長柄武器の中でも、戦場で主力武器として長期間活躍したのが、「薙刀」(なぎなた)と「長巻」(ながまき)です。豪勇な武士や女武者が扱うイメージの強い薙刀と、戦国時代に多くの武将が騎馬戦で用いた長巻は、刀剣にはない魅力を持った武器とも言えます。
長柄武器の代表格である薙刀を中心に、発祥から現在までの歴史や種類をご紹介します。
薙刀
日本における薙刀の誕生は、現在もはっきりとは分かっていません。
平安時代末期には戦闘武器として使われていたと伝えられており、当初用いられていた薙刀は、古代日本で使われていた「鉾/矛」(ほこ)を長柄に改良した物と言う説や、人馬を薙ぎ払う(なぎはらう:刃物などで、勢いよく横に払う)ために「太刀」を長柄にした物と言う説が語られてきました。
この長柄武器が、戦闘経験を積みながら徐々に改良され、薙刀として発展したと考えられています。薙刀をひとことで言うと、長柄の先に反り返った刃を付けた武器。
平安時代初期は、馬上で弓を射ることが主な戦闘方法でしたが、次第に乗馬せずに徒歩で行なう「徒戦」(かちいくさ)が戦場で繰り広げられるように変化。
その中で、接近戦で間合いが取れる薙刀は、主力武器として用いられるようになったのです。
「薙刀とは」をはじめ、日本刀に関する基礎知識をご紹介します。
長巻
鎌倉時代から南北朝時代にかけて薙刀は、徒戦だけでなく馬上の武器としても広く用いられるようになりました。
この頃、薙刀用に適した刃が作られるようになったことで、薙ぎ払うだけでなく、突く、打つ、斬ることに適した武器となり、多様な攻撃を仕掛けることが可能に。
この様子は、南北朝時代の軍記物語「太平記」(たいへいき)にも描かれており、当時の戦場において薙刀が「最強の武器」であったことが分かるのです。
また、南北朝時代には柄が2mを超えるような「大薙刀」も登場し、猛者が振り回すことで強大な攻撃力を発揮しました。
しかし、1467年(応仁元年)から1478年(文明10年)にかけて起こった「応仁の乱」以降、歩兵による集団戦が主流となります。
薙刀のように周囲を巻き込む武器は、主力武器から外されることに。こうして、室町時代後期には「大太刀」(おおたち/おおだち:長大な太刀)から発展した長巻が登場し、薙刀に代わって戦場で多く用いられるようになりました。
戦国時代から安土桃山時代にかけて長巻の勢いは留まらず、豊臣家や上杉家が長巻隊を編制するほどだったと言われています。
その後、江戸時代になると、薙刀と同様に長巻も姿を消し、薙刀や長巻をもとに打刀へ作り替える「薙刀直し」や「長巻直し」が流行しました。
現在、重要文化財に指定されている「骨喰藤四郎」(ほねばみとうしろう)や戦国時代の肥前を代表する武将「龍造寺隆信」の愛刀と伝えられる「正平十□肥州末貞」(しょうへいじゅう□ひしゅうすえさだ)も、薙刀直しと長巻直しによって姿を変えた名刀です。
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なぎなた
戦国時代に衰退の道を辿った薙刀ですが、江戸時代になると、剣術や槍術と並んで薙刀術は武芸として認められるようになりました。
この頃、薙刀術の流派が増加したことによって、各藩で稽古が行なわれることに。
その後、武家の女子が習得する物として広まり、薙刀は女性が扱う武具として位置付けられるようになったのです。
一方、長巻も武術として継承されましたが、薙刀のように一般教養として拡散されることはありませんでした。この頃は、長巻術が薙刀術に組み込まれていたこともあり、長巻は薙刀の一種と考えられていたのです。
また、明治初期には剣術や薙刀術の試合を見世物として行なった「撃剣興行」(げっけんこうぎょう)がブームに。
そして、大正から昭和にかけて薙刀術が学校教育にも採用されることとなり、やがて競技武道としてのなぎなたへと発展を遂げました。
女薙刀としてのイメージが強い武道ですが、現在のなぎなたは、女性競技者だけでなく男性競技者も多く参加しています。
長巻・薙刀の種類
江戸時代になってから女性のために作られた薙刀で、反りが大きいため少ない力で斬り付けやすいことが特徴です。
平安時代末期の女武者で「源義仲」の妾である「巴御前」(ともえごぜん)が名前の由来で、別名女薙刀とも呼ばれています。
