シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

害獣が当たり前に侵入してくる地方生活と、クマが揺さぶる社会契約の論理

 
www.nikkei.com
news.yahoo.co.jp

 
クマ害に悩む秋田県で、とうとう自衛隊要請が出た。
上の記事によれば、自衛隊による駆除自体は法的権限からみてできないと認識したうえで、自衛隊にしかできない仕事を要請するという。下の記事によれば、防衛省は派遣の方向で考えていると。
 
地方都市に住んでいる私にとって、秋田県の報道は他人事ではないから動向は気になっていた。ただし、今年の秋田県の報道を眺めているとスケール感が違うというか、東北地方のクマの出没頻度と被害が桁違い過ぎて驚くしかない。
 

 
ところが、田中淳夫『獣害列島 増えすぎた日本の野生動物たち』によれば、本来、江戸期から日本列島では獣害があるのが当たり前で、19~20世紀にかけて獣害が少なかったほうが特別なのだという。
 

……時代をさらに遡り、江戸時代の様子をうかがうと、現代とまったくそっくりな、むしろ今以上に獣害が苛烈を極めていた状況が浮かび上がる。
『鉄砲を手放さなかった百姓たち』によると、江戸時代は武士より農民のほうが鉄砲を持っていたそうだが、その理由は獣害対策だった。
この本では農山村から出された多くの行政文書から実例を紹介しているが、なかには「田畑の六割を荒らされた」「作物が全滅した」という嘆願書が並び、年貢が納められなくなって大幅に減免してもらった記録もある。だから、藩や代官に駆除のため鉄砲の使用を願い出ているのだ。
『獣害列島 増えすぎた日本の野生動物たち』より

同書によれば、1772年には秋田藩は藩をあげて大規模な害獣駆除を行い、27000頭の鹿を獲ったという。害獣が大量に出現し、人間の生活の脅威になっている状況下では害獣を直接駆逐する力が必要になる。その一端が農民自身による鉄砲の使用で、その一端は藩をあげての害獣駆除だったのだろう。
 
このほか、八戸藩で起こった猪飢饉の話や、1700年にスタートし全島からイノシシと鹿を駆除した対馬藩の害獣駆除の話など、すぐに調べて出てくる江戸時代の獣害と獣害対策の話はスケールが大きい。当時の獣害は、その地域の生活に加えて、主要産業をダイレクトに脅かすもの、もっと言えば租税に直接響くものだったから、本腰を入れて対処したのはわかる気がする。
 
現在は大都市圏はもちろん地方都市においても農林水産業は主要産業……とはいいがたい。それでも生活をダイレクトに脅かす点ではさして変わらない。他方で、地方と地方都市は長年の過疎化や大都市圏への主要産業の集中などもあって衰退している。だから里山が荒廃して人と獣のニッチが重なり合うようになったとも言えるし、県庁所在地にまでクマが降りてくるようになり、それを妨げるものが何もなくなってしまったとも言える。
 
 

クマの出没する生活圏

 
ところで、今年のクマ害の報道をとおして、「害獣の出没する生活」、特に命や財産が害獣に脅かされる生活について我が身を振り返ることも増えた。
 
北海道や東北地方に比べれば知れているが、私の住む地域でも獣害は頻繁に報告されている。イノシシや猿に作物を荒らされたり、鹿に衝突してしまったりはぜんぜん珍しくない。
 
クマの出没情報もよくある。私の生活圏内でもクマの出没情報は年に何回もあり、つい先日もクマが出たから気をつけろと情報が回ってきた。クマが出るのは人口密度が低いエリアや山間部だけでない。ターミナル駅や繁華街のすぐ近くまで降りてくる。イノシシや鹿や猿はニュースにすらならない。


 
前島賢さんが、「クマに怯えず学校に通える(た)連中に何がわかるんだ」と書いていらっしゃったけど、学校を卒業してもクマをおそれる生活は変わらない。なぜなら、近所のコンビニに行く途中で「森のクマさん」しちゃうかもしれないから。クマが目撃される場所と私たちの生活圏は完全に重なり合っている。地方は自動車で移動する機会が首都圏より多いから、自動車を使えばクマに襲われる心配は少なくなる。しかし「クマに襲われるかもしれないから」という理由で近くのコンビニに出かける時まで自動車に乗るということ自体、クマに怯える生活に他ならない。
 
私自身は、山の動物たちが私たちの生活圏に降りてきている度合いがドシドシ高くなっているのでは? と感じている。なぜならキツネやタヌキに近所で遭遇する場面が明らかに増えているからだ。
 
