「やめんか!命は大切にしろ!」…三島事件から55年、割腹自決を3メートル先で見た“元軍人”が語った「介錯の刃のひらめき」

『仮面の告白』『金閣寺』で知られる、戦後日本文学界の白眉・三島由紀夫。日本を愛し、憲法改正を声高に主張した勇猛果敢な作家の最期は、陸上自衛隊駐屯地での割腹自殺という凄惨なものだった。

2025年は三島由紀夫自決から55年である上に、三島由紀夫生誕100周年の節目の年である。「三島由紀夫が今の日本を見たらなんと言うか」という月並みな妄想に溺れるのではなく、改めて彼の自決が何を意味したのかを再考する必要があるのではないか。1970年11月25日、三島由紀夫は一体何をしたのか?

週刊現代1970年12月10日号の「私だけが見た惨劇の一部始終」より再編集してお届けする。

『「顔面蒼白で刀を振りかざし、次々に切り付け」…三島事件から55年、立てこもり事件の“人質”が語る「惨劇の一部始終」』より続く。

第5回

目前の自刃は「言葉に表現できぬショック」

午後0時15分 再び総監室へとって返した三島は、やにわに上衣を脱ぎ、上半身裸となる。

益田氏「これは本当に死ぬ気だな、と瞬間感じました。しばられたまま、「やめんか!命は大切にしろ!」と何度も叫んだ。しかし、三島さんは私の左側3メートルほどのところに坐ると、『ヤアッ!』と大声をあげざま、短刀を腹に突き立てたのです。

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間髪を入れず介しゃくの刃がひらめいたときの気持ちは、とても言葉には表わせない。思わず学生たちに『祈れ!』といったきりです。四人は涙ながらに合掌、続いて坐った森田が自刃しました……」

益田兼利、大正二年熊本生まれ。陸大卒後、北支戦線へ。蔵溝橋事件当時、少尉として天津に駐在、たびたび戦火の下をくぐった歴戦の武人。終戦時は参謀本部の少佐。

その益田総監にも、動けぬまま止めるに止められず、3メートル先で見た白刃のひらめきは、言葉に表現できぬほどのショックを与えたのだ。

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