世界のねじを巻くブログ

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映画『遠い山なみの光』の感想、そして『泥の河 / 宮本輝』を考える。

カズオイシグロ原作の映画

いまさらながら映画版『遠い山なみの光』(石川慶監督)をみて思ったことを軽くまとめておこうかなと。
カズオ・イシグロのデビュー作の小説をもとにした映画です。

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個人的には今のところ今年の邦画No.1といえるぐらい出来がよかったなと。
まだの方はこの記事を読まずに映画館にいってほしいかも笑

色んな方のブログ記事を読ませてもらいましたが、
この方のnoteに個人的に思うことがあったので紹介。

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自由に動き回る大きな蜘蛛に惹かれ、捕まえようとする万里子の姿が映画「泥の河」の喜一(きっちゃん)が重なった。喜一もまた、売春をする母と川沿いで暮らしている。

そうなんですよね、同じことを思っている人がいてびっくりしました。
自分は映画を見る前にAudibleで原作小説を聴いてから映画を見ましたが、
小説を終えた段階で、「あれ?これもしかして」という予感を感じてはいました。


ここから先は※ネタバレ注意 なので小説・映画 未読の方はご注意を。

遠い山並みの光カズオイシグロ 泥の河 宮本輝 映画版感想

宮本輝の『泥の河』。
僕自身、大阪・湊橋のたもとにある文学碑にもいったことがあるぐらい好きな小説だったり。

『泥の河』の映画については、8年前に「午前10時の映画祭」でみた感想を書いてたなそういえば。

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やっぱりあの世界観ですよね。僕が知っている昭和40年代の福岡もまさにあんな感じだった。あるある感がハンパない。子供の視点でずっと語られているんだけど、その子供が何となく感じている“闇”がちゃんと伝わって来る。両親が抱えている闇、店に来るお客さんから感じ取る戦争の傷跡。そして、友だちになった少年とそのお姉さんが秘めている闇。直接的な描写は極力抑えつつ、ちゃんと伝わって来る。

これも大阪と長崎の違いはあれど、両作品に共通する世界観。

 

小説『泥の河』と『遠い山なみの光』の共通点として気になったのはこの辺り。

・どこか不思議で行動が読めない子供

・体を売って生活している母

・幽霊/お化け(鯉)

・川のモチーフ

・うどん屋

・橋の上や橋のたもとのシーン

・地元のお祭りのシーン

・猫殺し/蟹殺し

 

"心の中に閉まっている、他人には明かしようがない過去の記憶"

"戦争と終戦を経て人生を決めた大人たちの移ろいゆく傷とためらい"

みたいなテーマは、どちらも全体を貫いていると思う。

 

語り口は違えど、
「子供が親や戦争世代の傷を覗き込んでいく」
という物語の形式もほぼ似た構成なので、これは・・・と思っちゃいますよね。

あと小説版では、うどん屋、うどん屋とやたら強調されていたように思えるのは気のせいではないはず。

 

yamdas.hatenablog.com

カズオイシグロが選んだ映画に『泥の河』への言及はないですが、

・太宰治賞を受賞した日本人新人作家の作品が映画化された

・ヨーロッパでも高い評価を得ている日本映画

・スピルバーグ監督も絶賛

となると、イギリスから日本の作品を取り寄せていたというカズオイシグロ氏が見てないわけはない、と思うんですがどうでしょう?

 

時系列としてはこんな感じ。(間違ってたらすみません)

1977年:宮本輝が小説『泥の河』を発表

1981年:木村プロダクションが映画『泥の河』を

1981年:モスクワ国際映画祭銀賞を受賞

1982年:カズオ・イシグロが『A Pale View of Hills(「遠い山並みの光」原著)』を発表

1982年:アカデミー賞外国語映画賞にノミネート

 

イギリスで公開された日が見つからなかったのですが、
1981年の段階でヨーロッパ各国で上映されていた様子。

影響されたと考えるのも不思議じゃないですよね?