平安時代末期から鎌倉時代初期の白拍子(しらびょうし:歌舞を演じる芸人)で、「源義経」の妾である「静御前」(しずかごぜん)が名前の由来で、別名「男薙刀」とも呼ばれています。
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室町時代に作られるようになった薙刀で、九州の筑紫地方で広まったため、この名で呼ばれるようになりました。
筑紫薙刀の起源は正確には分かっていませんが、中国から伝来した長柄武器をもとに発展したという説と、日本の長柄鉈(なた)が発展したという説が語られています。
発祥の経緯は不明ですが、安土桃山時代に瀬戸内の水軍で用いられていた薙刀です。主に水軍が用いていたことから、非常時に舟を漕ぐための道具としても使えるように作られたのではないかと考えられています。
また、袋薙刀は櫃が2つある物が多く作られていることも特徴です。
武蔵坊弁慶
日本の薙刀を代表する1振に、平安時代末期の僧兵「武蔵坊弁慶」(むさしぼうべんけい)が愛用していた「岩融」(いわとおし)があります。
武蔵坊弁慶と言えば、京都の五条大橋で出会った源義経に生涯仕えたと言われている伝説的な猛者。武蔵坊弁慶の豪傑さを語る上で欠かせないも物が、大振な薙刀である岩融なのです。
岩融は、刀身が約105㎝あったと伝えられており、当時の一般的な薙刀が75~90㎝であったことから、極めて大きな薙刀であったことが分かります。
岩融の刀工は明らかにされていませんが、室町時代の刀剣書「長享銘尽」(ちょうきょうめいづくし)によると、天下五剣のひとつとして名高い名刀「三日月宗近」を鍛えた「三条宗近」(さんじょうむねちか)の作であることが記されているのです。
また、源義経と武蔵坊弁慶の物語が主に描かれている「義経記」(ぎけいき)においても、武蔵坊弁慶と三条宗近の関係が記されているため、この説が有力。
ただし義経記には、武蔵坊弁慶の愛刀は、「岩透」という大太刀であったという記述もあり、現在の所在も不明のため、真偽のほどは分かっていません。
武蔵坊弁慶と同様に、岩融は伝説的な1振として語り継がれてきたのです。
現存している薙刀の中に、名物として受け継がれてきた「権藤鎮教」(ごんどうしずのり)という1振があります。
室町時代に豊後国高田(現在の大分県豊後高田市)の名工「平鎮教」によって作られた物で、江戸幕府が定めた名刀リスト「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)に記載されている薙刀です。
福岡藩の藩祖として知られる黒田家に伝来した「名物三作」のうちのひとつで、その名の由来には2つの説が語られています。
ひとつは「黒田官兵衛」が、「豊臣秀吉」にしたがって「朝鮮出兵」した際、黒田家家臣の「権藤平座衛門行澄」が黒田官兵衛に襲い掛かってきた虎をこの薙刀で仕留めたというもの。この薙刀に救われた黒田官兵衛が、家臣の名を取って「権藤鎮教」と名付けたと伝えられています。
そして、もうひとつの説は、黒田家の「御当家御重宝故実」に記されているもの。1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で、西軍に与した延岡城主「高橋元種」(たかはしもとたね)の家臣「権藤平座衛門」は、高橋元種の領地である宮崎城を任されていました。
しかし、東軍勢力に圧されて宮崎城は落城してしまうことに。このとき、権藤平座衛門は100余人の勢力を相手に薙刀を振り回し、18人もの敵を斬ったあと、力尽きて自害しました。
この薙刀が宮崎城落城の始末とともに黒田家へ渡り、主君のために奮闘した猛将の名を取って重宝としたと伝えられているのです。いずれにしても、権藤鎮教は主君に尽くす忠臣の愛刀だったことが窺えます。
薙刀 権藤鎮教
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
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薙刀/銘「平鎮教」 金象嵌「権藤」 (名物 権藤鎮教) |
室町時代 | 無し | 福岡市博物館 |