ラフカディオ・ハーンは金も地位も学歴も頼るべき家族もまったくないのに、その生き方は一貫していた。自分のあるべき生き方はこれだと決めて生きるのはむずかしいが、これが彼の魅力だ。どの本を読んでも、妥協しない彼がいる。それでよく生きて来られたなと感心してしまう。妻セツにだけは妥協している。これは信念を曲げてのことでなく、信念よりも高位の道徳観を尊重してのことだった。
田部隆次著の伝記『小泉八雲』は大正3年4月初版で、その序文を坪内逍遥が書いている。
我が特殊なる風俗の紹介者、解釈者、回護者としての同氏の功労は、今更改めて言ふまでもあるまい。余りに温かい同情を以てひたすらわが風俗下情の美なる側面のみを拾ひ、醜い方面、厭な部分は目を塞いで通り過ぎたといふ風があるゆゑ、外国の人々は、同氏の著書を読んだ時と実際我が人情風俗に触れた時と、感を異にすることも屑々ありませう、併し我々日本人は同氏の著書を読むにつけて毎に慈母に対するやうな思ひがする。私なども時々はあまりひいき目過ぎて裏恥かしいやうなと思ひつつも、或はこれはあまり主観的な見方のやうだと思ひながらも坐(そぞ)ろに感謝の涙を催したことがあった。
この一文だけででも、小泉八雲が日本や日本人のことを褒めまくっていたことがわかる。日清日露戦争の勝利国として、アジアでの存在感を高めていたとはいえ、当時の日本は欧米人にとってはまだまだ未知の国だった。日本のことを欧米人に紹介するラフカディオ・ハーンの文名はけっこう高かったので、日本の知名度はそれなりに上がったと思われる。
坪内逍遥は小泉八雲の著作を英文で読んでいる。東京帝国大学を卒業後、シェイクスピアの作品をすべて翻訳した人で、早稲田大学の教授をしていた関係でこの序文を書いた。小泉八雲は亡くなった年、早稲田大学の講師だった。私が高校生の時、坪内逍遥の孫娘だと思っていた坪内ミキ子が地元のラジオ局でDJをしていた。彼女のお父さんは坪内逍遥の甥で養子だったが、後に養子縁組を解消されている。彼女のDJは軽くなく、堅くなく、程よい雰囲気を醸し出していた。私が唯一DJ番組を楽しく聴いたDJだった。
DJ、と言えば村上春樹の処女作『風の歌を聴け』が浮かぶ。若者が生きることは死と隣り合わせに生きることだと否応なく感じながら読んでいるところに、とつぜん、DJが能天気に「やあ、元気かい」と声をかけてくるのだ。初めて読んだ時、正直戸惑った。村上春樹は文体にこだわり、一度日本語で書いた文章を英訳して、その英文をまた日本語に翻訳したらしい。それからどの程度推敲を重ねたかは知らない。一時、大江健三郎の文章にのめり込んだことがあるが、そのうち、くどすぎるのではと思いはじめたら読めなくなってしまった。大江健三郎が奥さんから、村上春樹のようにわかりやすい文章で書いたらいいのに、と言われて、「わかりやすく書いているつもりなのだが・・・」と答えたそうだ。
日本国憲法の文章が英文の翻訳調で日本語の文章としては、と言われ続けてきた。確かにまだまだ漢語が多くて私には読みにくい感じはするが、一応すらすら読めるし、何が書いてあるのかよくわかる。よい文章だとは思わない。しかし、大日本帝国憲法の文章と較べれば格段の進歩を遂げている、と思う。大日本帝国憲法の文章は漢文(中国文)を訓み下したかのような文章で漢字とカタカナだけで文章が綴られていて句読点もない。もともと日本語の文章は平安時代に「ひらがな」文からはじまった。当時は言文一致体の文章だったという。それが、時と共に、漢字かな交じり文となり、口語とかけ離れていくようになる。読みにくく、わかりにくくなっていったということだ。
日本国憲法
大日本帝国憲法
文語体の文章では、格調高く洗練された美しさが求められた。明治・大正・昭和と時代が変わっても日本語の文章に求められるものは変わらなかった。それが、日本国憲法の文章が・・・と言うことにつながったのだろう。話し言葉も書き言葉も時代と共に変わっていくものだ。伝統はもちろん大切にしなければならないが、昔を基準にしていては駄目だと思う。
外国語を日本語に翻訳するということは、日本語を知っている人なら誰でも読めるようにすることだ。小泉八雲もまた、翻訳の重要性を強調している。以下、田部隆次著の伝記『小泉八雲』(北星堂書店刊)より引用。
ヘルンは日本の学生にも、創作の手習として翻訳をせよと教えた。「外国文学の翻訳はいつまでも必要である。翻訳して価値を失うような物は、初めから翻訳の価値のないものである。大文学は、翻訳ででも、やはり人を動かす力はある。・・・
