なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

20代に積み上げたことがない人間が40代になって

私は20歳くらいの頃、大学在学中に統合失調症と診断された。
それから、なんとか縋り付くように卒業はしたけれど、新卒切符は不意にして実家に帰り数年寝込んでいた。
それからなんとか体調が戻ったかと判断して仕事を始めるもののまだ働くには早かったという結論に辿り着くのを何度か繰り返し、結果的に職能が何も身についていない30代になった。
そこから人生のウルトラCが起こって結婚し、更に色々とあって35歳からようやくプログラミングのアルバイトの職を得ることができた。その仕事も体調の波に左右された状態で休んだりを繰り返し、一度大きな波に負け越して仕事を辞めてしまったものの、それから半年くらい休んでまた別の会社でプログラミングのアルバイトの仕事をしている。その会社でもやっぱり体調に左右されながら仕事をしているが、なんだかんだでプログラミングの仕事を始めてから5年くらいは経ったことになる。もう40代になってしまった。
40代というと、20代からちゃんと職能を積み上げてきた人たちは会社の管理職を経験して中には経営層に入る人もいたりして、ますます職務経歴が分厚くなるときだ。
そんな中、私は体調も安定せず突然休むことがある人というポジションでアルバイトをさせてもらっている。多分、20代のうちに取った精神障害者保健福祉手帳のおかげでそれでも働くことができているのだろう。
それでも、時々は辛いなと思う。あるはずだったものがない人生なのだ。
「ない」ということを語るのは難しい。あったはずということからないことを認識するけれど、「ない」ということは「ある」ということとの差分でなければなかなか語れない。だから、「ある」ということを経験したない状態で「ない」というのを語るのは本当に難しいなと思う。
つまり、あるはずだったものがない人生の辛さを語るというのは難しい。
ただ、逆に考えると「ある」ということを経験したことがないのだから「ない」ということを認識するのもふわっとしているはずで、あるはずだった人生というものに曖昧な夢を見ていて、それが「ない」と思っている辛さもまた曖昧模糊としているような気もする。ただ、曖昧なだけあってその辛さは思い込み始めるとどこまでも大きく膨らんでいきそうだ。
だからもう「ない」人生を受け止めて「ない」ことの形をはっきりさせずに今の人生を生きるのがいいんだろうな、と思う。
そういう理由があって、私はこの世界線では仕事に縁のない人生だったんだなと思うことにしている。
きっと病気にならなかった世界線の私は、20代のうちから仕事をちゃんと積み上げて40代で管理職とかちゃんとやれているかは分からないけれど今よりは仕事を頑張れる人生を送っているのだろう、なんて妄想するのだ。
今の人生で20代に積み上げたものがないことについて「ない」辛さにこだわってしまうよりは、別の人生を歩んでいる私を妄想する方がまだメンタルにいいのではないかななんて思う。
それに、なんだかんだで今はプログラミングの仕事を始めて5年くらい経っていて、それなりに積み上げてきたものがあるかなと思えるようになっている。それが普通の人の10年遅れでも、今あるものを大切にするのが大事だろうなと思っている。

この文章は絶対に終電を逃さない女さんの著書、「虚弱に生きる」の第5章にある「若いうちに積み上げたものがない中年」の項に触発されて書きました。
目次のここが一番刺さって、真っ先に読んだ項です。
私の場合原因がある虚弱というか仕事が続けられなかった事情ではありますが、きっと似たような悩みを抱えた方の本なのだろうと思って買った本です。他の章もこれからゆっくり読もうと思います。