できる一方、性欲や支配欲、他人とズレた行動のように読者自身の欲望や素行に直結した後ろ暗い部分を作中で本気で批判すると、読者の居心地が悪くなってしまうので、もし作者が気づいていたとしても、そこに踏み込んで否定ができず、中途半端にスルーしてしまう傾向がある。
同時に、作品の評価がすぐ数値やコメントで可視化されるため、主人公の欲望や素行に直結する部分を徹底的に責めたり、本当の意味で人格的に批判して孤立させてしまうような絶望的な展開は避けられる。
結果として、主人公がどれだけ世間的に浮いている行動をしていても、気持ち悪い欲望を抱えていても「そこに関しては特別な存在だから許される」という都合の良い安心を読者に提供し、本気で向き合うことがなく、結果として物語の倫理を歪めがちだ。
そのような事情があるため、なろう発祥の有名作品は大ヒットしたものであっても(一般大衆の基準からすると)主人公が年齢不相応に幼稚だったり、下品だったり、暴力的だったり、コミュニケーションに問題を抱えていたりと、世間や大衆の目に晒された時に「気持ち悪い」と批判されがちなのだ。
「いやいや、言動に問題がある主人公なんて、なろう以外の名作にもたくさんいるじゃないか!」
そういった名作と、なろう系ヒット作の主人公は本質的に違っている部分がある。主人公のパーソナリティそのものに問題があるわけではなく。主人公の立ち位置が視聴者に対して不透明になってしまっているという部分に問題があるのだ。
作者本人が客観的な目線や一般大衆目線の常識を認知しない(あるいは都合が悪いので意図的に無視した)まま話を進めてしまい、なおかつ連載開始直後は似たような価値観や考え方のアングラな読者にばかり応援されるので、本来大衆目線では共感できないレベルの欠点を持つ主人公が「共感できて当然」だと勘違いして(あるいは都合が悪いので意図的にスルーして)作品をデザインしてしまうのだ。
なので、作者は主人公の大衆目線での真の異常性を取り扱わない。
つまり、主人公が持っているパーソナリティ(大衆目線での問題点)について、葛藤をする。分析をする。別の人物に正しいリアクションをされる。はっきりと指摘された上で向き合うというイベントがいまいち起こらない。もしくは圧倒的に足りていない状態のまま中途半端に話の執筆だけが進んでいく。
その結果、自分の欠点から目を背けているというような描写すらなく。作劇として本当の意味で主人公が自分の致命的な欠点に全く向き合っていない状態のまま話だけが都合よく進んでいってしまうように大衆は受け取ってしまうのだ。
一方で通常の商業創作では、異常なキャラクターには、それを大衆目線で異常だと指摘するキャラや出来事(イベント)が配置されたり、主人公が倫理的に問題のある行動を取れば、その結果として相応の罰や困難に直面する。

しかし、Web小説の大体の作者は連載直後の時点ではアングラ文化のど真ん中にいるため、そういった致命的に浮いている欠点に関しては周囲の読者が誰も指摘しない。作者も大きな問題として取り扱わないのである。
そのせいで、原作が人気を博して注目を浴びた段階で後から修正を施しても既に手遅れになってしまう。
実際こういったなろう発祥のヒット作は、書籍化やアニメ化などの大人気を博した後に小説家になろうの外からやってきた大衆寄りの読者(アングラ文化の外)から厳しい指摘を受ける。
そういった大衆目線の批判に対して作者が後天的に倫理観のラインを中途半端に擦り合わせようとした結果、原作で実は主人公は元から異常者でしたとか破綻者でしたみたいな設定が後から無理やりつけられたり、中盤以降に主人公が物理的に過度に断罪されるというケースが多い。
他にも、「わざと気持ち悪く、嫌われるように狙ってデザインした」と作者自身が語ることもあるが、連載当時にその意図を示す伏線や客観視した演出が存在しない以上、後付けの説明に見えてしまう。
先ほども述べたがWeb小説というアングラ文化では主人公の失敗や弱さは共感の物語として消費できる一方、性欲や支配欲、他人とズレた行動のように読者自身の欲望や素行に直結する部分を本気で批判すると読者の居心地が悪くなるためこれは作者の折衷案でもある。
しかし、フォローを行ったとしても大体の執筆が進んでからになるので、後の祭りだったりする。
その結果、序盤での主人公に対するマイナスイメージを払拭できなくなってしまい。その作品がヒットすればするほどに「こんなズレた感性の不気味な主人公の背中を、これからも見続けなければいけないのか」という感想を抱いて、作品から離れていった視聴者の、界隈に対するイメージだけが極端に悪くなってしまうというわけだ。
(↑もちろん作品によっては、漫画化やアニメ化に携わっている人間が原作の、大衆目線で不快な要素をなんとかしてマイルドにしようという工夫を行ったりするのだが、原液が濃すぎて不快感を隠しきれていないが故に批判されているのである)
このような作品のフォロワー達は「最初はネガティブな性質を持つ主人公が酷い目にあって成長するのが見どころ」とか「普通だったら精神が崩壊している」というような擁護的意見を提示するのだが。しかし、この問題は(少なくとも作品序盤の段階では)それがさも普通であると言わんばかりのズレた目線を持ったまま、作者及び読者が(小説家になろうの外にいる)大衆の価値観を一切意識せずにアングラ文化の中の偏った常識・感性で話を進めてしまっているという部分にある。
はっきり言って、異常な性格の主人公がまるで後から思い出したかのように、自らの欠点と本当の意味で直接向き合うこともなく、全く関係の無い部分で散々痛めつけられたり成長したところで大衆視聴者は納得しない。
それはただ主人公が生来持つ本当の意味で致命的な欠点を、(作者が序盤にきちんと認識できていないまま、あるいは意図的に無視して執筆を進めてしまったが故に)物語がきちんと消化しておらず有耶無耶にしてしまっているだけなのだ。そんなものは擬似的に反省や贖罪を演出して、消費者に対して『これは立派な成長譚だ』と錯覚させるだけの演出でしかない。
もしも主人公の性格が気持ち悪い場合、「お前、ここが気持ち悪いんだよ」と、その欠点を作中の人物に明確に指摘されたり、欠点が原因で発生した相応のトラブルに巻き込まれたり、主人公の本当の問題点に視聴者が納得できるラインで内省・反省・分析したり(キャラクターの構築が上手くいっているのならば、他者にそれを指摘・認識された上でそれらの問題をあえて堂々とスルー)する必要がある。究極、それを行うのは主人公でなくても良い。誰かしらが、大衆消費者の目線に立って共感をする必要があるのだ。
創作において異常な主人公が決して悪いというわけではなく。世間の中に何となく存在している倫理観のラインを平気で越えてしまっているという異常が異常であると指摘されないまま都合よく進んでいってしまうズレた価値観の元に構成された主人公・物語こそが、大衆視聴者に対して強い気持ち悪さと不快感をもたらすのである。

↑主人公が序盤にぶっ飛んだことをやっていたとしても、その性格や行動によってキャラクターが相応に反応して物語がきちんと動いていれば、「このキャラクターは作り手目線でも異常である」と視聴者に伝わる。
視聴者が物語に対して嫌悪感や不安を抱かないためには、主人公の異常性が物語の中で適切に扱われる必要がある。異常な行動が「異常」として作中で指摘されるか、相応のイベントが起きる。
その異常さがストーリーを広げ、キャラクター同士の関係性に変化をもたらす。これがなされていれば、たとえ主人公が明らかに浮いている極端な行動を取っていても、視聴者はそれを「物語の要素」として受け止める。
なろう系の有名作品の主人公の問題は「本当に異常な行動を取っても、それが作中でほとんど全く取り沙汰されない。都合よく無視されること」にある。
その結果、主人公が何も問題の無いような存在であるかのように扱われてしまう。視聴者は「なんでこの主人公で、何事もなく話が進んでいるんだ?」と違和感を抱く。結果として、「気持ち悪い」「異常性がずっとスルーされている」と感じられ、そのキャラクターではなく。作品自体に嫌悪感が向けられる。
主人公を取り巻く世界についても同じで、その世界の常識が大衆の世界と乖離しているのなら主人公が視聴者の目線で悩んだり、葛藤するのが本来の流れなのだ。
作者自身が主人公の異常性に気づけないと、結果としてその気持ち悪さを主人公含めて本当の意味で誰も認識しないまま話が進んでしまうし、主人公を取り巻く世界自体も気持ち悪いものになってしまうし、世界観に対する説得力が失われてしまう。
主人公が悪人だろうが、善人だろうが、半端者だろうが、そのパーソナリィの異常性を作者がきちんと認識・理解しているということを大衆消費者に提示できないまま。作中での立ち位置をはっきりさせないまま作品を進めてしまうことになるので、大衆消費者は混乱して気持ち悪さを抱えた結果、作品から離れていってしまうのである。
主人公の致命的な欠点が作中で「異常で気持ち悪い」とはっきりと取り扱われずに、何事もなく当たり前のように許され続けてしまう空気。
それこそが、Web小説のユーザー達が心地よく浸っている価値観の中身なのである。
しかし、この場ではっきりと言っておくが、その異常な世界観に限って言えば『気持ち悪い』以外の何物でもないのだ。
要するに、小説家になろう発祥の作品の構成は、「欲求を発散するためのポルノ」と本質的に似通っているのである。
たとえば性的なことを第一目的とするエロゲーのような作品では、主人公がどれだけ倫理的に破綻していても、読者の主目的は「エロを楽しむこと」なので、それに関する行動自体は基本的に非難されることはなく、むしろ快感として受け入れる土壌がある。
「なろう系」でもそれと同じで、Web小説の読者はその界隈の特性上、読者が持つ自己投影による快楽を作劇の土台にしてしまう傾向が強く、倫理性や物語としてのテーマなんてものはあくまで後付け、二の次なのである。
そういう作品が世に存在することそのものを否定しているわけではないが、しかし、そういった文化的な文脈、前提を知らない一般の人たちに向けて、派手に引っ張り上げて世に出しておいて、「批判をするな」「拒絶反応を出すな」というのは、さすがに無理があるのだ。
結局のところ、程度の差こそあれ、「なろう系」は真夏の夜の淫夢やエロゲーと同様に、“社会の主流とはかけ離れた価値観”に支えられた、いびつな内輪文化にすぎない。
その存在自体は否定しないが、陰でひっそりと消費するならまだしも、そうしたものを「国民的大ヒット作品」や「社会現象」として持ち上げよう、取り扱おうとした瞬間、強烈な寒さと滑稽さが生じてしまう。
それらの作品は本質的に、決して表に出せないような欲求の発散を第一目的とした“快楽装置”であり、そこに後づけで創作性や倫理的責任を継ぎ足したところで、その根本的な性質自体は決して変わらないのである。
「質が悪い作品だから気持ちが悪い」のではなく、発祥文化の出発点が“物語としての正義や、社会の普遍的価値感に基づく勧善懲悪”などではなく“自己慰撫”であるという事実。
そして──文脈を理解せずに「売れている」「ヒットしている」という表層的な情報に流されて、この事実をほとんど誰も気づけていないことこそが、この界隈全体が抱えている本当の問題点なのだ。
だからこそ、どれだけ商業的に成功した作品であっても、特に原作段階から支持している読者層は、かつてオタクたちが自らを“気色悪い存在”としてある種の余裕をもって、自嘲的に捉えていたように、自分たちが属するコミュニティの特殊性や閉鎖性をきちんと自覚する必要がある。

どのような経緯でコンテンツがヒットしたのかを理解せず、人気や売上といった表層的な情報に引っ張られて「これは誰にでも通じる面白さだ」「受け入れられない奴は異常者」といった普遍性の主張をする前に、まずは自分たちの快楽志向的な価値観が社会の主流とはかけ離れたものであることを正確に認識すべきなのだ。
「売れている=世間に受け入れられている」といった短絡的な発想を捨て、自分たちの立ち位置を客観的に見つめ直す謙虚さをきちんと持つべきだし。「これは誰にでも通じる面白さだ!」「批判している方がおかしい!」といった普遍性の主張は、慎み深くあるべきなのである。
3.コンテンツの社会的な立ち位置を理解していないユーザーが辿る2つの末路
そして何より、そのような態度が続けば、最終的に困るのは他ならぬ熱狂的なファン当事者たちだ。
作品に内在する歪んだ構造までもが正当化され続けることで、社会との感覚的な乖離がどんどん進行し、孤立と嘲笑の対象として自らを追い詰めていくことになる。
売れているはずなのに、なぜかいつまで経っても止まらない批判。
常にどこかしらで何かと馬鹿にされ、軽んじられ、理解されないことに耐えられず、次第に攻撃的な言動でしか自己表現ができなくなり、同じものを好む者同士で固まり、内輪の言葉だけで生きるようになるのでさらに認知が歪む。
そうして気づけば、社会から感覚が浮き、声だけが空回りする“異物”として扱われてしまう。
快楽的なコンテンツに過剰に肩入れし続けることで、現実の課題や他者の視点を想像する力が徐々に衰え、気がつけば「話が通じない人」「ズレた人」として認識されるようになる。
その過程では、自分が何を好むかという趣味嗜好が、知らず知らずのうちに他者からの信頼や人間関係にすら影を落とすようになる。
結局どれだけ自由な時代でも、“露骨すぎる快楽消費”に対しては、社会は本質的に距離を取るのだ。いつしか“共感されないこと”そのものを社会のせいにし、自らの快楽を守るために他者を攻撃するようになったとき、その人物はもはや、社会的な意味での“反社会的人格”へと変質してしまう。
また、その状況は創作や表現の幅にも悪影響を及ぼす。何事も極端とは悪だ。消費者の欲望を第一に応えるような作品ばかりが台頭すると、受け手の視野も制作者の視野も狭め、文化的にも“貧しい”状態に陥ってしまう。
しかも、これが皮肉なことに、先程述べたようにそのような欲望構造に特化した消費者は、資本や企業にとっては極めて扱いやすい“優良な家畜”なのである。
刺激されやすく、依存しやすく、誘導されやすい。
最終的に、欲望に忠実な消費行動の果てに生まれた“ヒットコンテンツ”を過度に愛好するユーザーは以下の二つの、いずれかの末路を辿ることになる。
a.コンテンツが変質し、大衆化・商業展開していくパターン。
こちらでは彼らは、その過程で最も早く切り捨てられる運命にある。
なぜなら、初期のコアファンが抱いていた欲望や内輪的な価値観は、大衆向けに移行する最中に“ノイズ”として次第に排除されていくためだ。
より広く、より無難に、より無色透明に──拡張された作品は次第に原型を失い、最初に熱狂していた層には居場所がなくなる。
結果として、彼らは「自分が支えてきたはずのもの」から追い出される。
作品は残っても、自分が愛した形ではもはや存在しないという絶望。
それでもなお執着し続ければ、今度は「過激な古参ファン」として扱われ、周囲から敬遠されるようになる。
つまり、“欲望に忠実だったがゆえに熱心に支えていた”というその姿勢が、最終的には自分の居場所を喪失させるブーメランとして返ってくる。
b.性質を変えられないまま肥大化を続けたパターン
もうひとつは――その欲望や性質を抱えたまま肥大化し続け、大衆化もできず、やがて事件や社会的なトラブルに直結して人命が失われ、規制によってコンテンツが終焉を迎えるルートである。
快楽を求めること自体を否定するわけではない。
ただし、そういった性質のコンテンツが肥大化しているからといって、そこに普遍的な価値があるのだと信じ込み、社会との距離をきちんと把握できぬままに盲目的に入れ込んでしまえば

最終的にその歪みの代償を払うのは、過度に入れ込んだ消費者自身なのであろう。
4.では、他のコンテンツ媒体は、なぜ読者の欲望に特化していないのか? 比較的、社会における普遍的な目線を持てているのか?
ということで、読者ファーストで、その欲望を叶えることが主体となって、作品の構造そのものを歪ませがちなのがWeb小説文化である。
Web小説という環境では作品のクオリティを管理するような編集者やサイト機能が中間に存在していない上に、素人文化が強いが故に常駐して作品を直接応援する原作ユーザーの感性が独特すぎる。
それでありながら売り出す側には『売れるだけ売るという思想が蔓延している』ので、結果としてWeb小説発の大ヒット作はアングラ色をどうやっても隠しきれずに人目についてしまう。
小説家になろう発祥の作品は、一般的な大衆とは異なる独自の価値観を持っているユーザーが狭い価値観の支持を着火剤に、直接的かつ局所的な大人気から打ち上げて、結果としてアニメ化に至るまでその人気をスライドさせたものだ。そして売れていること自体は事実なので「大衆向けの大ヒット作品」といわんばかりに広告をしたり売り上げを主張してしまう。
そのため、過剰な衆目に晒された時に、主人公や物語のディティールや大衆受けしにくい要素について、価値観の乖離から強い反感を買いやすいのである。

一例を挙げると、かの『鬼滅の刃』の主人公の原案デザインは、現在の彼とは全く異なるものだった。
要はこのデザインのまま掲載され、編集者が何も調整せず。その異常性を作中で誰も取り沙汰しないまま売りに出したらどうなるだろうか?
そのキャラクターを「ノー」と言わずに受け入れる読者だけが集まり、結果的に独特な層に偏る
作品がそのまま打ち上がって、大衆向け作品のように広告されたとする
しかし、一般の視聴者にとっては「この主人公、何かおかしくないか?」「気持ち悪いよ」という違和感が拭えず、拒絶される
これはまさにWeb小説の環境そのものである。
「作品の異質性」を誰も指摘せず、そのまま局所的なヒットをスライドさせて大っぴらに売り出してしまう
結果として「どっちつかずの中途半端な状態」に陥り、主人公の本当の異常性が放置されたまま大衆市場に晒されてしまう
その後、作品の人気が出るほどに「この主人公、なんかおかしくない?」という批判がどんどん増えていく
こういう問題に対し、少年ジャンプなどの商業作品では、「編集者」が読者と作品の間に立ち、未然に価値観の調整を行う。
原作者の狭くなりがちな常識と世間の常識を事前に擦り合わせをする。
「このデザインでは、大衆に受け入れられにくいのでは?」という視点を持つ
「明るくて、普通のキャラクターはいませんか?」と作者に投げかけ、主人公の設定や性格を調整する
その結果、少年ジャンプに掲載するにふさわしい、大衆に共感される主人公が生まれる
また、邪道な作品や邪道な主人公を構築するにしても、「どうやれば適切な層に受け入れられるか?」という調整が行われる。

相応の代償を主人公が受けることもある。
結果として、大衆に受け入れられやすい。
主人公の異常性が物語の中で適切に処理されるように物語を構成する
(主人公の本当に批判されるべき異常性にノーを突きつけるイベントや、キャラクターが登場する)潜在的な需要に対して、適切な供給を行う形で作品が売られる

また、同じ集英社の中でも、『週刊少年ジャンプ』は全年齢向け・大衆向けの王道少年漫画誌、『ジャンプSQ』はやや年齢層高めのストーリー重視作品、『ジャンプ+』はデジタル配信主体で実験的・多様な作風の作品を扱うなど、それぞれの媒体ごとに基本的な読者層や作風が異なる。
編集者はこうした媒体の特性を踏まえて、作品が最も適した読者の目に届くよう調整している。
つまり、Web小説のように「売れるものをそのまま媒体問わず売りまくる」だけではなく、「売るための適切な形」に調整するのが、少年ジャンプのような商業漫画雑誌の編集者の役割なのである。
5.作品の性質を理解した上でのマーケティングの重要性
ここまでは、「小説家になろう」特有の問題、つまり“主人公の批判されがちな異常性が作中で指摘されず都合よく無視される”ことについて語ってきた。
ここからは、より一般的な話、つまり“なろう系に限らず、あらゆるコンテンツを売り出す際のポイント”に移る。
要は、「作品の作風を正しく理解し、それに合ったターゲット層に届けることが重要」という話になる。
先程まで、異常を異常であると指摘されないままなろう系の名作がヒットしていく環境の問題について言及をしていたが、Web小説の原作を執筆していた作者達が創作者として悪いことをしているかというと実はそうではないとも言える。
執筆をしていた当時の作者達からすれば、自分の作品を愛してくれている読者が納得できる作品を適切な層に届けているだけなのだ。
しかし、そういった原作の大ヒットに対して、編集者や出版社は「作品が刺さる層を見極め、内容を調整し、適切に売り出す」ということをする必要が出てくる。
これは作品の持つ独自性や魅力を正しく理解し、適切に翻訳し、それを求めている層へ、ダイレクトに届けるためのマーケティング能力を指す。

たとえば、ジャンプ作品でも『チェンソーマン』のような作品は「(ジャンプの中でも比較的)過激な描写や尖ったテーマ」が売りだ。

それはキャラクターの不完全さや人間らしさを浮かび上がらせるための要素であり、
物語の駆動エネルギーではあっても主目的ではないのである。
このような作品は「尖った表現を楽しめるニッチ層」にピンポイントで訴求することで、その世界観を理解し受け入れてもらうことができる。
こうして作品は徐々に口コミで広がり、「ファンがファンを呼ぶ形」で時間をかけて成長していく。

それ故に分相応であり、滅多に表に出てこない。
こういったニッチな作品は、
出版社の看板作品になりづらい(しようとしないケースもある)
一般層に受け入れられにくい
規制やメディア展開の制限が多い(アニメの放映時間や媒体など)
といった要因により、読者が公に「好き」と言いづらく、アンケート結果が振るわないことにつながることもある。
その結果、ジャンプ漫画として正統な評価を受けづらく、作品の露出や商業的な展開にも制限がかかるというデメリットを分相応に被っているのだ。
しかし、このような作品群を無茶な引っ張り上げ方をして、間違った層にまでいきなり大々的に広告を出して売ってしまうとどうなるだろうか?
たとえばかつての『鬼滅の刃』のように広い年齢層をターゲットにしたヒット作と同じ規模で『チェンソーマン』を派手にメディア進出させて売り出した場合、過激な描写が興味のない層や、拒絶反応を示す層にまで届いてしまう。
結果として、ジャンプ発祥の作品であろうと、作品の本質とは関係のない部分で「気持ち悪い」「不快だ」と叩かれるリスクが高まる。(実際、間違った規模のマーケティングをしてヒットしてしまった作品は「信者は絶賛、嫌悪する層は拒絶」という極端な反応を呼びやすい)
つまり、本来編集者や出版社はただ作品をヒットさせるだけでなく、どの読者層を主体にリーチするべきなのか、どのような層にまで消費を拡大して良いのか、も見極めることが求められるのだ。
作品が持つ特性を理解し、それを「楽しめる層に絞って届ける」。
「ヒットさせるのならヒットに合わせて作品の描写、内容を調整する」ことも、作品の評価を守るうえで重要になる。
要するに「この内容で行くのならば、この層にまで売りに出そう」という売り上げのライン決めを行う。もしくは「ここから市場を派手に拡大するのならこの描写は世間的な目線と乖離しているから直そう」とか、早い段階で指摘したり校正したりする行動を、書籍化やコミカライズ化なら出版社や編集者が行う必要があるのだが、Web小説発祥の作品群は作品が打ち上がるライン上に編集者が挟まる余地が少なく。
名作でさえ主人公の根源的な価値観に致命的な問題を抱えているのに昔から、原作に存在している強烈な素材の味を隠し切れないまま、勢いに任せて売りすぎてしまっているのだ。
アニメ化に関しても似たような現象が起こっている。
なろう発祥の人気作品において、アニメ化企画の現場でも、作品の中身よりもまず「(アングラな文化の延長にある)小説家になろうでのPV数」や「書籍の累計部数」などの数字が先に評価され、それがそのまま「万人受けする王道作品だ」という認識に置き換えられてしまうことが多い。
数字の大きさは本来、局所的なマニア層が強烈に支えている証拠であって、決して一般大衆の共感を得ている証明ではないのに、それを「ヒット性の保証」だと勘違いしてしまう。
そして制作委員会や宣伝は幅広い層に受け入れられるようなキャッチコピーを安易に用意し、実際の客層とはまったくズレた層にまで売り出そうとする。
だから、たとえば『無職転生』のような作品に「王道ファンタジー」「感動物語」といった過度に一般化したラベルを貼って、そういった部分ばかりを表面に出してアニメとして世に出してしまう。

だから、例えば『オーバーロード』に「悪しきをくじく勧善懲悪」といった的外れなイメージを与えて映像化してしまう。
これは、主人公の無視されがちな異常性や価値観とはまた別の問題なのだが、相乗効果によって批判される原因になってしまう。
売り手がアニメ化の際に、作品の暗い部分や、作り手や読み手の世間一般とは乖離した容認されにくい価値観を調整することなく。受け入れられて当然と言わんばかりにこうした安易な大ラベルを貼って、映像にしてしまうことで、大衆消費者にまで無理に届けられる。
その結果、作品の核心にある尖った要素(本来原作ファンが望んでいたシーン)が「共感できないノイズ」と扱われ、宣伝や脚本上で薄められてしったり、製作者が尖りを消したつもりでも、その感性はもともと一般大衆と大きく乖離しているため修正しきれずに、結果として「やっぱり気持ち悪い」「何かおかしい」と強い拒否感を生む。
結果、価値観の食い違いが起こって、作品は過剰な注目を浴びた挙句に誤解や拒絶や批判を受けることになる。

このレビューを書いている人物は「Web小説文化に向けて作られた作品」ではなく
「一般向けに売られている」と認識してしまった上でコンテンツを消費してしまっている。
まさに、この部分に最大の問題が潜んでいる。
なろう系と揶揄されて攻撃される作品は、世間的な流行や感性とは明らかに違う感性の人達がWeb小説のコンテンツの特性から自然と引き寄せられるように集まった結果、源流となって
無法な環境で無差別に、派手に打ち上げられた存在であり。
「『世間的な大ヒット作品』『流行しているメジャー作品』として派手に打ち上げてしまうと抵抗感が起こるアングラ出身の、アングラな価値観の作品群」なのである。
同時に、なろう系と(特に主人公が気持ち悪いなどと)言われている作品が価値観を調整した上で適切な二ッチ層にきちんとリーチされていたり、開き直った内容であったとしても、10作品のうち、たまに登場する1、2作品程度の裏番組的な扱いで売りに出されているならばここまで侮蔑的な扱いは受けていなかったに違いない。
商業発展の際にそこに携わる人々が「狭い場所で大ヒットしている=そのまま万人に刺さる」と都合よく解釈し、作品が持っている特異性や異常性をうまく理解したり処理しきれないままターゲットを大きく広げてしまっているのが最大の問題であり、これはジャンルの軸足をずらしたマーケティングの失敗そのものと言える。
特にアニメ化の際は、脚本家や描写などの制作に携わる人間は、アニメ制作会社、音楽会社(CD・ライブ展開)、配信プラットフォーム、広告代理店、グッズメーカー、監督、原作者(および出版社)などと話し合って当該作品を「覇権を狙う」「多くの人に届く商品」にすることを優先するケースがある。実際、なろう系のアニメヒットは明らかに大衆向けのマーケティングを行なっている。
この場合は、原作にある気持ち悪い、アングラ寄りの描写は「視聴者層を絞ってしまう要素」「作品の魅力を大衆に広める上でのマイナス要素」だと誰かが判断して「マーケティングを正しく機能させるために適切に排除する」のが正解なのである。
つまり、本来は尖った作品を尖ったまま(といってもWeb発祥の作品は根源的な価値観に問題がありすぎるので適切な修正は必要なのだが……)、刺さる層にだけ絞って届けるようにマーケティングをするか、尖りを残しつつもそれを再翻訳したり、アングラ臭をうまく消して一般層に理解させるような丁寧な工夫が必要だったのに、現実には尖りを消しきれず、売り方も間違えてしまったというわけだ。
6.根本的に分かり合えない価値観と、いまいち刺さらない反論「○○は他のなろうと一味違う」と「○○(名作)もなろうじゃん」
そして、結構起こりがちなのが、大衆目線よりのユーザーが「もうちょっと違う雰囲気の作品はないの?」と界隈の内部のユーザーに対して質問してしまうことで発生するコミュニケーションエラーだ。

この界隈に長期身を窶して、両者の間に立つことの多い筆者
(むしろ立つことが多いからこそこういう記事を書けている)であるが
Web小説を日常的に消費しているユーザーと、
そうでないユーザーの間には致命的な認知の壁があると感じることが非常に多い。
ここで界隈の価値観に染まり切ったユーザーがどんな名作を紹介しても、Web小説の源流であるアングラなユーザー層が独特の文化の中で諸手を挙げて打ち上げた作品である以上『なろう系とは全く違う作品』を求める消費者からすれば結局どれも大した違いがないように感じられてしまうのである。
(※結局、なろう系と全く違うものを求めている大衆寄りの消費者層からすれば)
『◯◯という作品はなろうの中でも一味違う! ◯◯はなろう系じゃない!』といった主張はひどく虚しいものに見えてしまう。
彼らからすると、視覚に映るものがどれもこれも別に何も違わないように感じられてしまうからだ。

↑「なろう系」は単なるストーリーの型ではなく、ネット小説の文化の中で生まれ、Web小説特有の価値観やフォーマットに最適化されてきたジャンルである。
そのため、内部評価では個性的な有名作品であっても、一定のテンプレートや「ネット小説ならではの特有の味付け」が付与されてしまう。
界隈では「なろうの最終兵器」と称されるワードが頻繁に登場するが、最終兵器扱いされている時点で、結局はWeb小説の文化を色濃く受け継いでいるので、過去のトレンドと完全に切り離された存在とは言えない。
界隈の内部の評価では物語の内容自体はそれぞれ異なるように見えるのだろうが、テーマとは無縁の読者を気持ちよくさせる要素、ストーリー展開、舞台設定、単語選択などの類似性が高すぎるため、そういった文化的なお約束を知らないユーザーからすれば「結局いつものなろう」としか見えないのだ。
内部の読者からすれば斬新で特別な作品でも、外部の視点ではどれも似たようなものに感じられてしまうのは、発祥の文化的な潮流が根本的に共通しているからだ。
そのため、「なろう系じゃない作品を探している」という人に「〇〇は他と違う!」と既存の人気作を紹介しても、最終的に「いや、結局同じじゃん」と言われてしまうのは必然であり、内部と外部の認識のズレが生む構造的な問題なのだ。

↑なろう系の批判をされる場で「なら水戸黄門もなろう系ではないか」と言い張る人が頻発しているが、この場ではっきり言わせて欲しい。その論も根本的にズレている。
確かに「俺TUEEEで勧善懲悪の話」という点では共通する部分があるかもしれないが、なろう系とは単なる物語の構造やテンプレートではなく、特定の文化的背景と時代の流れの中で形成された固有の潮流を指すものであり、Web小説文化の文脈で読者が求めたものを最適化した結果生まれたジャンルである。
なろう系はアングラな読者の参加型のフィードバックを受けて欲望や自己投影を第一に発展してきた独自の文化圏に属する概念なのに対し、水戸黄門は江戸時代の講談がルーツとなり、時代劇として確立された作品であり、成立の仕組みも文化もまったく異なる。
「主人公が無双する話なら全部なろう系」とするなら、スーパーマンも三国志もギリシャ神話もなろう系になってしまうが、そんなことを反論以外で本気で言う人はいない。
「なろう系」という言葉は、Web小説特有の文化や価値観、お約束の全てが混ざって展開される作品群を指すのであって、ただ物語の構造が似ているというだけで無関係な作品を巻き込もうとするのは暴論でしかない。
そして、実際になろう系の文脈でそれらが語られて同じように批判されることもない。
なぜなら、こういった大衆向けの作品群は、ある程度の社会的な認知的共通理解を踏まえた上で作られているからだ。
だから、たとえ単純な勧善懲悪や定型的な展開であっても、時にはアンチテーゼであったとしても、視聴者が「そういう枠組みの物語だ」と納得できる土台がある。
(※もちろんすべての作品がこの土台を作れていると言っているわけではない。世の中には大衆向けであっても、消費者の欲望に過度に特化しすぎた挙句に世間や批評家にぶっ叩かれた例がきちんと存在する)
一方で、なろう系は主人公とその分身である一部の読者だけが気持ちよくなるための欲望を主体・根源として(特に原作はアングラ読者層の価値観に合わせることが生存戦略になっているので、自然と欲望が主体になりやすい)、世界のルールや倫理などを都合よく書き換え、そこに後から作劇部分を足して優れているかのように言い張ってしまうから、外から見ればただの自己満足や承認欲求の押しつけにしか映らない。
この価値観の有無と差異こそが決定的な違いであり、だからこそなろう系は他の創作物と比べても、「作品の何がおかしいのか認知されていないこと自体がおかしい」というある種の気持ち悪さや白々しさが一層際立ってしまうのだ。