ラフカディオ・ハーン自身、フランスでフランス語を習得した。アメリカ滞在中にゴウティエ、アナトール・フランス、フローベルを翻訳出版して、はじめて英米文壇に紹介している。
彼は人がやらないこと、思わないことを率先してやることに意義を見出す人だった。また、出版のために翻訳をしていたのではなく、文章修行のためだった。彼の机には出版されないままの翻訳原稿がよく置かれていた。出版社に頼まれて書かない、ということが一貫していた。
テオフィル・ゴーティエ ギュスターヴ・フローベル
日本と日本人のことを褒めすぎだ、と坪内逍遥は書いているわけだが、褒めすぎということに関して、伝記『小泉八雲』に明治二十五年十一月メーソンに与えた、熊本でのことを記した彼の手紙が紹介されている。
「・・・ 九州人―普通人―は好きというわけにいかない。出雲では万事柔和で古風であった。ここでは農夫や下層社会は酒を飲む、喧嘩をする、妻をなぐる。私は日本人は皆天使ででもあるように書いたことを思うと気がちがってしまいそうだ。・・・」と書き記している。
冒頭で小泉八雲は生き方が一貫している、と書いた。その一端がわかるエピソードがある。シンシナティからニューオリンズへ転居したとき、しばらくは定職に就かず暮らしたが、いよいよ金に困って、職業を求めようとして「デモクラット」社へ行った時の話だ。
編集人のジョージ・デュプレーが面会してみると、みすぼらしい身なりの小男が机の上に一篇の原稿を出して「これをいくらで買ってくれるか」と尋ねた。デュプレーはその原稿をざっと見て文学的価値のあることに驚いて十ドル出した。その人は金を取って帰った。デュプレーはそれを丁寧に読み返して、組版のところへ送る前に僅か二三の字句を変えた。翌日早朝デュプレーの部屋へ飛び込んだのは前日の同じ男であった。「こんなきたない金は要らないから返す。何故我輩の文章に余計な添削をしたか」と怒鳴りながら紙幣を投げつけた。デュプレーが言訳をしようとしたが、その男の人はいなかった。(伝記『小泉八雲』田部隆次著北星堂書店刊より引用)
「ポケットに10セントしかない。手紙を出すのに3セントかかる。残り7セントが一日の食費だ」と彼が後日書き記していた頃のエピソードだ。
彼は書きたいことを書き、書いた文章に手を加えられるのを極度に嫌ったのだ。その後、新聞に記事を書いて彼の文名は確実に上がった。その頃のエピソードがある。
1881年の末に、これまでの地にあった『タイムス』と『デモクラット』の二新聞が合併して新しく『タイムス・デモクラット』となって南部第一の大新聞となった時、当時南部の最も優秀なる記者の一人であったヘルンは迎えられてその文学部長となった。・・・ 主筆のペーヂ・ベーカーはヘルンの長所欠点をよく承知して、注意深くヘルンの心を乱さないように警戒した。ヘルンは自分の文章を直すことは勿論、句読一つでも違うのを嫌うことを承知していたベーカーは植字部に命じて、故意には勿論、誤ってヘルンの句読を変えた者はただちに解雇することを宣言した。(伝記『小泉八雲』田部隆次著北星堂書店刊より引用)
彼は読書と執筆にこだわった。新聞記者は多忙で彼の欲求は満たせなかった。金があればたくさんの本を買った。古本屋めぐりは彼の趣味だった。だから常に手元に金は無かった。彼は本を読んで勉強したかった。日本に来て小泉セツに会うまでのラフカディオ・ハーンには帰る家が無かった、安住の地がなかったのだ。彼の伝記や彼の手紙等を読むと、常に住んでいる所から他所の土地へ行くことを彼が宿命づけられているように見える。ヨーロッパからシンシナティ、ニューオリンズ、マルティニーク島、フィラデルフィア、ニューヨークへと彼は住み家を替えた。そのタイミングで、よくぞ、セツに逢えたと思える。
セツが『思ひ出の記』で語っている。
ある朝散歩から帰りまして、私に喜んで話したことがございます。「千駄ヶ谷の奥を散歩していますと、ひとりの書生さんが近よりまして、少し下手の英語で、『あなた何処ですか』と聞きますから『大久保』と申しました。『あなた国何処です』 『日本』 ただこれきりです。『あなたどこの人ですか』 『日本人』 書生もう申しません。不思議そうな顔していました。私の後について参ります。私、言葉ないです。ただ歩く歩くです。書生、私の門まで参りました。門札を見て『はあ、小泉八雲、小泉八雲』と言って面白がっていました」
出雲松江の冬は寒く、熊本は落ち着けない、神戸は外国人がいて洋風が目立つ、そして東京へ、しばらく市ヶ谷に住んだ後、落ち着いて暮らせる住居を望んだセツの希望通りに大久保へ転居した。近代化の進む東京には不満を抱えていたが、大久保近辺にはまだまだ旧い日本があったのだ。







