米長将棋を支えた人間研究の勝負哲学

個性派ぞろいの将棋界歴代覇者の中でも、元名人の米長邦雄はとりわけ異色の存在だった。中原誠から谷川浩司、羽生善治、渡辺明といった第一人者たちは、みな17、18歳のころには既にトップクラスと同等の実力を備えていた。その後実戦的な駆け引きなどを習得し、10代の終わりから20代の前半にかけてタイトルを獲得するのが覇者たちのパターンだ。米長はちょっと違った。初タイトルは30歳の時で、それも半年で奪われてしまう。三冠王から四冠王へと棋界制覇を果たしたのは40代になってからだ。それを可能にしたのが米長独特の勝負哲学だった。
■相手の大事な対局ほど全力で
羽生が真っ先にその功績として指摘したのが「相手にとって重要な一局には全力を尽くせ」という米長の勝負哲学だ。「将棋界の要であり礎でもある」(羽生)。従って将棋界には八百長試合が存在しない。好き嫌いの感情で故意に手を抜く無気力な対局もないという。言葉で言えば簡単だが1対1で戦う勝負の世界ではなかなかできないことのように思われる。だが米長も単純な正義感だけで唱えたわけではなかった。半世紀近く昔の不思議な棋譜が残っている。
昭和40年代、ベテランK六段は好調で、順位戦最終局に勝てば昇級というところまでこぎ着けていた。しかしその相手は22歳で新進気鋭の米長五段。まともに戦って勝てる相手でないが後輩でもあるし米長の方は既に昇級が確定していて消化試合でもある。今となっては確かめようもないが、K六段は温泉旅行へ招待する代わりに緩めてくれるよう事前に頼みこんだという。
米長青年はキッパリ断った。当時をよく知る河口俊彦七段によれば空気は一変してタイトル戦のような真剣勝負になったそうだ。日本将棋連盟の倉庫に残されていた棋譜では米長が初手に9分、K六段は4手目に36分使っていて当日の緊張感が今も伝わってくる。

不利な形勢を米長は粘り抜き、午前10時に始まった勝負は深夜12時を過ぎても終わらない。A図は終盤戦で米長が6九香と「敵の攻め駒を攻める」好手を放った局面だが、返し技の5七竜がそれを上回る捨て身の妙手。米長の防衛線が崩れ、結局午前0時48分に142手で投了した。勝てそうもない相手に勝ったK六段は思わず目を潤ませたという。当時のプロ仲間も感心させた大熱戦だったが、その一方で相手の妙手を承知の上であえて米長が指させたという、一種の都市伝説のような話も残った。若年ながら米長は八百長を頼む辛さ、頼まれて断る辛さ、勝負と人間関係の微妙なアヤを味わっただろう。
4年後の順位戦最終局。今度は八段の長老・大野源一が相手だった。大野が勝てば久々のA級復帰、米長が勝つと同クラスの中原が昇級して抜かれる可能性が出てくる。中原とのライバル関係は作家・沢木耕太郎の「若き実力者たち」の中でも活写されている。自分がわざと負ければコトは簡単だが米長はそうはしなかった。必敗の形勢を耐え抜きB図(先後逆で掲載)から妙手7一銀で大野玉を奇跡的に詰ませてしまった。結果から見れば宿命のライバル・中原が約2年後に名人位を奪取する最大の援助をしたことになる。この2局が米長哲学を生む原点になったようだ。