似たような文脈に見える作品でも、
「テーマや物語をメインとして、そこに快楽的な面を添えるか」 、
「読者の薄暗い快楽が重視される場所で、快楽を原点として物語を作るか」
この二者の違いはとても大きい。
「水戸黄門もなろう系だ!」という主張は、「アニメもディズニー映画も絵が動くから全部同じジャンル」とか「豚肉は豚が作物を食べて育っているから実質野菜」とか「ハンバーガーとおにぎりはどっちも片手で食べられるから同じ食べ物」と言っているのと同レベルであり、その作品がどのような文化や文脈の中で生まれ、どんな消費者層に向けて、何を根源に作られているのかを理解していない証拠でしかない。
また、これらのWeb小説の有名作品は短期間に次々と連続台頭することで、「Web小説という媒体は、他の創作媒体と比べて自由な創作形式を受け入れにくい」という印象を視聴者に与えやすい。つまり、作品の舞台や構造が似通っており、多様性に乏しいと認識されがちなのだ。

↑その結果、有名作品への評価は個々のクオリティだけでなく、「媒体全体の傾向」の影響も受けることになってしまう。実際、Web小説は他のコンテンツ発信媒体に比べて作品のバリエーションが少なく、流行が急激に変わることはない。結果として、これらの有名作品が好みに合わないユーザーは深く入り込めず、「閉じコン化(特定の層にしか受け入れられない状況)」を招いてしまう。
加えて、後続の作品も独自性が低く、質の低いものが多くを占めるため、批判の的になりやすい。

↑一方で、たとえば『少年ジャンプ』のような漫画雑誌では、カラーリングや時期ごとの流行がありつつも、異なるジャンルの人気作品が同時期にヒットし、広くマーケティングされることがある。
このような状況がWeb小説にもあれば、「なろう系」という偏ったイメージや蔑称は生まれにくかっただろう。
この二者の違いは、創作環境の差によるものでもある。
有名漫画雑誌は最初から大衆の方向を向きつつも、編集者が話し合って雑誌全体のバランスを考えながら連載する作品を決めることで作品の多様性を確保する。
それに対して、Web小説はアングラな環境から、特定の読者層が直接的かつ多数決で際限なく打ち上げた作品が中心になりやすい。
つまり、Web小説は「誰でも参入できる開かれた場」であるように見えるがその実は、「多様性の確保が極めて苦手で、広く大衆向けの作品を打ち上げる仕組みも極めて弱く、元来持っている内輪向けのアングラな色ばかりが強くなりがち」という構造的な問題を抱えているのである。
その結果、特定の作品群が突出して注目を集め、作品のバリエーションが狭まる。これにより、Web小説全体のイメージが「なろう系」という特定のジャンルに固定化されやすいのだ。
③世に出回るまでの「打ち上がり方(環境)が歪」Web小説投稿のサイトの構造問題
結論から言ってしまうと、なろう系は作品が評価を受けて打ち上がるまでの環境(システム)自体が極端に歪かつ『Web小説という素人色の強い(コアな)文化で生まれている作品群』であるからだ。
そして、そのコアな文化の中で評価された内容や構成のまま大っぴらに世に出回ってしまうため価値観の齟齬から批判が起きやすく、その結果、ジャンル丸ごと過剰な批判を受けてしまうのである。
ここまでの説明で、Web小説のアングラ文化やそこから生まれる作品の特徴について、一つの価値観として整理した上で根源的な「なろう系批判」について説明させてもらった。
それでは次に二つ目、小説家になろうで人気の作品がどのような評価構造のもとで台頭していったのか。そして、その評価構造がどのような問題を内包していたのかを説明させてもらう。そこから、その評価構造が時間とともにどのように変質し、さらに歪んでいったのかについても、順を追って話していきたい。
ここからの話は、Web小説投稿サイトの状況が年々悪化している、むしろ加速度的に進んでいるという認識を前提にしてほしい。
つまり、先程の項目で述べたWeb小説文化の源流の問題点が、時の経過とともに改善されるどころか、むしろ深刻化して悪化してきているということになる。
1.Web小説の構造の問題と「連載速度重視」
システム最大の根源的な問題は、Web小説というコンテンツの基本構造と連載形式にある。
例えば、文芸小説などでプロの書いた紙媒体や文庫本単位の書籍だった場合、出版社に実力と面白さがある程度保証されている上に、お金を支払って作品を購入するため、読者の感性と相性が極端に悪くない限り、作品は最後まで読まれるだろう。
つまり、文庫本単位の起承転結形式で話が評価されやすいシステムになっている。
しかし、素人が書く無料のWeb小説はそこで勝負をする以上、リアルタイムでの連載形式が基本だ。
『(面白さの保証のない)無名素人が書く連載作品』という縛りの中では、とにかく短すぎるスパンで読者を惹きつける必要があるため連載速度と話の展開速度を重視せざるをえなくなる。
加えて、Web小説の現在のメインの読者層はPCではなくスマホを使って通勤時間などの隙間時間で小説を流し読みする。
尚のこと、短い時間で一話を読了できる作品の方が評価を受けやすい。
似たような連載形式だと例えば漫画雑誌の週刊少年ジャンプなどは毎週19ページ前後。連載の初回掲載時にはもっと長くなって58ページ、二話目で29ページくらいの尺をもらえるようになっている。
しかし、出版社が内部で話し合いを行って連載を決定している週刊誌などとは違って、Web小説投稿サイトでは取り扱われている作品の母数が違う。
あなたがこの記事を読んでいる今この瞬間にも、大多数の素人の手によって大量の作品が生み出されている。
その上完全無料であり作品の掲載期間は無期限だ。

識字率の高い日本において、文章というのは書くだけならば専門的な技術を要さないため、品質を問わなければそれこそ誰でも無制限にコンテンツを投稿できてしまう。書籍の出版と違ってWeb小説投稿サイトに投稿するだけならば、作品の質がどれだけ低かろうと、内容が似通っていようとも足切りされるようなことはない。
(↑最近でも新しい小説投稿サイトが小中学生に荒らされたというニュースがトレンドになったわけであるが)Web小説というコンテンツ構造の一番根っこに抱えている致命的な問題がこの参入敷居があまりにも低すぎる問題である。
汎用性が強すぎる画像が生まれた#チ球の運動について pic.twitter.com/MYrEXkctnY
— ぱんまる/KTS (@kts_pn2mr) November 30, 2024
かつての動画投稿サイトの黎明期や同人ゲームブームや漫画などとは違って、Web小説投稿サイトはその前身であるWeb小説文化の時点で『文字を書ければ誰でも参入できてしまう』という特性を持っている。
つまり、参加のための敷居が極端に低くなっており、新規サイト立ち上げや流行のスタートラインの段階で、技術的な足切りが発生しない上に無料で発信&消費できてしまう。
そのためWeb小説というコンテンツに対する人気が加熱すれば加熱するほどに、大量の低年齢層ユーザーや能力の低い素人がコンテンツ発信者として無制限に新規参入してきてしまいその圧倒的な母数によって界隈を埋め尽くし荒らしてしまう。結果、他の創作媒体と比較しても熱意のあるユーザーや良い作品が圧倒的に埋もれやすい。
要は元から環境が詰んでいたのだ。
(※とはいえ、他の創作コンテンツとなろう系小説の流行。二者に差があるとするのなら、その模倣が生来しやすい環境だったか、そうでなかったかの違いでしかないだろう。後述するが、どんな分野でも、参入のハードルが低くなればなるほど、素人による『量産型の模倣』が蔓延し、結果として本来成長しうる新しい創作コンテンツの発展を阻害してしまうため。筆者は能力の低い素人が無制限に大量にコンテンツを発信できる環境は過剰な選別や表現規制と同じレベルの悪であると論じている)
常に参入敷居が異常に低いという事情があるため、Web小説投稿サイトはどこも作品の母数自体がとても多くなる。
加えて、小説という創作媒体は他の創作ジャンルである動画や絵などと比較しても内容が理解されて評価されるまでに時間がかかってしまうという問題を抱えている。
参入敷居が低すぎる故に瞬く間に増えていく作品群。
そして中身の良さ、深さが即座に理解されない媒体。
この二つが重なったらどのような環境に傾いていくだろうか?
少なくとも従来の小説と同じノリでコンテンツを発信しても誰も作品を読んでくれないどころか、100%の読者が作品の途中で皆いなくなってしまう。
序盤の掴みを短く、かつわかりやすくインパクトのあるものにしなければ「無料で選び取れる他の選択肢(新着作品)が大量にある」読者に即座にブラウザバックされてしまう。
現在の煮詰まり切った環境の小説家になろうでは最初の一話は1000~3000字、二話以降も長くて5000字程度が限界(正直5000字もかなり危ういライン)とされている。これ以上序盤の展開を遅くしたり、先の展開がある程度読めなくなると読者がどんどん離れていく。
こんな状態では大事な一話分でほとんど何も描写できない上に(素人が書く関係で)作品の今後の面白さを保証するため読者にある程度展開を仄めかさないと読者の目につかない。つまり、生き残れない。

『読者の目を引こうとして序盤の読み味が同じになってしまう問題』を抱えている。
素人がメジャーの小説家になろうでは現状、この問題が超激化している状態なのだ。
読まれるために行われるオリジナリティ要素の徹底排除は最早週刊漫画の非ではない)
無名の素人の書く小説作品という物には安定感というものがない。無料で書いている以上、金銭での契約がされているわけでもないし。連載が止まっても責任を負う出版社などの団体が存在しているわけでもない。
続きが書かれる保証がないため、Web小説において、序盤で「今後どうなるのだろう?」という先の読めない展開を構築してしまうと読者に対して期待ではなく不安をもたらしてしまう。
このような状態が加速し続けた結果、近年の小説家になろうというサイトでは次の展開はどうなるのだろう?と読者に期待させようとした時点でアウトであり、『先の展開がわかるなんて面白くないだろう』というコンセプトで作られた作品は『先の展開の保証がない』という全く同じ理由で読者が居付かないため評価されず、小説家になろうでは日の目をみず瞬く間に埋もれていった。
無料で読める素人作品で次の展開が分からないのは不安になるし、次が投稿されるかどうかの保証もないからだ。(あくまで小説家になろうでのデータだが、長編作品の完結率は20%くらいである。システム的に長編を時間をかけて完結させるメリットがほとんどないというサイトのシステム的な事情もある)
読者は不安になるくらいなら他の安心できる作品に移動するだけである。加えて、序盤の短期間に見たい展開が集中していれば無料なので別に作品が休止してしまっても読者は困らない。
こういった環境に加えて、昨今では無料映像娯楽コンテンツの多様化によって、Webサービスに対して直接的にお金を払わないユーザー層は、普段消費している映像娯楽コンテンツと同じようにWeb小説を雑消費しようとする。
すなわちWeb小説は、人気を博した段階でアニメや漫画、動画といった映像コンテンツに慣れたユーザーが高速で読み捨てるコンテンツになってしまった。

現状のインターネットでは文字という概念が映像に情報伝達速度で圧倒的に敗北してしまうため、歪な形に変質してしまっているような状態なのだ。

無料で消費できる多様な映像コンテンツを咀嚼せずに消費する(咀嚼する時間が惜しかったり、無料の受動的なコンテンツ消費が日常と化している)ユーザー達が消費者のボリューム層となってしまった結果。
Web小説は、映像コンテンツと同じ消費速度に無理やり並ぼうとして元来持ちうる長所を年々省いていくようになってしまった。
文字が映像コンテンツの性質を無理に倣おうとした結果、出来上がる作品のフォーマットは次第に歪むこととなったのだ。
ここまで行くともうWeb小説がどうこうとかではなく、新聞が次第にテレビなどの映像媒体に敗北していったように、インターネットに氾濫している無料の映像コンテンツに対して、文字という媒体が長所のほとんどを発揮できずに丸ごと完膚なきまでに敗北してしまっているような状態だろう。面白さや質の保証ができない環境で大量の素人が無差別に投稿を続ける以上、内容の制限は免れないし陳腐化は逃れられない。
以上の理由から、読者は大量に流れてくる素人が書く大量の作品の中から安心できるファストでインスタントで途切れず、本能的な欲求を満たすための快楽的な物語や展開を雑に消費する傾向が非常に強いため、序盤では使い回しの(読者ウケに安定感のある)テンプレート化した導入や内輪ネタ、ご都合主義に読者がひたすら気持ちよくなれるお約束展開のラッシュ、お馴染みの長文タイトルやあらすじでのネタバレなどに次第に頼ることになってしまうというわけだ。

二次創作が既存の一次創作の人気に乗っかることで多くの注目を浴びるのと同じで。
共通のテンプレートという信頼のあるフォーマットに二次創作のように乗っかることで注目を浴びているわけである。(消費に時間がかかる割に発信数が多いWeb小説において、面白さの保証がないオリジナリティが強すぎる一次創作作品は、基本的に誰も消費しない傾向にある)
参入母数が多い上に消費に時間がかかるコンテンツなので、ほとんどの読者がタイトルとあらすじで内容を判断し、序盤の千字程度で安心できるテンプレートに則っているかどうかを判断して一話切りをしてくる。
タイトルの形式や内容も、作品としての完成度やエンタメ性や意外性を重視する創作というより、むしろ欲求を発散する目的の予定調和のポルノ小説などに近く。無法地帯なので年月を経れば経るほど内容は規約ギリギリのラインに近づいていく。(最も前述したように、素人文化が強いWeb小説は流行のスタートラインから歪な要素を抱えやすい)
このような特性を持っている為、作者が書ける話の自由度・多様性の低さは他創作の比ではない。
主人公がどんな結末に向かって行くのかということを最序盤である程度匂わせた上で極力読者を不安にさせないようにしなければならなくなっていく。
そして、タイトルで作品の流れを完全に説明しなければいけないという風潮ができてしまっているということは即ちこの字数程度でメインテーマを説明できるような作品しか執筆することが許されないということになる。
①の項目で説明した通り、元からニッチな界隈ではあったのだが、
現状のWeb小説において深み・重み・真新しさのある面白さを内包したオリジナリティのある作品を書くことは全く許されていない。
その結果として、元から歪な価値観を持っていた当該サイトのランキングも次第に変質していった。
長文タイトルが強いのは他のWeb小説投稿サイトでも同じで、これはyoutuberが再生数を稼ぐために動画サムネイルをダサい大文字やランキング画像で埋めるのとやっていることは近い。
Twitterで『○○が○○した話』という風なタイトルで漫画をツイートして注目を得ようとするのと、やっていることは同じだし。映画広告をキャストや文字で埋めて内容をわかりやすく伝えるのとやっていることは近い。
ソーシャルゲームなどで男性ユーザーを獲得するために女性キャラクターが異常な露出をしていたり、頭と同じくらいのサイズの巨乳であったりするのと似ている。
コンテンツがあまりにも増えすぎた現代で、小説という媒体を通じて誰にでも内容を理解されやすく見られるための工夫、進化の袋小路がこの長文タイトルなのである。
(……と、肯定的な説明をさせてもらったが。事実サイトの看板となるはずのランキングが欲望まみれの似たような単語まみれの長文タイトルで埋もれている状態は事情を知らないユーザーからすれば不気味だし。全体がまとめて陳腐化しているように見える。この現状に違和感を感じたユーザー達が離れていってしまい閉じコン化を加速させた結果、Web小説そのものに対する信用が失われてしまったりイメージが著しく悪化していってしまったのも事実だろう。この現状に対して、界隈の中にいるユーザーが「ちゃんと読めば面白い」と声高に主張したところで名は体を表すとはよく言ったもので、結局のところ独特な環境下で作られているコンテンツなのである)
「名前を口にするのも恐ろしい悪の魔法使いの死の呪いが俺だけに効かない件 作:横転女子高生」とかだったらハリーポッター見ないもんな https://t.co/AYb2uAcaHk
— さぎさん (@Mr_Sagi1372) February 3, 2025
ちなみにこの「小説家になろう」の長文タイトル文化は、かつての18世紀(1719年頃)の『ロビンソン・クルーソー』(原題:ヨーク出身の船乗りロビンソン・クルーソーの生涯と、アメリカ沿岸、大オロノコ川の河口近くの無人島にたった一人で28年間暮らし、船の難破によって唯一人生き残った驚くべき奇妙な冒険。そして、最後にはいかにして奇妙な方法で海賊によって救出されたかの記録)と「全く同じようなものだろう。過去の名作でも長文タイトルはあるのだから、なろう系が長文になるのは自然なことだ」などと論じられることがやたらと多いが、この二者は文化的な違いがあるため全くの同列として語るのは早計である。
18世紀(ロビンソン・クルーソーの時代)
当時の本は主に富裕層向けで、印刷技術が発展途上だった。
本の数自体が少なく、タイトルでしっかり内容を説明する必要があった。
本の「広告」や「表紙デザイン」が存在せず、当時はタイトルが唯一の宣伝手段だった。
現代の小説家になろう
Web小説は無料で読めるため、読者は膨大な選択肢を持っている。
「タイトルでしか目立てない」ため、長文タイトルが主流になった。
作品数が膨大で、ランキングや検索の中で埋もれないために「タイトル=キャッチコピー」になっている。
かつてのロビンソンクルーソーの時代は次第に本が大衆化していった。結果、表紙、広告、帯などの発展と共にそも不要になったり、没個性的で埋もれてしまう、表紙のデザインを潰してしまうなどの理由で長文タイトル文化は消えていったのである。
現状、小説家になろうはアクセス数(収益)で全く困っておらず黒字が出ているため、短文のタイトルにシフトすることはないだろうが、何かのはずみで大量の作品が即物的に消費される文化が変わったり、ランキングシステム・検索アルゴリズムの変更がされたり、作品の表示形式が変われば、短文タイトルに戻る可能性も0ではない。(現状を鑑みるとほぼ0だが)
そして、このような環境が何年も長期間放置されると何が起きるかというと、人気の作品の模倣が加速していく。
元から大衆と比較すると容認し難い価値観の作品群をさらに劣悪にした模倣品である。
小説家になろうの人気作品に人が集まれば集まるほど、手段を選ばない作者が作った本能的な欲求をストレートに満たすための短絡的で刺激的な作品が量産されて、そこにユーザーはどんどん傾倒していくようになるし。
同時に作品の専門性や文学性なども世間一般的な他媒体の人気作品などと比較してもさらに低くなっていく。このような環境で勉強して専門用語など入れてしまえば、ますます読者は来なくなるからだ。
料理で例えるなら、ジャンクフードであるラーメンに人気が出た結果、次第に味の素をひたすら大量にかけた特定の味のインスタントラーメンしか全く許されない空間になっていく……といったところだろう。
これもまあ美味いといえば美味い、理解できるカロリーと短期的快楽の塊であり、喜怒哀楽の感情が激しく揺さぶられることはあまりないが、だらだらと読み続けることはできる。
摂取し続けると流石に飽きるが、情報過多な現代社会における「手取り早いストレス解消ツール」ではある。
同時に、こんな極端な環境で「きちんとした構成を鑑みた上でオリジナリティを発揮」したらそれだけで即座に埋もれてしまうし、一般的な文庫本、文芸小説と同じようなノリで作品を構築しても全く読まれない。(奇跡が起きてランキングに掲載されたとしても、ろくな評価を受けない)
この、年月を経て極端になり果てたWeb小説サイトの環境を他の世間一般的な大ヒット作品で当てはめてみると、例えばハリーポッターならプリペット通りにハリーが置かれたところで読者のブラバが確定するし、シャーロックホームズならワトソンがホームズに初めて出会う前に読者が見切りをつけていなくなる計算だ。
(そも文芸小説が売れていない昨今、貴重なウェブという巨大なプラットフォーム上で、この二者のようなフォーマットのヒット性を持った作品が打ち上がる可能性が常に0になっていると考えると、どれだけ常態的な機会損失が起きているのか想像するだけでもゾッとする。
素人文化の強いWeb小説を発信 or 消費するユーザーは二次創作の題材としてその知名度の高さからハリーポッターという作品にやたらとぶら下がろうとする傾向にあるが、もしも世界中の誰もハリーポッターの良さを知らなかったら、おそらく現代のWeb小説サイトに投稿しても誰も途中まで読まないに違いない)
素人が好き勝手に無制限に作品を投稿できる環境であるが故に、歪な環境で特定ジャンルに人気が集約されて、さらに元から歪な人気作品の模倣ばかりが繰り返されて注目を浴びた結果、序盤特化のテンプレートのフォーマットばかりが流行&大増殖して、サイトの内の多様性を確保することができなかったどころか、瞬く間に失われてしまったというわけだ。
さらにWeb小説投稿サイトは連載至上主義が加速しているため、目先の展開に対して感想を書く(というより読者目線で言うと日刊連載の方が感想を書きやすい)読者が多い。そのため、人気を出して生き残るためにWeb小説作品は『無名作者の漫画アプリ連載作品』よりも厳しいライブ感を要求される。
現在小説家になろうを利用しているユーザーは――
・話を最初の数行だけ読んで面白くなかったら即ブラウザバック。
・自分にとって少しでも見慣れない設定や展開、擁護があると不安になるので即ブラウザバック。
・連載中気に食わない展開があると感想欄で文句を言って、作者がそれに応じないとブックマークやポイントを撤回して即ブラウザバック。
――という風に(無料で消費できる他の候補が大量にあるため)作者の独自采配に対して厳しいことが多い。
読者にストレスを与える展開はその話の内にストレスを解消しないといけなかったり、酷いと後書きで『この悪いキャラクターは後でボコボコされます。ご安心ください』とか『あまりない展開ですが、主人公はすぐに大逆転します』というような文言を作者が追加しないといけない。
例外はパーティ追放系など『後々スカッとする保証がされている展開』そのものがテンプレート化している場合のみなのだ。(結局強いのは失敗の少ないテンプレート作品ということになる)
これに関しては無惨様に同意 pic.twitter.com/f9pqJLdmCb
— フルフル量産種💢 (@YOP8fqJJOKhRjA3) November 13, 2022
↑こんな感じの批判はされがちだが、実際にこのような批判を真に受けてテンプレから外れた作品を作ったら読者は全く来なくなる。
(なろう系に飽きたユーザーがこのコラのような批判をしたくなる気持ちは痛いほどわかるが)実情はここまで単純な話ではない。
買い切りの書籍単位で完結する紙の本と、無料かつ連載至上主義のWeb小説。この二つはフォーマットが違いすぎるし、何も知らない人間からすれば無名素人の書いた長ったらしい作品など面白さの保証がないのだから、評価を受ける以前に最後まで読まれないのは当たり前の話で、商業的な作品以上にいつ打ち切りになるかもわからない、連載が保証されているわけでもないのに盛り上がりのタイミングが最序盤にない作品など支持したくないのだ。
他に選択肢がたくさんあるのに投稿を待たされた挙句に展開が遅かったり、主人公が敗北したり、ストレスの貯まってしまう展開になってしまうなど受け入れられないというのは、なるほど確かに理解できる話だ。
そして同時に、ここまで話した『テンプレートの蔓延』によってある現象が付随して発生する。
(言い方が悪いが)こういったテンプレートの過剰な蔓延によって『自力でコンテンツを生み出せない』ような創作能力の低いユーザーでも二次創作どころか、コピペに近しい行為で簡単に新規参入ができてしまうため質の低いコンテンツの全体数がさらに爆発的に増える。
↑Steamなどのゲーム市場でも他の開発者から既成の人物や物体、背景などを購入し、それをほとんど加工することなく、完成品のゲームとして販売する行為が問題になっている。
これは現行のyoutubeなどに近しい状態であり、効率の良い、簡単な模倣の仕方が広まることによってコンテンツ数が増加すればするほど皆の目につきやすいだけの刺激重視の低品質なコンテンツが目に付くようになっていく。
(だからyoutubeなどでもショート動画が氾濫し、サムネが10割などと言われるようになってしまっているわけだ)
評価を受けるためのテンプレートが蔓延→テンプレートの模倣により全体のコンテンツ数が増加→数の多い、目立つような低品質の作品しか注目されなくなる→評価を受けるためのテンプレートが蔓延……
――というループが発生してしまうわけだ。
このような経緯があって、現在の最新のなろうの環境に適応できている作品は、きちんとした物語の構成上で最低限必要なはずの(文字数が少ない日刊連載上では読者にとってつまらなく感じられる)部分すらも片っ端カットしてしまった作品であり、全く同じ理由で話そのものが陳腐化してしまっているというわけだ。
システム的に連載速度が重視される関係で後の話の展開や全体の構成などろくすっぽ練られていないようなパターンが圧倒的に多く、話や世界観や登場人物の性格の整合性が取れていなかったり(むしろ勢いが大事なので無理に整合性を取らない方が良かったり)、長編でありながら作品を通しての大目標はまだしも中間目標すら存在していなかったり、キャラクターの描写が行き当たりばったりでいい加減だったり、展開も粗雑になりがちで誤魔化しが効かないレベルのわかりやすいご都合主義展開に陥ってしまいがちなのだ。

それが当たり前であるかのようにアニメになっていった。
単話単位で評価を受けることが重視される『小説家になろう』の現在の環境では作品全体の整合性や高い専門性などは邪魔となっていて、それらを作品に投入する労力が作品の評価に一切繋がらない。結果、行き当たりばったりのご都合テンプレ展開との相性がとても良く、小説家になろうというサイトではこの異常すぎる環境に適応できた作品以外の全てが評価を受けることなく淘汰されていっているというわけだ)
これらの作品群は『キン肉マン』や『テニスの王子様』のようなネタ要素のある週間漫画のような物だと例えられているが、全然違う。
例えるのならば『野球漫画』で選手たちが私服で街の中でフェンシングをしていて、それを見て観客がルールの説明もなしに普通に応援しているくらい破綻した異常な状態だ。最低限の常識的な体裁すら守れていない上に、ネタと割り切ってふざけたり突き抜けているというわけでもないため『ツッコミを入れて楽しむ』ということすらできない。
しかし、そういう作品を投稿している人間が元凶であるというわけではない。読者や作者の人間性とか感性とか品位とか、善意悪意が最大の問題ではなく。
構造的にそういう作品以外は全滅してしまった(生き残れなかった)という話なのである。
そして同時にこういった生き残れる作品群は構成の時点で読者離れを避ける工夫がきちんとされている。具体的には、長いスパンでの起承転結がついていないことが挙げられる。つまり、読者の目を惹く(サイト内で評価を受ける)ために、起承転結ではなく、起転起転起転起転起転起転起転…………というような小さな盛り上がりを連発する構造になりやすくなるのである。

時期的に思い返してみると、この作品のアニメ化は終わりの始まりだった
こういった“起転”を短いスパンで何度も何度も繰り返す構成の作品は、特に一話の時間が長いアニメという別の媒体になった際に強烈な違和感を発する。
結局、先程述べたアングラ文化であったり、このWeb小説の基本的なコンテンツ構造に反するような作品、例えば、幅広くシンプルに大衆受けするような作品、独創的な展開を序盤にやってしまった作品、文庫本と同じノリで起承転結をロングスパンでやろうとするような(映画や紙の小説のような)構成がきちんと練られた状態で執筆された作品には読者が瞬く間にいなくなってしまうのである。読まれないのでは評価のつきようがない。
そも現状の小説家になろうだけでも110万以上の作品が投稿されている。その現状を考えれば、必ずどこかになろう系とは違う新たな可能性を秘めた作品が存在しているはずである。現在批判されているなろう系とは全く異なる特徴を持ち、ヒットし得るコンテンツが一作品も存在していないというのは考えにくいことだ。しかし現実には、なろう系とは全く異なる色彩を持った革新的なトレンドが未だに市場に出てきていない。
本当の意味でなろう系と一味も二味も違うような作品は、現状のWeb小説サイトの中では読者を不安にさせる上に、過度に読者の欲望に対して迎合などしていないため、ろくに評価すらされないどころか、評価システムやWeb小説の構造の関係でほとんど最後どころか途中まで誰にも読まれていないだろう。
そういう作品は人気ジャンルのランキングには100%載らないので、表には一生出てこないまま作者の心が折れて作品が消えたり、執筆が止まる。(このため作者達の間でも、非王道の作品をなろうで書くことは無意味、無益なことであり、非推奨とされている)
即ちWebなのに文庫本のフォーマットに倣って10万字単位で話をきっちり面白くまとめようとするタイプの作者は、なろうの日刊連載至上主義にカケラも向いていないと言える。
文庫本と同じノリで起承転結をWebでしっかりつけようとすると“承”の辺りで読者が見切りをつけてブラウザバックしてしまうためだ。

無料のWeb小説を三巻分どころか一巻分までまとめて読んでくれるような読者など存在しない。
良し悪しの評価をされる前に読者がいなくなってしまうのでは、評価のつきようがない。
(そもWeb小説というコンテンツはスタートラインから素人文化があまりにも強すぎて、
このレベルの面白い変化球を多数容認して世に打ち出せるような懐の広い界隈ではない)
現状の最新のWeb小説の構造だと起承転結が文庫本単位で徹底している以外にも、一話の文字数が多くて連載速度が遅いとか、文芸的に優れていたりとか、読み込んで楽しめる構造になっていたり、独自性が強かったり、一般大衆的にウケる内容だとしてもWeb小説メイン層の独特な価値観には迎合していなかったり、時間をかけて考え込まれて書かれた作品は、内容がどれだけ面白かったり優れていたとしてもこれらのどれか一要素が入ってしまうだけで他の創作分野以上に(視覚的な情報に欠けているため)徹底的に軽視される。
それこそニッチでない。大衆受けする面白い作品を書けるプロですら匿名(ネームバリューなしの状態)でフォーマットに従わなければ埋もれてしまうだろう。
(※埋もれた挙句にプロの作者がその事実をカミングアウトした例は実在する。しかも、このプロが書いている作品は実写映画化しているくらいには有名な物だ。公に表明していないだけで、名義を隠して投稿した結果埋もれてしまったプロは他にも存在しているだろう。文庫本の作家とWeb小説家は戦うフィールドがあまりにも違いすぎるし、消費者層も全く違う存在なのだ)
Web小説特有のアングラな文化や、そこから発生する流行があまりにも一般的な物語のフォーマットや面白さからかけ離れすぎていて、世間的に評価されるようなタイプの作品ですら評価のスタートラインにすら立てない。
これは極めて独特な環境で『なろう系』以外の作品は誰にも読まれないという致命的な問題を抱えている。
そして、そのようななろう系以外の読まれない全ての作品の作者からすれば、小説家になろうは読まれることを期待していないただの作品置き場でしかないわけだ。
(後述のなろう特有のテクニックやなろうのテンプレに頼らない場合)環境があまりにも極端すぎて創作能力がどうこうの話ではないので、天性のセンスだけで成り上がるのはほぼ不可能といえる。
そして、この序盤特化の出オチのような作品が跋扈する環境に対して、長編を愛好していたユーザーは「どうせ無料の選択肢がたくさんあるし。完結済みの作品だけ読めばいい」という方向にシフトしてしまったのだが、(次第に完結済み作品一覧は汚染されていき)その読者の行動によって完結作、及び長編を連載する作者の母数は更に減少していくこととなった。
完結済みしか読まない読者が増えると、連載中の長編を読むユーザーがいなくなり、応援を受けられず完結までに至らないのである。
これも小説家になろうというサイトどころかWeb小説全般に通ずる問題点なのだが、このサイトは以前から部単位、章単位でまとまった評価をもらえる構造になっていない。
話単位での短いスパンで評価を得るか、連載を開始して完結まで書き切るかの両極端な選択肢しかない。
漫画の単行本で例えると最終刊まで書き切って初めて評価が始まるようなものなので、長編の単行本分の分量を一冊分書いた段階では評価をもらえない。
つまり、最初の段階で目立てないような文化的に新しい作品は評価を貰えない。Web小説の読者は無料であるが故に作者に甘えるな、エタるな、完結させろと言いがちなのだが、金銭など受け取っていない状態で、応援を貰えなければほとんどの作者はエタる。
結果、長編作品自体はさらに減っていってしまったのである。

そういった作品の連載が不定期で続いているのは連載そのものがどこかの段階で評価されているからだ。
完結した作品しか評価されない環境になると、連載する長編作品の母数が減るのは必然だろう。
2.古臭いインターフェースに歪すぎる評価基準。小説家になろうの『ランキング至上主義』
加えて、短い一話を後先考えずに連載し続けることを『小説家になろう』の評価システム自身が助長してしまっている。
小説家になろうにおいての絶対的な評価指標がランキングである。