00年代前半ぐらいまで、私の地域ではタヌキはともかくキツネは山間部まで出かけなければ出会えないと言われていた。実際問題、00年代に私がキツネに出会ったのは山間部の、夜は人が住んでいないようなエリアだ。ところが近年、キツネが何食わぬ顔をして近所をうろつきまわっている。キツネは犬にも似ているが、絶対に見間違えないのはあの豊かな尻尾だ。立派な尻尾のキツネたちを、近所の道路や公園で年に一度は見かけるようになった。タヌキの遭遇頻度はそれよりずっと高い。自宅のすぐそばの道端でタヌキの糞を見かけたり、タヌキのペア(親子?夫婦?)にばったりと出会ったり。
 
こうした遭遇は昼間よりも夕方~夜にかけてが多い。夜の地方郊外は彼らにとってうろつきやすく、競合する動物がいない場所なのだろう。野良犬が減り、屋外飼育の犬も減り、野良猫すら少なくなった地方郊外は、クマはもちろん、キツネやタヌキと競合する動物すらほとんどいない。人間も、そうした動物たちに襲い掛かるではなく、遠巻きにするだけになった。そのうえ里と山の境界線が緩くなってくれば、野生動物が人里に闖入してくるのはそりゃあ「自然」なことだろう。
 
 

「自然」は社会契約を、法を忖度しない

 
しかし人里、いや、都市は、そうした「自然」を受け付けない空間だ。都市は「人間」のものであり、「人間」の道理で成り立ち、「人間」の法に基づいて成り立っている。そこに「自然」が闖入してきた時、「自然」は「人間」の道理を忖度しない。
 


 
そうなるとどうなるか。
上掲ポストは少しネタっぽさがあるけれども、案外、笑えないと私は思った。「人間」の道理で成り立っている都市の安全は、人間自身が銃で武装したり帯剣したりして成り立っているわけではない。都市では暴力を国家が独占していて、市民は暴力で(自助的に)事態に対処してはいけないことになっている。実際、銃刀法のような法律をとおして市民は武装解除させられているし、殴り合いの喧嘩や決闘もやってはいけないことになっている。
 
では、都市において暴力を差配し市民に代わって代行するのは何か? それは近代警察組織だ。社会契約の論理に基づき、市民に代わって暴力で事態に対処すべきは警察、さらには(軍隊や自衛隊も含めた)国家ということになっているはずだ。であれば、都市で暮らす(いや、山のなかの一軒家で暮らしていたとしても)市民の命や財産を守るべきは第一に警察組織、第二に自衛隊であるべきで、市民がさすまたや素手でクマに立ち向かうよりは警察機構がさすまたや素手でクマに立ち向かうほうが道理にかなっている。
 
もし、それが警察機構や自衛隊にできないとしたら。それは社会契約の論理の実践上の後退ということになるし、警察機構があてにならない・できないなら、市民は自衛のための武装を余儀なくされるだろう。クマを自然災害のようなものとみなすことも可能だろうけど、その場合も、クマが法を守ってくれるわけではない点、台風や豪雨とは対処法がかなり異なっている点、人間に直接暴力をふるい、人間を直接破壊する点には留意しなければならない。
 
クマが街に出没するとは、話の通じない通り魔のたぐいが出没することにかなり近い。少なくとも私と私の周辺はそのように感じている。そうしたフィーリングを、どうか大都市のド真ん中のお屋敷やタワーマンションに住んでいる人々にも共有していただきたいし、そういう目線で地方のクマ出没のニュースについて議論を進めていただきたいと、私は願わずにいられない。そしてクマがこれ以上社会契約の論理をゆっさゆっさと揺さぶらないよう、早急に法制度を現実に追いつかせ、「人間」の世界に闖入してくる「自然」に断固とした対抗措置をとっていただきたいと願う。
 
 
 
私は、霞が関の人々が秋田県を見捨てるのではないかと心配していたが、そうした対抗措置のひとつとして防衛省から前向きなメッセージが出たのを私はうれしく思った。これから先、地方と地方都市はもっと衰退し、放置すれば獣害が増えるのは避けられないよう思われるので、中央集権国家の真ん中らへんにいらっしゃる人々にも危機感を共有していただきたいと願う。
 
 
……ついでに少しグチグチと書くと、「クマがかわいそう」などといった、地方の暮らしよりもクマのほうがかわいくて仕方ないらしき人々の声が大きくならないように私は期待するし、そうした声が小さくなるよう私自身も努めたく思う。私は「人間」の道理が通じず、にもかかわらず「人間」の道理で動いている空間にまで闖入し人間の命や財産を脅かす害獣は駆除すべきと考える。それから私は、クマよりもクマに闖入されてなすすべなく傷つき、財産を失う人間のほうをかわいそうだと思う。いや、かわいそうというのは適切な表現ではないな、気の毒だし、理不尽だし、痛ましく思う。なにより、私や私の知人友人にとってぜんぜん他人事ではない。
 
人間が、自衛が許されない社会契約のもとに置かれているとしたら、話が通じず暴力をふるう害獣から(中央集権国家をとおして)ちゃんと守られてしかるべきだ。