戦国時代の武士達について、日々合戦を繰り返していたように想像されがちですが、彼らは当時における高いレベルの教育を受けた知識人でもあり、現代に生きる人々と同じように生活を営んでいました。教育と衣食住、隠居後の生活など、武士にとっての日常生活について解説します。合戦場での姿とは一味違う、武士の一面について見てみましょう。
武士達は文武両道を目指し、様々な教養を身に付けていました。とりわけ戦国大名と呼ばれる武将の子息は、幼い頃から様々な英才教育を受けていたのです。教育の場のひとつが、禅宗(ぜんしゅう:坐禅を中心とする修行で悟りを得ることを目指す仏教)の寺院。
足利学校跡
禅寺で僧侶に教育を受ける戦国武将の子供達
「織田信長」、「豊臣秀吉」、「武田信玄」(たけだしんげん)、「上杉謙信」(うえすぎけんしん)といった有力な戦国武将達も、幼少期は寺院に預けられていました。
また、専門の教育機関として、下野国(現在の栃木県)にあった「足利学校」(あしかががっこう)は、主に仏僧が通う学び舎でしたが、足利学校の出身者が戦国大名へ兵法の講義をすることもあったと言われます。
教育機関では、武士の子息達の学習期間はおよそ2〜3年で、基本的な読み書きに始まり、寺院の教えとして経文も学びました。また、「往来物」(おうらいもの)と呼ばれる一問一答形式の模範文例集が教科書として用いられ、武家のしきたりや初等教育を学習。
中国の学問書で儒教の根本経典とされる「四書」(ししょ)や、儒教経典で最も重要な5種の書「五経」(ごきょう)の他、軍学(ぐんがく:兵法に関する学問)などの講義を受けました。当時は、文学や美術、風習などの知識は一般常識としてとても重要で、特に戦国大名など一定の階級以上の家柄では、ときの幕府や朝廷・公家と対等に交渉する上で大切な素養。
そのため、成人してからも武士の学びは続き、「古今和歌集」・「万葉集」・「源氏物語」などの文学・蹴鞠(けまり)・絵画・茶道・華道・香道といった貴族文化を学んだのです。
戦国時代よりも前は、武士の戦闘は一騎打ちが基本でした。しかし、戦国時代になると戦闘の形式が個人戦から集団戦へと移行したため、武士は合戦でどのように兵士を配置するかという「陣形」(じんけい)について懸命に研究するようになります。
当時の陣形は、大きく「先陣」(せんじん:本陣の手前に配置された集団)・本陣(ほんじん:大将がいる集団)・後陣(ごじん/こうじん:本陣の後方に配置され、後方からの襲撃に備えた集団)に分かれ、突破部隊・包囲部隊など役割を分担。
また、各部隊間の連絡は「使番」(つかいばん)と呼ばれる伝令が担い、兵糧を運び込む補給部隊「小荷駄」(こにだ)が配置されました。戦闘が始まると、初めに先頭を進んだのが「足軽隊」(あしがるたい)で、続いて「鉄砲隊」(てっぽうたい)、「弓矢隊」(ゆみやたい)、「投石隊」(とうせきたい)、長槍を装備した「長柄隊」(ながえたい)の順に進行。
その後ろに、従者を伴った「騎馬武者隊」(きばむしゃたい)が控え、大将は後方で隊列の指揮を執りました。敵軍との距離が200~300mになると鉄砲の撃ち合いが始まり、約50mまで近づくと互いに弓矢を放ち、20mほどの距離に迫ると長柄隊が活躍。敵陣が崩れるといよいよ騎馬武者隊が登場し、突撃時には馬を下りて徒歩で敵陣に切り込んだとされます。
合戦中の略奪行為は軍法で禁止となっていましたが、合戦後は戦勝国の兵士達の収入源や補給物資に充てる目的で、略奪が容認されていました。戦場で命をかけて戦った武士達の手柄は自己申告制で、大将から評価されるには、自分の軍功を書き上げた「軍忠状」(ぐんちゅうじょう)という証明書を戦国武将に提出する必要があったのです。
合戦で特に評価されたのが、味方の誰よりも先に最初に敵と交戦した「一番槍」(いちばんやり)と、敵城へ最初に突入した「一番乗り」。武器のなかでは刀剣を使った戦功が最も評価が高く、次いで弓、鉄砲の順でした。
また戦勝時だけではなく、たとえ敗戦しても最後尾で敵軍を食い止めて自軍の撤退を助けたり、大将を護衛して無事に逃走させたりした武士は高く評価されたのです。戦場で活躍した者には、領地や財、刀剣や馬などの褒美が与えられました。