初めてサイトにアクセスしたユーザーは圧倒されることだろう。
そもランキングというシステムが重宝されるのは、日本という国の文化も大きく関係していると言える。
昔から日本人はランキングが大好きだ。
儒教的なヒエラルキー社会であり、自分がどの位置に居るのか確認していないと不安になる国民性がある。
また、狭い島国であるが故に単一民族・単一言語社会だったため、内部での均質性も進みやすい。他国に比べて「多数派=正義」の傾向が強く、相対的な価値観が育ちにくい。
「みんなが何を見てるか」「“みんなが好きなもの”は何か」ばかりを重視するような同調圧力や空気を読む風潮がとても強い。
結果として、昔から皆が消費しているコンテンツを内容の良し悪しそっちのけで消費しようとする傾向が強く、自分の好きな物を自分で見出そう、生み出そうとしないで既存の人気概念にすぐに寄りかかろうとする。(既存の人気コンテンツに乗っかるような二次創作行為が昔から人気な理由も、この辺りに起因しているのだろう)
このスタイルは一長一短で、様々な分野で秩序と安心感を生む一方で、個人の多様性や変化への対応、例外的な新しい概念を犠牲にしすぎる傾向がある。
そんな日本という国家ではランキングが特に好まれる。

そして小説家にのなろうのランキングに掲載されるためにはどうすれば良いかというとサイト内で評価ポイントを集める必要がある。

しかし、最大の評価指標であるこのポイントの高さは実は面白さの指標ではない。このポイントは『小説家になろうの評価システム下で、なろうのコアユーザーに対してどれだけ注目を集められたか』の指標なのだ。
実は小説家になろうのランキングにおいてポイントの掲載基準はなんと総合点しか存在していない。(読者の評価平均点などは一切表示されない)
加えてマイナス評価が存在していない。小説家になろうの評価システムは5段階(2~10点)評価。平均評価順で作品が評価されることは一切ない。
つまりどれだけ自分にとって面白くない、酷い作品に出会ったとしても『この作品は読めたものじゃない!』と、最低の☆1評価をつけた瞬間に加点扱いとなって総合点しか評価されないランキングを駆け上り『人気の作品』として取り扱われるのだ。
(しかも、評価とは別にブックマークを付けただけで何故か2点の加点がつく謎仕様。これについては後述)
憎まれっ子世に憚る。無名より悪名。どんなことをしてもとにかく目立ったもの勝ちなのだ。
このサイトではどれだけ個人が感動しても12点以上の評価点をつけられない。つまり、少数の読者が好む名作よりも大多数の読者の目についてボロクソに批判されて頻繁に低評価をつけられまくる作品の方が圧倒的に目立つしランキングに掲載される仕組みになっているのだ。
酷すぎるというか最早異常な環境と言わざるを得ない。
(理由があるとするのならば、ランキングシステムを残したまま後述する平均評価システムを導入すると、参入数から逆算してまず確実に徒党を組んで低評価工作を行うユーザーが大量に出てくるためだろう)
重視される指標が総合点のみなので『面白い(星5)』『ほんの少し面白い(星1)』という意見しか出すことができず、『つまらない、面白くない』という意見が一切反映されないサイトになっているわけだ。(後述するが、このポイントはサイトに登録していない外部のユーザーが入れることはできないため、いよいよ持って評価される作品の傾向は先鋭化し閉じコン(閉じたコンテンツ)になるという問題を抱えている)
――というより、既に閉じてしまっているというのが正解である。
実は、ランキング上位の作品の平均点はここ数年は割と高めになっている。
しかし、これは前述のシステム的な問題が何年も放置されてしまったせいで閉じコン化があまりにも進みすぎて、低評価をつけるようなユーザーは既にいなくなってしまったというだけなのだ。
かつて、こういったランキングの作品群にきちんと向き合った挙句に低評価をつけていた層は、時代の流れとともに『ランキングなんて信用できないのが当たり前』『そも、評価システムなど何年も満足に機能しておらず低評価をつけないこと・読まないことが一番の低評価になる』ということを理解した挙句にランキングそのものを利用しなくなったり、サイト自体は愚か、Web小説界隈から完全に見切りをつけて出て行ってしまったのである。


しかし何事にも限度はある。
ランキングの腐敗が一定のラインを超えた段階で、ユーザーの信用は次第に落ちていき
ランキングから作品を漁らなくなったり、サイトや界隈そのものから離れていき
環境の先鋭化が余計に加速していくのである。
話を戻すが、この評価システムはそれ以外にも多くの問題を抱えている。
例えば、ブックマークをつけることで付与される2ptと評価点をつけられることで付与される10ptが分かれている点も読み込む作品にとっては実はかなり最悪な仕様だったりする。
内容がわかりやすいなろう上で強い作品はまとまったタイミングで12ptがつきやすいのに対して、じっくり読まれる作品はブックマークの2ptが最初について、間が空いてから10ptがそれぞれ全く違うタイミングでつきやすい。短期間でどれだけ多くのポイントを稼いだかが重要視される小説家になろうで強いのは圧倒的に前者の作品なのだ。このサイトではしっかり読めば面白い作品に人権というものが全く存在していない。
それだけではない。読んでいるうちに評価を上げていくような作品もその日中につけられた加点分だけしかランキングに反映されないのである(例:4ptから10ptに評価が上がっても6ptしか日間ランキングに反映されないなど)。
すなわち日間ランキングに載るという一点で考えた場合でも短期間でまとまったポイントを取れる構造の「インスタントな快楽を得られるわかりやすい作品」の方が強いのである。
確かに世の中、売れるものは大衆向けかもしれないが、作品の多様性の無さは漫画や映画よりもWeb小説の方が極端だと感じる。
もしかすると、小説家になろうというサイトでは低評価を付けさせない=作者を守るという意図があるのかもしれない。(事実このサイトでは作者を読者の批判から守ることによってユーザーを獲得してきたという一面もある)

作者を「応援しましょう」という表記になっている。
それでありながらこの機能には『評価システム』という名称が公式で使われており、
作者に対する厳しい評価を避けようとした結果なのか定かではないが、
評価したいのか応援したいのか、中途半端で何をさせたいのかよくわからない状態になっている。
作品を応援する目的ならばそもそも5段階で点数をつけられるようにしてある意味はない。
これならば、作品を評価をしましょうと書いてあった方がわかりやすいだろう。
さらにいうと、小説家になろうというサイトでは
この5段階の評価システムをどのように運用するべきなのか、どのような判断基準で点数を入れれば良いのかなどの明確な指標などは一切提示されておらず。
非常に曖昧かつ不安定でいい加減なシステムと言わざるを得ない。

二次創作が中心の小説投稿サイト『ハーメルン』では平均評価の項目をサイトに導入している。
(最も、Web小説流行の源流である素人の二次創作に対して本来のアングラな空間を提供するポジションのサイトであるが故に、利用するユーザー層は一般大衆と比較したら圧倒的にアングラな層であるし、「Web小説界隈で読まれない作品群」に居場所があるというわけではないのだが)

戦犯リストみたいになってしまっている……。
ここまで平均評価を賛美するような流れになっているが、しかしそも実は科学の分野では、評価数や情報が集積されればされるほどそのコンテンツの本来の魅力がわからなくなることが明らかになっている。
人気とそのコンテンツの真価は一致しないどころか、最近の研究では『他者の評価が誰でも見える環境下で、評価者が増えれば増えるほどコンテンツが本来持ちうる社会的影響力と社会的な成功の結果がかけ離れていく』。つまり、実は大多数が下した評価の平均値というものは正しい評価に集約するのではなく。すでに付けられている他者の意見に引っ張られて、正しい評価から次第に離れていってしまうのである。

下の評価のつき方をやたらと信用しがちだが。
実は評価が公開されている時点で、後続のユーザーの認知が歪むので
科学的には大して信用ならない。
(ある程度信用できる集合知というのは他者の評価が一切見えない状態で行われる評価か、もしくは誰が見てもわかるようなレベルの駄作に対する低評価のみなのだという。
不思議の名作あり、不思議の駄作無しとは良く言ったものである)
↑最初にそれっぽい情報や高評価を付けておくだけで、「400円のワインがコンテストで金賞」なんていう笑えない話がいとも簡単に起こってしまう。
評価数や平均値が増えて、それが可視化されるほど真実から遠ざかる。
みんな安心のために「他人の評価」に乗っかっていく。
つまりそも、評価システムがどうこうとか平均評価がどうこう以前に、常に評価が公開された環境下で行われる多数決によるポイント評価という仕組み自体に相当な無理があるのである。
例えるのなら、『曖昧な議題の会議の場で、一人目の賛成者が手を挙げると他の参加者がゾロゾロと手を挙げていく』のと同じように。
おかしなことに「皆が集まってお互いの出方を伺いながら出す意見は実はいうほど正しくない」し、
『皆が評価しているから良いものに違いないという言葉ほど、
現代社会で胡散臭いものはない』のである。
その一方で、実は逆に他者の評価点やラベル(◯◯氏が絶賛、とか有名な著者が書いたという情報)を完全に隠した状態で、大衆がきちんと最後までコンテンツを消費した上で出した評価や予測の平均値は、母数が増えれば増えるほど正確になっていくというデータも出ている。
しかし実態として、これは他のWebコンテンツでも当てはまる話なのだが、どのようなWeb小説投稿サイト(それこそ相対的に優良な評価システムを構築しているハーメルンですら)でも、そもきちんと評価点をきちんと入れるユーザーの割合自体が圧倒的に少ないという問題がある。
すべてのサイトの評価システムは、個々のユーザーがコンテンツをしっかりと最後まで消費したうえで、きちんとした思考の元、段階ごとにきちんと評価を入れることを前提にしている。
しかしそんな前提はほとんど全く機能していないのだ。
そも評価を入れなかったり、既に付けられている評価に引っ張られたり、コンテンツを適当に読み飛ばして、適当に評価を入れるユーザーの方が圧倒的に多いのである。
評価に評論やレビューなど一切必要なく。どんな年齢層のユーザーでも、スマホでワンタップで簡単に評価を入れられてしまう。
その上で、誰も彼もが他人の評価に引っ張られて評価点を入れるので、目も当てられない。

これらの経緯か、どのような小説投稿サイトでも評価システムが十全に稼働していないという問題を抱えており、どのWeb小説サイトも結局は現実と同じように成功者が過剰に成功し続けるという無法地帯から一向に抜け出せない。
そのため、読者に読まれるものがさらに読まれる構造を加速させがちであり、要するに一番最初に跳ねたもん勝ちなので、読者の欲望に過度にすり寄っている作品や、序盤特化のショートコンテンツがますます強くなる。
結果としてどの小説投稿サイトも、中身など二の次三の次で、とにかく過剰に目立つことで、読者の母数を大量に稼がないと作品が全く浮上できない仕組みになっているのは否めない。
というわけで、その中でも評価システムに特に問題が多いと言われる小説家になろうでは(作者目線で考えると)、この評価ポイントを大量に増やす方法にあたってとにかく手段を選ばず注目度を集めることが大事になってくる。
小説家になろうでは『ランキング至上主義』と言われるほどにランキングに載ることが重要視されており「ランキングに載れない小説は存在していないも同然」と言われるほど、ランキング外の作品には読者が永遠にやってこない極端かつあまりにも貧弱なシステムが構築されている。
一方でランキングに載る作品はランキングに載れるのでさらにランキングに載り続けるというyoutuberも真っ青のとんでもない格差が発生しているわけだ。読まれるために、評価されるために、ランキングに載るためにランキングに載る必要がある。
加えて、ジャンルの選択も重要だ。

掲載されていたのは総合ジャンルの月刊ランキングページ。
このサイトはポイントを獲得すればするほどにユーザーの目につく仕様になっている。
当時、この総合の部分に新規で掲載されるためには、
読者の母数が多い人気ジャンルのランキングを駆け上がる必要があった。
このトップページを始めとして、小説家になろうというサイトは(流行や二匹目のドジョウを手段を選ばず狙う作者が大量に過密する関係で)読者が特定の1ジャンルに過密して類似する作品が生み出されやすい環境になっている。不人気だったり流行りではないジャンルのランキングに掲載されたところで、母数の読者が少ないため評価を受けられないので――
特定の作品がヒットする→別の作者達が大量に集まって同じジャンルで似たようなコピーコンテンツを量産→読者が集まる→ポイントを貰えるので作者が集まる→特定ジャンルの作品がサイトの様々な部分に掲載されるので読者が集まる
――といったループによって1ジャンルのごく数%の人気作品にだけ人が集まり、その流行が変わる度に同時にごっそりと人が減っていく現象が発生してしまったのである。

大量に存在しているウェブサイトのアクセスが平等ではなくごく一部にサイトに集中するように。
小説家になろうは皆が消費しているものが素晴らしいという超自然状態、
無法状態を長期間放置しているサイトなのだ。

ブックマークが0の作品、多すぎ問題。
小説家になろうというサイトはほとんどの作品が、誰にも評価されることすらない超格差社会。
一方で、特定ジャンルの読まれる作品のみがシステムの恩恵を受けて固定層に読まれ続けるという超二極化が進み続けた。
(※後述するが、小説家になろうのサイトデザインではランキング以外から読者が流入する機会はほとんどない。そのためポイントを集められない=ランキングに載れない作品は存在していないのと同じである)
これは筆者が見てきた現代社会に存在する全ての創作プラットホームの中で最も過酷どころか、理不尽な環境である。
こんな状況では完結する作品など稀で、未完が常識になってしまうし。
作品の多様性がなく、一極集中が過ぎるので、流行が変わるとその都度人気ジャンル以外を愛好するユーザーが離れていってアクセスを減らすことになってしまう。
その一方で埋もれた作品やマイナージャンルが後から大きくプッシュされるような仕組みなどは一切存在しない。(複垢での規約違反の工作行為でもしない限り)このサイトでは成功パターンは一種類しか存在せず、『人気なジャンルで読者の注目を浴びて、総合ポイントによるランキング掲載を狙う』以外打ち上がる手段が存在しない。
つまり『面白いからこそポイントがつくのだろう』という考えは小説家になろうにおいてはくだらない幻想に過ぎないわけだ。
現状では人気のジャンルで様々な手段を使って読者を安心させ短期的に序盤でスカッとさせることができれば読者が来るというのが正しい。
どれだけ面白くても面白い部分まで読まれる以前に作品にアクセスされなければ評価などつかないし、たとえランキング以外の他の手段でちまちま読者を集められたとしても、じわじわ評価がついたところでランキングには上がって来れないので評価が続かない。
この現在の『小説家になろう』の環境を他のサイトで例えるならTwitterやnoteで無限に短絡的な内容で大炎上しまくっている、やたらと目立っている中身のない投稿が面白く内容としても優れていると主張されているようなもので、つまりどれだけ無茶苦茶なことをやっているかよくわかるだろう。(どちらも別の意味で面白いかもしれないが……)
また、ランキングがこのようなポイント獲得に過剰に特化した作品群によって長期的に占有され続けることで、なろうのサイト内の評価構造を理解していない読者自身がポイント至上主義に陥ってしまう。
こうなると読者たちも――
「これは高ポイントだから良作なのだろう」
「これは低ポイントだから駄作なのだろう」
――という実態とはかけ離れた判断をするようになり、それがサイト内の常識となってしまう。(読者のうちの99%は、面白い作品や楽しい作品をゼロから自分で判断しているわけではないためだ)
『ポイント狙いで作られた中身のない作品を、ポイントで良し悪しの判断をする読者が評価して居座り続ける』というとてつもない悪循環ができてしまうわけだ。
ところがユーザーが絶対視しがちなランキングというものは理屈を紐解けば決して絶対的な指標ではなく、その歪な環境で注目を浴びる作品がそのままランキングに打ち上がるという仕組みになっている。(つまり、第三者のチェックが入らず。読者の質と作品の短絡性が直接的にランキングに影響を与えるという性質を持っている)
この環境を放置すると次第に指標が狭くなっていく。
これをスポーツで例えるなら、色々な競技があるのに、社会的(システム的)な注目度があるからと足が速い人間が強い競技ばかりが賛美されていくようなものだろう。
ランキングシステムが原因で読者の好みが偏ると、その環境下で読者の好みも偏っていき。好みが偏ったり流行が切り替わるごとにユーザーはごっそりと減っていく。
そして、ユーザーが減れば減るほどランキングに掲載される作品も極端な内容に偏っていき、次第に誰も使わなくなってしまうのである。
余談だが、noteにはランキング自体が存在していない。
ランキングがあると、段々とコンテンツがそこに収斂していきます。人はみんな、ランキングが大好きです。僕もニュースサイトなどを見ている時にはつい押してしまいます。でもそうすると、結局刺激的な見出しや、悪口のようなものになりがちですよね。僕はnoteをそういう「街」にしたくない。
(うーん。よくわかってらっしゃる……。とはいえ、noteもユーザー単位で評価がなされるシステムなので、時間をかけて深い記事を書くよりも少量の内容の記事をデイリーで投稿した方が強いことは否めない)

ぶっちぎりでSkebである。
最近のインターネットの娯楽コンテンツはどこも
ごく少数の人気ユーザーやジャンルへの一極集中が行われがちだが
それをやればやるほど多様性は失われて、瞬く間にオワコンと言われるようになるのだ。
他のプラットフォームで例えるとランキング偏重に偏りyoutubeに敗れたニコニコ動画
ごく少数の同じストリーマーにユーザーを過密させた結果流行が回らなくなり
現在進行形で多大な赤字を出しているTwitchなども、
このランキングによる一極集中思想で致命傷を負った典型例だろう
(↑引用元:https://markelabo.com/n/ne3656c244994)

人類のほとんどは、自分の意思ではなく。
周囲の環境の共感、話題性に引っ張られる。
話を戻すが、現行のなろうのランキングに掲載されている作品は『こういう環境(サイトの仕様、Web小説文化)下で読者の目を惹く、注目を浴びる作品』であるというのは間違いない。(=面白い と必ずなるわけではないということだ)
現状、このサイトの評価に徹底的に迎合するということは書ける題材をガチガチに固定した上で、作者が考える最も面白い『作品の最良の姿』を大きく傷つけ損ねる必要があるということを意味している。
サイトに常駐している固定の読者に対する媚びを一瞬でも忘れて作品をちょっとでも自由に書いてしまった時点で他の創作コンテンツとは比べ物にならないくらい全く評価を受けられなくなるため、最早息苦しさすら感じる。
あまりにも評価されるジャンルや書式が先鋭化しすぎていて、普通に創作をして読まれる目的ならば一周回って新人賞に応募した方が早いと言われている程で、書籍化という概念が関わってしまった結果、商業作家などよりも遥かに厳しい指標が定められてしまった。(自分が面白いと思ったものを書くということが他媒体以上に徹底的に否定されている上に、ウケる基本フォーマットすらも歪なため、評価を受けることを諦めた上で、作品の保管庫だと割り切って投稿をしている作者も存在するようだ)
むしろ、Web小説のコンテンツ構造をきちんと理解した上で改めて考えてみると、テンプレではない作品をWeb上で発表しておきながら、評価がつかないと嘆くような作者の方が愚か者と言われても仕方ない気がする。
3.なろう系を閲覧する目的以外で全く役に立たない、小説家になろうの『おすすめ機能』
現状『小説家になろう』というサイトはなろう系を書く人間と読む人間のためのサイトとなっており、普通に利用しているとなろう系以外の面白い作品を拾い上げるのは不可能に近い。というか、シンプルに自分の好みに合致した小説を見つけることすら困難なサイトだ。
例えば、小説家になろうでは『この作品をブックマークに登録している人はこんな作品も読んでいます』という作品紹介システムがある。

これは作品ページの下に掲載される機能であり、その作品をブックマークしたユーザーが他に何を読んでいるのかが分かるシステムだ。
Pixivで言うところの『ディスカバリー機能』、youtubeで言うところの『あなたへのおすすめ動画』である。
しかし、小説家になろうのこの機能は、とても残念な仕組みで有名なシステムだ。このおすすめ機能にはユーザーの好みに合わせて作品を選別する機能などは一切搭載されておらず、(現在のページの)作品を読んだユーザー達が重複してブックマークした作品が優先的に表示される。即ち、単にブックマークの母数が多い有名作品だけが優先して表示されるようになっており、ジャンルごとに紹介される小説がほとんど決まり切ってしまっているのだ。

ブックマークの母数が多いだけの作品が羅列され続けるだけの異常な機能になっている。
読者の作品の好みに応じて作品を紹介してくれるわけでもなく。
今開いている作品を読んだユーザー達が最もブックマークしている作品が出るだけなので、紹介される作品はブックマークの全体数が多いだけの有名どころの作品でぎっちり埋まってしまう。
これはYoutubeで例えると日本の全ユーザーのおすすめに常にお気に入り登録数の多いHIKAKINなどのYoutuberの動画が年がら年中出続けているような状態だ。(しかも、おすすめの中身が何年経ってもずっと変わらず非表示にもできない状態)
即ちブックマークの少ない作品だろうが多い作品だろうが、そのページにアクセスするとおすすめされる作品は同じような有名作品になる。
ブックマークが少ない作品どころか、中堅どころの作品すら抽出されないため、このシステムで一番恩恵を受けるのは単にブックマークが多い最上位の作品群なのだ。
わざわざシステムにおすすめされるまでもない誰にでもわかる高ポイント作品を押し付けられる謎機能かつ、現状は既存の有名作品にばかりユーザーを過密させ、先細りを加速させる機能でしかない。
即ち、読まれる作品だけが常に読まれ続けるという状況をさらに加速させる穴だらけのシステムになっていて、改善が不可能ならいっそ削除してしまった方が良いのではとすら評されているほど。
かなりぶっちゃけると正気を疑うシステムであると言わざるを得ない。(申し訳ないがこの機能の実態を初めて知った時、あまりに酷すぎて筆者はちょっと笑ってしまった)

そうなると、当時システムを作った担当者が既に退社しており、サイトのプログラムを弄れなくなっている可能性も多分にある。
ユーザーからはいつまでこの機能を放置しているのだと批判を受けることもあるようだが、
一向に改善される気配がないため真相は闇の中だ。
余談であるが、公式から提供されている検索APIには特定の作品をブックマークしているユーザーを抽出する機能自体が存在していない上に最近ではスクレイピングも規約で禁止されるようになったため、外部のユーザーが新しいレコメンドシステムを作ることすらできないという
絶望的な状態に陥っている。
4.人気の「なろう系作品」以外の作品を探せない(作者からすれば見つけてもらえない)キーワード検索システム
『小説家になろう』では小説のキーワード検索という機能がある。

そして、『小説家になろう』では小説作品ごとに作者がタグを設定することができる。
つまり読者がタグを検索すれば関連するクリティカルな小説がザクザク出てくる……と思いきやそんなことは全然ない。
実は『小説家になろう』の作品につけられるタグは厳密にはタグではない。あらすじに該当する単語が入ってれば全てタグ判定になるのだ。
このサイトのキーワード検索というものは、タイトルもあらすじもキーワードも無差別に検索しているというよくわからないシステムで、例えば『推理』というジャンルで検索をしたとしてもあらすじに『推理』という単語が一つでも入っていればヒットしてしまう。
また、そもWeb小説投稿サイトでのタグシステム自体が根本的に大きな問題を抱えていたりする。
タグにウェイトが置かれている環境というものは「読者が検索したい特定の概念」に固有の名称が存在していない場合、自分の望む小説を見つけることができないのである。
タグやワードにウェイトを置いた検索システムしか存在していないと、短いタグでは表現しきれないようなテーマや概念、アイデアを内包した作品群は、タグをメインとしているWeb小説サイトの検索で見つけることが難しくなってしまう。単純な言語化が難しい複雑な作品や、様々な要素が混ざり合っている考察しがいのある作品や、アカデミックな作品、時代の流行を変えうるような斬新な、まだ言語化されていない概念を持った作品などに注目が集まりづらくなってしまう。
当然ニッチな需要なども満たされず。結果として流行が固定されやすくなるという問題が起こってしまうのだ。
タグ検索システムは、万能の検索システムなどではないのである。
加えて『小説家になろう』では特定キーワードに対して関連性が高い作品を優先して抽出するような機能などは一切ない。
このサイトの検索において精度を高めるために唯一存在している並び替え機能では、条件に合わせて作品を並び替えることができる。コレは――

と、一見豊富に見える。
しかしながら、ポイントや評価やレビューが少ないマイナーな作品の場合はこのうちの
・新着更新順
・新着投稿順
・更新が古い順
・文字数が多い順
この、たった四種類での並び替えでしか1ページ目にはヒットしない。
一方、現在人気のある作品については、ほぼ全部の並び替えでトップページに出てくる可能性がある。
即ち、作品と関わりが深いキーワードで検索されても無関係な作品が大量に表示され、しかもその中にキーワードが載っているだけの高ポイント作品が優先的にヒットする確率が高いため、なろう上での人気作(ランキング掲載作)以外の好みに合致した作品を読もうとするとキーワード検索がほとんど全く機能しなくなるということになる。
(例えば、『推理に特化した【非なろう系】の作品を探したい』となって検索して色々並べ替えの条件を絞っても、あらすじに『推理』という単語が入っている高ポイント作品ばかりが優先してヒットしまくる)
『小説家になろう』というサイトは普通に小説を検索したら、トレンドのなろう系の要素を色濃く引き継いだ作品しか出てこないサイトなのである。

作品の中のこれらの要素が嫌いなユーザーからすれば屈辱でしかない作業である。
そして頑張って除外検索をしても単にあらすじの内容説明が不足した(中身を読むと除外ワードの要素が入ってくるような)なろう系の人気作がヒットする始末。


小説家になろうは、除外検索ワードを事前に登録しておく機能や、細かなポイントでのソート、初回掲載日や最終更新日、一話ごとの平均文字数での検索。会話率などでの作品ソート、タイトルの文字数検索なども一切できない。
(二次創作が主体であり、Web小説元来のアングラなカラーリングの強いサイトではあるが)
ハーメルンというサイトの作品検索能力自体は他サイトと比較しても優秀なものだ。
5.単なる嫌がらせ防止以上のものがないミュート機能(特定の作品、作者を完全にブロックすることができない)
小説家になろうにはミュート機能というものがある。これは設定したユーザの投稿作品や発言を非表示にする機能だ。この機能が実装された時、筆者は喜んだ。
「ランキングで自分と感性の合わない作品を書く作者を片っ端ミュートすれば、自分好みの作品ばかりが出てくるランキングが作れるじゃないか!」

ミュートしても、作品が表示されなくなるだけでランキングの順位が繰り上がったりするようなことは一切なかった。この小説は表示できませんという表示自体を完全に消して別の作品を表示してもらいたいのだが、このミュート機能は一体なんなのだろうか?
こんなことをしても、ただランキングが使えなくなるだけだった。

しかも、なぜかトップページの月間ランキングの作品はミュートしても「この小説は表示できません」とすらならない始末。謎機能すぎる。
『小説家になろう』では、Twitterでいうところの『ブロック機能』、youtubeでいうところの『この動画には興味がない』というような、好みではないコンテンツを発する特定の作者や作品そのものを利用者の視界の中なら完全に排除するような機能が存在していない。
つまり、コンテンツを選別する権利がユーザーに最初から存在しておらず。利用者はトレンド(と言いつつも実態として愛読しているのはごく数%の固定層)であるなろう系作品に嫌でも付き合わされることになる。
このサイトを何も知らないユーザーがサイトを利用する上でこれらのトレンド作品は避けては通れない関門のようなものとなっている。
そのため、トレンド作品と相性の悪いユーザーは入口で躓いてしまい。自分と感性のあった作品を探す前にサイトから撤退してしまう。
即ち、マイナーなジャンル、新しい作風が全く力を持つことができなくなっているのだ。
6.Google検索からも、自分の好みに合った面白い作品を拾い上げるのが困難
現状なろうではランキング以外で作品が露出するチャンスがほとんどないと言える。
加えて、小説家になろうのデザインで普通に利用すると作者がSEO対策(Googleの検索にヒットするための作品紹介)ができないという点も問題だろう。
小説家になろうでは自作の紹介・レビューなどを規約上で行うことができない。作品の紹介ができるのは内容を仄めかせるあらすじ程度であり、作者自身が作品そのものを細かく解説する手段がどこにもないため、読者が具体的なワードで「こういう作品を読みたい」とGoogleで検索してもなろうの作品には一切ヒットしないという問題を抱えている。
結局、SEO的な観点で見ても作品のネタバレを躊躇なくしまくっている長文タイトル作品の方が強い。
7.作品単体投稿でのSNSによる宣伝が(他の創作と比較して)ほとんど効果を成さない
なろう系以外のWeb小説はイラストや漫画などと違って情報処理に時間がかかる物だ。それ故にTwitterなどで作品をただ投稿しただけではほとんど宣伝効果を成さない。イラストや漫画などは作品がそのまま作者のテーマであったり主張を表現するものとなってくれるため作品をSNSに投稿する行為がそのまま作者のアピールとなるのだが、Web小説で同じことをやっても他者へのアピールにはならないという致命的な問題を抱えている。
また、同じような理由でTwitter上ではイラストや漫画に関しては――
①『作者を大量にフォローして同時並行で消費するユーザー』
が存在していたり
②『作品を消費しながらRTを回しあうクラスタ』
が発生していたりするが、(なろう系以外の)Web小説に関しては(一つ一つのコンテンツ消費に時間がかかりすぎる上に、参入敷居が低すぎるため発信者が異常に多い……ということもあってか)この両方がほとんど存在していないようだ。
TwitterのWeb小説界隈は作者アカウントだけが大量に存在している状態であり、作者同士でお互いの作品をRTはするがお互いの作品をほとんど読まないといった悲劇的な様相を呈している。
絵や漫画などの他の娯楽コンテンツと比較しても『純粋な消費者としてのフォロワーを即座に獲得する』ことが困難であるため全体的に発信力に欠けており、投稿サイトが優遇する意図が全くないためか、有名なレビュアーやインフルエンサー的なユーザーがほとんど存在していない。
(ちなみにWeb小説の現状と今後について考察して『なろう系』の検索ワードでnoteの上位に来るこの記事の評価は600スキとなっていて、パッと見注目を浴びているように見えるが、実際のアクセス数はせいぜい40000ちょっとであり別にバズったり大きな話題になっているわけでもない。意図的に攻めたタイトルにしているのだが炎上したわけでもない。現状のWeb小説という娯楽コンテンツや界隈自体が、既に世間から興味を向けられる対象ではなくなってしまっているのかもしれない)

