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ねる子 @100hGamers

昔、ある禅僧に「自分探しをしている」と相談したら、「探している自分と、探されている自分、どっちが本当のあなたですか?」と問われて絶句したことがある。 その時は意味がわからなかったけど、今思えば「私とは何か」を必死で固めようとする行為自体が、すでに二つの自分を前提にしているということだった。探す側の自分がいなければ、探される自分も存在しない。 結局、「自分とは何者か」という問いへの答えは、問いそのものを手放すことではなく、問う自分と問われる自分の両方を同時に見られるようになることだったのかもしれない。川の流れを見ながら、同時に川の中にいる感覚というか。

2025-11-13 12:51:17
かぽ @thecure2392

養老先生が「皆さんは無意識のうちに西洋近代的自我を教え込まれている」と指摘していたことがあったけど、キリスト教的な世界観というのは、天使のラッパが鳴ったとき、個としての“自我”を神の前に差し出せるように、自分とは何者であるかを明確にしなければならず、「確立された一つの自我」を求める文化的要請が内在化しているということ。 その内在化した自我観が「私はどういう人間なのか」「何者として説明できるのか」「何者かになって何かを生まなければいけない」という焦りを生み、日常の選択からキャリア、アイデンティティに至るまで、絶えず“自分という物語を固めろ”という無言の圧力をかける。 重要なのは、自我を手放すことではなく、自我をむしろ鍛えつつ、その自我を相対化できるメタを同時に保つことで、養老先生が言うような「西洋近代的自我」の枠組みにはまると、固定された“私”を必死で作らなきゃいけないという焦燥が生まれるが、その焦燥そのものが、自我を一枚構造で理解してしまっていることから来ている。単層しかないと、私はこうあるべき、私はこうでなければならない、他人もこうであるべきという固定化が起き、自我の硬直や単層性によって苦しみが生まれる。 成熟した自己というのは、自我の一枚目を消すのではなく、自我そのものを二重化する方向に発達していく。一次の自我は「私はこう感じている」「私はこう思う」と世界に能動的に関わり、判断し、責任を取る主体として働く。その一方で、二次の自我(メタ自我)は、それらの反応を「いま自我はこう動いている」と外側から静かに見ている層として並行する。 この二重化が生じると、「私はこうだ」という一次の主張の内側に、「でもそれは状況や状態によって変わりうる」という自己相対化の働きが同時に存在するようになる。つまり、自我の内側に“自らの否定可能性”が包摂される。自我は硬直せず、かといって消えてもいない。柔らかく、それでいて折れない主体が立ち上がる。 ここで“自我を非自我と相互に包摂させる”という感覚が生まれ、自我は確かに自分という中心だが、同時にその中心は世界との関係性の網の目の一点でしかなく、他者もまた同じように中心を持つ存在である。主観としては、自分が中心である感覚と、世界には無数の中心が存在するという理解が矛盾せずに並ぶ。これはライプニッツのモナド論に近いが、より身体的で経験的な理解として成立している。 その状態が開けてくると「ただ私はそこにある」という在り方が、空っぽでも無責任でもなく、むしろ固定化された自我の緊張から自由になった自然な主体のありようだとわかる。

2025-11-13 12:05:14

くん君 @hetarouken

@100hGamers 禅僧が「禅宗は哲学だ」と言ってましたな

2025-11-14 07:33:47
かしみち @mkassyya

@100hGamers この会話だけでも禅問答のようですね…

2025-11-14 08:20:24
ハクセキレイ@巡視船 @letsgojcgcom

@100hGamers その禅僧は『十牛図』を元に問われたのでは?同図は悟りを牛に例え、牛を探す人の様子を描いています。面白いことに牛を見つけ家に連れ帰った後、人は牛のことを忘れてしまいます。何故なら悟りは元々自分の中にあるものだから。さらにその先は…Wikipediaでどうぞ(笑) ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81… pic.x.com/MYKAQKWNcY

2025-11-14 06:54:32
リンク Wikipedia 十牛図 十牛図(じゅうぎゅうず)は、悟りにいたる10の段階を10枚の図と詩で表したもの。「真の自己」が牛の姿で表されているため十牛図といい、真の自己を求める自己は牧人(牧者)の姿で表されている。十牛禅図(じゅうぎゅうぜんず)や牧牛図ともいう。作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)。 廓庵以降、十牛図は世の中に広まっていたとみられるが、十牛図の作例はそれほど多くないとされる。よく知られている作例としては室町時代前期の禅僧の絶海中津が描いた十牛図(相国寺蔵)、室町時代中期の画僧の周文が描いたと伝え 61 users 814
せな @fortiesmap

@100hGamers とても美しい内省ですね。禅僧の問いが示しているのは、自己というものを掴もうとする態度自体が、すでに分離を生み出しているという洞察ですね。

2025-11-14 00:41:02
@uro_y21

禅って「自我からの解放」が主体の思想だから、「本当の自分」とやらを客観の二元論を俯瞰する第三のメタ視点に置いているあたり、禅僧の言葉を変に解釈しているのではないだろうか。 本当の自分なんて固定されたものはなくて、身も心も落ちた時に、そこに世界があるだけなんだよな。 x.com/100hGamers/sta…

