坂本龍一さん――父の怒声が聞こえてくる(食の履歴書)



2009/3/28付 日経プラスワン




坂本家恒例「夜明けのお茶漬け」

「伝説の編集者」の思い出

 ご飯に熱いお湯をさっとかけたお茶漬けを食べると、音楽家、坂本龍一は今は亡き父の姿を思い出す。その記憶は、まだ坂本が小学生だった時分にさかのぼる。

 「おい。お茶漬け!」。夜ごと酒場を飲み歩き、泥酔した父は明け方、帰宅すると必ず母にお茶漬けをつくるように命じた。どんなに遅くても、近所に聞こえるような怒鳴り声で歌いながら帰ってくる。

 不安になった坂本は眠い目をこすりながら、そっと寝床を抜け出し、様子を見に行くのが常だった。「父は血の気の多い九州男児でね。いつも怒っているような軍隊口調で話すんです。とにかく怖くて、高校に上がるまで、まともに目を合わせたことがなかった」

 泣く子も黙る雷オヤジ。「夜明けのお茶漬け」は長い間、一日の締めくくりには欠かせない坂本家の恒例行事だった。

 父、坂本一亀(さかもとかずき)は戦後日本文学の礎を築いた「伝説の編集者」として知られる。河出書房「文芸」の編集長を務め、三島由紀夫の「仮面の告白」、野間宏の「真空地帯」、高橋和巳の「悲の器」など次々と不朽の名作を世に送り出した。

 武勇伝も数多い。「バカヤロー」。酒に酔っては、小田実や高橋和巳ら作家相手に吠(ほ)えまくる。水上勉を「何だこの原稿は! 書き直せ」と怒鳴りつけ、ゲラ原稿が真っ赤になるほど文章に手を入れたこともある。取っ組み合いのケンカも絶えなかった。

 坂本にとって、そんな父は畏怖(いふ)と羨望(せんぼう)の対象であり、同時に、乗り越えるべき目標でもあった。

 高校二年の時、坂本はノートにこんな心情を書き留めている。「僕は『言葉』というものが嫌いだ。生まれつき『文字』には疎いかもしれない……」。「言葉」ではなく「音」で勝負しよう。「言葉」の人だった父の存在は、坂本の進路に大きな痕跡を残したようにも見える。

 東京芸術大学の作曲科、大学院を終えた坂本は一九七八年に「千のナイフ」でソロデビュー。その後、テクノ音楽や映画音楽などで世界的な名声を手に入れた。そんな息子を見つめてきた父は、何度か苦言を呈したことがある。

 「おまえをピエロにするために東京芸大にやったのではないぞ!」。テクノバンド「YMO」のレコードジャケットを眺めた時にはこう吐き捨てた。「ちゃんと音楽で勝負せんか!」。公演で髪を金色に染めた坂本を見た時には激高し、公演を見ずに帰ってしまったこともある。

 忘れられないのは八〇年代後半のある正月の出来事だ。実家でお節料理を食べていると、父が怒鳴り声を上げた。「おい。本当に、これがおまえの音楽なのか?」。当時、坂本は沖縄民謡「安里屋ユンタ」をカバーしていた。

 「自分の音楽としてまじめにやっているんだ」。さすがに頭に来て、親子で取っ組み合いのケンカになった。坂本が力ずくでつかみ掛かると、父はあっけなく倒れて、組み伏された。その時、父の「老い」に気付いてハッとしたという。

 「それまで絶対的な存在だった父の体が意外に軽くて驚いた」。年を重ねるにつれ、衰えてゆく父。時間の流れは止めようがない。互いに自覚したくなかった事実に気付き、切ないような、気まずいような複雑な思いをかみしめた。

 二〇〇二年九月。坂本は父の訃報(ふほう)を知った。朝四時、欧州ツアーで移動しているバスの中だった。

「父は愛するのも愛されるのも下手な人だった。大先輩として聞きたいことは山ほどあったが、照れもあり、突っ込んだ話ができなかった」。こう振り返る。

 決して美食家ではないという坂本の好物は「母が作ってくれたカレーライス」。でも飾り気のないお茶漬けは、少年時代の記憶が溶け込んだ特別な存在だ。「貴様、それじゃダメだ」「もっと、ちゃんとせんか」――。「夜明けのお茶漬け」に思いをはせると、どこからともなく、あの軍隊口調の懐かしい父の怒声が聞こえてくる。=文中敬称略


(編集委員 小林明)




私食店
締めの一口カツカレー

お気に入りは東京都港区西麻布の「サロン・ド・グー」((電)03・5771・3690)というフランス料理店。こぢんまりとした店内には、隠れ家のような落ち着いた雰囲気が漂う。

「日本人の味覚に合わせた料理で、特にキャビアのジュレは尋常じゃないうまさ。裏メニューで“締め”に出してもらっている一口カツカレーもやめられない」。こう太鼓判を押す。

オープンは二〇〇八年五月。前年、惜しまれて閉店したフランス料理の名店「まっくろう」のシェフやスタッフが新たに立ち上げた。坂本さんも「精神的な応援団長」として店作りやメニューに知恵を出したとか。

厳選した海や山の素材を巧みに生かした創作フレンチ。料金はコース料理(酒類は別)だけで一人一万六千円前後という。


(さかもと・りゅういち)1952年東京生まれ。東京芸術大学大学院修了。細野晴臣、高橋幸宏両氏とテクノバンド「YMO」を結成。88年に映画「ラストエンペラー」でアカデミー作曲賞。現在、4年ぶりの国内ツアーを実施中



【最後の晩餐】やっぱりカレーライスかな。ジャガイモ、ニンジン、豚肉が入った普通のカレー。少年時代、帽子デザイナーとして働いていた母が作り置きしてくれたので、その鍋を温めてモリモリ食べていた。「食の原点」です。