結局この分野でも比較的強いのは、性格気質的に作品のテーマやテイストなどにあまり拘りがないようなタイプの、なろう系で成功できている――『編集者の工夫などなくとも割り切ったユーザー目線での宣伝行為がすんなりできてしまうタイプの作家』だったりする。
こういった作者の作品は当然なろう系であるが故に説明文タイトルだ。
つまり、短い投稿内容で勝負するSNS上でもとても強い。
内容もそこそこに、Twitter大喜利やフォロワー獲得を繰り返して宣伝に力ばかり入れるようなタイプのクリエイターというのは作家としては批判をついつい受けがちだが、一人の商売人としては間違いなく優秀だ。それは間違いないだろう。
逆に黙々と中身の精査を繰り返してWeb小説を投稿するようなタイプのユーザーは派手なアピールを行って自力で目立つような度胸や意欲がどうしても欠けがち(もちろん、地味で目立たないからといってそういったユーザー全員の作品が優れていて面白いというわけでは決してないのだが……)で、かつ作品に情熱を捧げすぎて宣伝に労力を割けなかったり、内容単体で勝負をしようとしがちだ。
想像してみよう。
Web小説以外の他の創作媒体でも良い。
『それちょっとどうなの?』というようなこだわりの強い、尖った作品を単独で生み出せるようなタイプの作者が存在していたとする。
そういう作者が無名の状態からで――
①『作品のネタバレを一切公開しない』という条件で
②SNS上の集客・需要を把握した上で
③Twitterで目立つような宣伝行為を行ってそれだけで注目を浴びる
――というような結果に果たして単独で至れるだろうか?
ちょっと得手不得手の分野が違いすぎるというか、イメージができない。
むしろ現代社会の圧倒的な情報とコンテンツ量に埋もれていき、精神や体を壊して、どこか遠くの世界に旅立ってしまいそうだ。
(これは、このようなタイプの作者を優遇しろというような話では断じてない。むしろ全く逆の話だ。後述するが、このようなタイプの作者はそも創作を頑張る場所自体を間違えていると言わざるを得ない。それこそ、自分の代わりに宣伝を行う人間がいる出版社の新人賞にでも作品を送れば良い話なのである)
加えて、そのような作品を前情報なしに気に入るタイプのユーザーもまた感受性が強いことが多い。つまり、作品を大っぴらに公表しようとせず自分の中で抱え込んでしまう。逆に、自信満々に大っぴらに推すことは稀だろう。
このような諸々の事情があって、結局Web小説投稿サイトは『なろう系以外の作品を書くと外部からの価値観がほとんど適用されない環境』であるため、サイト内の独自の評価指標が優先されやすく閉じコンになりやすいのである。
8.(ポイント評価と比較すると)レビュー、感想を書くことへのハードルが高い
今まで生きてきて、あなたが最も素晴らしいと思った物語はなんだろうか? ひとつ、頭の中で思い浮かべてもらいたい。
(実際にそんな作品がなろうにあるかどうかは置いておいて)もしも、あなたが思い浮かべたその作品が文章として小説家になろうに転がっていたとして……奇跡的な巡り合わせで偶然あなたが、その作品を人生で初めて読んだとする。
あなたは感激するだろう。
さて、作品をじっくり読み終わったあなたは意気揚々と、作者に向かって感想を書いたり、読者を代表して作品のレビューを書いたりするだろうか?
小説家になろうでは(というより、これはなろうに限らず)。ポイントを入れる以外に個人を応援することが難しいという点がある。
気軽に入れられるポイント(多数決が強い評価指標)に比べて、感想やレビュー(少数の感性が影響する評価指標)を書くと言った行為への敷居が高いのだ
作品を読むことと、感想を書くという行為は全く別の物であるし、作品の内容が荘厳になればなるほどに要求される感想のレベルも上がっていく(ように読者は感じる)。
特に週刊連載で展開重視の作品ならば漫画アプリのように起きたことに対する感想を一言述べれば良いのだが、展開重視ではない、映画のような構成だったり、文庫本単位でまとまっているような重い作品では特に感想を述べるのが困難になる。
また、そう言った作品はテンプレ作品のような安定感のある展開重視の作品とは違い。レビューや感想を書く際に、作者の解釈と違っていた場合ユーザー間のトラブルを招きかねないという問題もある。特にレビューはサイト上で作品の紹介を兼ねている(レビューから読者がやってくる)ので敷居が高く感じる。
なろう系以外の作品を書く作者は『砂漠の遭難者』であると例えられる。脱水症状を起こしている彼らにとって感想やレビューというものはオアシスのようなものなのだが、実際感想やレビューが最も書かれやすい作風も展開重視で執筆コストが低いなろう系なのである。
③-2 評価指標に迎合する流れを加速し続けた結果、作品の内容と無関係な『テクニック』によって、作品はさらに歪さを加速させていく
環境に適応した人気作品が人気作品として打ち上げられるという無限ループ状態。
ここまでがなろうにおいて偏ったジャンル、構成の作品が評価される理由である。そこからさらにユーザー同士が競争を続けて作者達が『読まれるためのテクニック』に迎合した結果、どんどん作品の形が歪になってきているのが今の小説家になろうの現状だ。
そのうちのいくつかを紹介しよう。
1.一話を小さく切って連投し続ける
短い一話を連載し続けることを『小説家になろう』のサイトシステム自身が助長してしまっている。
先ほどこう述べたが、評価システム的に有効である連投は、検索システム的にも有効であったりする。
小説家になろうの検索結果の並び替えの中に新着更新順というものが存在する。

小説家になろうで最も読者の流入が期待できるランキング掲載を狙うにはとにかく読者に見つけてもらう頻度を増やす必要があり、この新着更新順に乗り続ける行為はとても大事である。この時に必要なのが連投というテクニックである。
これは『新着小説一覧に載り続けて読者の注目を何度も集める』ことで評価をもらってランキング掲載を狙うというテクニックだ。
この関係で長い話の不要な部分を徹底的に削って簡素な内容にして話を必要以上に切り分けて連投し続ける必要が出てくる。
一万字の大きな話を時間をかけて練り上げてから投稿するよりも、それを5回に切り分けて2000字の小さくまとまった話としてさっさと連投しまくって方が読まれる上に読者も沢山やってくる。
(※当サイトnoteでも似たようなことをするユーザーは存在する。質の低い中身の薄い記事をデイリーで連投し続けて発信者単位で注目を浴びようとする行為だ。どんなサイトでも『新着』という概念は新規ユーザーが目立てる数少ないチャンスになるのだが、同時に必ずと言って良いほど『新着更新覧』を悪用するユーザーが出てくる。その結果、目立つだけの中身のないコンテンツが増殖し、サイト全体のコンテンツの精度や質がどんどん低下していく)

加えて、作品の評価点を入れる評価フォームは一話が終わる度に読者の目につくようになっているので長々とした話を投稿するよりもひたすら短い話を投稿した方が評価を得られる機会が増える。
その一方で一話10000字の凝った話を作るような作者は新着更新に長時間載ることができず。1000字2000字連投のユーザーに瞬く間に新着欄を追い出されて、埋もれていくわけだ。
時間をかけて書いた作品が日の目を浴びる数少ない機会を、連投にあっさり奪われることとなる。

加えて、『小説家になろう』では話単位での栞しかつけることができない(その話の途中で『ここまで読んだ』とチェックをつけることができない)のでいよいよもって区切りの多い一話が短い作品が好まれるわけだ。
ちなみに小説家になろうでは単話ではなく、作品そのものも短くまとめた方が圧倒的に良いというとんでもない状態になっている。

上記の画像では、全272部と全2部の小説が同列に掲載されている
これは、コンテンツを投稿するサイトのデザインとしては割と滅茶苦茶だ
動画サイトで例えるのならば、
10秒程度のShort動画が普通の動画と同じ場所に並んでいるような状態だろう
しかも、原則ここに掲載されるチャンスは期間限定で一度きりだ。
完結は読者が来る貴重なタイミングなのに、労力が少ない短い作品で完結欄の掲載を流されてしまう。
これでは時間をかけて長編作品を完結させる意味がない(また、新着の短編という枠はあるのに、完結済みの長編という枠は存在していない)
サイトのデザイン自体が短い作品を肯定してしまっており、これは長編を書いているユーザーからすれば心底馬鹿馬鹿しくてやっていられない状態だろう。
『小説家になろう』で作品を完結させるとトップページの完結済みの連載小説という部分に作品が短期間限定で掲載される。
これはランキング以外で作品の読者が増える数少ない貴重な機会なのだが、サイト全体のコンテンツのショート化が進みすぎて、せっかく物語を完結させても少ない文字数で完結した大量の作品に瞬く間に流されてしまう。
何十万字の壮大な物語を完結したとしても、それよりも圧倒的に低い労力で作られた読み捨てられるスナック菓子のような大量のコンテンツに瞬く間に流されてしまうわけだ。

少ない話数で完結を繰り返すユーザーには絶対に敵わない
集客の観点からしても、しっかりとした構成の長編を組むより
短い単話をまとめた短い話を連続で完結した方が圧倒的に注目を浴びれるのだ
ランキングと完結表示に関して、短い作品と長編を分けて欲しいという要望自体は頻繁に見かけるし、おそらく運営に直接改善を求めているユーザーもいるのだろうが、運営会社のフットワークは悪く。もう何年も改善される見込みはない。(もともと小規模な運営であったが故に、ユーザー数に対して運営能力が追い付いていないのかもしれない)
※余談(サイトの使い勝手の悪さについて)
実はこの『小説家になろう』というサイトは『作品の予約投稿機能』にも致命的な問題を抱えている。
分単位での予約投稿をすることができないのである。

2024年度のデザイン変更によってようやく10分単位で投稿ができるようになったが、
未だに分単位の投稿はできない。
これは、『小説家になろう』の初心者狩りというか初見殺しの機能で、作品投稿が加熱しているという事情を何も知らずにこの予約機能を使って投稿をしてしまうと指定された時間に投稿された作品が一瞬にして新着一覧から消滅する。
(悲しいことに、2024年現在でもXX時00分に大量の作品が流れていく事象が確認できたりする)
つまり、このサイトの予約投稿機能は新着更新欄以外で読者の大量流入が期待できるごく一部の有名作品以外は実質使ってはいけない(「読まれたくないのなら使っても良いよ」という)謎機能ということになる。
また、小説家になろうではBotや非公式の外部アプリが自由に介入できる仕組みになっている関係で、自作を読んでくれている正確な読者数を把握できないという問題点も存在している。

作者は正確なPV数や読者数を把握できない。
読者に読んでもらっている以前に、人間に読んでもらっているのかすら定かではないため、PV数やユーザーのアクセス数の概念が形骸化してしまっており、作者が執筆の上でモチベーションの維持をすることが困難な環境になってしまっていると言わざるを得ない。先ほども言及したが、小説家になろうは運よくユーザーが集まったというだけのサイトなので、利用者の規模に対して実装されている機能があまりにも前時代的というか、古臭く問題を抱えすぎている節がある。
……使用感に関する余談はここまでにして、テクニックの話に戻ろう。
2.後書きで一話単位ごとに読者に対して直接ポイント評価を要求する
一話が終わるごとに『ポイントをお願いします』『高評価お願いします』と要求するテクニック。
youtubeなどで動画が終わった後に『高評価・チャンネル登録お願いします』というテロップを流すのとやっていることは同じ。
所謂クレクレ行為、ポイント乞食として小説家になろう内では一部のユーザーに蛇蝎のごとく嫌われている行為だが身も蓋もないことを言ってしまうと実際問題、クレクレを行った方が圧倒的にポイントが入りやすい。
クレクレを嫌って作品から出ていくユーザーよりも、ポイントを入れるユーザーの方が強いということだ。

人によってはうんざりするかもしれないが、話の読了感など気にしてはいられない。
実際に評価を受けやすいし。何よりもこれはサイト上で生き残るための戦略なのだ。
こういったポイント要求は作品に対する読者への没入感を重視するような作者であればあるほど行わない傾向にある。やはり結局そういうクオリティ重視の作者はここでも馬鹿を見ることになる。
そして、このテクニックは上記1の『一話を小さく切って連投し続ける』テクニックとの相性がとても良い。短いスパンで読者にポイントを要求し続けることによってランキングに駆け上がることができるというわけだ。

作者によっては「高評価入れてね!」と作中のキャラクターが読者に頼み込むようなイラストを掲載されていたりするが、何もしないよりも効果が出るのだろう。
3.タイトルにあらすじのような長文をつけて先の展開をバラす
先ほども話したが、コレは読者へのネタバレ以外に評価を受けるためにも(テクニック的にも)意味がある行為だ。スマートフォン版の小説家になろうではランキングに掲載された際にタイトルしか見えないため短文タイトルはほとんど読まれないのである。

4.作品の『リセマラ』を行う
コレは単語だけを変えた似たような内容の話を同時平行で連投し、読者ウケの良かった作品(ポイントがついた作品)だけを連載しウケが悪かった作品のタイトルを変更したり、事前告知なしで削除するという作品タイトル変更・作品削除にペナルティがほとんどないという仕様を逆手に取ったテクニック。
いわゆる1話ガチャ、作品リセマラと言われている行為で、実際にこれをやって注目を浴びて書籍化とコミカライズまで至った作者が多数存在している。
ある意味ストイックであると同時に、週刊連載の漫画などと違って終わるための打ち切り展開などいちいち書く必要がないため簡単に作品を終わらせて次に挑戦することができる。
しかし、何の前触れもなく終わる作品が増えるということは(元から完結率が低い)サイト全体の信用度の低下に繋がるし、新着更新欄がいよいよ持って荒れるというデメリットも存在する。(リセマラする作者からすれば自分さえ良ければそれで良いのだろうが)
作品に思い入れを持たずに、一人で大量に投稿して、一人で大量に改名をしつつ打ち切りを繰り返す。
ここまでいくと創作ではなくもはや工場のライン作業のようである。
確かにどのような媒体でも創作物を手に取ってもらうための工夫は必要だが、物には限度というものがある。読まれるための目的としてここまでシステムに迎合したテクニックが蔓延し続けると、作品としての面白さは必然的に薄れていく。
④このような先鋭化された流れで打ち上がった作品が、果たしてどのような発展を遂げ、評価を受けたのか?
1.無限に加速していく粗製濫造 使い捨てられる作者たち
②の項で説明したが、出版業界が不況に陥りライトノベルが売れなくなった。そして、様々なレーベルがゼロから作家を育てるパワーを失った。新規の市場を開拓したり、潜在的な未来の読者(中高生)を育てるための名作を作り出したり、作品を拾い上げる余裕を失ってしまった。そういった経緯で出版社はWebから人気の作品を直に拾い上げたわけだが、この出版社の拾い上げ行為の最大の問題点は、大半のレーベルが中身の精査をほとんど全く行わずにポイントが高い順で作品を拾い上げ続けてしまったというところにある。
拾い上げによって収益目的のユーザーが増えていき、注目度重視の中身のない作品が人気になった後も、出版社は気にせず拾い上げを続けてしまったのである。
(尚、この『効率重視の拾い上げ行為』そのものが出版社の怠慢をさらに加速させてしまったのではないかという批判もある。
・既に人気のある作品なので、どれだけ売れるかが事前にわかる。
・既に人気のある作品なので、広告を打たなくても売れてしまう。
・既に出来上がっている作品だから、修正をかけたり作家を育てる必要もない。
Web小説が人気になる前から未だに編集をしている人間はごくごく少数であり、逆にWeb小説の拾い上げで実績を上げてきた編集者が編集長の地位に座するパターンが増えてきた。
しかし、そのような編集者は既に出来上がっている人気の作品を拾ったからこそその地位に就いている。つまり、作劇論や演出論を知らないため作家を論理的に指導できないというケースが増えてきており、結果として出版社から、マーケティングや投資というビジネスの基礎も失われつつあるようだ。

ポイントが高い、かつ序盤で内容がわかりやすい作品を優先して拾っている。
昔から無法地帯気味でアングラ色の強いウェブ小説界隈において、光の当たらない作品を拾い上げることは出版社にしかできない重要な役割と言っても過言ではないのだが、現状はそれとは全く逆の既に太鼓判を押された、歪な環境の中で評価されている人気作品のみを青田買いするというアクションを率先して行なうようになってしまったのである)
『固定読者がいる人気作を無差別に書籍化→ある程度売れたら漫画にしよう(ダメなら即打ち切り)→そこからある程度売れたらアニメにしよう』
②の項目で説明した戦術が何度も何度も繰り返された結果、Web人気作を片っ端拾い上げて書籍にする→売れれば良いし。売れなくなったらその段階で様子見などせず即打ち切りにすれば良いといった具合に、実績を出した大量の素人の作者の作品をそのまま拾い上げて、外れたら即座に捨てるというビジネススタイルが構築されていくことになった。
そしてこの出版社の『(元から穴の多かった)Web小説投稿サイトの評価システムに従うだけの、審美眼を要しない無差別な収益化』によって、Web小説投稿サイトは加速度的に崩壊していくことになる。
2.書籍化→アニメ化の夢を追って過剰な競争の加熱が続いた故の蠱毒の壺状態
実はこういった作品群が連載されていたWeb小説投稿サイト『小説家になろう』は『投稿した作品が書籍化されたらあなたも小説家になれる!』というサイトではなく『あなたもこのサイトに投稿をすれば小説家の気分に浸れます』という意味で『小説家になろう』というサイト名だった。
しかし、出版社のおかげで小説家になろうという投稿サイトは人気になれば本当に小説家になれるサイトになってしまったのである。
作者達は狂喜乱舞。書籍化を目指し、夢を追い続ける。
世はまさに、大後悔時代である。
書籍化を夢みた大人数の作者達が、小説家という肩書やアニメ化を目指して、読者を獲得しよう、サイト内で評価を得ようと内容を軽視してまで徹底的にサイトの評価システムに迎合した作品を生み出し続けた結果、元からアングラな人気作品の模倣を繰り返しながらどんどん質を低下させていった。

SNSでこのようなワードで検索をすると「効率良くマネタライズするにはどうするか」という話題や「大賞受賞のためのテンプレート研究」や「書籍化のためのランキング攻略」を当たり前のように話題として取り上げていたり、書籍化を目的とした創作論を堂々と振りかざしたり、ランキングやテンプレを研究し続けた結果小説家になった自身のサクセスストーリーを、さも美談のように語る作者が多数見つかるが、まさにそういったユーザー達が台頭してしまったことによって小説投稿サイトは壊れてしまった。(ここまで評価システムに迎合してしまうと評価システムをハッキングしているようなものだろう)
個性を出しつつ読まれるための工夫をするのならまだしも、金銭のために個性を完全に捨てて環境に徹底的に迎合するようなこういったユーザー達の行為は全体的に行き過ぎてしまっており、もはや創作ではない。
インターネットというものは本来、素人が枠に囚われない創作を自由に楽しむ場であったはずだ。
実際、小説家になろうというサイトは「小説家気分を味わうためのサイト」だった。
なのに、このようなマネタライズ目的のユーザー達が当たり前のように氾濫してしまい、誰も批判・制御できなかったのも、やはりWeb小説の本来持ちうるコンテンツ構造(素人の大量参入x内容が理解されづらい媒体)と小説投稿サイトの評価システムに原因があるのだろう。
現状の小説家になろうは書籍化の目が薄く、直接的な収益が得られるからとカクヨムなどの他の小説投稿サイトに移行しようというユーザーもいるようだが、
まさにそのような「手段を選ばず金を稼ぐ」「売れるものだけが良いもので、売れなきゃゴミ」という金儲け主義の発信者が爆発的に増えれば増えるほど作品の質は逆に落ちるし。
評価システムに迎合する行為が加速するのでコンテンツの品質も落ちて多様性は減って、
全体が崩壊するのだ。
新規参入が容易なインターネットにおいて
安易な収益化は、手段を選ばないユーザーを増やすだけだ。
それは決して、救いの道などではないのである。
元から歪になりがちなWeb小説投稿サイトの環境破壊は年々加速していき、最終的にはライトノベルそのものの信用を地に落としてしまったのである。
⑤その結果が組み合わさって、今の「なろう系」という評価に繋がっている
結果、元から内容に偏りのあった作品の偏りは当初よりも遥かに大きくなっていき、内容もさらに歪むことになってしまった。
そして、このような歪な環境で評価された作品群が、漫画となり、アニメとなり大衆の目に晒されることが頻発するようになった。
この流れは年が進むごとにどんどん加速していき、作品が粗製濫造され続けるようになったのだ。
前提として、疲弊しつつある日本のアニメ業界について
次に、昨今のなろう系アニメの乱射について批判されて、「もう限界」「衰退している」と揶揄されることのある日本のアニメ業界について説明をしたい。
日本のアニメ衰退の原因は、“予定通りに動いてほしい企業”と、“自由に創りたい作り手”が、お互いに不満を抱えたまま数十年共依存している、破滅的な構造にある。
昔から、人としての思想、根源的な部分でクリエーターと企業は上手くいっていないし、折り合いをつけられていないのである。

クリエイターは夢見がちで理想主義で現実を見れていない一方で、
企業は企業で儲けることばかりに過剰に執着する。
世界中で見ても「企業とクリエイターが本当に対等に共存できた」例は数えるほどしかない。
ほとんどの業界・作品は、どちらかが妥協してなんとか折り合っているだけなのだ。
日本では特に昔からアニメに関して作家性が強く、企業が金を出す側、クリエイターは作る側という明らかな分断、完全な非対称構造があるため。
お互いが手を取り合って、クリエイターと企業でうまく混ざり合う(グラデーション)ようなことにはならず。仲良くやっていこうというよりも対立、搾取、利用の流れに傾倒しやすい。
そして、それらの軋轢の結果として、アニメの制作委員会方式はよく槍玉に挙げられる。
日本のバブル崩壊後、テレビ局や玩具メーカーが単独で出資するのはハイリスクになっていった。そこで台頭してきたのが制作委員会方式であり、これは複数の企業(出版社・広告代理店・レコード会社など)が集まって出資してリスクを分散する形式だ。
(そして、企業とクリエイターは分断しているがゆえに、その製作委員会の中に資本力の無いアニメ会社が入る余地はない。イメージとしては企業の実権を握る株主のようなものだろう)
ここでの問題はアニメ業界は昔から、今のゲーム業界における任天堂のように大きな元締めが明確なビジョンを持ってコンテンツを管理しているわけではなかったという点だ。
様々な企業が集まって出資してリスクを分散しようとしながら安定した目先の収益を得る。つまり、「確実に原作があるものを1クールで量産して、円盤・グッズで回収する」ビジネスモデルが主流になっていった。
このスタイルは成功すれば儲かるし、失敗しても被害が小さい。とにかく目先の安定する利益という概念に特化したのだ。
しかし、成功すれば儲かるし、失敗しても被害が小さいということは、それが故に乱発に歯止めがかからないということになる。
そしてその乱射をさらに悪化させたのが、国内に大量に存在する下請けスタジオだった。
アニメ業界に下請けスタジオが異常に多いのは、いくつもの歴史的・構造的要因が絡み合った結果だ。
そもそも、アニメ制作に携わる仕事は多岐にわたる。(原画、動画、仕上げ、美術、撮影、3DCG、音響など)
これらの多岐にわたる専門工程を1社だけで完結させることは困難なので、工程ごとに専門の下請けスタジオを外注する必要が出てくる。
この「アニメという創作媒体」の「分業前提の構造」が、スタジオ乱立の出発点となる。
さらに1990年代以降、バブルの崩壊を受けて大手のアニメ会社はコスト削減とリスク回避のために、正社員を減らして業務委託・孫請け中心の外注体制へとシフトしていってしまった。
これにより、アニメスタジオの設立は「創造的な独立」スタイルではなく、「使い捨ての下請けユニット」として誕生するのが常態化していき、外注化の制度が業界全体に定着していってしまった。

そのうえ、業界内部では、経験を積んだ原画マンや制作進行が「とりあえず独立する」流れが根付いている。(アニメ業界は本質的には職人の集まりであり、大衆企業のように明確な昇進・昇給ルートがないことが多い。昇進が望めず、独立が簡単で、独立すると仕事も来て、組織に残ると報われず、 結果として「独立するしかないじゃん」と思わせる。構造と文化と需要が完全に揃ってしまっている)
結果、アニメ業界に携わる人間が独立しまくってしまい。資本力も経営ノウハウもないまま小規模スタジオを乱立させることとなった。
(とにかく日本のクリエイターは源流が職人気質であるが故か、組織的な効率化・統一化とは無縁なのだ。海外アニメーション(米中韓)と比較して、作画・スケジュール・ソフトウェア統合の効率化などで明らかに遅れが出ている)
しかし、こういった“独立”は言葉だけは立派だが結局は下請けが増える一因でしかない。
結果として「下請けが下請けを生む」自己増殖型の生態系が形成された。
国際的には、安価な労働力を求めて中国・韓国・東南アジアへの作業外注が一般化し、それを仲介・管理する“中継基地”としての中規模スタジオも国内に必要となった。
こうして国内のスタジオ数はさらに押し上げられていく。
本来なら淘汰されるべき非効率で人材育成もできないブラック体質のスタジオも、「とにかく全体の人手が足りない」状況が常態化しているため延命され、質が低くても都合のよい“部品工場”として活用され続ける。
こうして100社単位の零細スタジオが生き残り続けて、どれも「自社で何も完結できず、資本も権利も持たない」三重苦のまま、製作委員会に隷属する大量の犬として業界内に居座り続けることとなった。
日本のアニメ業界は、「人力と現場感覚」で走ってきた歴史がある反面、ソフトウェア統合・工程最適化・進行管理の合理化といった部分では海外のアニメ産業に大きく後れを取っているのが現実だ。(その差が、特にNetflixなどから転がってくる外資プロジェクトを担当する際に現場の疲弊として噴出するようになってきている。)
つまり、日本のアニメ業界は「生産技術としての近代化」が決定的に足りていないのだ。
結果として、日本のアニメ業界は「カップラーメンの具材を100社で分担して手作業で作る」かのような、非効率で品質の安定しない構造に陥っている。
安上がりに見えても、工程ごとのバラツキやミス、扱うソフトウェアの齟齬やスケジュール破綻が多発し、作品クオリティ・制作現場・視聴者体験すべてが損なわれる。
ではなぜこの構造が整理されないのかといえば、制度的な支援も映画や美術に比べて薄く。
加えて、再編を業界横断で行おうとすると「談合」 「カルテル」とみなされやすいためだ。
委員会方式でぶら下がっている企業は目先の利益しか見ていないし。
アニメ会社各社も規模が小さいため余裕がない。自社の短期的な延命ばかりを優先し、全体最適化には及び腰だ。

こうして、構造的欠陥が放置されたまま、「分業必須」「歴史的外注化」「自発的分裂」「海外需要」「淘汰不能」という5重の罠に絡め取られた“業界的ゾンビ・エコシステム”が形成されてしまった。
この構造は、誰か一人の悪意や怠慢によるものではなく、関係者全員の妥協、慣れ、そして諦めの積み重ねによって出来上がった、極めて病的かつ自然発生的なシステムである。
零細は体力がなく、自主性もない。安請け合いして単価を下げ続けてしまっている。
後続育成に関しても「育成はコスト」「時間はない」「教える側がいない」 「教えても報われない」 という四重苦の下、人が育たないことが“当たり前”になってしまった異常な状態となっていて。その結果、スケジュール崩壊・人材使い捨てが常態化してしまった結果が今の状態だ。
そして、この理屈はなろう系漫画、なろう系アニメにそのまま適用できる。
『日本アニメは元から薄利多売で作りすぎの環境がある』というような状況で、なろう系の原作は――
①ゼロからコストをかけて当たるかどうかわからない原作からアニメを作るより遥かに低いコストで作ることができる上に、話の内容が作画(予算)を要さないものが多い。
加えて、
②なろう系作品の(打ち上がってきた)原作は固定層向けに売れており、アニメにすれば原作支持層がそのまま試聴する(つまり、安定して視聴者数を稼ぐことができる上に、売り上げの予測がつきやすいのでそこに合わせてクオリティを調整できる)
さらに、
③数が多いので万が一多少は赤字だったとしても事前に確保している放送枠を常に使用・維持することができる。
不安定な立場のアニメ制作会社からすれば、なろう系原作のアニメ化は糊口を凌ぐためのローリスクかつ安定感のある選択肢というわけだ。
「なろうのアニメ化が止まらないのは、なろうが覇権を握っていることの証明!」というわけではないし。ほとんどのアニメ化は圧倒的に儲かっているというわけでない。目の前の状況をしのぎながら本命の大ヒットが来ることを期待して、自転車操業的な発想で運用されているのである。
まとめると、昨今の日本アニメ産業は(ジブリなどのごく一部の例外を除いて)企業と作り手が対話不能で、外注構造で長期育成が崩壊していて、生産技術の近代化に失敗したまま、書籍化や漫画家と同じように目先の数字を出す「投資物件」としてなろう系を乱射しているのである。
なろう産のアニメ批判を行う三つの派閥
なろう発祥のアニメの批判は決して一枚岩というわけではなく、以下のいずれかに該当することが多い。
1⃣Web小説源流のアングラな色を叩いているパターン
なろうアニメの中には 人気作であるが故にハイクオリティな制作で評価された作品もある。しかしこの記事の①の項で紹介した通り、なろうの環境は人気作でも源流からアングラな色が強い。なので特定層には強く刺さるが、一般的な創作基準とはややズレた作品が直接的にヒットしやすい。
→ 「テンプレでもアニメ自体の質が良ければOKだし視聴する。でも、なろう的な倫理観はぶっちゃけキモい」
→ 「主人公の価値観やストーリー展開が独特すぎて、どうしても受け入れられない」
というユーザーがここに該当する。
そして、前の項でも説明した通り、このような価値観を含んだなろう系発祥の作品群がド派手にヒットしてしまった結果。
Ⅰ『小説家になろう』内部の価値観
と、
Ⅱ『他創作媒体』に適用される世間一般的な価値観
の二者間で再び致命的な乖離が発生してしまったのは事実だろう。
2⃣ランキングハックで歪んでる部分(テンプレ、序盤が同じ、長い説明風のタイトルなど)が許せない
→ 「なろうのアングラさは良いが、ランキングハックで歪んだテンプレ作品が大量に目に付くのが嫌」
→ 「昔のWeb小説はもっと名作だらけで面白かったのに、今のランキングは死んでるよ」
というような層で、今のアングラな色は受け入れられるというWeb小説のメイン層の大多数がここに該当している。(また界隈を擁護する側のユーザーもここに該当しやすい)

Web小説の人気作品が好きでも、拒絶反応を示すユーザーもどんどん増えてくる。
(引用元:https://www.recordchina.co.jp/b924933-s25-c30-d0203.html)
3⃣単にアニメのクオリティが低いのが許せない
→ 「なろうのノリもランキングハックされた作品もアリだけど、シンプルにアニメとしてのクオリティが低すぎるのがダメ」
→ 「ちゃんと作り込まれたアニメならちゃんと消費するのに、低予算で作られるのが最悪」
これはむしろ大衆層に多い批判の切り口かもしれない。
なぜこの③のような批判が起きやすいのかというと、小説発祥の作品というのはアニメ化の際にメディアごとの特性や制作事情が原因で評価が下がりやすくなってしまうためだ。
低予算や厳しい制作スケジュールの影響が出やすい
原作では許されるはずの文章表現が、アニメではチープに見えてしまう
アニメ視聴者は比較対象(『鬼滅の刃』『進撃の巨人』などのハイクオリティ作品)も多数存在しているため、粗が目立ちやすい
アングラ要素に、似通った要素に、粗製濫造によるアニメとしての低品質。これらの要素によってアニメをメインに小説家になろう系のイメージが様々な方面から低下してしまう。
そして、一部の成功作を挙げて「なろう系は評価されている」と主張しても、「その成功作ですら根源的な価値観の面で批判されている」ため、ジャンル全体の評価が全く改善しない。
結果として「なろう系はつまらないくせに多すぎ」。「なろう系が嫌い」。「なろう系は気持ち悪い」。「なろう系は不快」。「なろう系にはうんざり」というようなネガティブな言説が瞬く間にネットで広まっていくことになり、「なろう系」及び「なろう」というワードは完全に蔑称となり、ウェブ小説はジャンル単位で嘲笑の対象になってしまったのである。
さらに最近では「なろう」という言葉が一人歩きした結果、なろう系ではないような作品ですら『小説家になろう発祥である』というだけでマイナスの印象を持たれる風潮が出来上がってしまっている節があり、先ほど紹介した「小説家になろうで大人気」という作品の売り文句も今では読者に対してネガティブなイメージを持たれてしまうため使われることが減ってきているようだ。
ここまで来ると、このサイトに投稿すること自体がデメリットと感じるユーザーが出てきてもおかしくはないだろう。
1.諸々のシステム的な問題と粗製濫造が加速した結果。『小説家になろうの今』と『書籍化の夢の終わり』
念のため、現在の小説家になろうについても語っておきたいと思う。
実は今小説家になろうの書籍化現象は終わり――死に瀕しつつある。
『(書籍化に関しては)小説家になろうはオワコン』とすら言われることもあるようだ。
というのも、書籍化して売れていたジャンルが小説家になろうの中で死につつあるからだ。
2025年現在、小説家になろうで一番強いジャンルは異世界短編恋愛である。
この記事を読んでいる方の認識が少し前の物になっているかもしれないので補足させていただくが、かつてなろう系の代表であった異世界転生/転移作品は運営によってジャンル単位でランキングが完全に隔離(転生/転移要素が入った作品は別のランキングにカウントされるように)されてしまいポイントが稼げないというシンプルな理由で死に絶えてしまった。

しかし、この小説家になろうというサイトは、アングラなWeb小説文化の流れを汲んだ素人のユーザーが集まって、歪なコンテンツ構造、ランキングシステムによって特定のジャンルのみに人気を一極集中させることで覇権を握ったサイトにすぎず。
つまり、元から運営者にトレンドをコントロールしたり新しいジャンルや流行を開拓するような自力があったわけではない。
確かに、このまま異世界一強の状態を続けていても未来はなかったろう。
唯一生き延びれる道は、異世界ブームが起きる前の段階、もしくは起きた直後、人が集まった勢いを火種に新しい多様なジャンルを開拓していくという道だったのだが、 サイト運営者が実際に行ったことといえば単なる人気ジャンルの隔離というものだった。
加えて、性表現の締め付けを厳しくしたためハーレム要素も衰退。
(※尚、アニメジャンルで未だに異世界転生が盛況なのは人気の原作が連載開始されてからアニメ化するまでタイムラグがあるためだ。大元の小説家になろうでは異世界ジャンルはすでにメジャーではない)
そのような経緯があって、今度は転生要素がなくて隔離されないという理由で異世界現地主人公による『○○してももう遅い』というタイトルのざまぁ系・追放系が台頭するようになったわけである。
そういえば最近のなろうのランキングがすごいっていうんで見てみたらまじですごいことになってるな・・・。なんでこんな「もう遅い」ばっかなの・・・ pic.twitter.com/H5xpHB4i15
— Hideyuki Tanaka (@tanakh) November 7, 2020
(異世界転生が隔離された後の2017~2020年では異世界転生要素のない追放ジャンルが流行し氾濫することとなってしまった。結局、人気ジャンルの隔離をしただけでは意味がない。Web小説の根源的なコンテンツデザインの問題が解決しているわけでもないし。投稿サイトが評価システムを正したりしているわけでもない。何も環境が変わっていない状態で作品やジャンルの多様性など生まれるわけもなく。同じ流れで独特の感性の層によって別のジャンルに人気が集まり、そこから模倣によるテンプレが大量に蔓延して質を落とし続けることとなってしまった)
そして、そのざまぁ系・追放系もサイトの仕様変更でとどめを刺されることになる。
第一に、ジャンル別ランキングの一番上のジャンルが恋愛になってしまった。