2025-11-14 05:55:37

「どっちが本当のあなたですか」

マック @WWJ0MvGCs060174

@100hGamers どっちが本当のあなたですか?と言う問いがほぼ答えになってる気がします

2025-11-14 08:27:47
IKETANI Hiroyuki @erik_space

@100hGamers どちらも自分です と答えるかな

2025-11-14 07:25:51
ABNRY ྀི @twirich_a

@100hGamers @jzQfKVJkA7G7EsD 今の自分が本当の自分なんだからそれを受け入れろ、ということかと思った。どうなりたいかは今の自分を受け入れ肯定してからでないと始まらない。

2025-11-14 02:26:26
方寸 @sakaguchiangono

@100hGamers 二重化、多層化からの単一化、そしてまた二重化へ。そのうち考えることがめんどくさくなる。思考停止が上手くなる。

2025-11-14 05:52:10
煩囊 @Kinbarakenji

探している自分と探される自分に気づいた自分とそれを観察する自分と目を背ける自分も自分がいなければ存在できない自分。 x.com/100hGamers/sta…

2025-11-14 08:30:36
Min² @min2bdsm

面白いですね。複層でメタ視点から自我(自分)を見つめる機会は実は社会生活の中に溢れていて家族や友人や同僚から向けられた言葉を素直に受け止める謙虚さを保つことが自我(自分)を知る近道なのかもしれませんね。自我(自分)は他者との関係性に於いてしか認識できないものだとも言われますね。 #notes x.com/100hgamers/sta…

2025-11-14 08:27:17
みっちぃ~・てぃ~ @micchy_T

理性と感性。 この二重構造の間にいるのが自我だと思ってる。 客観と主観に置き換えても良い。 この二つは互いに反発しあう関係性にあって同時に繋がってもいる。その間を繋ぐのが私。 x.com/100hGamers/sta…

2025-11-14 07:06:53
あこひき昭彦@おとぞ。 @akihiko0120

演者(教師、セラピスト、芸能人など)は、『演じている自分』と『それを俯瞰で眺める自分』の2つの存在を意識するので、それに近いものがあるのではと感じていたり 時にどちらが本当の自分なのか分からなくなり不安定に陥ることもあり x.com/100hgamers/sta…

2025-11-13 22:36:17
ちゅらちゃん @RIILN0qcIpZuefQ

探されている自分というのは、確かにここに存在している自分自身のことなのにな…。ここにいるのに見えてない。もっと自分で自分のことを見てあげないとな〜。 x.com/100hgamers/sta…

2025-11-13 22:48:04
つちのした @Tsuchinoshita01

無意識のうちに二元論に陥っているところ状態、相対性を止滅させる。仏教の無我論は何層にも重なった自分の要素のどれかを我として肯定するのではなく、むしろ内包された要素は全て自分であり、全て自分でない、つまり相互独立性もしくは空を認識する事で無我(非我)を認める。だから色即是空なのだ。 x.com/100hgamers/sta…

2025-11-14 02:59:29
やさしいポエム @Instagrammania3

@100hGamers 「どちらが本当か」を決めるんじゃなく、両方を抱えたまま歩けるようになる。答えというより、生き方そのものに近い問いなんですね。

2025-11-14 07:11:55
雪舟市長 @CmFRy8Sr3FYcdTj

@100hGamers 「本当の自分」を見つけるという前提そのものがすでに錯覚 探す自分と探される自分が同時にある時点で、私たちは一つの正体を持つ存在ではなく「流動し続けるプロセス」です。 答えは 「問いかける自分」と「問いかけられる自分」両方を見つめながら 揺らぎを抱えて生きていくことですね。

2025-11-14 07:19:41

自分探し

にゃん吉🐈‍⬛🍰⛩🧋🍨🗾🟠💩 @96s13549528

自分探しって「自分は自分でここにいるんだけど、電波が悪くてつながらないので電波がつながるところに行く」というイメージだよね。 行ったこともない旅先に何故か本当の自分がいると本気で思ってる人はいないと思う。 x.com/100hGamers/sta…

2025-11-14 02:01:05
狸穴(まみあな) @nouha_control

僕は中3のとき塾の先生に「他のどこにも『本当の自分』なんてのはいない。いまそうやって、どこかにいるのかもしれないって探してる君自身が『本当の自分』なんだよ」って言われたな… x.com/100hGamers/sta…

2025-11-14 09:11:45
四谷代言 @yotuben

@100hGamers まさに『公案』を与えられたのですね 『自分探し』という『迷い』の中にいる人に 『自分探し』という『問』が正しいのかという『迷い』を与える質問でもあり 『自分探し』に対する答えそのものでもあるという その禅僧の方は素晴らしい『導師』ですね

2025-11-14 08:39:54
作成・編集
Togetter編集部

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