シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

楽しそうに趣味で他人とかかわってらっしゃるじゃないですか

 
goldhead.hatenablog.com
 

1.

 
こんにちは、黄金頭さん。シロクマです。ご論、楽しく拝見しました。ブログが趣味である私にとって、こうしてお手紙をいただけるのはブロガー冥利に尽きる瞬間です。
 
さて、黄金頭さんはブログエントリのタイトルを「なにが悲しくて趣味でまで他人とかかわらなければいけないのか?」としました。たとえばカラオケ、例えばオンラインゲームをなさらない黄金頭さんはコミュニケーションが嫌い、人が嫌いだとおっしゃいます。
 
しかし黄金頭さん。
 


 
黄金頭さんは、くだんのブログエントリをお書きになったその日のうちに、Xにてスペースを利用して、『チェーンソーマン』についておしゃべりしているのです。
ええっ? コミュニケーションが嫌い? 人が嫌い?
 
タイムスタンプによれば、このスペースが開かれたのは20:30ぐらいと思われますから、ブログエントリのインクが乾かないうちにアニメ映画鑑賞についてXでお話をされていたのだと推察します。
 
黄金頭さんは、「スペースでは一方的に話していた」とおっしゃるかもしれません。
でも、少し聴かせていただいた限りでは、多少なりともリスナーを意識したしゃべりかただったと私は感じました。そもそも、Xのスペースという誰でも聴ける場所で公開しているわけですから、ご自宅で独りでぶつぶつ呟いているのとはわけが違います。黄金頭さんの場合、あからさまな承認欲求の発露だとは思いませんが、他者のいる空間、他者がいることのある空間で、他者がいる前提の振舞いだとはお見受けします。
 
こういうのって、SNSやはてなブックマークでもよくあることじゃないでしょうか。コミュニケーション嫌い・人間嫌いとおっしゃる人が、実際にはオンラインメディアをとおして他人のいる空間に向かって他人がいる前提の振舞いを繰り返している、それも、結構な頻度でそれをやっているのを見かけるわけです。私は人間の動機付けについて、経済的なものも含めて必ず報酬があると想定するほうです。そして経済的な報酬を期待している場合も含め、人が他人のいる空間に向かって他人がいるという前提の振舞いを繰り返している際には、それはコミュニケーションと呼んで良いし、呼ぶべきだと思っています。
 
「自分の言葉が誰かに届いたら」という祈りや、「自分の言葉が誰かの考えを変えるかもしれない」という願いがそこに込められているなら、それってコミュニケーションでしょう? そして、実際に自分の言葉が他人に届き、他人の行動を変えたならばコミュニケーションは「成就した」ってことですよね? 違いますか。
 
SNSになにごとかを書き、「いいね」や「シェア」をもらった時も、はてなブックマークにコメントを書いてはてなスターをもらった時も、コミュニケーションは成った、とみるべきでしょう。あと忘れてはならないのは、SNSやはてなブックマークに何も書かずに投稿した場合も、案外、それがコミュニケーションとして成立しているケースです。たとえば面白い記事をはてな匿名ダイアリーで発見した時、誰よりも早くはてなブックマークし、他のはてなブックマークユーザーがそれに続いた場合などは、そのはてなブックマークが他人の行動を変えている可能性が高く、それはコミュニケーションとして無視できない効果をもたらしていると言えるでしょう。SNSやはてなブックマークは、無コメントでもコミュニケーションを投げかけ得るメディアです。
 
今回、黄金頭さんは冒頭リンク先のブログエントリをお書きになり、それがたくさんのはてなブックマークを惹起し、私も黄金頭さんに言及したいとすぐに思いました。なにしろ、黄金頭さんから私にお手紙が届いたのです! 届いたお手紙を私がどこまで咀嚼できたのかはともかく、私の郵便受けに黄金頭さんのお手紙が届き、私はそれを読んでスクラップブックにおさめました。だって最高じゃないですか。
 
黄金頭さんのブログは魅力的です。「こんな題材で、どうしてこう面白く書けるんだ?」という記事を生成する、AIならざる存在です。過去に、「ナンバーワンじゃなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」などと謳う流行歌がありましたが、黄金頭さんは、その偽善的にも思える流行歌の歌詞が本当に当てはまってしまうお人じゃないですか。たくさんのファンを掴んで離さず、旺盛にブログ記事を更新している黄金頭さんは、ブロガーという観点からみたらコミュニケーション上手です。他の領域ではこの限りではないかもしれませんが、はてなブログ界、はてなブックマーク界ではスターなのです。
 
コミュニケーション、しているじゃないですか。私には、しているようにしかみえないし、その多くはうまくいっているようにみえるし、黄金頭さんだってそんなに悪い気分はしないんじゃないでしょうか。
 
 

2.