ジャンルを並列して表示することはできないのだろうか…
加えて、サイトのトップページに新着の短編小説が載るようになった。

そして、このタイミングでポイントのクレクレがサイトに公認されるようになり、2020年の3月には「評価」の方式が変更された。
これまで文章評価とストーリー評価の二種類に分かれていたものを「評価ポイント」として統合して、気軽に評価できるようになった。
(この仕様変更によって、女性読者の応援目的のポイント投入が増えたのではという指摘もある)
元からざまぁ系が飽和し続けて、新しいブームが出来上がらなかったということもあるだろうが、たったこれだけのことでサイト上では短編の異世界恋愛が最強になってしまった。
また、この流行に便乗し――
・大量の短編を事前に書き溜めした上で同じ時間に同時投稿することで新着欄を個人で占領する。
・あらすじと一話だけを先んじて投稿して読切短編に偽装し、『続きを読みたければ評価ポイントを入れてください』と要求して評価次第で長編にシフトする。
――というシステムを悪用した別種のテクニックが横行されることとなった。

そも『こんな醜いことをやらないといけない環境』『やった方が得になる環境』を長期間放置している方が問題だろう。
結果、短編だけではなく長編の連載作品も恋愛で埋まることとなってしまったのである。
無制限で作品が投稿される環境下では、どう足掻いても評価システムをハックして悪用するユーザーが出てくるのは避けられないようだ。
以前の小説家になろうの人気作品を愛していた読者達は現状の恋愛一極集中状態に苦言を呈していたり、批判を行なっているようだが、ぶっちゃけ異世界一強になっていた段階で問題は既に顕在化していたのである。
そのような作品が内包していたWeb小説独特のアングラな素人文化や、小説投稿サイトの作品評価の偏った仕組みや、内容度外視の(システムを悪用した)集客行為に一切異を唱えずに迎合してぶら下がってきたのは、まさに今のランキングを批判しているユーザー達なのである。
今更小説家になろうのサイトデザインに文句を言ってももう遅い。
結局、このサイトのジャンルの隆盛は読者や作者の意思・心理的な理由など二の次三の次であり、Web小説の根源的なコンテンツデザインやサイト運営者が作ったシステムやデザインに強く影響を受けてしまうというのがよくわかる。
読者の欲求自体はどのジャンルでも無限に暴走しているように見えるが、それすらもWeb小説の構造であったり、サイトの仕様が関わってきている部分が大きい。(恋愛優遇は意図した物ではないかもしれないが、おそらくサイト全体のPVが減らない限り運営者は大きな仕様変更をするつもりもないだろう)
即ち、読者や作者を批判しても(ストレス発散にはなるだろうが)意味がないのである。
さて、この恋愛短編、当然ながら書籍化をするのが困難なジャンルである。
商業展開には不利であり、文量が少ないため作者側の条件や権利がまともに担保されない。無名の場合、作者や作品に受け手側の目が向かないため先がない。こう言った理由からメディアミックスや物販化の目がないためまともなレーベルは手を出さない。
また、短編にすらテンプレ的なお約束を入れなければ評価されないという傾向があるため差別化の余地がさらに減って商業化に堪えず、発展性がないのである。出版社はめざとく短編集という形式で書籍を販売していたりするのだが売上に関して、あまり良い噂を聞かない。
(Web小説崩壊の一因である)書籍化の夢の終わりであろう。
運営者もアクセスが減ってきていることを危惧したのか定かではないが、ランキングの仕様はその後何度か変更された。
しかし、はっきり言って、この記事に掲載されている通り、Web小説というコンテンツ構造の問題とサイトの評価システムの問題ががんじがらめに組み合わさってしまったが故の現状なので、ランキングを弄った程度でどうにかなる問題ではなかったように思える。
なろうにおけるファンタジーは終わりです。完全に終わりです pic.twitter.com/EgovZc035s
— 下城米雪 (@naro_shogakusei) January 20, 2024
結局、トレンドが変わるようなことはなく。このサイトは元から読者が特定の作品やジャンルにあまりにも一極集中しすぎる仕様であるが故に、2021年あたりからは短編恋愛以外のジャンルは見向きもされていない。
(※上記の画像だと、トップ3が全て恋愛関連である。ヒューマンドラマジャンルが強いのは、異世界恋愛作品を取り扱っているユーザーが評価を受ける目的で作品のジャンル設定をヒューマンドラマに変更するという、ジャンル逃れ行為をするためだ)

Twitterで行われた小説家になろうの公式アンケートではランキングを参考にしているユーザーが多いという結果が出ていた
この意見を受けて、公式的にはランキングの仕様変更を行うことでアクセスの減少をどうにかしようとしたのかもしれないが、このデータは『人が減っている環境下で、ランキングを愛好するユーザーだけが生き残って利用を続けている状態』であるということを意味しているにすぎない。
要するに、サイト全体のアクセスが減少してきている現状でアンケートを取っても「現行の流れやシステムを容認できるユーザーの意見」ばかりが集まるというだけなので アンケートとして参考になるのか実に怪しい。
そういう経緯もあってか、恋愛というジャンルそのものが他ジャンルのユーザーに目の敵にされがちだが、現状の恋愛ジャンルの崩壊っぷりは、かつてのきちんとした構成の恋愛小説を愛好していたユーザーから見てもげんなりするような悲惨な状態であり、恋愛ジャンル自体も完全に崩壊してしまっているのである。

そのような(割合としてはさほど多いわけではない)ユーザーだけがサイトの構造の変遷により生き残って消費を続けているような状態であり
小説投稿サイトとしては普通ではない状態に陥っている節があるという意見もあった。
この恋愛氾濫の環境について男女でランキングを分ければ良いという意見もあるが、分けたところで、今となってはファンタジーのショート大喜利と恋愛のショート大喜利をやるサイトになるだけだろう。
やはり①Web小説のコンテンツ構造がインターネットの無差別発信時代についていけておらず、②Web小説サイトの評価構造が時代に追いついていないというのが最大の原因のように見える。
様々な歴史的経緯を経て、『小説家になろう』は小説家気分に浸れるようなサイトではなく。現状はなろう作家になるためのサイトとなってしまった。
このサイトには今や、創作とは全く別の目線で書籍化目当てでポイントを稼ぐという目的に過剰に傾倒&特化した作者とそういった作品群を何も想像を働かせずにだらだらとインスタントに消費するような読者しか最早生き残っていないというわけだ。
しかし結果として、小説家になろうの運営者はサイトの大規模な仕様変更をするつもりがないものであると思われる。
このサイトを利用していて薄々感じているのが、本当に経営的な危機を感じていないと全く運営者がサイトを率先して改善したがらないという点だ。
なんやかんや一時期は焦っていたようだが、結果としてはユーザーの層の入れ替わり自体はあったもののアクセス数自体は多少現象程度のラインで安定してしまった。そのため、運営会社が危機感を感じたりリスクを負ってサイトデザインを維新する必要はなく。今後もランキングが主体の現行路線で進んでいくのだと予測できる。
2.なろう系の書籍化とコミカライズの更新停止による信用低下問題
小説家になろうにおける原作者は基本的には素人である。
現在の彼らはポイントをもらうことを第一目的に、目立つため序盤の勢いに特化した構成で連載開始をしているパターンや、テンプレートを組み合わせて序盤だけを作って執筆を始めているパターンがあまりにも多く。しかしその結果、人気になって書籍化、コミカライズ化まで至っている。
つまり、長期的な目線で作品を構築しているケースは非常に稀であり、読まれるために序盤にやりたいことをやるだけやっておきながら、完結までの着地点を全く定めていなかったり、商業展開について話し合う専属の編集者が存在していないことが多い。
その結果、話が長期化すると勢いが低下して打ち切りになったり、作者の中で構想が存在していないため原作の更新が停止する問題が書籍、コミカライズ問わず頻発してしまっているようだ。
加えて、原作者自身が本当に書きたいものとはかけ離れている作品ばかりなので少しでも人気に翳りが出るとモチベーションが低下して執筆を止めてしまうというケースも多い。
これに関しては、そも原作が完結をしていないのに目先の利益を得るために素人の作品を見境なく拾い上げたり、コミカライズまで話を進めてしまう出版社に問題があると言える。

これはコミカライズ作者に関する余談であるが、アングラ文化故に構成が極端なものになりがちななろう系を原作とするコミカライズでは、妙に線の荒い作画やデフォルメの多用。狂っているとしか思えないオリジナルの展開が出てきたりすることがある。
おそらく、なろうの独自環境で打ち上がってしまったアレすぎる原作に対して、コミカライズという形で向き合う時間が長くなりすぎた結果、作画担当者や漫画担当の編集者が『こんな話のどこが面白いんだよ』と悩んだ挙句にオリジナルの面白い展開を色々入れたり『俺は一体何をやっているのだろう』と精神を病んだ挙句に手を抜きまくったり、某ボボボーボ・ボーボボの作者のようにキチゲ解放(※日常生活のストレスで溜まりきった狂気の発露)をしてしまうのだろうと推測される。
こういったことをやるコミカライズの担当者はある意味で作品に向き合っているプロではあるが、原作者もなろう系のフォーマットをきちんと理解してユーザーの好みを理解し評価をもらっている(こんな極端な改変を受け入れている時点で創作者として自作に思い入れはないのかもしれないが、商売人としては)プロではある。
評価のフォーマットが違うだけで、両者とも自分のフィールドで真摯に作品に向き合っていると言える。
また、世間的な作品評価と乖離しがちなWeb小説原作(“ズレた”倫理観や人物像)を、現代の大衆に受け入れられるようマイルドに調整し、大衆が感じがちなキャラの不快感を抑えつつ商業作品として仕上げているのもコミカライズ担当者であり、彼らが大衆向けのマイルドな内容に大幅に改変&表現することも多々ある。
こうした価値観のすり合わせを始めとする修正作業は評価されづらく、なおかつ圧倒的な時間とメンタルを要求される重労働であるにもかかわらず、コミカライズの報酬は低く、印税や契約条件も原作者に大きく偏っていることが多い。彼らは編集不在の原作の空白を、作画の腕と構成力で埋めなければならず、 要するに、コミカライズ担当者が作者と大衆の間に立つという漫画雑誌における(本来介在しない)編集者の役割を担っているようなものだろう。
それが故に、そのようなコミカライズを参考にしてアニメ化をした作品は、Web小説投稿サイトから直にヒットさせた他のなろう系作品と比較して大衆に受け入れられやすく批判されにくい傾向がある。(ここまで行ってしまうと、もうコミカライズ担当者の手柄と言っても差し支えない気がするが)
そのような成功パターンがある一方でコミカライズの漫画家となろう系原作者は、お互いに見ている方向があまりにも違いすぎるためトラブルが起こることも多いようだ。
酷いケースだとやる気を無くして原作の更新を停止させた原作者の代わりにコミカライズの作画担当者が話の続きを考えていたり、原作者や編集の無茶な要求を長期に渡って押し付けられた挙句、コミカライズ担当者が体を壊してしまうということもあったようだ。(成功しようが失敗しようがこの界隈はコミカライズ担当者の負担が全体的に大きい割に、世間から過小評価されている節がある)
こうした過酷かつ評価を貰えない実情が徐々に共有されるようになった結果、なろう系コミカライズに挑戦したがる若手作家は年々減少している。
かつては「商業デビューのチャンス」として飛びつかれていたが、今では「割に合わない地雷案件」として真っ先に忌避される傾向がとても強い。
その背景には、短納期・低報酬・高負荷という三重苦が発生している“まともな人間ほど耐えられずに去っていく(つまり、まともではない人ばかりが残る)労働環境”だけでなく、SNSなどで原作ファンからの心無い批判に晒されやすいことや、ほとんどの原作に構成上の自由がほぼないことなど、コミカライズ担当者の創作性が極端に制限される厳しいなどの環境などがある。
また、近年ではFANBOX、Skebなど、作風を守りつつ収入を得られる手段が多様化しており、わざわざ“精神を削る仕事”に挑戦しなくても良い環境が整いつつあることも拍車をかけている。

こういった主張を公然と行ってしまったという事実は、発信者当人の問題だが
しかし、こういった過激な主張が漫画として零れ出てしまっているという時点で、
コミカライズ作者が取り巻く環境に何らかの致命的な問題が潜んでいる
……のかもしれない
【連載終了のお知らせとお詫び】
— グラスト編集部 (@comicgrast) June 18, 2025
「ハズレアイテム『種』が実は最強加護付き聖樹だったので、辺境をのびのび開拓します~追放された貴族は全属性魔法を駆使して無敵の領地を作り上げる~」の連載終了をご報告させて頂きます。
本作を応援してくださった読者の皆様に、心よりお詫び申し上げます。 pic.twitter.com/IVOkhtpdLH
これはさらに別件であるが、最近でもなろう系原作のコミカライズにおける「原作と作画の温度差」「編集の無理な演出介入」「作家の過重労働」によって連載が終了するという、近年業界内外で問題視されてきた構造を象徴するような出来事があった。
読者視点では突然の連載終了に困惑が広がったが、制作現場ではもっと深刻な“すれ違い”が進行していたようだ。
⑤-2 しかし書籍化を目指している作者達からすれば外部からの未登録ユーザーの批判などどうでも良い話
ここで、なろう系という言葉を使って誹謗中傷をしていたり、批判をしている人に聞きたいことがある。
あなたは『大量に溢れている無名の素人の作品を拾い上げて、きちんと最後まで読んで、わざわざサイトに登録して評価点を入れる』だろうか?
おそらく、ほとんどの人間はそんなことをしない。そういったことをやる人間はごくごく少数だ。
『なろう系を批判するユーザー』と『なろう系が好きなユーザー』、どちらの方がサイトに登録をしているのだろうか? 当然後者の方が多いだろう。作者の目線で考えると、サイトに登録をしているユーザーでなければ作品にポイントを入れることはできないようになっている現状で、なろう系に対して不満を感じていたり、外部の価値観を持っているユーザーはサイトに未登録なケースがほとんどだ。利用頻度の低いユーザー層に良い顔をしたところで現状、誰も評価点を入れないし、読者は来ない。
逆に自分が書く作品が小説家になろうというサイトの空気に染まっていればいるほど登録ユーザーのみができる評価を受けやすい。即ちランキングを駆け上がりやすいようになっている。

特にサイトに登録していないユーザーは外部アプリで作品を読んだりブラウザブクマなどを使っていたりすることが多いが、これらのアクションは作者からするとポイントを一切もらえないので死刑宣告を食らっているようなものである。
このサイトでポイントを入れないというのは、少年漫画雑誌で作品アンケートのハガキを一切送らないのと同じだ。
序盤か、あるいは完結済の作品しか読まれないという部分でも語ったが、Web小説において多くの読者は、作品が「無料で」提供されていることに慣れており、作者に対する応援や評価を積極的に行う必要性を感じておらず。評価や応援が作者にとってどれほど重要かを理解していなかったり、評価をすることで新しい読者が増えることが励みになることを知らないことが多い。
また、どのサイトも結局現実の市場と同じように他者の評価が閲覧できる環境下で行う多数決が評価の主流なので、(これも現実と同じように)内容の良し悪しとは違う指標の、ごく一部の決まった文脈を持っている人気のコンテンツのみに過剰に人気が集中しやすい。
つまり、小説家になろう内の作者の立場から考えればどれだけ外部から批判を受けようと『その環境内で、初動で評価を受けやすいわかりやすい作品』を連投してサイト内で初動の評価を受けていればそれで良いのである。(同時に『未登録のユーザーが実質サイト内で存在しないも同然の仕組み』は極度の閉じコンを作る原因でもあるわけだが、これはサイトデザインの問題であり作者の責任ではない)
1.サイト内で評価を受けるためにやっている作者からすれば、作品批判(ジャンル批判や設定批判)など知ったことではない
作品の粗(設定の粗やご都合主義)を許容できるラインは個人にとって違う。
なろうで連載している作者達にはきちんとした世界観の描写などする余裕はない(読者が離れる)し、むしろ書かない方が評価されるし手間もかからないので楽なのだ。(故に、前知識を要さず短期快楽的なお約束展開と相性の良い作風・ジャンルばかりが生き残る)
実力で世界設定を読ませるような段階はとっくの昔に通り過ぎていて、きちんとした設定の作品を作ったところで即座にブラウザバックされるため評価など一切されない。なろう系以外の作風はほとんどと言って良いほど認められない。そんな状態でオリジナリティを発揮しても読者は来ないというか、そもそも極端な環境に対して既に見切りをつけてサイトやWeb小説界隈そのものからいなくなっているのでどこにも読者が存在していない。
加えて、なろうで掲載されている作品の設定の粗や出来に外野から文句言う人間というのは文句を言うのが目的であって、優れた作品を自ら拾い上げて広めるようなことなどはしない。(というか、ちゃんとした作品があったとしてもサイトのデザイン上、ユーザーの目に一切つかないわけだが……)
きちんと設定を組んだ作品を作ったところで、誰にも評価されないどころか読まれもしないということを現在まで生き残っているなろうの作者たちは理解しているのだ。現行の評価システムにおいて最も求められているタイプの読者は最低評価でもなんでもとりあえずなんの気無しにさっさとポイントを入れてくれるような層であり、ごくごく稀に高評価を落とすような減点方式の読者達が軽視されるのはサイトの仕組み上、自然の摂理であったりする。
しかしこれは同時に、外部のユーザーがなろう系を敬遠すればするほどになろう系が悪化していくという救いようのないデスループにはまってしまうということも意味している。いわゆる蠱毒の壺現象だ。
結局、なろうで作品を書いている作者が悪だとか精神遅滞を起こしているといった人格的な理由は(もしもそれがたとえ事実であったとしても)最大の元凶ではない。歪で過酷な環境に適応できないユーザーが全員淘汰された結果が今のWeb小説界隈であり環境に適応できたユーザーだけが生き残って製造と消費を繰り返した結果なのである。
利用者の思想がどうとか性格がどうこうではなくWeb小説というコンテンツの持ちうる性質と評価システムによってなるべくしてなってしまったというだけの話なのだ。
確かにここまでの話をまとめると、ショート化が加速した現状のWeb小説は動画や配信などの頭を使わないと言われがちな娯楽コンテンツと比較しても――
・通信量・スペック・バッテリー消費が最小限
→ 安いスマホでもOK。パケット上限の心配なし。どこでも読める。
・完全無料で、無限に読める
→ 課金圧や広告ストレスがなく、財布に優しい。
――という点から、精神的にも経済的にも貧しい学生や、シンプルな情報弱者、引きこもり・無職予備軍など、「脳を休めたいが何か摂取したい」のに「娯楽が制限されてしまっている層」に向けた、最もローコストかつ自己完結的な情報消費装置となっているのは事実だろう。今ではハイカルチャーでもなければサブカルチャーですらなく、“ローエンド・カルチャー”の一種として位置づけられてしまっている。
そして、このような批判記事は最終的にそのようなユーザーに対して「人間としてあまりにも情けない。いつか後悔するぞ」とか「現実逃避が過ぎる」「人生を投げてしまっているから、もっとはっきりと自我を持て」という利用者への人格的な批判・啓蒙に傾倒して行きがちだ。
なろう系に対するヘイトや悪意、罵詈雑言や誹謗中傷は作品そのものやなろう系を愛読する読者、作者についつい向きがちなのだが。そのような個人のパーソナリティ、メンタリズムに関する言論や批判や、直接的な怒りをぶつけたり誹謗中傷をするような行為は本質的ではないし、物事の解決につながるとは全く思っていない。(そも、当事者に届くことすらないだろう。つまり、そういった行為こそ。ただ憎悪を膨らませる行為でしかなく意味のないことだ)
というか、問題解決のための議論をむしろ邪魔しているのではないかとすら筆者は思う。
なぜそのように考えるかというと、こういった作品群を愛する社会的な弱者と揶揄される人々は格差という残酷な概念がこの世界に存在する以上、どのような時代にも一定数必ず絶対に存在してしまうものだからなのである。(そういった石の裏に隠れていたはずのユーザーを、金になるからとかき集めて、日の下に無理やり引っ張り出したせいで市場が壊れているという現象の部分に、結果として問題が発生しているだけだ)
諸々の理由で悪目立ちするようになったなろう系作品、及びそれらを愛好しているユーザーを「やたらと目につくから、不愉快で、不快で汚らしいから」と苛立ちを感じる気持ちは理解できる。
しかし、現代社会でそういった後ろ暗い願望を抱える人間全員を救済することははっきり言って不可能だし。そういったわかりやすい攻撃対象を見つけてそこに対して呪詛を吐き続けると、自覚がないうちに自らも深淵に飲まれてしまいかねない。
それに、こういった痛み止めとしての現実逃避ができる創作が全く存在せず排除し尽くされた世界は、それはそれでまた息苦しいものなのである。
酒やタバコなどと同じようにバランスが必要で、何事も極端は悪だ。こういうユーザーや作品群が存在していることそのもの自体は決して罪ではなく、ある種の自然現象的なものなのである。
何よりも、不安定な世の中でそちら側に立たないでいられる保証など誰にもないし。程度や手段の違いはあれど、人というものは誰しも弱い生き物で何らかの形で現実逃避をするものなのだ。
大切なのは目に映るものに対する感情的、短絡的な怒りではない。「なぜ現状がこうなってしまっているのか」を冷静に考えるべきだろう。
2.苦行の域に達しているなろう作家達(システムに迎合するか、それとも失踪するか)
よく、こんな風になろう作者へ直接的な人格批判をしている方がいる。
しかし、このような前半生が透けて見えるという批判は(小説家になろうの構造をきちんと理解している方なら深く理解できるだろうが)的外れも良いところである。
作者の気持ちの悪い妄想という批判は大間違いで、現実逃避したい作者が多すぎるという考えも的外れで、彼らは評価を受けるために読者の妄想を流行から読み解き、とても現実的な戦略をとっているだけなのだ。
『わかりやすさ』『注目されやすさ』『短期快楽による読者獲得』に特化した作品にしかフォーカスが当たらなくなってしまっている環境下で必死に生き残ろうとした結果なのである。
現状『小説家になろう』で作品を投稿する作者にはたった二つの選択肢しか存在していない。
①読まれるためになろうのフォーマットや評価システムに過剰に迎合したなろう系作品を執筆し続ける
②それ以外の全然読まれない作品を書く
②を選択した作者のほとんどが最終的に失踪する(淘汰される)。
小説に限らず、創作というものは基本的に見られるために作っている人間がほとんどであり、金銭がもらえるわけでもなく評価も感想も一切受けられないような状態で、小説を何万字も執筆し続けられるようなモチベーションを持てる作者は非常に少ない。(読まれない or 不信感からブラバされるので最初から評価の対象にすらならない→読者が来ないの無限ループに陥る)
確かに、昔は違ったかもしれない。
Web小説が個人サイトで書かれていた時代は作品など誰にも読まれないのが当たり前の時代だった。
しかし、今は違う。
自分が頑張って伏線を考え、構成を練って、人生の時間を割いて、心の底から自分が面白いと信ずる作品を出しても、長期に渡ってほとんど誰にも読まれない。レスポンスをもらえない。
労力に見合うような読者の感想など一切つかない横で、フォーマットに適応しただけの中身のない出オチのような作品が連投&評価をされ続けてランキングを常にびっしり埋め尽くしているという現状では、まあ……やる気をなくすのも致し方ないと言える。
評価される形式は他創作発信媒体と比較して極端に狭く、それ以外の作品を発信したところで世間に評価される可能性は完全に0。それなのにサイト内で評価されなければ読者が来ないのでスタートラインから詰んでしまっているようなとても悲惨な状態だ。

そう思っている方もいるかもしれないので補足させてもらうが、コンテンツが持ちうる特性や注目度重視のサイトデザインが長年放置された結果、
人が来ないWeb小説作品の「人が来ないっぷり」は、他の創作コンテンツの「マイナー」とは比較にならないレベルのぶっ飛んだ格差を生み出してしまっている。
例えば、似たようなコンテンツ構造のYouTubeでは総視聴時間の90%が、最もアクティブな(つまり人気の)10%のユーザーによって占められているという絶望的な格差が存在していたようだが。
小説家になろうにおいてその年の上位10%ラインとは100ポイント前後の作品のことである。(上記のデータは古いが、サイトの基本デザインが変わっていないのでおそらくこのポイントの分布は大きく変わってはいない)
はっきり言って、ポイントと読者がごく一部の人気ジャンルに偏りすぎている。
Web小説では多大なアクセスを支配しているであろう5桁ポイントを取っている最上位の作品は全体の0.5%程度しかないのだ。
ここまで極端な読者分布が形成されてしまうと、下層のユーザーどころか、中堅層のユーザーすらモチベーションを持続できないので、結果として多様性は失われる。
読者をバラけさせないと先細るのは誰が見ても一目瞭然なのではないだろうか?
評価やレスポンスを気にした場合、現状のWeb小説における作品執筆の自由度の低さは他ジャンルの創作の比ではなく、精神的なダメージの大きさも凄まじい。読まれないので読まれない。こんな環境ではトレンド以外の作品を書く作者のほとんどがモチベーションを維持できないだろう。
新作投稿がどんどん遅れていき、自信をなくして作品を削除したり、筆を折って退会してしまう。

通の客のたまの来店だけでは作品は打ち上がれず。
打ち上がれなければ読者が増えないので、いずれ閉店する
本来そのような作品こそ出版社が拾い上げるポジションに位置しているのだろうが、当の出版社は(前述の通り)いちいち作品を探すようなことはせず。ほとんどの場合、ポイントの高さを重視して上から拾い上げているだけである。救いはない。

こちらもカラーリングが定まりきってしまっており、新しいなろう系を拾い上げる場所としてしか機能していないような状態と言わざるを得ない。
受賞した作品のタイトルを見て、即座に何かを察して投稿を取りやめるユーザーは確実に存在しているだろう。
それこそ(ラノベ黄金期の終わりである2015年以降の)2016~2017年のあたりから界隈全体がず~っとこんな感じなのである。結果が出ないのに何年も同じことを繰り返すのは誰がどう見ても無駄な行為だし、そういったユーザーが見切りをつけてWeb小説界隈からいなくなっていく(淘汰される)のは自然の摂理だ。
作品にかける意欲や熱意というものは創作者にとっての命の灯であり、人によっては生きる希望そのものだ。
結果だけ見れば、この小説家になろうというサイトは長期に渡って『日本最大手の真っ当な小説投稿サイト』を狸のように演じることで、そういった新しいことに挑戦しようとする作者達の意欲や熱意を無慈悲に奪い続けてきた。
そして、トレンドのコントロールや新ジャンルの開拓など一切せずに「ユーザーのコンテンツ投稿の場の提供に徹する」というスタンスを誇示し続けた。
しかし物事に介入しないというのは、無関心であるということと何も変わらない。
環境の悪化を放置し続けた結果、アングラから産まれた素人の即物的な創作物ばかりが力を持ってしまい、ライトノベルというコンテンツそのものを凄まじい勢いで先細りさせてしまった。
もちろんそこに悪意などはない。広告を出している以上目先のアクセス数を得られなければ会社の運営もままならなくなる。運営を行なっている彼らにも養う家族があり、生活がある。しかし……だとしても、もはやなろう系以外の作品を書いても全く欠片も評価されないサイトというのは、運営を行なっている人間が知らないというわけではないだろう。
そして、その裏で数多の作者達がWeb小説のコンテンツ構造や評価システムの仕組みを理解できないまま。新しい潮流を作る機会を失い。消えていったのである。
この記事をここまで読んでくれているあなたならわかるだろうが、これは最早真剣に創作を頑張ればどうにかなるとか、世間一般的にウケが良い作品を執筆して評価されるような環境ですらない。淘汰されていったユーザーはそも頑張る場所自体を間違えていたと言わざるを得ない。
結局、作者達は小説家になろうから去るか。作品置き場と割り切るか、淘汰を生き残るためになろうの流行に乗らざるを得なくなってしまう。
現状の『小説家になろう』はあまりにも読者の好みが先鋭化しすぎて、無意識にウケる作品を書けるような狂った作者はほとんどいない。天然で、現行のなろうで即座にランキングを駆け上がれる極端な内容の作品を書ける作者が居たとしたらその人物には小説を書く知能などきっと最初からないだろうし、現実世界で生きていくことが困難になるだろう。
むしろほとんどの場合、書きたくて書いているわけではないのである。
ランキングのトレンドに存在する固定層の読者達が求めていて、他に評価を受ける方法が何も存在していないため仕方なく作品を書いている(もしくは自由度が低くても苦ではないと感じるタイプの作者だけが生き残っている)というパターンが大半だ。
現状のなろう作家は自らの個性や作家性をほとんど全て放り投げ、常に読者の要望に答えつつ、徹底的にプライドを投げ捨て歪な環境に適応し、読者がyoutubeの暇つぶし動画レベルの娯楽感を提供できる程度の(作者本人から見ても)全然面白くないような作品を展開重視、速度重視で投稿し続けているのだ。
ある意味誰よりもサイトにいる読者の存在を認知している。そのため、小説家になろうの作者たちは人気が出ている特定のジャンルに過密してコピーコンテンツを量産する傾向にある。(前の部分で述べたが、これは特定のジャンルにユーザーが固まり、閉じコン化に至る原因の一つである)
常人ならば馬鹿馬鹿しくてメンタルがもたないだろう。
もちろん、どんな媒体でも読者を見なければ作品は独りよがりになってしまうだろうが、ここまで読者に迎合して内容を固定化・テンプレート化してしまうと、クリエイターの自由なアイデアが介入する最低限の隙間すらなくなってしまう。
もはや創作とかそういうレベルではなくなってしまう。

他ならぬ作者自身が『この作品死ぬほどつまらねー!』と思いながら狙って書いていたりするのだ。凡人には到底真似できない。こういった作者の執筆作業は最早創作ではなく、工場のライン作業に近い感覚なのかもしれない。
そしてこうした『あえてつまらないものを大量に書いている』という作者に対して『どうせ面白い作品を書けない言い訳なんだろう?』という批判が上がったりするが、これも的外れな批判だ。
現状のなろうの環境は『なろう系というジャンル単位で批判を受けている』ほど歪なものである。そんな環境の中で、世間一般的な評価指標にきちんと迎合した面白い物を書いたところで結局読まれもしないので『読まれるという目標で動いている作者達』にとって『面白い作品を書こうとする試み自体に全く価値がない』のである。(つまり、根本の目的から違ってしまっているのだ)
もしもWeb小説のフォーマットが違っていたならば、世間的な感性と同じレベルで面白いものが評価されて作品の多様性が今よりも認められる環境ならば、あんなランキングに成り果てているはずがないし、なろう系という言葉で一括りに揶揄されて、ジャンル単位でここまで馬鹿にされることはないはずなのだ。(余談だが実はなろうでは、『ある程度ウケの良い作品を狙って書いて、人気を博してから自分の好きな作品を自由に書く』というスタイルも成立しにくかったりする。人気を博した結果集まってくる読者の忍耐力がないため作風を変えてしまうと有名作品の作者でさえほとんど誰も読んでくれないのである)
こういった現状を知れば知るほどに、連載を続けてヒットを繰り返しているなろう作家のメンタリズムは凄いと思う。(小説を創作だととらえてしまう筆者個人としては何が楽しくてそんな苦行を続けられるのかまるで理解できないため、なろう作家の感性への批判ではなくそのような利益率の低い苦行じみたライン作業をやり続けるのは人生の時間の無駄なのではという論調の批判ならばまだ理解できる。とはいえ、作者の母数が増え続けた結果、そういうことを苦も無くこなせる作者しか残っていないのかもしれない。結局、作者も読者も作品も淘汰を乗り越えた者しか残っていないのだろう。
また、この環境であえて頑張りたいと思うような作者がいるのも事実で、特に――
『小説家という肩書』そのものには憧れるが『創作性が全くない』と自覚しているようなユーザー
――にとっても特に素晴らしい環境であると言える)
⑥『小説家になろう』に限らず、素人文化が強すぎるWeb小説界隈に対して「他媒体と同感覚の評価基準」を適用すること自体が大きな間違い
というわけで、この記事で筆者は長々と『小説家になろう』のシステムやら構造やらに苦言を呈した。
何年経っても改善されない。前時代的で、望んだコンテンツを見つけづらく、ランキング以外で読者と作者のマッチングがされず。
同じ人気作品が嫌でも目につきやすいyoutubeみたいに不便なサイトデザインと。それにより発生する読者の一極集中による多様性の徹底否定と繰り返される模倣によるコンテンツの大喜利、ショート化、そして劣化。その結果構築されるグロ画像のような悪名高いランキングは、このサイトが日本で最大手のWeb小説投稿サイトであるということを時々忘れさせてくれる。
しかし、このような現状に対して怒りの声をあげるのは無駄である。
冷静になって考えて欲しい。小説家になろうの運営母体であるヒナプロジェクトの社員数はたった30人前後。膨大なアクセス数に対して会社の規模は小さいと言わざるを得ず。現状維持をするだけでも過大な黒字が出ているのだろう。そして、ここからさらに経営的な成功を収めるにはある種のセンスがないといけないし、事業の拡大にはリスクを伴う。
その実態を理解していないユーザー側が『小説家になろう』という巨大なサイトの規模に惑わされて、運営者及び運営会社に対して過度な期待をしすぎてしまっているに過ぎない。

