ネット越しに見た大阪・関西万博、印象に残ったのは…情報を発信する力と発信の欠如

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編集委員 片山一弘

 大阪・関西万博が終わった。筆者は残念ながら訪れることができなかったのだが、閉幕の翌日、ミャクミャクのグッズでも買おうかと東京駅に近いビルの中のオフィシャルストアを訪れたら、フロアの端から端まで長蛇の列で驚いた。この売り場には開幕前から何度も行ったが、以前は行列など無縁だった。開催の前後でこれほど評判が変わった催しは珍しい。

 万博の米国館では月の石が展示された。今回はそれほどでもなかったようだが、1970年(昭和45年)の大阪万博では最も人気のあった展示物である。

東京・銀座をパレ―ドしたアポロ11号の飛行士たち(1969年11月)
東京・銀座をパレ―ドしたアポロ11号の飛行士たち(1969年11月)

 その前年の69年7月20日。「これは人間の小さな一歩だが、人類の巨大な飛躍である」との言葉とともに、ニール・アームストロング船長が人類で初めて月に立ち、世界中が沸き立った。同行した2人の飛行士を含めたアポロ11号の3人は、帰還後に世界22か国を訪問し、大歓迎された。

 だが、その興奮は米国でさえ長くは続かなかった。71年のアポロ14号では、月着陸のテレビ中継について「一度見ればたくさん」「カラー中継などは大きなムダ」と話す米国民の冷淡な声が、当時の読売新聞に紹介されている。米国はベトナム戦争が泥沼化した時期で、宇宙開発への関心は薄れていった。予算は減らされ、20号まで計画されていたアポロ計画は17号で打ち切られた。

 結局、事故で月着陸を断念した13号を除いて、アポロ計画では11号から17号まで計6回、12人が月に降りた。今回の万博で展示されたのは、17号の最後の月着陸で採取された石だ(70年万博は12号の石)。

 あれほど熱狂した国民からも、時間がたてば「税金の無駄遣い」と批判される。70年万博と今回の開幕前の落差を見るようでもある。

 始まってみれば今回の万博も盛り上がった。東京から眺めていた筆者にとって、最も生きの良い情報源はSNSだった。訪れた人たちが競うように感想や写真、動画をネットに上げ、それぞれの自分なりの楽しみ方が、ネットを通じて共有されていった。

大阪・関西万博の大屋根リング
大阪・関西万博の大屋根リング

 もうひとつ、印象深かったのは当事者たちの発信だ。大屋根リングの生みの親、会場デザインプロデューサーを務めた建築家の藤本壮介さんは、開幕以前からSNSで万博や大屋根リングの意義を語り、批判や誤解に対し丁寧に説明を重ねた。自身の仕事の意図や実情をネットで語り続けた関係者は何人もいた。

 それで批判や非難がゼロになったわけではないにせよ、彼らを応援する声は、万博を訪れた人々を中心に、着実に増えていった。

 当事者が、顔の見えるやり方で粘り強く発信し続ければ、SNSのような荒々しい場でも、多くの理解者を得られるという事実は、ネット社会のひとつの希望のようにも感じられた。東京・六本木の森美術館で7月から11月初旬にかけて開かれた展覧会「藤本壮介の建築:原初・未来・森」が盛況だったのも、そんな現象と無縁ではないだろう。

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