 
黄金頭さんは、こうもおっしゃっています。
 

むしろ、他人の目や存在、そこに費やされるコミュニケーションによる疲弊が、趣味をやめてしまう理由にすらなるのではないか。むしろ、人間関係が趣味の破綻をもたらす元凶ではないのか。そう思えてならない。

趣味の集まりに入ったは良かったけど、そこで人間関係がクラッシュして趣味までクラッシュする流れはあり得ると私も思います。でも、2004年から続けてらっしゃる黄金頭さんのブログの場合は、もちろん疲弊もあったでしょうけど、それ以上のものをもたらしてきたんじゃないでしょうか。
 
私のブログもそうですが、「長く続く」趣味活動は、なにかしら収支がプラスだから続くのだと思います。ここでいう収支の内訳には、経済的報酬、心理的報酬、政治的報酬、場合によっては技術的報酬や情報的報酬も含まれるでしょう。コミュニケーションとそれに伴う疲弊が収支に影を落とすのはそのとおり、しかしそうなると、コミュニケーションでより疲弊しない条件の揃っている人、コミュニケーションからの報酬が多い人ならば比較的問題にならない、とも言えますよね。
 
たとえばブログにせよインスタグラムにせよ、そこでのコミュニケーションがうまくて疲弊する度合いの低い人や、より多くの報酬を得ている人、いわばコストに対するベネフィットの比率が高い体質の人は、ブログやインスタグラムを続けるよう動機づけられやすいでしょう。
 
ブログというメディアはその最たるものですが、人を惹きつけることはコミュニケーション能力の最たるものです。そして黄金頭さんは、ブログの道においてそのような人物であると私は認識しています。黄金頭さんは、
 

界隈がどこにあるのかわからないが、本当にそうなのだろうか。そういう前提というか、心持ちになれるのは、コミュニケーション強者だからではないのか。そもそもおれはそういう人間関係の土俵にのっていない。のぼることもできない、のぼるつもりもない。

こんなことをお書きになっていますが、黄金頭さんってブロガーとしては強者の側だと思うんですけど。そしてはてなブログ界、はてなブックマーク界とでもいうべきフィールドにおいて土俵の真ん中にいらっしゃるのです。そんな黄金頭さんがこのようにお書きになっているのは、わざとでしょうか。わざとではないのでしょうか。いや、どちらでもいいです。ここも面白かったです。たぶん、私以外にも面白かったと思った人は多かったのではないでしょうか。つっこみどころです。天然 (わざとではない) としても、養殖 (文章が面白くなると考えた故意の振る舞い) としても、私は魅力的に感じました。
 
そのうえ、黄金頭さんは私に気を遣いながら書いてくださっています。持論や主張をくっきり表現すること・読者が移入できるように書くことをやってのけるだけでなく、宛先である私にも配慮を欠かさない。それは社会性の発露です。ブログは、SNSに比べれば社会性を維持したままコミュニケーションを遂行しやすいメディアだと思いますが、それでも本当に社会性の欠如した振舞いもたまには見かけます。そうした社会性欠如な振る舞いとは一線を画していらっしゃるじゃないですか。
 
趣味に、他人の介在を求めない一面があるのは私も理解しているつもりです。黄金頭さんにとっての競馬の位置は、私の場合はシューティングゲームや『艦隊これくしょん』が占めてきたかもしれません。井の頭ゴローよろしく、「誰にも邪魔されず自由でなんというか救われてなきゃあダメなんだ」ってのもわかります。ひとりで豊かでいたい趣味に他人が介入してくるとか、御免こうむりたいですからね。
 
でも、それだけが趣味ではないし、孤独とは言えない趣味活動もたくさんあります。ブログはその最たるものでしょうし、インターネットを趣味だと称してきた人々、SNSで盛んに自分の好きな活動やコンテンツに言及してきた人々もそうでしょう。そりゃあ孤独じゃないよコミュニケーションだよ。そのうえで、うまくいく人もいるしうまくいかない人もいる。そして、そのコミュニケーションを含んだ趣味活動から色々と得ていらっしゃるでしょう。さっきも書きましたが、私の理解では、コストに対してベネフィットが上回る収支でなければブログもSNSもはてなブックマークも長くは続けられないですよ。でも、ここらでよく見かけるアカウントの人たちはだいたい続けているわけです。続けられているわけです。
 