なろう系批判の際に槍玉に挙げられるようになった。
作品の偏りとかランキング以前に普通にWeb小説を利用するサイトとして使いづらい面も多々ある上に機能改修や新機能の実装もとても遅いという指摘があるが(これは批判とかではなく、純粋に率直な感想として)HPを見ても月間億単位のPVが出ているサイトを運営している会社には到底見えない。
会社として派手に目立ちたいというわけでもなさそうで、逆に簡素清貧な印象すら受ける。
ベンチャー企業でもなければ、株式上場をしているわけでもない。
ユーザーが偶然大量に集まってしまったというだけで、一企業としてそこまで目立ちたいわけではなかったのではないか?とすら思えてくるほどだ。
ヒナプロジェクトには小説業界をどうこうしたいというような意識の高い、崇高なビジョンはない。ただ『あなたもこのサイトに投稿をすれば小説家の気分に浸れますよ』というサイトを運営しているだけなのである。(現状は『なろう作家になれるサイト』なわけだが……)

それでも作品がここに集まる理由は『アクセスが最も多いから(読者の母数が多く読まれる可能性が高いから)』なのである。
小説家になろうの方針は昔と同じで『アクセス数が大きく減らない限り現状維持』なのは明白だ。大きな変更があるとするのなら、ユーザーを今以上に大きく減らした時だけだろう。
そして、今後万が一運営者が経営危機感を感じてサイトデザインを変更しようとしたとしても本質的には「小説家になろう」というサイトは、戦略的に業界を牽引しようとして覇権を取ったわけではなく、偶然性や先行者利益に恵まれた結果、巨大な影響力を持ってしまったという側面が強いプラットフォームなのだ。
要するに運よくバブルのように人が集まったというサイトであり、自社の鋭い経営判断に基づいてトレンドを構築したという経験があるわけではないので抜本的な改善は困難だろう。
そもそも改善できるような運営力やアグレッシブな経営理念があるのならば、このような現状には至っていない。
加えて、抜本的な改善をしてある程度コンテンツを大衆寄りにしようと画策したとしても、現状に至るまでの「なろう系」を始めとするネガティブなイメージは払拭できないし。今のボリューム層、現在の支持者層を一回切り捨てる事になってしまう。そして、模倣できるような革新的な評価システムが他のWeb小説サイトに存在しているわけでもないのでとてつもない博打をする必要が出てくる。これはあまりにもリスクが大きすぎる。
結果として、小説家になろうというサイトはその影響力に見合った資本力・開発力・キュレーション能力を備えておらず、実際には“分不相応な覇権を持ってしまった”状態になっている。
そのため、文化的インフラに近い立ち位置にあるにもかかわらず、構造を改善する力も意思もないまま市場全体に影響を及ぼし続けているというジレンマに陥っている。
言い換えれば、「責任は取れないが、影響力だけはある」という不均衡な状況であり、周囲の業界にとっては制御不能な巨大ノードとなってしまっている――というのが実情だろう。
もちろん現在利用しているユーザー達の不満は消えない。
中には小説家になろうのエッセイジャンルなどでなろうの改善案を延々提案したり、現状のランキングに怒りの声を上げているユーザーがいるがこれは全く無意味な行為だ。

とにかく不満が集まりやすい場所であり、「小説家になろうはなんの展望もなしに半端に覇権を握ってしまったまま現状維持を続けた結果、間接的にライトノベル業界全体を滅茶苦茶にしている」といったような辛辣な投稿も過去にはあったが、しかしアクセスを稼げる展望がある運営からすれば知ったことではない話なのである。
ちなみに、2023年になってからエッセイジャンルでなろう系批判をするユーザーは減ってきているように感じる。
これはなろう系が市民権を得たというわけではない。
実態はその逆であり、単に文句を言っていたユーザー達が完全に見切りをつけてWeb小説界隈から全員いなくなった(他の娯楽に流れた)結果だろう。
こういったユーザーは現状がいつか解決されると期待しているから怒りに繋がってしまっている。しかし『期待する方が愚かである』という認識を持つべきだと思う。怒っている彼らは、このサイトの運営者、及びWeb小説というコンテンツが本来想定しているお客さんではないのではないのかもしれない。
⑦『小説家になろう』以外のサイトが覇権を握っても、結果は変わらない。Web小説の構造から自然発生する「なろう系」によって陳腐化は免れない。
小説家になろうというサイトは今まで日本の小説投稿サイトの中で覇権を握っていたが、筆者としては時代を経て運よく覇権を握れていただけのサイトという認識でいる。
「運良く覇権を握れているなんてありえない話で、運営者にセンスがあるから後続のサイトが存在しないのだろう」
――という反論があるやもしれない。
しかしそれには理由があって、一次創作に特化したWeb小説という創作ジャンルは、どう足掻いてもそのコンテンツデザインが内包している問題のせいで大量のアクセス数を稼ぎながら多様性のある『なろう系以外の持ち味』を提供することが極めて困難であり、結果として自然状態を放置してごくごく少数の超人気作を長期に渡って派手に打ち出したサイトが覇権を握るのである。(先程の項で、短編恋愛に特化したなろうは書籍化の熱に依存できなくなりつつあると筆者は述べたが、それで終わるのは『小説家になろうにおける書籍化ブーム』だけであって、サイトやWeb小説そのものは死なない)
しかし、それが故に問題も起こる。
これは「最近の◯◯がつまらなくなった」という概念に必ず絡んできている問題だと筆者は考えているが、こういう娯楽コンテンツを提供するプラットフォームの最大の問題は「マーケティングが過剰に先行しすぎた結果、パッと見、面白いかどうかわからない、粒揃いの豊富な中間層が軒並み軽視されてしまう」ということだろう。
小説家になろうというサイトは「アングラ文化の元、読まれるごく少数の作品とその他大勢の有象無象」という自然状態を放置していて、「最上位の作品といつでも入れ替われるような多種多様な(新しい環境のトップとなりうる)中間層クラスの作品」がほとんど存在していなかった。
そのためサイトやWeb小説文化やコンテンツのデザインに引っ張られて出来上がった流行がいつまで経っても切り替わらず、全体の印象も長期にわたって固定され多様性も低くなっていく。
そして流行がなかなか動かない状態で、そういった流行が好きなユーザーだけが増えていくので次第に人気作品の模倣と劣化が繰り返されていき、ユーザー数とコンテンツの飽和によって全体の質と評価が次第に落ちていくし、そんな状態で無理に流行を動かしたら、都度ごそっと人が減る。
その一方で、小説家になろうとは違う、中間層クラスの作品が多いサイトはサイト内の多様性が担保される代わりに、ユーザーの分布がバラけるし、流行がコロコロ変わってしまうため、長期に渡って看板となる圧倒的人気作を打ち出せなくなってしまう。
こうなると、ユーザーの最大の集客理由となるアクセス数で負けてしまうのである。
(多様性が担保されていて、サイトの看板作品が頻繁に入れ替わってしまうと有名作品を長期に渡って大きくプッシュできなくなってしまい。プラットフォームに対する集客力という点で負けてしまう)
てんすらとてんすらスピンオフとてんすらスピンオフとてんすらスピンオフとてんすらスピンオフとてんすらスピンオフが連載してるシリウス、もう雑誌名てんすらで良いんじゃないかな pic.twitter.com/zlssHLT589
— 暇空茜 (@himasoraakane) April 26, 2023
(しかし、そういったプラットフォームではユーザーが看板作品に一極集中して、人気作品の模倣や二次創作を繰り返すことになってしまうので新しい物が次第に出てこなくなってしまって陳腐化する)
小説家になろうは多様性を軽視して、ごく少数の作品にユーザーが勝手に集まった結果、今の地位を築いてきた。
むしろ、Web小説投稿サイトは注目を集めようとすればするほど、そしてユーザーが集まれば集まるほど、サイト間の競争が激化すればするほどにこれ以外の成功モデルが存在しなくなる。
これが資本主義による自由競争という環境下で最も強い『素人が誰でも無制限かつ自由に投稿&評価できる。スマホで気軽に読めるWeb小説を投稿するサイト』の限界点であり、「参入数が多い上に評価に時間がかかる小説」というコンテンツでサイトユーザーを確保する最も効率の良い方法は特定ジャンル&少数の作品へのユーザー一極集中による外部アピールなのだ。
そして看板を掲げた結果、多様性の少なく流行が中々動かない環境下で、人気作の模倣ばかりが延々と繰り返され、評価システムもハックされ、自然と淘汰が行われなろう系(連載速度重視の読者の欲望を満たすことに特化した短期快楽作品)だけがピックアップされるようになってしまい全体が陳腐化するのである。
サイト運営において最も大切なのは利用者の確保である。素人が自由に発表できる場として盛り上がっているのがWeb小説投稿サイトであるが故に、足切りや、品質管理や、作者への批判が許されるシステムを導入してしまえば最後、そのサイトはウェブというプラットフォームで最前線には立てなくなる。(この問題は他のウェブコンテンツでも起こっている。はっきり言って「目立ってなんぼ、儲かってなんぼ」の資本主義下で加速し続ける自由競争という概念が悪さをしすぎている節がある)
そして覇権を握るのならジャンルの多様性も認めてはいけない。
これを認めるとユーザーが多数の作品にバラけてしまうためサイトの広告塔を担う強大な看板作品が存在しなくなってしまうのだ。

文字通りこんな看板を派手にうち立てることはできなかっただろう
Web小説に限らず。様々なプラットフォームが最も覇権を握れる方法が少数の人気コンテンツに大量のユーザーを集めるやり方なのだが、しかし、こんなことを繰り返せば全体はゆっくりと停滞していく。
行き着く先は闇であろう。(後述するが、この流れはGoogle検索や今のyoutubeにそっくりだ)
1.Web小説というコンテンツは既に袋小路。似たようなサイトが新しく打ち上がっても同じ流れで廃れてしまう。
例えば、小説家になろうというサイトがある日突然丸ごと消滅したとしよう。
しかし、ジャンルや話の内容は多少変われど、Web小説の基本的な構造は変わらない。
小説家になろうが潰れても即座に「健全な創作文化」が戻るわけではなく、むしろ“なろう系以外が育っていなかったツケ”が表面化するだけだ。
『日本の素人色の強いWeb小説文化の元で、特定の作品の人気が加熱して、特定のサイトが活性化している状態』そのものに致命的な問題があるため、人気のWeb小説投稿サイトは人が集まれば集まるほど、瞬く間に特定のジャンルにユーザーが過密して、アングラな作品が先鋭化してつまらなくなる。
Web小説の問題(アクセス目的のため、一話の文字数を少なくして品質を下げて単話の展開を重視する傾向)は小説家になろうに限った話ではなく、加熱しつつあるWebコンテンツが持っている構造上の仕様だったりする。

ジャンルの入れ替わりや競争が日本よりも激化しており、とにかく大局よりも目先の展開を重視して文字数を少なくして品質を落としてでも連投し続けたものが生き残る。
複数人で交代しながら執筆を行うほどで、ライターが過労死する事件が起きている程。
(※仙人となって無双する仙侠物というジャンルが流行となっていた時期がある。
全てのWeb小説は『なろう系』に通じるのかもしれない)
実際潰れるまでは行かずとも、一時期「小説家になろう」というサイトのアクセス数は減少してきていた。 流行が廃れた後に新しい流行が発生することを期待しているユーザーも中にはいたようだが、現状のニコニコ動画などと同じように、そもすでにやる気や技術のあるコンテンツ発信者や、他とは違う作品を求めていた読者は環境そのものに対して見切りをつけてしまっているので、そもWeb小説というコンテンツそのものから新しい潮流が盛り上がることはないのだ。
なんなら動画界隈などと同じように、加熱しすぎた収益化やユーザーの一極集中によってコンテンツジャンルそのものが陳腐化しているような状態なので他のサイトならば大丈夫というわけでもない。Web小説という創作ジャンルの土壌そのものが壊滅的な状況に陥ってしまっているような状態だ。
※余談、カクヨムというサイトについて

なろうの対抗馬である日本の小説投稿サイトであるカクヨムも同じような問題を抱えている。
結局Web小説というコンテンツを取り扱う投稿サイトは集客のために人気の作品を作り出す関係上どこも最大公約数的な評価が優先される。
加えて、優れた感性のユーザー一人の評価とスマホで流れてきたコンテンツを雑に読み捨てる凡人一人の評価が全く同じなので、特定ジャンル、特定ワードに迎合しないと読者の歯牙にもかからない。そして、Web上で大量の素人が集まって文字だけで表現&注目されようとすると最終的に生き残るのは読者や評価システムに迎合したアクセス数目的の『なろう系』になって瞬く間に先細っていく。
累計ランキングという概念がトップページに出ている時点でわかる話だが、ここも結局はなろうと同じでサイトを背負っていく看板作品をなんとか生み出そうとしているだけにすぎず。
今までと全く違う新しいジャンルが打ち上がるような環境でもない(そも、何度も言っているようにそういった作品を好む読者の方が歴史的にはマイナーな側であり、既に全員見切りをつけていなくなっているため)のだ。
かつての小説家になろうと似たようなことをしてお金を稼ごうという意図を強く感じる。(実際、小説家になろうと同じく純粋な作品の面白さなど二の次、三の次で、長文タイトルやあらすじでの集客、作者同士の相互評価行為やフォローなどの中身とは無関係の読まれるためのテクニックに迎合する必要がある)

この機能は以前から相互評価工作の温床になっており『自主企画に参加した際につけられた評価はランキングに反映されない』という仕様変更がされたが根本的な解決には至らず。
結局自作の見栄えを良くするために星をつけてもらいたいユーザーと、なぜか企画の募集文に自作のURLを掲載して自主企画を立てているユーザーが暗黙の相互行為をするために集まっているような状態となっている。
そして、このような行為をしているのは大量の若年層ユーザーである。
大量に流入してくる素人の規模に対して、どのWeb小説サイトも運営者の能力が追いついていない傾向にあると言わざるを得ない。
筆者的には、このカクヨムというサイトが小説家になろうと同じことをするだけなら、アクセスは今後も爆発的には伸びないし、大きく注目されることはないと推測している。
今はすでにWeb小説の黎明期ではない。カクヨムに注目がされている今はWeb小説の末期なのである。
このサイトデザインは、例えるなら『youtubeの後釜のコピーサイトを構築しておいて、新しいHIKAKINレベルのビッグユーザーの登場』を望んでいるようなものだ。
もうすでに人気作品への劣化模倣と評価システムのハックがスタンダードになってしまって、先細りを繰り返してユーザー層が減りつつある界隈の流れに、二匹目のドジョウのように後から乗っかって、看板となる巨大な一次創作が出てくるわけがない。
かつてのなろうの看板作品に似た作品が存在していたとしても、流石に同じ性質の物はもう爆発的には伸びないだろうし。現状では注目度重視の劣悪なコピー作品の母数があまりにも多すぎて埋もれてしまうだろう。
こんな流れが既に出来上がっている状態でトップページに累計ランキングの掲載をしていたり、注目度重視のシステムを構築したところでサイトの広告になりうる看板作品など今後も新しく出てこない。
看板が出てこないのなら、サイトに大きな注目は集まらない。
カクヨムに人が集まってもそれは決して黎明期ではない。
なろうの後を引き継ぐだけなら、その環境は既に末期なのである』
(そんなわけで、現状のカクヨムはなろうの真似をして看板作品を作りたいからか、作品の検索機能はなろうどころかWEB小説投稿サイトの中でも低いと評されることが多いようで、劣化と模倣を繰り返した挙句、新しい読者層が外部からやってくる気配もなさそうだ)
その一方でカクヨムが「使いやすい」とやたらと推してくるユーザーがいる。
しかしこれは一種の生存者バイアスであり、運営が前面に押し出すコンテンツをそのまま受け取って消費する文化が根付いてしまっている若年層ユーザーがこのような主張をする傾向がある。
これは一見便利に思える一方で、いくつかの問題を抱えている。
アルゴリズムに選ばれた作品ばかりが読まれるため、人気作がさらに目立ち、埋もれた良作はほとんど読まれないという偏りが生まれる。
その結果、ランキングが固定化し、読者の目に触れる作品の幅が狭まっていく。また、読者自身も小説家になろうのランキングと同じように「流れてくるものこそ面白いものだ」という感覚に慣れてしまい、自分の嗜好に合う作品を探す力や楽しみを失いやすくなる。
これは作品体験の画一化を招き、同じようなテンプレート的な物語ばかりが消費される流れを強めてしまう。創作者にとっても、アルゴリズムに拾われなければ自作は存在しないも同然となり、結局は「サイトに推される」ことを最優先にした作品作りを強いられる傾向が出てくる。
そうなると、独自性や挑戦的な試みは評価されにくくなり、受け身の読者ばかりが集まる環境ではレビューや批評の文化も育たず、作り手が成長する機会も減っていく。
最終的にプラットフォーム全体としても、ただ流れてきたものを消費し続けられる読者ばかりが残り、深く作品を掘り下げて語るコミュニティが全く欠片も育たず、短期的に消費されるだけの均質な作品群が中心になってしまう。
つまり「環境に適応できている若年層ユーザーの主張する使いやすさ」の裏側には、創作文化そのものを均質化し、短命化させてしまうという構造的な問題が潜んでいるというわけだ。
結局、コンテンツデザインや評価構造に問題を抱えた状態のまま、①若年層や創作経験のない素人が大量に集まり敷居の低い環境下で無制限に発信&直接的に評価をすると作劇は歪み、そこにさらに②金儲けというブースト要素がかかってしまうと、テンプレート化が進み、コンテンツはさらに陳腐化してしまう。
散々こき下ろしておいて何だが、割合で語るとWeb小説のコンテンツ構造が生来抱えているという部分が問題の7割。小説家になろうのサイトデザインが3割くらいだろう。(というよりも、なろう系を加速させるという目的ならば2021年くらいまでの『小説家になろう』はかなり優れたWeb小説投稿サイトである)
小説家になろうにはない平均評価システムや精度の高い評価システムを導入したサイトがあったとしても多様性が確保されすぎるとユーザーは集まらない。
もし集まったとしても、真っ先にやってくるのはWeb小説文化を色濃く受け継いだ素人であったり、アングラなユーザーだし、読んでもらえなければ評価などつきようがないし、そも大多数のユーザーは作品をきちんと読んできちんと評価をつけたりなどしないのでWeb小説のフォーマットに適応した序盤特化型のシンプルでファストに快楽を得られる作品以外はWeb上では今後も認められない。
考えれば単純な話で、消費に時間のかからない動画サイト以上に、時間をかけて最後まで読まなければ良さがわからない作品ばかりの小説投稿サイトは読者もばらけて、アクセスの流動も激烈に悪くなる。
一方で手取り早いストレス解消ツールとしてのインスタントでとっつきやすい、雑に消費できる作品ばかりが大量に集まるサイトはそれだけ全体のアクセスも増えやすいし、広告効果を見込めるし収益も得やすくサイトの規模も拡大しやすい。
小説家になろうが消滅しても何らかの施策(文化的な意識改革や、資本を使った革新的なシステム導入)を率先して行わない限り、Web小説界隈では『なろう系』が最強であり、今後も絶対に消えないのである。現状のWeb小説というコンテンツが加熱すると自然に産まれるのがなろう系なので、なろう系という概念がもしも死ぬ時は現状のWeb小説そのものが完全にオワコンになった時だけなのだ。
⑧読者に対して『名作を探そう』。『評価しよう』と語りかける行為は無駄。名作を掘り出せるような仕組み作りも意味を成さない。
このような問題に苦しんでいる側のユーザー(Web上でマイナーな扱いを受ける非テンプレートな作品や一般的な小説作品を扱っている作者達)が行うアクションは概ね決まっている。
今のなろうの構造改善を小説家になろうのエッセイジャンルで訴えたり、運営に直訴したり、twitterなどで他のWeb小説投稿サイトを利用するように働きかけたり、名作を掘り出すように働きかける行為に走るのだ。
中には、新しい小説紹介サイトやマイナー小説の拾い上げサービスを個人で立ち上げてこの流れに抵抗しようとしている者達もいた。
しかし、残念ながらこれらの行為はほぼ無駄である。少なくとも、現状を大きく変えうるものにはならない。
他者に語りかけられる程度で自ら動くような熱意ある人間などほとんどいないし。
そも、そういうユーザーはブームによって一時的に母数が増えたが、故に短期的に発生した少数派でしかなく源流ではない。
実際のウェブ小説を取り巻く環境は、じわじわと茹でガエルのように(目先の売上どころか、世間的な創作評価下でもまず間違いなく)悪化してきているのだが、『現状のWeb小説が他ジャンルの創作と比較しても、熱意があるわけではなくだらだらと作品を消費するだけのユーザーや、既に(コンテンツとして)袋小路に陥ってしまっている』という事実を認識できていないユーザーや、他の多様な創作物に触れたことのない若手ユーザー(特にこういう若いユーザーはWeb小説が文字を書ければ参入できる上に無料で消費できる故に母数が多く、倫理観が未成熟であるため不正や工作、テクニックへの迎合に対して躊躇しない)、開き直って内容を冷笑する目的で作品を読むユーザーや、環境に迎合した上でWeb小説投稿サイトを『投稿実験の遊び場』(ランキング入りチャレンジなど)にするユーザーばかりが主流となっていて――
――要は、なんとなくの死に体で現状維持が行われているだけで、そも現状のなろう系トレンドを愛して止まないという熱意があるユーザーが多数いるわけでもない。
加えて、現況を変えるための活力や危機意識も低下してしまっている。(これもただ、なるべくしてなってしまっているだけなので誰が悪いというわけでは決してない)
Web上で『なろう系以外の小説作品』を取り扱うユーザーは消滅したか細々と個人活動をしているだけであり、閉じコン化とファスト化があまりにも進みすぎて、問題提起がされることもなければ問題に対して立ち向かう気力すら既に残っていないのである。
そして同時に、進化の袋小路に到達してしまったWeb小説は『なろう系』という蔑称が広まりきってしまっている事実と共に既に世間的には見切りをつけられつつある(距離を置かれつつある)コンテンツなのだ。
この記事に対してよく見かけた批判が
「このような流行に対する批判はミステリーしかり、学園恋愛モノ然り、ジャンプ漫画しかり、それこそラノベに対してすら昔からあったし、当時から批判されていた。この筆者は昔と同じことを繰り返しているだけだ」
「なろう作品と似た内容の作品ははるか古代から存在するから、昔と同じ流行批判が繰り返されているだけだ」
といった内容である。
しかし、過去の有名な作品は「創作能力に長けている作者が大衆に向けた面白さを考えた発信した作品」だったから、少なくとも蔑称はつけられなかった。
「創作能力が低い素人(もしくは創作能力が高くとも、そのほとんどを発揮することなくアングラな読者に対して迎合しているような作者)がWeb小説界隈の読者層に対して即物的に読まれるために書いた作品」とでは、打ち上がる評価構造も違うし。内容のクオリティや大衆ウケの度合いは決して同じ物にはならない。
実際、時代的な大衆の流行と(現行の)なろう系のアニメ化進出は明確に違う。大衆の流行への批判は「だから消費者よ。もっと高尚なものを消費しろ」という論調に繋がるわけだが、この記事はそれとは切り口が違っており、そもかつてのライトノベルと比較できないレベルでネット上ですら専用の蔑称が出回って罵詈雑言まで飛ばされてしまっているのは大衆の基準から見ても明らかにライン超えしている。
Web小説界隈のことを何も知らない友人・知人が今期のアニメ一覧を開いて「ま〜た『なろう系』かよ〜。マジでつまんねえし多すぎるんだよな〜」と言っているような状況に筆者は何度も遭遇するようになった。
テンプレへの飽き、似たような作品が多すぎることへの軽い不満には留まらず、価値観やストーリー構造への否定感、拒否感も強くなってしまっているのだ。
しかも『ジャンルの小煩い専門家(警察)』や『創作の自称上級者』がそのように騒いでいるのではなく、シャーロックホームズやハリーポッター、鬼滅の刃や君の名はやらスパイファミリーや葬送のフリーレンなどの話題性のある大衆向け娯楽作品が好きな、『普通に創作物を消費している一般人』の目に嫌でもついてしまった結果、存在そのものが嫌悪感を呼んでしまっているし。彼らからそのような愚痴を聞くようになってしまっている。
こんな珍妙な状況に陥っている創作ジャンルを、筆者はかつて見たことがない。
ツッコミを入れることすらせず、歪な価値観の作品や創意工夫のない作品を褒め称えた挙句にメジャーレベルで打ち上げながら現行のなろう系作品を未だに消費しているユーザーは、食事で例えるのなら味覚が特異なゲテモノ好きのようなもので、これは世間一般的な流行を好む大衆消費者層とも明確に違うものだ。
つまり、現行の(やたらと批判されている)小説家になろうのランキング環境は、ゲテモノ好きが一般化してしまっている状態なのだ。
しかも、ゲテモノをゲテモノとして「これはこういうもの」として楽しむわけではなく。ゲテモノがそれなりに美味しいと漫然に口に運ぶ人々の集まりとなりつつあり、それが第三者のチェックを一切通らずにシステムの恩恵を受けて売り上げという数字を根拠に無秩序にプッシュされる状態となっている。
この状態をラーメンで例えると、大衆向けの濃い味のラードが入ったラーメンを一口食べて、「ラードが少ない。ラードの味がしない」という理由で不満を抱き、即座に店を退店してしまうような人が大量にいるような異常な状態だ。世間一般的な大衆の感性からもかけ離れたユーザーがスタンダードなので、ウケるラーメンとか売れるラーメンを真面目に考える以前の環境だろう。
この環境にいる人達はただただラードが好きなだけなので、ラードがたくさん入った安価なラーメンばかりを食べている。つまり、特定の素材が好きでそれに執着しているだけであって、ラーメンをラーメンとして評価していない。
(実際、この界隈では「特定の要素(○○系)がかなり良いから、この作品が好き」といった文言の作品紹介しかできないユーザーがとても多い。こういうユーザーは単に特定の要素が好きなことをアピールして作品を大量に雑消費しているだけで、個々の作品そのものをきちんと評価しているわけではないのである)
もちろん、他の要素との調和を理解した上でラードの要素を好むことは理解できる。しかし、単にラードが好きと言っている人達の集まりなので、他のラーメンでもひたすらラードを使いまくれば満足してしまうような状態となってしまっているわけだ。
物事には適切な限度というものが必要だ。このようなユーザーが多数蠢いているような環境というものは、世間一般の流行とは明確に乖離したものである。これらのユーザーの存在そのものを完全に否定するようなことは決してしないが、しかしこのようなユーザー及び作品群は本来アングラな場所で細々と活動しているような層であって、マイナーであったり、アングラな枠として分相応の注目を浴びるのならまだしも。大量の作品が我が物顔で毎期、公共の電波を埋め尽くして、衆目を長期に渡って浴び続けて良いようなジャンルなのかというと……………………流石に疑問符が残る。
そして現状『なろう系』という言葉のイメージが様々な界隈で固定してしまった現状、Web小説に対して今や深い面白さを求めたり、真新しさを本気で期待するようなユーザーはほとんど残っていないのである。(というより、何度も言っているようにそういうユーザーは歴史的に見ればむしろ外様、マイナーな側なのである)

それもそのはずで、Web小説において「なろう系」が長期間にわたって主流となり人気を博し続けた結果、Web小説の利用者の内訳自体が年々偏ってきてしまっており、Web小説ユーザーの全体の内でなろう系を流し読みする(なろう系を容認できる感性の)ユーザーの割合が既にあまりにも大きくなりすぎてしまっているためである。
つまり、例外的にウケたように見える作品も結局はなろう系の文脈・設定・構成が好きなユーザーに好まれる要素が多分に入っているから打ち上っているというだけにすぎない。
(作品の対象年齢も年々下がってきている)
全く同じ理由で『オススメできるマイナー作品』という体でなろう系独特の価値観に染まっているユーザーが、なろう系と大差ないアングラな価値観に染まった作品の紹介を行うパターンも増えてきてしまっているし
作品を掘り返すスコッパーもなろう系を容認できる感性のユーザーしか生き残っていない。
(結局、今までのトレンドと全く違う作品は掘られたところで伸びないため。スコッパーの手によって跳ねる作品はどれもこれも、既存の人気作の類似品の域を出ていないものになる)
Web小説界隈は、もともと狭かったかつての閉じたアングラな世界に戻りつつある。
こんな状態で、作品の多様性など増えるわけがない。
そんな現状のWeb小説が今後大きく変わることがあるかというと何も変わらないだろう。
どのようなサイトが覇権を握ったとしても新規参入数とコンテンツ数が増えすぎて(溢れすぎて)選別が間に合わないため、読み込むようなタイプの作品は今後とも軽視されるし、Web小説のフォーマットやテンプレートに迎合できていない作品は主流にはなり得ないし、何をどうやったところで認められないし環境は変わらない(先ほども言ったが、ヒット作を生み出したプロですら名前を伏せて文庫本のノリで個性的な作品を投稿したら100%軽視されるのがWeb小説界隈である)
そんな状態が続いてしまうと、その環境に耐えられない読者や作者は皆いなくなってしまうのでいよいよ閉じコン化は加速する。最終的には、元のアングラな界隈に戻っていくのだろう。
個人運営でWeb小説の紹介やレビューを行うサイトに関しても同じで、この手の個人紹介サイトが成功しているのを見た記憶がない。
この手のウェブ小説紹介サイトがコケている理由はシンプルで、個人が良かれと思って紹介する作品はどれも少人数による高評価がつく。即ち、高評価作品の数が増えすぎて誰も選別できない&したくなくなるのである。(作品を読む読者が存在しなくなり、後からレビューが付かなくなりサイト全体の信用が落ちる)
加えて、今のWeb小説界隈はそもそも、Web小説投稿サイトの有名作品を(面白いとは言わずとも)容認できるような感性のユーザーしか残存していないため、現行とは全く違う新しい作品を引っ張り上げるサイトを作ったところで意味がない。
つまり、新しくサイトを立ち上げてもレビューや高評価がたくさんつく作品は元々人気があるなろう系ばかりで埋まってしまうというわけだ。