勝負に明け暮れる将棋界は1人の棋士が子供の頃から引退するまで100人ほどの相手と何度も繰り返し戦い、一方で仲間として遊んだり仕事をしたりする家族的な雰囲気を併せ持つ世界だ。将棋が強いだけではきれい事を言っても認めてもらえない。苦い経験も人間関係のアヤも知り尽くした米長が「相手の大事な対局こそ全力を」と言ったからこそ多くの棋士が納得し、賛同した。米長への敬意は対局室での威圧感につながり対戦相手は無形のプレッシャーを感じただろう。こうした姿勢はファンにもアピールし米長は常に声援を受けホームで戦っているようなスター棋士になった。
■「距離感覚を変えた」大局観
米長は不抜の勝負哲学を持っただけでなく、将棋に一種の技術革新をもたらした一人でもある。将棋の形勢判断材料は(1)駒の損得(2)駒の効率(3)玉の堅さ、手番――といわれる。特に駒の損得は重要で、典型的なゼロサムゲームの将棋では「歩」の1枚損は相手との2枚差を意味する。入門者からプロにまでに共通する常識だが、それを超えた指し方を発見したのが米長だった。九段の青野照市は「『米長以前』と以後では自玉の距離感覚が全く変わった」と分析する。例えば香車の上に王様を置く「米長玉」だ。香車の戦力をゼロ化する悪手のはずだが「一路遠くなるので寄せられるまで何手かかるか感覚が狂う。1手かけるだけの価値があると発見した」(青野)。
敵玉への距離感も変えてみせた。八段の木村一基は「損得や効率よりも相手の守りを弱体化させるのを最優先した」と話す。具体的には「王様近くの守りの金をはがすことが決定的に重要だと気づいた最初の棋士」が米長だと言う。これらの指し方は約30年を経た今ではアマ高段者でも常識の指し方になっている。「目標が非常にハッキリしていた将棋だった」(木村)
米長独特の大局観を支えたのが全ての駒を前進させていくスピード性だった。米長の勝負哲学と同じように将棋感覚も現在の若いプロ棋士たちに根付いているようだ。25歳の広瀬章人は早稲田大在学中に王位のタイトルを獲得した。その原動力となったのがスピード感重視の「振り飛車穴熊」戦法だった。相手の攻めに対し「堅い」穴熊陣に米長流の「遠い」とする考え方を融合させ、さらに新しい速度感覚が1世代上の棋士を圧倒した。
広瀬が将棋を覚えたときは羽生の棋界制覇が進んでおり、米長世代とは2世代離れる。米長の棋譜を意識して研究したことはないだろう。それでも「自玉の安全性を優先し終盤から逆算して現在の形勢判断する考えは自然に身についた」としている。
24歳の中村太地は「米長将棋は勢いを重視して駒が後退しない展開を常に目指していた」と話す。中村は米長と約45歳年が離れた最晩年の弟子。米長・中原以降の谷川や羽生の将棋を中心に学んでプロになった一人だ。それでも「流れや勢いを重視する師匠の将棋は魅力的でいろいろと学んだ」としている。谷川浩司が修業時代のバイブルと呼んだ実戦集「米長の将棋」は、中村にとっても何ものにも代え難い教科書になった。今年はタイトル戦で羽生に挑戦するまでに成長している。
■「複雑系」の将棋技術
「泥沼流」といわれた米長の棋風を九段の森下卓は「不利でも勝ちやすい局面があることを意識していた」と分析している。将棋というゲームは1手目から有利→優勢→勝勢→勝ちと1本の棒で貫くような合理性が特徴に思える。しかし米長は「泥沼流」と局面が複雑になるよう仕向けていった。合理的の戦いから間違いを犯しやすい人と人との勝負に持ち込んだわけだ。大名人だった十五世名人の大山康晴は「人間ならは必ず間違える」という勝負に対する考えを持っていたという。米長は晩年の大山と戦ううちにそれを吸収し、さらに発展させていったような棋風を確立した。

まあ不利になればプロなら誰でも戦いの焦点を多面化し複雑に指すよう心がける。しかし米長は優勢になったときすら複雑に指し回してみせた。その方がより確実に勝てると考えていたようだ。終生のライバルだった中原誠は「こちらが不利で一直線に攻められたら負けの局面でもあえて曲線的な指し方をされることがあった」と振り返っている。ある若手棋士は加藤一二三と米長が同じ局面を解説していた情景を鮮明に覚えているという。あらゆる指し手の可能性をとことん追究する加藤に対し米長は「加藤さんはこの局面の最善手は何かを考えている。私はこの局面で相手は何を考えているかを考えている」とニヤリとしたという。
現在の将棋界は研究会全盛だ。ライバルへの情報漏れを恐れてコンピューターソフト相手に研究するケースも増えてきている。米長も若手との研究会で最新定跡を学んだことが史上最高齢での名人奪取に結びついたといわれる。しかしかつて「米長道場」をともに立ち上げた森下は「10代、20代の将棋と接していることで常に若々しい感性を保つのが狙いだったのだろう」と言う。「50歳目前で名人になれた背景は本人の才能4割、若々しい感性を保つ努力の結果が4割、最新定跡は残りの2割にすぎない」。青野照市は「好手、妙手はプロならば誰でも指せる。相手を惑わす妖手を指せるかどうかが本物の才能で米長にはそれがあった」と言う。「そういった一面は現在の羽生将棋にも形を変えて受け継がれているようだ」(青野)。羽生も人間、悪手は指す。しかし不思議となかなか敗着にはならないといわれる。
米長の名人在位は1期で終わった。全盛時は七冠のうち四冠を占めたものの通算成績で米長より多く勝った棋士は何人かいる。しかし河口俊彦によれば「30年後の将棋ファンは(昭和の天才棋士だった)升田幸三、大山康晴の将棋より私の将棋を評価するだろう」と語っていたという。確かに目の前の1局の勝利にあくせくするより将来を意識して新しい手を指そうと心がけていたのが米長の将棋だった。「常に何かを先取りしようとしていた」(木村一基)。複雑で先端的でしかも魅力的な米長将棋が誰よりも高く評価される日は案外早く来るかもしれない。=敬称略(電子整理部 松本治人)