また、この映画『泥の河』は小栗康平監督の処女作。

宮本輝、小栗康平、カズオイシグロという
3人の処女作、という共通点もなんか見過ごせないなぁという感じ。

 

実際、原著『A Pale View of Hills』(英語版)でも「muddy」という言葉が何度か登場していて、全体的に"目くばせ"みたいなものを感じずにはいられないし。

(映画『泥の河』の英語タイトルは『Muddy River』)

 

カズオ・イシグロさんはわりと他の作家の作品を模倣する人でもあったり。

ranunculuslove.hatenablog.com

英国作家イアン・マキューアンといえば、カズオ・イシグロの、イーストアングリア大学時代の先輩ということで、以前から気になっていました。本作は、家族の死体遺棄や、近親相姦などのショッキングな内容ではありますが、不思議と後味は悪くありません。
そしてなんと、カズオ・イシグロ初期の短編、Getting Poisoned (1981) は、この作品のパクリだと言われています。
イシグロはそれを認めていて「意識的に実験した」「イアン・マキューアンの物語を書こうとした」と述べています。イアン・マキューアンのことは、非常に流行に敏感な作家だと賛美し、当時はかなり影響を受けていたと思われます。

カズオイシグロは、わりと他の作家の要素をサンプリングするタイプの作家で、

 

もしカズオイシグロが映画『泥の河』を見て小説を書いたのであれば、
イシグロ氏はこの映画をみて大満足だっただろうな、と。

 

『遠い山並みの光』に戻って、

箇条書きで、少し本筋とはずれたような感想をざっくりと。

・原作では分かりにくかった"原爆二世"的な描写がはっきり書かれているのが◎

・長崎の祭りに関しては全然詳しくないのですが何のお祭りなんですかね?

・猫を水に沈めるシーン、も『泥の河』の蟹を燃やすシーンぐらい派手にやってもよかったかも?
(蟹ではできたとしても、動物愛護的な猫は厳しかったのかもだけど)

・万里子が蜘蛛を食べようとするシーン、原爆の放射能的なことに言及しようとするの
ちょっと安直じゃない?と小説版にも映画版にも思ってしまった

・ニューオーダーの「Ceremony」、歌詞もあいまってすごくよかった。EDでも流れると思ってなかった。

・長崎の土地勘がわかっていたらさらに理解できる部分があるのかも

という感じ。

 

はてなブログで映画版『遠い山なみの光』の感想を書いている方がおられたのでいくつか参考に載せておきます。

ranunculuslove.hatenablog.com

しかし、この映画のテーマは、「今だからちゃんと伝えないと」ということだったかと思います。これは映画の中のニキの発言でもあり、イシグロ氏本人の言葉でもあるようです。

 

echosan117.hatenablog.com

福岡に帰る義父の緒方さんにオムレツ入りの手作りのお弁当を手渡し「私たちは、変わらなければいかんとです」(方言、間違っていたら失礼)と言う悦子、「オムレツぐらい一人で作れるようにならないとなあ」と言う緒方さん。
戦中と戦後を生き抜いた人々の大きな価値観の転換の中での葛藤が感じられる心に残るシーンだった。

 

saebou.hatenablog.com

一方で80年代だとイギリスにはまだ戦争のせいで日本を憎んでいる人がけっこういて…みたいな、現代の日本人はあまり意識していない加害者としての日本に対する憎悪もさらっと出てくる。一見、幸せそうに見える結婚生活にチラチラ見える夫の身勝手さとか女性抑圧などがどんどん不穏になっていくあたりもイシグロっぽい。

 

yamdas.hatenablog.com

ワタシの両親が十代だった時代の故郷が舞台のひとつである文芸映画を観に行ったつもりが『ファイト・クラブ』なのに衝撃を受けた、みたいな。何度か主人公が目撃する黒づくめの女性の正体(?)が分かるところなど、ほとんど『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』の「首折れ女」だった。

 

www.catapultsuplex.com

音楽もまた、映画の心理的な風景を形成する上で重要な役割を担っています。特に象徴的なのは、冒頭で長崎の風景から1980年代のイギリスへと場面が転換する際に流れるニュー・オーダーの『Ceremony』です。この選曲は、現在の時間軸を特定の文化的な時代に位置づけると共に、過去の日本の音風景との鮮やかな対比を生み出します。エツコが経験した文化的な隔たりを聴覚的に強調しているのです。こうしたポストパンクの楽曲と、ポーランドの作曲家パヴェウ・ミキェティンによるメランコリックな劇伴音楽との組み合わせが、作品全体の複雑な感情の層を形成しています。

ジョイ・ディビジョンのイアン・カー ティスの死因が景子と同じく首吊りだったというのも選曲の理由の一つだろうなと今気づいたり。

 

素晴らしい作品は、時を越え、形を変えて受け継がれる。
そんなことを感じる映画だったかなと。

俳優さんの演技もさすがで、よく本格派の人をここまで集められたなと感心。

映画館、まだ間に合うので、見てない方はぜひとも。

nejimakinikki.hatenablog.com