そのため、このようなサイトを訪れるのは圧倒的に現行のWeb小説ユーザーである。
結局、このようなレビューサイトの根幹にあるのはある程度評価者の母数を確保したうえでの推薦であるため。外から集まってくる作品はなろう系ばかりになるし。
そこに集まってくるユーザーは既存のWeb小説を愛好するユーザーばかりになるので、大量の高評価レビューが付くのも既存の人気作品ばかりになってしまう。
わざわざ外部のサイトで推薦されるまでもない。
個人がレビューするのなら、日の当たらない良作よりも、(誰が見てもゴミであるとわかる)日の当たらない超駄作をゴミと紹介した方が共感は得られるしアクセスは増えるだろう。(Z級映画などを始めとする個人によるクソ映画レビューが好まれる理由がこれだ。実際科学の分野でも、匿名多数の審美眼というものはほとんどの作品に対してアテにならないのだが、例外として誰が見ても酷い駄作に対してだけは正しく機能するのだという。要するに明らかな駄作は誰が見ても酷い。そのため共感をしやすく、安心できるのである)
匿名の個人一人の感性ほど信用できないものはなく。この世で当てになる(多くの人間が良いと判断する基準)のは母数の多いユーザーが手に取った結果の平均評価レビューのみであり、それを規模の小さい個人サイトで再現するのは困難である。
また、こういうサイトやサービスの立ち上げからの失敗でありがちなのが、最初に支持を受けていたのに実際に稼働したらさっぱりというパターンである。
「『読まれない作品』に日の目を!」
こう叫んで「具体的に行動する」と約束すれば、最初の支持自体は絶対に得られる。
『読まれない作品』という括りでは確かに人口のボリュームが多い上に『読まれない作品』を取り扱う作者の数は多いためだ。
それは間違いないし、マイナー作品を救済しようとするサイトやサービスは立ち上げ当初、絶大な支持を得られた。しかし、問題はそれから先の話なのだ。
『読まれない作品』というものは内容が十人十色であり、蓋を開けてしまうと一緒くたにすることができない。
実際のところ、読まれない作品全てを個別に拾い上げて救済するサイトを作ることは読者のコンテンツの消費速度上絶対に不可能であり。即ち、『読まれない作品、日の目を見ない作品』を一括りで救済することは理論上不可能なのである。
結局サイトを作っても、その中でごく少数の読まれる作品、読まれない大量の作品という分類分けがされてしまう。小説作品の母数が増えすぎてしまっているため、どのようなサイトを作っても格差が起こってしまう。
だからこそ、この手のマイナー作品を救済しようとするサイトやサービスは最初だけは絶大な支持を得られるが結局はどれも失敗してしまう。
これならば――
「『読まれない作品』に日の目を!」
――とただただ叫び続けて支持を得て、どんどんどんどん大衆の声を大きくして、解決のための具体案など全くなしに様々なメディアに出て「『読まれない作品』に日の目を!」と無限に叫び続けていた方がまだマシだ。(まるで弱者救済の政治思想の成功パターンみたいだが、少なくともレビューサイトなど立ち上げるよりは注目を浴びるし、成功するだろう)
1.なろう系のメジャーとは違う全く新しい作品を書く作者にとって、希望とされているスコッパーはただの幻想でしかない
小説家になろうでは埋もれた作品を拾い上げるスコッパーといういわゆる作品の掘り出し行為をするユーザーがいるが、これに関しても期待をしないほうが良い場合がほとんどだ。
そもそも現存するスコッパーと言われる人々のほとんどが界隈に長く居座ることができているようなユーザーである。彼らの感性もアングラ寄りであり、現行のなろう系作品を容認できる感性のユーザーである。
そういったユーザーの大体のスタートラインが
「なろうの人気作品は最高に面白い!」から始まり。
→「テンプレが面白い!」
→「流石に飽きてきた、何か他に面白い作品ないかな?」
という流れを汲んだ上でスコップ行為に挑んでいるので、つまりなろう系の人気フォーマットから大きく外れた作品に興味を持つこと自体が稀であり、サイト内の人気作とかけ離れた全く新しい作品は滅多に掘り出されない。
具体例として、この界隈で現状有名なスコッパーさんのブログをいくつかご紹介させてもらう。(ただしこちらの方々が、上記の経緯でスコップを始めたと断じているわけではない。また、あくまで現状の説明を行うために掲載したのであり、批判の意図は全くない)
これらを見ていただければ、現在のスコッパーさんたちの雰囲気がどのようなものかは伝わるだろう。
文芸を愛する人や一般的な読者からすればWeb小説文化の色が強い作品群をメインに掘り出しているというのは一目瞭然だろう。
要するにスコッパーという拾い上げの立場の人が拾う作品ですら(そんな作品がWebに転がっているのかどうかはさておき)Web小説文化とは無縁の人が好む名作(例えば『レ・ミゼラブル』、『金閣寺』だったりとか、『ハリー・ポッター』シリーズみたいな作品)を拾い上げているわけではないのである。
なんならこれらはライトノベルの一昔前の例えば『ロードス島戦記』とか『スレイヤーズ』とか『ブギーポップは笑わない』とかとも毛色が明らかに違う。
つまり、現状『Web小説特有の文化とは無縁の作品』は拾い上げられる枠の中に最初から入ってすらいないのである。
要するに、それはそういうものなのであり、そういった現状をろくに把握せずにスコッパーさんに対してズレた期待をする作者の方がおかしいのである。
(さらに言ってしまうと、ジャンルによってはスコッパー自体が一人も存在していないこともざらというか、そのほとんどがかつてなろうの中で人気だったファンタジージャンルを愛好していて、ファンタジーの埋もれた作品を探し回っているパターンがほとんどである)
そして加えて、運良くスコッパーに掘り出されたとしても、そこから自作を読んでくれる読者とマッチングが成されない問題が発生する。
理由は簡単で、現存するWeb小説投稿サイトのほぼ全てが、テンプレとは違う作品を投稿したとしても適切な読者に対してマッチングが適切に行われる仕組みになっていないためだ。
例えば小説家になろうでは、奇跡的になろう系とは無縁の作風を好むスコッパーに自分の作品を見つけてもらったとしても、日間ランキング→総合ランキングを経て大多数のユーザーに注目されて初めて作品と読者のマッチングがされるような仕組みになっている。
つまり、スコッパーが作品を掘り出したとしてもこのサイトの登竜門であるランキングに載れないジャンルや、ランキングに常駐しているようなユーザーが好まないようなフォーマットの作品は打ち上がれないので結局は埋れたままになってしまう。
これらの要因によって、結局今の流行を変えうるような新規開拓を狙うジャンル・作品であればあるほど、スコップによって作品が打ち上がることは稀になってしまうというわけだ。
即ち、元々サイト内で人気を得られる性質(連載速度・構成・平均文字数・内容・ジャンル)を持った作品が何らかの要因で埋まってしまっている場合にのみ機能するのがスコッパーなのであって、人気の流行、フォーマットをなぞっていないサイト上で一般的ではない新しいヒット性を持った作品はどれだけ面白かろうと掘り出されることは稀だし。掘り出されても構造的に打ち上がることはないので、読者とのマッチングが未来永劫行われないのである。(さらに残酷なことを言ってしまうと、なろう系のフォーマット以外の作品を愛好する読者自体が既に見切りをつけてしまっていなくなってしまったのでサイト上に最初から存在していないのである)
該当作品の削除依頼で膜が降りたようです。
— 目傘アカナ@小説家になろう (@mekasakana) May 19, 2023
なろう界隈で古来から言われてる通り、1番の宣伝は
「小説を更新し、更新順のページに乗り、探ってくれる神のような存在・スコッパーの目にインプレッションすること」です。
ターゲット層と内容がマッチしているため、普通にこれが1番宣伝効果があります https://t.co/ZiDR3CPaqW
(↑スコッパーは色んな場所でやたらと神格化されている気がするが、元々サイト内の特異すぎる環境の中でヒットし得ないようなジャンルや作品は何をやっても打ち上がらないし、読者はやってこない。特にWeb小説文化とかけ離れた。大衆目線で面白い作品のスコップを普段からやっているユーザーであればあるほど、これを暗に実感しているはずだ)
「自分の好きな作品の続きが読めているのならそれで問題ない」
「元々跳ねない前提で他人に紹介しているのだから気にしない」
というメンタリズムでトレンドとは全く違うマイナーな作品紹介をしているユーザーも中にはいるが、それはあくまで読者側の都合でしかない。
先ほど言及した通り読者が全く増えず作者のモチベーションが上がらずに更新速度が低下したり、更新が停止してしまっては元も子もないのである。
とはいえ、この問題に対して筆者自身何か解決策が思いつくわけでもない。
ここまでスコッパー批判だと受け取られるかもしれないが、この項目はむしろ逆であり、スコッパーを行っているユーザーに対して拗らせた作者が過度な恨みを抱えないようにする目的で構造的に説明をさせてもらっている。
⑧-2 では、同じことを繰り返さずに、今の状況から脱却する起死回生の策はあるのか?
Web小説を取り巻く今の現状。なろう系という蔑称が広がった現状は、Web小説投稿サイトと出版社が自然現象を放置した結果。起こるべくして起きたことだ。
では、どのような方向で脱却ができるのだろうか?
Web小説投稿サイトとライトノベル市場の課題と解決策
1. 投稿の自由が生んだ質の低下
現在のWeb小説投稿サイトは、「とりあえず書いて投稿できる」という文化が活気を生んでいる。しかし、この自由さがプラットフォーム全体の質を引き下げる最大要因だ。
今後は、質を維持するためのフィルターを導入する必要がある。具体的には以下のような施策が考えられる。
作品投稿の前提条件を設ける(一定の文字数など)。
段階的に投稿可能なシステムを導入し、初期段階では「新人枠」でスタートし、評価次第で次のステップに進む。
ただし、敷居を上げすぎると新規参入が減少し、才能の発掘が難しくなるため、バランスの取れた仕組みが求められる。
しかし、この思想はインターネットのサイト運営側の収益モデル(PV・投稿頻度依存)と真っ向から衝突してしまうという問題がある。
2. 評価システムの問題と限界
現状の評価システムにも課題がある。結局どのサイトも、ユーザーがろくに作品を消費せずタイトルやタグ、序盤の展開だけで、無言かつ簡単に高評価や低評価を行えてしまう(レビューなどを要さない)ことで、偏った結果が生まれてしまっている。
その対策として、一定の文字数を読んだ後でしか評価できない仕組みを導入することで、表面的な判断を防ぐことができる。
ただし、これにも大きな問題がある。
Web小説の母数が多すぎて、すべてを読了して評価することが難しいため、そもそもの評価数が伸びず、作品が短絡的な集客要素で埋まっていく可能性が極めて高い。
評価がつかない作品はそのまま埋もれ、「評価がないから評価がつかない」という悪循環に陥る恐れがある
日本の創作文化は個人が個人に対して金銭を払うという文化が薄く(無料での消費)。作者の信念や面白いと考えているものなどではなく読者への迎合ばかりが過度に重視される。かつ、声をあげない応援文化が常態化している(レビュー文化が弱い)。そのため評価システムを変える前に根源的な意識改革が必要になってくる。
3. ランキング依存による市場全体の停滞
Web小説投稿サイトは、ランキング形式に依存しすぎているのが現状だ。ランキングが固定化され、「テンプレの量産」「人気作の模倣」「類似舞台設定」が繰り返された結果、さらに新鮮さが失われた。
これは、プラットフォーム全体のエコシステムが停滞している状態と言える。自然状態では多様性が失われ、ジャンルが細分化せず、マンネリ化が加速し続けてしまっている。
この状況から抜け出すには、「人工的な刺激」が必要になる。
レビュアーの権威性を高める(きちんとものを語れる。特定の読者を評価者として認定する)。
アルゴリズムの多様化とレコメンド強化により、常に多様な作品が目に触れる仕組みを作る。
4. 評価のバイアスと解消法
現行の評価システムでは、他者の評価点が常に可視化されていること自体がバイアスを生む要因となっている。
母数が増えるほど、「みんなが評価しているから自分も評価する」という流れが生まれ、本質的な評価が歪んでしまう。
このせいで、どのサイトもほとんど全く評価システムが機能していない。
解決策としては、
他者の評価やレビューを見えない状態で個人が評価を行う方式が有効だ
しかし、この方式にはデメリットがある。
読者が作品を選ぶ際の指標がなくなり、評価点が機能しなくなる恐れがある。
5. 読者層の多様化の重要性
評価者が特定の層に偏ることも問題だ。歴史を紐解くと、根源的な部分からWeb小説の読者層はアングラ寄りに偏りすぎている。
多様なバックグラウンドを持つ人々が評価に参加する仕組みを構築することが重要だ。
小説投稿サイトの既存ユーザーだけでなく、幅広い読者層に評価を依頼することで、ジャンルの偏りを是正できる。
しかし、Web小説を消費する層を広げること自体が困難だ。
既存のアングラ層を超えて拡大するには、「異世界ブーム」の前の段階で多様性を確保する必要があったのだが、既にその機会は失われている。
現状、プラットフォームが抱える課題を解消するためには、内部の仕組みを改善し、質の担保と作品・ユーザーの多様性を両立する構造を整える必要がある。
6.真に求められるのは何もしたくないめんどくさがりなユーザー向けの保証されたレコメンドシステムや『選別する面白さ』を提供できるコンテンツであり、『非現実的』
このように、Web小説投稿サイトで公平かつ信頼性のある評価システムを実装するのは極めて困難であり、高い技術力やセンスが要される。
現在のWeb小説市場は「無料+量産+読者迎合やランキングによるバズ依存」で成立(※それが故にここまで批判され、衰退してしまったのだが)しており、真逆の「質重視・公平評価・多様化」といった理想は、収益モデル・人間心理・文化構造の全てと矛盾してしまっているためだ。
また、先ほど言及させてもらった小説紹介サイト、紹介サービスの立ち上げがうまくいかない理由があるとすれば、作品を選別する過程が助長かつ信頼できる情報に欠けている。作品を探す行為そのものがコンテンツとして独立しておらず単に面白くないことが挙げられる。
検索や選別が一つでも入ると大量の情報に晒されることになるし、検索項目の指標が多ければ多いほど情報の洪水に飲み込まれ、ユーザーは辟易し、やる気を失う。
作品のおすすめレビューが一つ二つついていたとしても、その匿名のレビュアーの感性が信頼できないので読む気が起きない。
コンテンツが溢れる昨今。可能な限り多くの人がいらない手間を避けたいし、何も考えていたくないのである。
今のご時世、サイトのトップページを2回クリックするのすらめんどくさいと感じるユーザーが大多数なのだ。そんな状態で自分からマイナー作品を検索したり、面白さの保証もないのに最後まで作品を読んで自分からレビューをしたり、他人のレビューを読み込んで最後まで作品を読んだりするユーザーが果たしてどれだけいるのだろうか?
自分だったらやりたくないし、それこそ他の既に評価されているコンテンツに流れた方が楽だ。
作品を読み込んでレビューをする人間、自分から面白いと感じた作品を紹介する人間がどれだけ少ないのか考えれば一目瞭然だろう。
加えてこれらのWeb小説紹介サイトは、紹介の敷居が低すぎる上に細かな条件の指定などが事前に成されていないパターンがほとんどなので結局その環境内で誰も彼もが気軽に(中には書評など一切つけずに)作品を紹介し続けた挙句、無差別かつ無限に大量の作品が流れてきてしまい全体が陳腐化するという問題が発生しがちだ。

Web小説の紹介サイトはページを遷移するごとに大量の候補がまさに洪水のように襲ってくる
無差別かつ無制限に、熱意のある書評を一切必要としないような作品紹介、作品掲載が誰でも気軽にできてしまうような環境は、読者の作品の選別や抽出を逆に著しく阻害してしまう
例えると「10000の作品の中から、各々が好き勝手に作品を紹介した挙句、ジャンル別に1000作品が流れてくるような状態」だろう。読者にとって候補が多いという事実自体は何も変わっておらず
読者は多すぎる候補の前に結局何も選べなくなってしまうというわけだ。
大量に無差別に何かを紹介するということは、何も紹介していないのと同じということだ。
このような紹介サイトがやってきたことはWeb小説特有の無差別投稿と同義であり、結局流行に胡座をかいて既存のなろう系からさほど外れていない作品をトレンドに流されてそのまま垂れ流し、環境の劣化を加速させていただけに過ぎない。
Web小説に勢いがあった(外部から新しいユーザーが来ていた)頃にサイト自体がきちんとしたジャンル分けやなろう系のアングラ文化とは違う新しい作品の拾い上げをほとんどしておらず。
選別をしない拡散の場としてだけ機能しすぎた結果、Web小説が元の狭い環境(閉じコン化)に戻るのを加担してしまった節は否めない。
現状、数多のWeb小説作品が適切な読者とマッチングされるためには、それこそ小説版アキネイターのような巨大な規模のサイトが必要になる。
そのくらいの規模でない限り読者と作者のマッチングは不可能だろう。

アキネーターからの質問に「はい」「部分的にそう」「わからない」「たぶん違う」「いいえ」の5つから選んで回答していくことで対象を絞り込み、高確率でその思い浮かべた人を当てる。
仕組みとしては単純で「絞り込み検索」を利用してそれをゲームのようにしている。

一部の漫画アプリに既に存在している
これらの選択肢を使って先のアキネーターのような小説検索サイトを構築できると
面白そうではあるが……
しかし、もしもそのようなレコメンドサイトができたとしても、面白さの感性は人によって違うため、Web小説作品が個々人に対して「面白さの保証」を行うことは極めて困難だろう。(今時Googleでさえyoutubeで利用者が興味を持てない、面白くないおすすめ動画を大量に推してくる)
コンテンツ過多な現代において映画ですら面白くない作品に時間を割きたくないという人が増えてきている現状、動画ならまだしも小説で失敗してしまうというのは精神的に重く。一度おすすめを失敗すればそのサイトのシステムは二度と使われない。
即ち、信頼を得るためには余程高精度なシステムが必要であり、現状望みは薄いといえる。

隠れた良作を推薦可能な Web 小説レコメンドシステムの提案
https://must.c.u-tokyo.ac.jp/sigam/sigam23/sigam2301.pdf
隠れた良作を推薦可能な Web 小説レコメンドシステムの構成と評価
https://www.jstage.jst.go.jp/article/pjsai/JSAI2020/0/JSAI2020_3Rin477/_pdf/-char/ja
Story Signature:ストーリー展開特徴抽出による 類似小説検索可視化方式の実現
https://proceedings-of-deim.github.io/DEIM2020/papers/A7-3.pdf
クラスタリングによるオンライン小説の多様性動向分析
https://www.ipsj-kyushu.jp/page/ronbun/hinokuni/1007/B1/B1-4.pdf
文体の類似度を考慮したオンライン小説推薦手法の提案
https://db-event.jpn.org/deim2017/papers/207.pdf
↑「日の当たらない作品がフォーカスされる(スコップする)ために必要な評価指標について」調べていたらたどり着いた論文の数々。(精度は賛否あるかもしれないが、個人的に読んでいて面白かったのでこの場で紹介)
これらの論文を読んで筆者は初めて知ったことだが、望んだコンテンツが見つけづらい。界隈の多様性が失われてきているということについて、2017年~2018年の段階で、既に危惧されていたようである。
結論として、斬新な評価システムをするのは困難であり、人気のWeb小説投稿サイトは(人気サイトであるが故に)どこもユーザーが特定の作品に一極集中しやすく。ユーザーが集まれば集まるほどに、歪な環境で評価される作品の模倣が繰り返されて構成が偏っていき、他ジャンルの創作とは違う評価構造の元に、価値観のズレた似たような作品が派手に打ち上がり続ける。
そういった作品は日々先鋭化されていき、衆目を浴びて批判を受け続ける。
読者目線で言うのならWeb小説投稿サイトにおいてはメイン層であるなろう系を愛好する固定層に対する売り上げを出すこと(目先のアクセス数を稼ぐこと)が全てにおいて優先される環境となっているので、界隈の主流から大きく外れた作品が流れてくることを期待したり、改善の見込みがないのに意味がないなろう系を批判をするのは時間の無駄なのでやめた方が良いということになる。(別の娯楽コンテンツに手を出すべきである。そうして読者も作者も皆離れていきかつてのアングラな狭い文化に戻りつつあるのが、今のWeb小説界隈なのだ)
7.まとめると、今のWebで新しい作品を作ろうとしている人は『ただの愚か者』
ここまでの構造的な話を総合した上で考察すると、現状これらのWeb小説投稿サイトやWeb小説界隈で今一番無価値の烙印を押されて孤立無援になっているのが、時間をかけて本気で面白い、オリジナル溢れる、今までと全く違う新しい長編作品に挑む。やる気に満ちた無名の新人作者である。
世間は往々にして新しい才能や創造物に冷たいものであるが、ここまで多様性が排斥されてしまっているようなパターンは創作媒体の中でも極めて珍しいと感じる。こんな状態では、サイトや界隈全体が先細ってしまったのは当然と言ったところなのだろう。
しかし、筆者はこの記事でWeb小説ジャンルで面白かったり新しい作品作りをしようと思っているユーザーを応援しているわけではない。
むしろスタンスは全く逆で、最近は最早自由すぎて誰も彼も好き勝手に投稿と雑評価ができるWeb発祥から、物作りを頑張って注目を浴びようとする行為そのものが愚かというか、むしろ邪道なのではないかとすらと思うようになった。

確かにWebという創作空間には自由が存在するように感じるかもしれない。しかし、Webという場所やコンテンツの構造を紐解けばわかる話で、読者の人間性がどうとか作者の人間性がどうとか以前に、自由にコンテンツを発信して評価される場では決してないのである。
この記事で説明したWeb小説が評価される下地を理解していると、むしろ構造上ウケない・とっつきづらい、流行とは外れた内容であったり、界隈と感性が乖離した『一般大衆受けするだけのただの名作』をWeb小説投稿サイトで発表しておきながら、評価がつかないと嘆く作者やWeb小説に面白い作品がないと嘆く読者の方が愚か者と言われても仕方ないという見方もできる。
際限のない自由な環境というのは即ち、ただの無秩序なのである。
現代のWebという環境には足切りなどなく、どこまでも自由であり低い敷居で簡単に投稿できて、雑な評価ができてしまう無法地帯なのである。これを料理で例えるのなら、『キワモノ向けに作られたジャンクフード』がスタートラインである『(大っぴらに好きだとは公言できない)変な味のポテトチップス』のようなものだ。
その『変な味のポテトチップス』の枠の中で、本格料理志向を目指して大衆の注目を浴びようとするのは馬鹿げているというか、困難であるというか時間の無駄であるという話であり、つまりWeb小説で「自分にとって本当に面白い作品を世間に向けて発信する行為」そのものが、スタートラインから間違っているのである。
そのようなアングラ層が主流となっている環境で構成を練ったただ面白いだけの作品であったり「文芸小説」や「一般的なファンタジー小説」などを書いたとしても需要と供給が全く見合っていない……というのは容易に想像できるだろう。
異世界ブームが始まってから、一般大衆目線で『本当の意味で他と一味違う』内容の作品がほとんど全く打ち上がらず、アニメ化もしてないければ大ヒットを飛ばしていないという時点で既に答えが出てしまっている。
振り返ってみると、そういうことを新しいことをやろうとするユーザーの方がマイナーな側であり、Web小説投稿サイトが人気を博した時点で、彼らの居場所などインターネット上のどこにもなかったというのが正解なのだろう。スタートラインの段階からあまりにも素人文化が強すぎるため、新しい芽など全く生まれることはなく。最初から先細りする宿命だったのかもしれない。『面白い作品を書けば読者が来るはず』という考えは作者が持ちがちだが、そのような思想はこの記事をここまで読んでくださったあなたならわかるだろうが、幻想でしかないのである。

どのような娯楽もその環境の中で売れるから売れている。
皆が消費しているから消費されているというパターンがほとんどであり
消費者のうちの99%は、作品の中身をゼロから自分で選択しているわけではない)
現在の環境では、初動の評価を得る手段が限られすぎているし。トレンド以外のほとんどの作品が文化的に容認されていないのだ。
この状況を打破して現在の読まれない分野の作品が一番最初の成功を得るためには、Web小説がどうこうという話ですらなく、そも娯楽コンテンツで起こりがちな富めるものがさらに富める仕組みを何らかの形で崩さないといけなくなる。
具体的にはサイト評価やランキングとは別の指標である。著名な作家、漫画家などの業界のトップや、インフルエンサーなどが大量に集まって作品を読み込んだ上で面白さの保証を行うような概念であり、高名なレビュアーによる最初のレビューが重要で、「皆が消費している」とはまた違った形の権威的なラベルが必要になってくるわけだ。
しかし、それはもはやそれこそ今のなろう系主体のWeb小説投稿サイトと真逆の概念。ただの新人賞である。(文庫本の帯に◯◯が絶賛! と書かれているようなアレである)
要するに現状は自分が信ずる面白い作品。質の高い作品。世間一般大衆向けの面白い作品などを書くのなら、注目されることだけに特化した素人色の強すぎる上にユーザーが過密してショートコンテンツが渦巻くようになっているWebなどよりも、文庫本単位で評価がされる新人賞などに出したほうが良い。
そして同時にこれは、『新人賞でも評価されないような新しいフォーマットであったり、革命的、実験的な小説作品群が現状この世のどこにも居場所がない』ということを意味している。
ライトノベル出版社に関して
もしも今の状況を改善したいというのなら、今後出版社はとにかく素人の作ったものを売れるからといってそのまま大衆に向けて直接的にエスカレーションしないことが重要だろう。
それをさせないためにも、今後は出版社全体を管理する 「レギュレーター(規制者)」的な存在が必要になる。
もしもWeb小説のヒット作が存在しても、即座に拾い上げて大規模な展開(書籍化・アニメ化)をせずに、舞台的な類似性を避けて多様性を担保する。要するにヒット市場全体を雑誌のように管理する必要が出てくる。
そして、それらを大衆に売りに出すのなら大衆向けに内容をきちんと調整する。
アングラなまま、原作の持ち味を生かすのなら、適切な消費者に向かって適切な規模で売りに出し。段階的に多様な作品を市場に投入して時間をかけて「Web小説発祥の作品」の居場所を作る。こういったことをやるのも本来は編集者の仕事のはずだ。
そういったことが現状できていないから、なろう系などという陳腐な言葉で一括りに批判されてしまっているのである。
しかし、出版不況であるためそういったことをやる余裕がない故の現状なのだろう。
追い詰められて、安全重視で挑戦を嫌がり続けた結果が今なのだ。
まさに「貧すれば鈍する」というような状況に陥ってしまっているのでどうしようもない。
※余談、これらの構造的問題が発生していない国は存在するのか?
では、どのような国家もWeb小説サイトはその場にいるアングラ読者の短絡的な欲望を土台に、なろう系に占領されてしまう宿命なのだろうか?
答えはノーだ。何事にも例外はある。
複雑なシステムなど導入せずとも、なろう系がWeb小説投稿サイトで最大手となって覇権を握っていない(なろう系に占領されていない)国――

それは自由の国。超個人主義国家のアメリカである。
日本や中国では出版=社会的成功となっており、書籍化、アニメ化こそが夢のゴールとなっている。
その一方でアメリカは「作品を売る」のではなく、「作家個人が生き延びる仕組み」ばかりを重視する構造となっている。
つまり商業出版や映像化はゴールではなく、あくまで一つの選択肢に過ぎない。自己主張が大事な社会であるが故に超個人主義的であり、そのため資本主義社会の最前線でありながら個人が企業に過度に忖度したり依存しない(同時にこれは人間的な温かみが全くない、ビジネスライクの極みとも言える)。

それ故にアメリカは個人が企業に依存せずに生き残るための収益構造が多様であり、有名なPatreonなどを始めとする支援サイトを通じて作者が読者と直接つながることで、作家自身が創作の主導権を持ち続けることが可能であり、企業はその活動を支えるプラットフォームにとどまっている。(これは先行投資に近いものであり、無料で提供されているものにお金を払うという行為に対する心理的障壁が高い日本では、しっくりこない文化だろう)
作家の目標は①「企業と商業契約を続けたい」ではなく、②「読者に作品を届けたい」「自分自身の自立した力で生活費を得たい」という方向に偏っているわけだ。
この二つは=のように見えて全然違う。
「出した作品が大ヒットして、たくさん売れたことが素晴らしい」のではなく、「『自分という個人』の表現そのものを他者に支援・応援してもらえることこそが素晴らしい」という価値観の違いが根底にある。
結果として、作品は「売れるために型にはまる」「読者の欲望に迎合する」のではなく作者が信じるテーマや物語構造に忠実であり続けることができる。そして読者もそれを尊重し、支援という形で関係性を築くわけだ。
(これはFanboxなどで『読者自身が読みたいものを作者に金銭で依頼する』という日本の小説販売プラットフォーム文化のトレンドとは明らかに違うものだ)
この自主・自律的なエコシステムが、アメリカのWeb創作文化を独特の自由さと多様性で支えている。
(そして、同時に、多様性という言葉が強くなりすぎて疲弊してしまっているというのもまたアメリカという国家なのだ)
企業のWeb小説に対するスタンスも明らかに違う。
日本や中国では出版社などの企業が目先の利益のために出しゃばり続けて、結果的にWeb小説投稿サイトから作品を囲い込んで狩り出す構造となってしまっている。 しかし、アメリカのプラットフォームは「作家と読者の“接続”そのものが第一目的」となっている。
これは版権が社会に基礎化している(訴訟大国と言われるほど契約にうるさく何か不備があると即座に訴えたり文句を言う社会性でもある)ことと関係している。
個人の権利主張が極めて激しいが故に、出版社などの企業に過度に媚びへつらって作家・原作者の自主性を控えようとしてくるような創作プラットフォームは、むしろ表現の自由の障害とみなされやすいのである。
(つまり、アメリカという国家は「自分の作品を守りたい」という信念ばかりがあまりにも強すぎるのだ。これは作品の契約が必要なアニメという分野で日本に負けてしまっている理由の一つだろう。
そして、そのアメリカ唯一の例外が映画産業だ。現代映画産業の中心がハリウッドになったのは、当時エジソンが持っていた映画機材の特許の支配から逃れるために、関係者が西海岸に逃げたのが始まりだった。昔から契約にあまりにもうるさすぎる社会であったが故に抜け道を探した結果生まれたのが、今のアメリカの映画産業なのである)
また、通勤・通学スタイルの違いもある。 国土・平野が狭い日本では電車・バス通勤が主流だが、国土の広いアメリカでは自家用車などの通勤が圧倒的に主流だし、ガラケー~スマホ小説文化もあまりなかった。
つまり、作品を隙間時間で消費するような文化がないので、日本よりも腰を据えて家で文庫本単位で文字を消費する文化が圧倒的に強い。
さらに日本という国家ではランキングという概念が強いが、アメリカはランキングは補助的なものであり、タグ・レビュー・フォーラムがとても強い。
例えば、日本のカクヨムと同程度の規模である英語圏のWeb小説投稿サイトRoyalRoadは「タグ検索」「レビュー」「フォーラム」が中心であり、「ランキング自体の存在意義が弱い」。
そして、海外(特に英語圏)のレビュー文化は 「有料か無料か」にかかわらず、作品は作品として批評するという態度が強い。
日本と違って「タダで読んだから文句を言う権利はない」「しかし、プロに対して金を払ってちゃんと物を買った途端に急に文句をつける」みたいな極端な発想があまりなく、「無料だろうが有料だろうが読んだ以上は感想や批評を共有するのが当然」という考え方が根付いている。
(※そして、アメリカのユーザーは正規入手か違法入手かすら気にせずレビューをする傾向も強いので、アニメや漫画などを違法な手段で消費しておきながら当たり前のように批評をつける傾向もとても強い)
「有料か無料かなど、知ったことではない。作品は作品」
こうなる理由として、個人主義が強いアメリカは元からレビュー文化、フォーラム文化がとても強い。
日本の「無言読み専(応援するとしてもポイントを入れるだけ等)・周囲に流される風潮・無言評価文化」とは異なる「ディベート」「対話型参加文化」が強く。読者が感想、考察、レビュー、支援、批評に積極的に参加する傾向がとても強い。
「自分の意見をきちんと持つこと」「議論すること」が幼年期から重視される文化なため、若年層に限らず、円熟した社会人や高齢層などが参加する傾向も日本よりも強い。(なので良いものは良いと評価はするが、同時に忖度なしに文句も言われやすい環境であると言える)
そして、フォーラム、レビュー文化が強いということはサイトのランキング圧も弱くなるし、無言で雑に評価を入れる行為が日本ほど強くないので、(言い方が悪いが)①語彙が無い、きちんと物を語れないユーザー、②価値観や倫理観が周囲とズレているユーザー、③議論ができないような言語力・もしくは知能指数が低いユーザー、が影響力を持ちにくいので、編集者が介在せずとも質の担保がされやすい。

曖昧な表現しかできない人間にあまり居場所がない。
また、作品内容に関しても、アメリカは昔からプロテスタントの思想や貧しいものが努力して報われるアメリカンドリームの考えなどから、努力至上主義国家と言われている。(そして同時に最近になって、行き過ぎた努力信奉は欺瞞でしかないのでは? と批判され始めているのがアメリカという国家である)
そのため、日本と比較すると、苦難の少ないタイプのなろう系の作品や、運よく能力を手に入れ、敵を蹂躙するとか、主人公の基本的な価値観が乖離しているような読者の欲望を舞台装置としているタイプの作品があまり受け入れられない傾向にある。