武士の日常的な服装は、「小袖」(こそで:袖口が狭く、前を引き違えて着る衣服)、「肩衣」(かたぎぬ:袖なしの上衣)、「袴」(はかま)の3点セット。肩衣は羽織のような物で、のちに武士の礼服である「裃」(かみしも)へと変化します。馬に乗りやすいよう、戦国時代の袴は時代劇で見かける物よりも絞られた形をしていました。
儀式に参列する際の礼服としては、「直垂」(ひたたれ:上衣と同色の袴を組み合わせた装束)に「侍烏帽子」(さむらいえぼし:頂を折り伏せた烏帽子)を着用。当時の衣料は麻がほとんどで、木綿や絹を使うのはごく一部の上流階級の武家に限られていたのです。
ずいき
戦国時代、武士の食生活はかなり質素でした。午前8時の朝食と午後2時の夕食の1日2食で、主食は玄米か雑穀。
これだけ聞くと少なそうですが、量だけは1日5合(茶碗大盛り10杯分)も食べたのです。基本は一汁一菜で、大豆が貴重だったため味噌汁には糠味噌(ぬかみそ)を用い、副菜として野菜の煮物や納豆、海藻、漬物、梅干などを食しました。
武士は運動量が激しかったため、塩辛い味付けが好まれたと言われます。また武士の食卓に欠かせなかったのが酒。当時飲まれていたのはどぶろくと呼ばれる濁り酒で、現在のお酒に比べてアルコール度数は低めでした。
戦闘の前には、大将は部下達に魚・干貝・雉(キジ)の肉を使った料理など、普段より豪華な食事を用意。また、陣中での食事は白米を乾燥させた「干飯」(ほしいい)や焼き味噌などの携帯食が主流でした。なかでもユニークなのは、サトイモの茎を編んで味噌で煮込んだ「ずいき」。
普段は荷物を縛る縄として使い、必要な分だけカットして熱湯をかければ即席味噌汁ができあがるしくみでした。武士達は食に様々な知恵や工夫を凝らしていたのです。
会津武家屋敷
武士は戦時には城に籠り、戦いが終われば自宅に戻る生活を送っていました。有力武士が住んでいたのは、「主殿造」(しゅでんづくり)、「書院造」(しょいんづくり)と呼ばれる形式の武家屋敷です。屋敷は北側と南側に区分され、北側は寝室や妻子が住む「対屋」(たいのや)や、家臣が控える「遠侍」(とおざむらい)、台所などで構成。
南側は主殿、「湯殿」(ゆどの:風呂場)、茶室などを設けた接客スペースになっていました。
当時は贅沢品だった畳が敷き詰められていたのは接客スペースのみで、大半は板の間。屋根は茅(かや)葺きや板葺きで、屋敷の周囲は塀で囲われ、大きな門がひとつと複数の小さな門があり、庭には弓や乗馬などの練習場が設けられていました。
一方、足軽など下級武士の生活はとても質素で、上級武士の屋敷などに併設された長屋で、複数の足軽と共同生活を送っていたとされます。床は土間に藁を敷いただけのこともありました。
戦国時代の武士は、比較的早い時期に家督相続を行い隠居したと言われます。これは、自分の死後に後継者争いが起こり、家が衰退するのを防ぐことが目的。
織田信長、豊臣秀吉、「徳川家康」の三英傑も最盛期の頃に家督を譲っていますが、3人とも隠居後にますます活躍をしています。武士は一般的に「嫡子」(ちゃくし:跡継ぎ)が「元服」(げんぷく:男子が成人に達した儀式)を済ませると、家督や本城を譲り形式上は隠居の身となるものの、後見人として実権を握り続けるケースがほとんどでした。
その後、嫡子が実績を作り、自分も老齢になったときが本当の引退時期だったのです。隠居した武士は出家して仏門に入る者、引き続き主君を支える者と様々でしたが、出家後も主君に呼び戻されるケースが少なくありませんでした。
戦国時代の武士の平均寿命は42歳くらいと言われますが、徳川家康は75歳の長寿をまっとうし、豊臣秀吉の他、仙台藩(現在の宮城県仙台市)の初代藩主だった「伊達政宗」(だてまさむね)、加賀藩(現在の石川県金沢市)の初代藩主だった「前田利家」(まえだとしいえ)なども60代まで生きています。長生きの秘訣は、彼らが独自に生み出した健康法。
とりわけ食事の心得は重要で、美食・過食・夜食を避けた腹八分目が基本的な考え方です。長寿をかなえた武士達は、茶の湯や活け花、和歌、連歌(れんが:数人がリレー形式で歌を詠む詩歌の様式)などを楽しんだり、琴・尺八などの演奏に興じたりしました。また、貴族や公家の一般的な趣味だった能楽鑑賞や蹴鞠も、武将に人気の娯楽であったと言われます。