それじゃあ補足ということで天城が横須賀にいた頃のエピソードをひとつ。
天城が係留されていた場所の真横に小海岸壁(12号バース)というところがあります。
ここに燃料不足のため浮き砲台となった長門が係留され、終戦の時まで並んで過ごしていたのです。
その様子を米軍が写真で記録していますので、以下紹介しておきます。
空襲直前の偵察写真1(戦略爆撃調査団資料より)
(中央の桟橋が天城で松型駆逐艦が横付けされている、そしてその上に長門)
空襲直前の偵察写真2(wikipediaより)

(別の機による撮影。左上に長門が写されている)
空襲を受ける長門1(戦略爆撃調査団資料より)

空襲を受ける長門2(戦略爆撃調査団資料より)
1945年7月18日の空襲
この時点では至近弾のみだがこの直後艦橋に直撃弾で中破状態となる(機関は無事)
この10日後、呉の大空襲により停泊していた戦艦が軒並み着底し
戦艦においては長門のみが唯一行動可能な状態で終戦の日を迎えることになりました。
そしてその翌年、生き残った長門はビキニ環礁においての原爆実験のため横須賀を離れます。
横須賀出港のため海上にて整備を受ける長門(国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスより)

1946年2月20日撮影、下方にはかつてのライバル、アイオワ型戦艦が鎮座している。
そしてこの一ヶ月後の3月18日、長門は二度と帰ることのない航海へ乗り出しました。
残された天城は奉公先を米軍に変えた後、2003年に至るまであの場所に佇み続けました。
長門が日本における最後の時を過ごした横須賀の地で
同じ八八艦隊として威容を放つ存在になっていたであろう天城が
形を変えど並んで存在し、見送る形になったことにはなにか感慨深いものを感じます。