前の私のエントリで、修行僧みたいな愛好家の話を出しました。この、繋がりすぎて、コンテンツの仕掛人も繋がりを意識しまくっている今日日の社会空間のなかで修行僧を続けるのはひときわ難しいように思います。それは、いつのまにか繋がってしまってコミュニケーションしてしまうからってのもあるし、コンテンツが繋がらない人を前提につくられていないってのもあるし、繋がっていなければソーシャルキャピタルがもたらすメリットに与れないからってのもあります。
 

 
ちょうど最近読んだ二つの異なるジャンルの本のそれぞれで、私はソーシャルキャピタルがもたらす効果を印象づけられました。上の本は、ソーシャルキャピタルがさまざまな指標と関連しているっぽいことを示唆しているし、下の本はイノベーションに関して、独りでやってるよりみんなとやってたほうがずっと効果的であることを示唆しています。そもそも社会的生物である人間が、わざわざ一人で取り組んだほうが効果的な活動なんてそれほどないんじゃないでしょうか。誰かと繋がって心理的報酬や政治的報酬や情報的報酬を都合しあったほうが、なにかと都合良いでしょう。それができるなら、できたほうがいいに決まっている。
 
たとえば現在でも、ずっと昔の切手マニアのように切手を集め続けることは理論上は可能です。でも、心理的報酬や情報的報酬といったものまで視野に入れた時、そんな古式ゆかしい切手マニア趣味を2025年に続けるのは難しいよう思います。よほどコミュニケーションができない事情があるか、よほど他の趣味活動に乗り替えられない事情があるのでない限り、趣味の対象と方法がそうである理由が見つかりません*1。もっと強力に動機付けが働き、もっと報酬の大きそうな趣味に引き寄せられちゃうはずなのに、それができない境地とはどういうものでしょうか。あと、そういう状況ってサバルタンなんじゃないかなぁ。そういう状況がきわまればきわまるほど、インターネットの側からはみえないし、いないことになってしまう。インターネットの声が響いている界隈には、そういう人、いないですよね。みえません。本当はいても可視化されない。そして黄金頭さんのブログエントリのように人の目を惹くこともない。
 
 

3.

 
ああ、なんだか長くなってしまいました。
このように私は、ブログでコミュニケーションすることを好み、往復書簡が可能であると信じられる人とやりとりができることをかけがえなく思います。さきほどの話に即して言えば、私はこういう手紙の応酬をとおしてたくさんの報酬を得ているといつも感じています。そうじゃなきゃ、時間や注意力やエネルギーを割かないでしょう。楽しいんです。黄金頭さんは、いかがでしょうか。いいことばかりじゃありませんが、いいことだってあるんじゃないですか。コミュニケーションの窓をひとつ持つとは、そういうことじゃないでしょうか。
 
私はついついブログなど書いてしまうから、なかなか一つのことを極めたり、研究者のように狭く深く立ち入ることができずにいます。おっしゃるように、それができるということは一つの才能でしょう。私はそういう才能に恵まれませんでしたが、こうして誰かと意見を交換している前提でキーボードを打っていると、「まあでもブログ楽しいし。」みたいな気持ちにはなります。
 
黄金頭さんにおかれましては、「なにが悲しくて趣味でまで他人とかかわらなければいけないのか?」などといけずなことをおっしゃられず、これからも、「関内関外日記」を書き綴っていただけたらと希望します。急に寒くなる時期です、どうかお体ご自愛下さい。
 
 

*1:「理由もないのにやるのが趣味なんだ」と反駁する人がいるのは想像がつくところですが、私は人間の動機と行動選択はもっと単純なアルゴリズムに根差していると想定して人間について考えているので、もし、2025年に大昔の切手マニアのように切手を集め続ける人がいるとしたら、理由もないのにそれを続けているという読み筋よりも、どういう理由、ひいてはどういう動機やベネフィットに根差してそういう行動選択が起こっているのかをまずは考えるでしょう。人間、いろいろ文化や小手先のテクニックで行動を修飾するのがうまい動物だとは思いますが、根っこは割と単純で、アルゴリズム的だと私は私自身も含めていつも想定します