正義のために使われなければならない。
そういった風潮があまりにも強いので媒体によってはスーパーパワーは天からの呪いである
などとネガティブな解釈をされてしまうことすらある。
力を持つ者に対する社会的な監視を四六時中しているし。
圧力がとても強い国家なのだ。
そのような文化であるが故に、日本では読者の価値観を否定しなかったり、なんやかんや安心できる評価されるタイプの作品には、個性がないという理由で厳しい言葉が容赦なく飛んできたりする。
これらの様々な経緯があって、作品内容も日本と比較すると物言わぬ(言えない知能の)若年層や社会的な弱者にあまり寄り添わない。(そういう層をターゲットにした作品が少ない)
「夢(ドリーム)はあるが、残酷。甘さを許さない」
これはいかにもアメリカのイメージだ。
ある意味、厳しい世界だが、日本と比較しても(そういった作品がアメリカに全くないわけではないのだが)若年層や貧者が中心のローエンド・カルチャーになっていないのである。
多様性・思想性が強い実験作が自然に育つ土壌があるし、「その場にいる読者や売れ線に迎合しなきゃ……」「人気作品にぶら下がらなければ……」という圧力も比較的少ない。
①ランキングシステムが弱い、②作品をきちんと咀嚼できない人間の居場所が少ない、③作家の自主性が重視される、④企業が金儲けのために出しゃばってこない、⑤作品を隙間時間に雑消費する文化ではない。
これらの特性があるが故に“中規模ゆえの健全さ”が担保されており、なろう系テンプレ的な概念が日本と比較すると弱いのだ。
もちろん日本のアニメはアメリカでも消費されているのだが、アメリカのWeb小説の読者層とアニメファンが意外と重なっていないという点も見過ごせない。
以上のような経緯があって、「読者の欲望や、テンプレのような即効型の成功法則に依存しなくても、作家が自らの力で戦う仕組み」があるため、市場原理がなろう系を強制するような圧が日本や中国と比較すると弱いのである。
結果として企業が介入しないが故に巨大な市場があるわけではないのだが、支援サイトの存在によってニッチであっても生き残れる環境が構築されている。さらにコミュニティがレビュー・考察に積極的で、議論型のエコシステムが機能しているため“質的な成熟度”は高いと言えよう。
⑨数字に駆られた素人が足切りなしに、無制限にコンテンツを発信できる状況は過剰な選別と同レベルの『悪』ではないか?
かつて、Web小説界隈でArcadiaというサイトが台頭していた時期がある。
(幼女戦記、オーバーロードなどの作品はここから発生した)
しかし、この小説投稿サイトは衰退を遂げて小説家になろうに取って変わられた。
その理由は単純で、このArcadiaというサイトは当時の素人が生み出す二次創作無法地帯が主流のWeb小説界隈の中にありながら、作者に対してとても厳しい審美と選別を行なっていたからである。
そこにいる読者にとって少しでもお眼鏡に叶わないような作品には酷評がついていたし、作者には自由にそれらの批判・酷評を消す権利は実質無かった。(そして、批評文化は確かに存在したが、こちらも「物語・テーマ・文芸的完成度」を磨く方向には厳しかったのは事実だ。「そこに居る読者が見たいもの」を直球で与える文化止まりだった)
先ほども述べたように、Arcadiaというサイトが小説家になろうに取って代われていった最大の理由がこれだった。
Arcadiaの過酷な環境に耐えられない作者達は小説家になろうというサイトに集まっていった。なろうでは作者が批判を自由に消すことができるし、評価は基本的に加点式となっている(低評価がついても集客に影響しないどころか、むしろプラスになる)。
だが、その結果どうなったかというと、無秩序を助長するだけになった。
覇権を握っている小説投稿サイトでは気がつけば、自由主義的なビジネスモデルの台頭によって膨大な数の作者が人気ジャンルに集まって(作品の足切りが一切されないので)収益を得るために評価システムがハックされて悪用されて、注目を浴びやすいだけのフォーマットの作品が無差別に生み出された。
そして、それを素人が無差別に評価し続けた結果、次第に無差別に、無限大の洪水のように模倣性の高い作品で溢れ返って、作品やジャンルの多様性は瞬く間に失われて、コンテンツはショート化の一途を辿ることとなった。
本当に面白いもの、良いものがなんなのか誰にもわからなくなってしまった。結局はそういう極端な作品が好きなユーザーだけが残って評価を続けている結果、全体の信用が落ち続けているが故に広まっているのが今の「なろう系」という蔑称が広まった一因である。
加えて、現在主流の小説投稿サイトは、作品を正しく選別し読者と作者をマッチングさせる機能がどれも著しく低いと言わざるを得ない。(最も、これは動画や漫画、イラストなどと違って面白さが即座に伝わりづらいという小説という創作媒体の抱えている問題が大きすぎるのだが)
何事も極端は悪だ。確かに、このかつてのArcadiaのように異常に厳しい選別を良いとは到底言えないだろう。
しかし、能力の低い素人の投稿が無制限に消費者に対して発信し放題になるのも同じように良くない状態であると筆者は思っている。
確かに「すそ野が広くないとその分野が育たない」とは言われがちであり、小説家になろう発祥の作品を応援するユーザーが界隈を擁護する時に最も使われがちな論調がまさにこれ(創作の敷居を下げたことで新規参入と新しい市場が構築された。だから今のWeb小説文化は正義である という論調)なのだが、しかし逆にすそ野を広げすぎた結果、コンテンツが崩壊、衰退するケースも存在しうるのである。
例えば、これが勝ち負けで物事を図れるスポーツの分野だったら間口は広ければ広いほど良いかもしれない。良し悪しの判断がしやすいため篩にかけるのは容易だし、物差しがはっきりしているため優れたものが浮上しやすい。
しかしクリエイティブな分野は明確な指標やふるい落としの仕組みが機能していないが故に間口を広げるとあっという間に壊れてしまうのだ。
界隈に類似性が高かったり、質の低いコンテンツが跋扈することで、一時的に業界が盛り上がるように見える現象はどのようなジャンルでも起こりうるが、コンテンツにおいて似たような作品や大量の駄作ばかりがあふれている事態というのは新しいヒットを構築できていない状況でしかない。これは即ち、死に際の最後っ屁、大規模な延命行為でしかない。起死回生でもなく、救命行為でもないので、長期的には業界の信頼性や質を低下させ、結果的に過疎化を招くだけなのだ。
質の低いコピーコンテンツが消費者の期待を裏切り続けて、業界全体のイメージを損ねることで、他の娯楽に消費者が流れてしまうためだ。
大事なのはバランスを取ること。過剰な品評は行わずとも無秩序な状態を決して容認しないこと、即ち最低限の選別、足切りを行うということなのだろう。
そのためには、あからさまに質が低い作品。読者に注目されるために、欲望を喚起させることだけに過剰に特化した中身のない作品。プラットフォームの評価システムを悪用しているだけの作品。文字数が一定数に達していないまま投稿が止まってしまった作品。模倣性や類似性があまりにも高すぎる(ユーザーの消費限界を不要に圧迫するような)作品が消費者の目に一切つかないようにするような。規模の大きい最低限のクオリティチェックや仕組み作りが必要なのではないだろうか?

週刊漫画雑誌は読者のアンケートシステムを導入してはいるが、連載そのものの決定をしているのは読者ではなく編集であるし、新規連載を始める際には内容や展開が重複しないように
雑誌全体のバランスを考慮し会議を行う。
(もしも漫画雑誌の掲載の可否すら読者が判断したら、きっと上記の画像のような作品群ばかりが連載されて似たような流行が起こり、なろう系と同じ末路を辿るのだろう)
やはりコンテンツ全体の質を担保するためには消費者とは違う第三者の感性や精度の高いシステムに基づくある程度の足切りと多様性の確保が必要なのだ。
大多数の素人が金儲け目的で争って、自由な環境下で無制限に好き勝手にコンテンツを発信し続けて、それをそのままアングラなユーザーが多数決して大衆に向けて打ち上げるというスタイルには限界があるし。何よりも既に消費者の手に渡って全体の信用を失ってしまった後なので、手遅れになった時に立て直せない。
大っぴらに拡散される前のどこかの段階で審美眼のある人間やシステムによる最低限のクオリティチェックが入らないと、多様性は失われるし、業界が加熱した時に全体の質がどんどんどんどん落ちていってしまい再起不能になってしまう。

これはかつて北米のゲーム市場で起こった出来事で「ヒット作からブームが起こり、ゲームの出来が悪くても出せば出すだけ売れる、儲かるという事実が知れ渡った結果、『ノウハウが全くない大量の新規参入企業』が起こした粗製濫造によって市場全体の信用が落ち、コンテンツそのものの魅力が地に落ちた」事件のことを言う。
この事件を経て、かの任天堂は崩壊後のゲーム市場を徹底的に独占し、厳しい品質チェックを行って、発売する域に達していないレベルのゲームは容赦無く突っぱねてゼロからの作り直しを要求するようになった。
行き過ぎた金儲けによって失ったコンテンツの信用を取り戻すためにはある程度の一元的な管理と選別が必要なのだろう。

個々の参入・発信の敷居が低くなればなるほど、市場は金儲けのためだけに作られた、注目度を重視した内容そっちのけの、短絡的に消費されることだけに特化した、能力がない人間が生み出す大量の駄作で埋まってしまう。
出版社のWeb小説の拾い上げはやったもの勝ち状態が続き、
どこもかしこも無差別かつ大量に、アングラな無法地帯であるWebからそのまま人気作品の打ち上げを行ってしまった結果、儲かるからと企業やユーザーが過密して、評価システムはハックされ、なろう系という単語が一人歩きしていき、ライトノベルやアニメ全体の信用を大きく失うことになってしまった。
大手のWeb小説投稿サイトは(投稿敷居が低い故に)無法地帯になる宿命からは今後も逃れられないかもしれないが、現実の出版市場は話が別だ。
誰かが市場を独占して、安易な拾い上げを規制することで、作品の品質や多様性を守らないといけないような時代がすぐそこまで近づいているのかもしれない。
その上で、Arcadiaの「厳しすぎる足切り」と、なろうの「無秩序な甘さ」は、正反対のように見えて実は根っこの部分に同じ構造的問題を抱えているのも事実であるということも言わせてほしい。
どちらも「読者の意見が反映されすぎて、後ろ暗い欲望に過度に依存する文化」から抜け出せていないのだ。
Arcadiaでは粗を指摘する鋭い批評が存在したが、それは文体や構成を磨く方向に限られ、「読者の欲望を土台にした作劇」そのものを問い直す批評にはほとんど至らなかった。結果として、欲望ドリブンの“気持ち悪さ”は批評の有無にかかわらず残り続けてしまった。

内容は俗っぽくなっていくし。人間の原理的な欲求が表出しやすくなる。
実際、ジャンプですらも一時期、大衆読者の直接的な意見を聞きすぎてアンケートでの短期打ち切りを加速させすぎた結果、黎明期以降は同じようなバトル漫画だらけになってしまった
という一面がある。
現在ではそれを反省した編集部が「短期的なアンケート」だけでなく長期的な伸びや単行本売上も考慮するようになったという経緯があるのだ。
最終的に重要なのは、単に足切りを導入することだけでなく、評論文化を形式的に移植するだけではない。必要なのは、作品を「読者に承認されるかどうか」「読者の欲望を満たすかどうか」だけで測らず、テーマ性やオリジナリティを評価する複数の軸を導入し、読者と作者がその軸を共有できる環境を作ることなのだろう。
Web小説の根本的な価値観に対して文化としての批評が成熟しなければ、作者はその場にいるアングラな読者の快楽にただ答えていれば良いのだという楽な方向に流れていき、無秩序と粗製乱造を防ぐことができない。
それに近しい問題として、ライトノベルという創作ジャンルには昔からアカデミックな観点の式典や賞、権威などがほとんど全く存在していない。
(例えば映画という創作ジャンルは、大衆が多数決で選ぶ娯楽性の高さだけが重視されるというわけではなく。多種多様な専門家や関係者などが音楽、映像、俳優の演技、脚本など様々な観点から作品を表彰するような仕組みが作られている)
ライトノベルやなろう系に対する文化考察をしているユーザーは居るが、評論家や権威をもったレビュアーなどはほとんどおらず。映画とか音楽とか文芸小説界隈にいる「作品そのものやテーマを深く考察してみたり、熱心に語りたがるオッサン」的なポジションの人もWeb小説には(冷笑したり、直接的に批判するなどの目的以外では)ほとんどいない。
いないのは当然の話で、これらの概念は、ライトノベルとは相反するものかつ、現在主流のWeb小説文化の根源が匿名掲示板にあるためだろう。
当該文化では匿名こそがデフォルトであり、当時のコテハン(固定ハンドル)は自己顕示欲の強い目立ちたがり屋のイメージが強く。蛇蝎のごとく嫌われていた。(なんなら今も嫌われている)
実際匿名掲示板でなかったとしても「俺には物事の良し悪し、違いがよくわかる」と熱弁をする理屈屋の自称評論家のオッサンという存在は、大衆・俗物にものすごく嫌がられる。
確かにオタク的・専門家的な視点や熱意のある語りは行き過ぎると界隈に新規参入者がいなくなってしまい、先細りや人離れを起こしてしまうのだが、しかし先程述べた通り、その場の読者の気分を良くさせることを第一目的とした作品が、その性質上ひたすら売れるからと言って、長期的な目線で文化や人材を育てようとせずに、無秩序に目先の売り上げだけを追いかけていくというのもまた別種の滅びであり、極端であり、悪なのである。

結局、自由主義を極限まで強めたような多数決投票ばかりを続けて無秩序にコンテンツを売りに出そうとすると、過度な専門性とは真逆の方向で、際限なくそのコンテンツは先鋭化・陳腐化していき、容認されない程に低俗になっていき、瞬く間に衰退していってしまうのである。
確かに、人気のあるものだけを残し、売れないものを切り捨てるというのは、個人や企業の成功戦略としては非常に合理的で効率的だ。
市場原理に従えば、注目されない作品に時間や資金を割くより、トレンドに乗ったものを量産する方が短期的な利益は大きい。
だが、この「局所最適」を追求し続ける姿勢は他の分野では批判されるし、創作という営みの“全体”にとっても必ずしも望ましくはない。
なぜなら、目先の人気だけを重視する流れが加速すれば、表現の多様性や革新性を支えている土壌――すなわち、下積みの表現者たち、小規模な発信の場、採算度外視の実験――が痩せていき、やがては新しい流行すら生まれなくなるからだ。
これに対して「流行の盛り上がりと衰退を繰り返していればそれでいいのではないか?」と考える人もいるかもしれない。
実際、トレンドは波のように動き、廃れたジャンルが復活したり、思いがけない分野からブームが巻き起こることもある。
だが、こうした循環が成立するのは、あくまでそれを支える土台――人材、技術、発信の機会――が健在である場合に限られる。
一度潰れてしまった出版社や制作スタジオ、消えてしまった地方の演劇文化、小さな自主制作の場、去っていった才ある個人の発信者などは、流行が回ってきたからといって簡単に蘇るものではない。
また、作品が注目を浴びない、トレンドではないという理由だけで「価値がない」と見なされる風潮が広まれば、まだ開花していない表現者が自らを否定し、創作の挑戦自体をやめてしまうことにも繋がる。
だからこそ、創作の分野にも「文化的な政府」に相当する仕組み――全体を見渡して、採算を度外視してでも守るべきものを支える制度的、巨大な、監視者的な存在――が必要となる。
それがなければ、全体が困った時に誰も救われなくなってしまう。
なんなら、Web小説に関しては今まさに誰も彼もが困っているような状態だ。
同時に、文化の価値は定量化が難しく、成果が10年後、50年後に表れることもあるため、こうした仕組みを構築するのは非常に困難だ。支援の線引きをどうするか、公平性をどう担保するかという問題も避けて通れない。
それでも、「今の市場、今の流行に生き残れないものにこそ意味がある」という理念を本気で貫くのであれば、全体を支える制度的余白を設ける必要がある。それは文化にとってのセーフティネットであり、創作という営みの持続可能性を担保する最低限の条件でもあるのだろう。
実際、現状のなろう系の惨状は「ライトノベルが軽くなりすぎた弊害である」という考察もあるくらいだ。ライトノベルという創作分野において、全く真逆のアカデミックなものを打ち出せというのは流石にやりすぎかもしれないし、元からライトノベルという創作ジャンルはそこまで高尚なものではなかったけれども、アングラな文化の素人の作品をそのまま売りに出して、そこから年々多様性を失い続けた結果、現状は消費者が耐えうる最低限のラインすらも容易にぶち抜いてしまっている。
自称であっても目利きがある人々が少数で集まって様々な目線で評価をして、多様なジャンルの作品を様々な方向から打ち上げるという行為をしなければいけない段階に来ている気がする。
昨今のウェブの大衆化によるウェブ発祥の作品の洪水じみた書籍化の流れを受けて痛感するが、もしもウェブという無法地帯で読者が直接的に発信&評価されているものを直接派手に打ち上げてそのまま商品にしてず〜っと売れてくれるというのならば、編集者なんて仕事は存在しなくて良いし。新人賞など究極存在しなくて良いはずなのだ。
しかし、現実は未だにそうなっていない。

その場にいる読者の声をそのまま聞ける環境というのは良くないのだ。
どんな作品でも「その瞬間、その場でウケる」ことに偏るため、
作者が物語全体を描くため長期的な面白さや物語の構想や必然性を考慮しづらく、
価値観も乖離するし、作劇として破綻し、批判される。
そして、その狭い場所で盛り上がっていた最初にいる読者が
「長期的に作品を追う層」や「最大手の大衆層」になってくれるとは限らない。
後から考えてみると、(Web小説の「大量の素人が作品を直接的に評価する文化」を色濃く継いだ)舞台的な類似性があまりにも高すぎる第一次異世界ブームが始まってしまう前の段階で(Web小説投稿サイト、もしくは拾い上げをする出版社が)他創作媒体の評価構造を少しでも模倣し、品質の担保や第三者による内容のチェック、多様性の確保を最低限行いつつ、大衆的な価値観を持って過度なアングラ文化から脱却し、時間をかけて市場を形成する。
もしくはアングラな色が強いのならば、多様性の確保を最低限行いつつも、アングラなまま、きちんとそれを売り出す側が仕事をして、内容を調整して、(かつてのエロゲーのように)適切なアングラ層に適切な規模で売り続ける。
このどちらかができていれば、ここまで過剰なヘイトは買わなかったろうし。なろう系という蔑称も広まっていなかったろう。
Web小説投稿サイトに関しても、新規参入の敷居を上げたり、類似性の高いテンプレート的な作品を排除する仕組みや、多少なりとも信用できるレビュアーを選出できるような仕組みを構築して、低俗と高尚のバランスを取ったり、ジャンルの多様性を確保して、アングラと大衆層の適切な住み分け(及び内容の調整)をうまく行えていれば、Web小説界隈及び、ライトノベル業界はここまで凋落した状態に陥っていなかったに違いない。現状は市場そのものに対する信用が落ちて蔑称まで定着しきっているのでどう考えても手遅れである。
「目先のバズ」「商業」「ランキング」だけで駆動していたシステムを、「しっかりと語る」「掘る」「育てる」創作文化の場として再設計できていないが故の今のWeb小説なのである。
それでありながら、何故なろう系を発祥とするこれらの市場が崩壊しないで死人同然でもギリギリ稼動できているのかというと、原作者も、コミカライズ担当者も、アニメーターも、間口の広いクリエーターという職業は「好きだから低賃金でもやる」ユーザーが一定数存在しており、「適正価格」が決めにくく、名を売るためならタダでもいいという思想のユーザーが一定数出てくるためだ。
この三つの性質によってクリエーターが関わるコンテンツは、何もせずに放置していると自然と搾取される流れに傾倒していってしまうのである。
最も、既に限界に達しているように見受けられるが…………
1.拡散しすぎたことで、弊害は発生している。ウェブコンテンツのさまざまな分野で悪貨が良貨を駆逐する現象が起きている
正直、一消費者としては『それはそういうものだよね』という割り切りができない段階まで話が進んできてしまっているように感じられる。
この界隈に長く身を置いて、その凋落を隣で見てきた筆者としては、金銭的な利益を得る=アクセスの獲得(話題性確保のために、大多数の消費者の即時的な注目を受けること)にのみ特化した『無料かつ消費できなくもない、レベルの高くない作品』ばかりが大量に作られた挙句に大っぴらに世間に出回ってしまっていることによる弊害が確実に存在していると感じる。
人類のコンテンツ消費量には限界がある。
質は高くないが、内容はわかりやすく短期的な刺激に特化することで消費者の暇をつぶせる(あえて悪い言い方をすると粗悪な)作品ばかりを大量に作られた挙句にアングラの分相応を超えたプッシュをされて世間から過剰な注目を浴びてユーザーが過密して粗製濫造が加速した結果、小説家になろうでは今までとは違うユーザー層が好むような真新しいジャンルの一次創作を自然と見つけられなくなり、多様性はなくなっていき、どんどん閉じたコンテンツになりながら、質の低い作品ばかりが拡散してしまい、悪評のレッテルを貼られていくようになった。
そして、拾い上げられる作品が自体が増えていったことで見切りをつけられる速度もどんどん加速してきている。
最近は本数が増えすぎた日本産アニメや、一部の漫画アプリも怪しくなってきていると感じる。
悪名は無名に勝る。
悪貨は良貨を駆逐する。
なろう系Web小説以外でも過激な競争の中で金銭を得るために、注目されること・消費されることに過剰に特化したその場しのぎのような、大衆基準で見ても明らかに質の低い模倣性の高いコンテンツで溢れかえるようになり、嫌でも目につくようになっている。

素人の新規参入がしやすい環境であればあるほどコンテンツ量は増えて質も落ちる。
例えばyoutuber台頭前の時代の2000年台のネットの創作などは
大体この図の真ん中から上の欲求のみを満たすために行われていたが、
現在の動画投稿は①技術的な敷居も下がって②お金を稼げるようになったため
この一番下のラインから全ての欲求を満たすための行為となった。
当然参入ユーザーの数は増えるし、彼らに精神的な余裕はなく。
もはや金稼ぎのために手段など選んでいられない。
知識もセンスも経験も情熱も信念も拘りもない。
金を稼ぐことだけが主目的の大量の素人の手によって
欲望を喚起する目的の、ただ刺激的なだけのエナジードリンクのようなコンテンツが大量に生成されてあっという間に環境を支配し埋め尽くし『つまらなくなった』のレッテルを貼られる。
YouTube などでも、時間をかけてゼロから専門性やクオリティの高い独自性の強い動画を一本作るよりも、定期的にそれなりの質の似たようなコンテンツを頻繁に投稿した方がシステム上評価されるようになっていたり、大ヒットした人気のユーザーを真似したような、同じような雰囲気を纏ったユーザーが似たようなテンプレートを使って、模倣を繰り返し続けて全体の質やイメージを落とし続けていたり。
さらに酷いと、自分では何も生み出せないユーザーが広告収入を得るために右に倣えで(二次創作ですらない)低品質のコピー動画を連投するようになっていたりしている。
また、最近ではアクセスを得ようと著名人の切り抜き動画を大量に投稿して評価を得ようとするユーザーや、5chやWikipediaから特定一次創作に対するリアクションをそのまま転載しただけのまとめ動画を投稿するユーザーを見かけるようになった(最近では投稿内容が被って、同じインフルエンサーの発言の切り抜き・まとめが流れてくるようになった。この『注目度重視の低品質なコンテンツの爆発的増加現象』は、昔から参入しているyoutuberの収益が全体的に減少してきている理由の一つではないかと筆者は思っている)。
Googleですら、SEOという評価形式に徹底的に迎合したアクセス数目的の精度の低い記事が最上位にヒットするようになってきている。
Google、質の低すぎるサイトを排除しようと試みて失敗しているのだと理解していたが、ついにDiscoverに外国人業者が作ってそうな無関係画像と文章崩壊した無味簡素な質の低すぎるページ出てきたので、もうGoogleは完全に終わったのだと思われる。みんなGoogleを捨ててBingとSNS検索欄を使おう pic.twitter.com/WLNg619FHJ
— すまほん!! (@sm_hn) November 12, 2023
(ネットで収益を得るための広告ビジネスモデルの過剰な台頭によって、純粋な情報精度の高さや内容で勝負しようとせず、人気の記事の情報をそのまま流用したり、検索アルゴリズムを分析&勉強して評価システムにひたすら迎合しただけの中身のない質の低い記事を連投するユーザーが大量に増殖してしまったというのが原因のようであり、全体の信用が低下してきている。ある意味で、今のWeb小説と全く同じような問題点を抱えてしまっている)
やばい記事見つけちゃった
— よー清水🐧画集発売中 (@you629) January 30, 2023
真面目な話、これから数年でネットがゴミ記事、ウォーターマーク削除された写真の山になってまともに使えないとかなりそうですね。正しいと比較的保障される情報が書籍だけになりそう。どうすんのこれhttps://t.co/zr6w4gTD9k
(加えてつい最近、AIを使いネットで質の低い記事を大量に自動生成する方法が編み出されたらしい。悪用厳禁とは書かれているが粗製濫造によって悪用される未来しか見えない。この手のツールはGoogle側で検索除外対策をしてもツール開発者とのいたちごっこが始まるだけなので根絶は難しく、加速度的な粗製濫造は避けられないだろう。正確で有意義な情報が今以上に見つけられなくなる……というか現段階で既に信用を落としてしまっているし。そも長期保存という観点では、ネットのデータは持続性がないということが既に証明されつつある。インターネットそのものが全人類にとって役に立たないただのゴミ箱になる日も近いのかもしれない)
noteがやばい。なにが起きてるか。
— 藤島誓也 | デジタルセールスルームopenpage代表 兼 実践カスタマーサクセス著者 (@seiya_fujishima) June 17, 2024
海外のアフィリエイターが高単価な市場調査レポートを、AIで日本語翻訳。大量のアカウントをnoteで作ってアホほど記事を書いてる。
だから、いまnoteで記事を書いても埋もれる。いいねが付かない。
これは生成AIの脅威(悪意)である。 pic.twitter.com/79vIAonlea
noteでも、AIを使って作られた記事やデイリーで内容の薄いわかりやすいだけの注目度重視の記事を大量に投稿することで高い注目を浴びて収益を得ているユーザーがいる。(余談だが、この記事を自動生成で丸パクリしている記事は既に存在している)
商業とは直接的な関係の無いTwitterですら140字内でまとまっているある程度刺激を得られるわかりやすい情報が求められて増加しており、複数ツイートを跨いだ情報精度の高い長文投稿が注目を浴びづらくなってきてしまっている。
昨日今日で3万RT超えてインプレゾンビが無限湧きしたので流石にリプ欄閉じたんですが、そしたら引用RTで喧嘩を売るようなツイートが出てきまして、調べたらレスバトルを誘発する事でインプレを稼ごうとする手口らしいですね。
— 鰐軍壮 (@WANIGUNNSOU) January 8, 2024
人間心まで貧しくなるとこんな事まで手を染めちゃうの、切ないなぁ… https://t.co/Tx3RdRF3pz
また、自らの利益確保(バックについている団体へのアピールや、広告のためのインプレッション)を目的とし、(その内容が明らかに間違っていると自覚しながら)意図的に顰蹙を買う言論・発言を行うユーザーが大量に増えてしまったため、コミュニケーションツールとして次第に成立しなくなりつつある。
まとめブログも数が増え続け、全く違うブログで同じような内容の転載形式のニュースを同タイミングで取り扱うようになってきてしまっている。
新規参入が圧倒的にしやすく、ウェブの大衆化によって力を持ちすぎるようになった同人二次創作作品やAIで出力されたイラスト作品なども同じような状況であり、圧倒的な物量によってSNSで日々拡散し続けており、消費者の消費を圧迫することで新しいコンテンツが注目されることを阻害してしまっている。
金儲けによって競争が激化し、粗製濫造が起こりやすい環境下が整ったことで、注目を浴びるために発信者が大挙して既存の人気の作品、人気の概念に大量にぶら下がった結果、圧倒的な物量によって独自性の強く・深い新しい作品が見出されることが阻害される現象が様々な場所で既に起こっているのかもしれない。
競争が激化した結果、繁殖力が異常に強い外来種が登場して環境内の生態系から多様性がどんどん失われていくような状態を進化だとは決して言えないわけだが、しかし先程のWeb小説投稿サイトの例と同じで個々のコンテンツのクオリティを担保しようとすればするほどそのプラットフォームそのものの集客力は落ちてしまう。
結局、そういった外来種をある程度認めなければ別の生態系(他社サービス)との競争に最大の集客要素であるコンテンツ数やコンテンツ力で負けてしまう。
現状はどのプラットフォームもほとんど無法地帯にしたもの勝ちの環境なのでどうしようもない。(youtubeとGoogleは規模的に競合サイトなどほとんど出てこないのだから金儲けにばかり傾倒していないで運営者にはもうちょっとどうにかしてほしいと思うが……)
集客数を史上とする広告収益が基本であるWebサービスにおいて、参入敷居を低くしたり、儲かること(注目されること)に傾倒していくのは人が集まるコンテンツが行き着く宿命のような物で、そのコンテンツを取り扱うウェブサイトを管理運用する側の人間からすればある程度無法地帯にせざるを得ないのかもしれない。
しかし、こういったウェブでの無法地帯からヒットが発生→技術の低い素人の大量模倣の流れから、最終的に注目度重視のわかりやすく気軽に消費できることに特化したコンテンツばかりが世界中に発信&消費されていくようになった結果。
コンテンツを作る側が受ける弊害としては、界隈の中で新しい革命的な一次創作がそれ以上注目されることなく、うち上がらなくなり多様性を失い先細るという問題があり、コンテンツを消費する側で起きている弊害としては、いざ時間のかかる重い、深い作品を読もうとした時に『作品を読みたいのに、読めない、理解できない』(本を読んでいられない。映画を最後まで座って観られない)という状況に陥ってしまう危険性がある。
(事実、そのような状況に既に陥ってしまっているユーザーは年々増加しているように感じられる。これは安直な若者世代批判などではなく情報社会をいきる人々を取り巻く環境の考察である)
エロゲーが衰退したのは若者層が長いシナリオにギブアップするようになってしまったせいだ。というまとめを目にしたが、まあそこそこ当たっているようにも思える。
— 鬼虫兵庫 Hyogo Onimushi (@ONIMUSHI_HYOGO) November 13, 2023
最近のコンテンツは一つのアクションに対して、即報酬を得ることが出来る速度が求められているから。…
なろう系の文脈でしか作品を咀嚼できなくなってしまったり。youtubeの切り抜きやshort、tiktokやまとめ形式の短い動画形式に慣れた結果、動画や映画、配信を最後まで観られなくなってしまったり。
Twitterの短く簡潔な引用でないと人の意見を最後まで理解して読めなくなってしまったり。
当然筆者が単なる時代遅れの老害であるという批判もあるかもしれないが。
特定のコンテンツの楽しみ方を最初から毀損するような模倣性の高い短期快楽重視の作品『ばかり』が、その性質を利用してインターネットの様々なプラットフォームで大っぴらに拡散&蔓延をしてしまう現象は、様々なジャンルのコンテンツで良くない影響を及ぼすのではないかと筆者は危惧している。
フリーレン、最近周囲で聞いたのだが、物語が「わからない」という人が結構いるらしいことが判明。しかも年齢問わず。傾向としては、いわゆるキャラ萌えで作品を消費しているタイプの反応らしい。もしあのぐらいの物語が「わからない」となると、古今東西の世にある物語の大半がわからないのではないか
— ノルノル (@nolnolnol) January 13, 2024
というより、10万字程度あるこの記事自体もおそらくそういう雑な消費のされ方をするに違いない。
事前に予測しておこう。もしも今後この記事がtwitterなどでバズったりすることがあったら(Web小説界隈は絵師や漫画家と違ってインフルエンサーがほとんど存在しないので望み薄だが)その時大体九割くらいのユーザーはこの記事を最後までちゃんと読まないはずだ。
とはいえ、こういった無秩序な自由競争主義の流れを止める手段があるわけもなく。
短いスパンで次々に脳に刺激や報酬を与えるようなコンテンツばかりが増加する一方で、 厳しい環境下で細々と生きながらえている濃厚で密度の高い新しいコンテンツは、インターネットの大衆化、商業化、陳腐化と共に、どんどん消費者の眼に入らなくなっていき。目立つことなく消滅していく――
――この流れはインターネット全体で、年々加速していくのではないだろうか?
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