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NHKの放送100年特集ドラマ原作にして、世界のエンタメSFに比肩しうる壮大な長篇──『火星の女王』

火星の女王

火星の女王

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この『火星の女王』はNHKの放送100年特集ドラマ「火星の女王」の原作にして、『君のクイズ』や『地図と拳』で知られる作家・小川哲によるSF長篇だ。小川哲は今年でデビュー10周年だというが、デビューは早川書房が主催するSFの長篇新人賞「SFコンテスト」への受賞作『ユートロニカのこちら側』からだった。

その後、早川書房で第二作にしてカンボジアの歴史と未来をゲームで統合した骨太のSF歴史長篇『ゲームの王国』で日本SF大賞受賞、山本周五郎賞受賞と新人作家としての力量、そして評価を確固たるものとし、その後は短篇集も挟みながら様々なジャンルでその才能を開花させてきた。そのどれもが方向性は少しずつ異なるにもかかわらず傑作で、現在30代の日本の作家としては最大の注目株といえるだろう。

そんな小川哲の最新作が、NHKの放送100年特集ドラマ、それも火星が舞台のド直球のSFなのだから、期待するなという方が無理だ。一方でドラマ原作ということで、制約も制限もあるだろうし──と期待と不安が半々入り混じった状態で読み始めたのだが、いやーこーれは太鼓判を押せるレベルでおもしろい。ドラマ原作だからいろいろ控えめなのでは……といった不安を消し飛ばすように、火星に人が入植し定着した未来を舞台に、「火星の探査ドローンの資源の取得結果がズレている。」といったド直球のSF&地味な情景・設定描写からはじまり、なんてことのない発見だと思われたそれが火星と地球の関係を一変させる──と、これを本当にNHKが実写ドラマにできるのか?? と心配してしまうほどの速度でスケールが拡大していく。

火星が主な舞台なのでアンディ・ウィアーの『火星の人』は想起されるところだが、火星における地球外生命体の有無が重要な要素として持ち上がってくることから『プロジェクト・ヘイル・メアリー』的な魅力もあり、「火星と地球」という惑星単位の物語であることも手伝って、世界に誇れるエンターテイメント大作に仕上がっている。単巻、それも300ページちょっとで話がまとまっているのも良い。

世界観など

物語の舞台は火星への移住をはじめてから40年程度が経過した未来。火星には13のコロニーが建造されているが、火星への移民計画を主導してきたISDA(惑星間宇宙開発機構)が地球帰還計画を採択し、人類の火星からの撤退がはじまっている。

わざわざコロニーを13個も建造したのに撤退を? と思うかも知れないが、当初惑星間ロケットやコロニー建設の費用は火星とその周辺で採掘できるレアメタルで回収する試算だったのが、採掘のしすぎによる価値の低下をもたらした。それだけでなく、火星で栽培できるはずの植物は栽培できず、精製できる薬品も精製できず、不足した食料や医薬品を地球から運搬するには莫大な費用がかかり、燃料価格も上昇。リサイクル技術の発達でレアメタルの価値が下がり、まとめていうなら「火星は採算がとれない現場になってしまった」のが、火星からの撤退が決定した理由なのだ。

あらすじ

とはいえ、火星にはただ資源を採掘するための人材だけがいるわけではない。物語は複数の登場人物を中心にして展開していくが、その中でも中心となるのが生物学者のリキ・カワナベだ。彼は明確に「地球外知的生命体が存在する」という主張の持ち主でその証明のために火星にきているが、今のところその兆候は掴めていない。

しかし、探査ドローン「AD134M」の発見報告に小さなズレによるエラーがあったことから物語は大きく動き始める。具体的には、この探査ドローンは火星上に存在する新物質や火星由来の生命の痕跡になりそうなものを採取し、射出ポッドで輸送しているのだが、ドローンの採取時と射出ポッドでの簡易検査時に採取物(らせん構造を持つ耐放射線物質のスピラミン)の構造が一致しないエラーが出たのだ。

普通に考えたら簡易検査プロトコルのバグにすぎないが、いくら調べても原因がつかめない。最終的に「ドローンと射出ポッドの双方の簡易検査にバグはない」という結論が出るが、これはつまり「スピラミンがドローンと射出ポッドの間を移動する最中に自発的に形を変えた」ことを意味しており、実際にスピラミンを観察することでスピラミンの結晶構造が変化する瞬間を捉えてしまう。それだけなら「すべてのものは変化するからそういうこともあるわな」で終わるかもしれないが、重要なのはこのスピラミンの結晶構造の変化が、「グループ内の複数個かつ距離がどれほど離れていても観測できる最小時間単位で同時に」結晶構造を変化させるという事実だった。

つまり、スピラミンは何らかの形で光速を超えて結晶構造の変化を同期させているようなのだ。これは重要な事実で、「同期している」だけで制御・干渉できないのであれば量子もつれのようなもので超光速通信には利用できなさそうだが、仮にスピラミンの情報伝達手段が解析できれば、これまでの科学を覆す技術となりえる。

地球外生命体探査✗超光速通信

発見者のリキ・カワナベは自身も所属するコロニー13──最後に建設されたコロニーで、ここだけは火星から撤退しないと宣言している──の代表であるマディソンに報告すると、すぐに記者会見を開くという。科学的にほとんどのことは明らかになっていないとうろたえるカワナベにたいしてマディソンは有無も言わさず記者会見に臨み、『──私たちは、新種の生命体を発見したと考えています』とぶちあげてみせる。

生命体であること、あるいは生命体が関与して発生している事象であることを確定させる根拠は存在していないからこれは完全なるハッタリなのだが、しかしマディソンは後にカワナベとそのハッタリの重要性について語ってみせる。

「(……)火星で宇宙人が発見された──その絵が大事なんだ。もしフェイクだったとしても、最悪の事態ではない。最悪の事態は、火星から夢がなくなってしまうことだ。今、こうしてみんなに夢が叶った絵を見せることができた。それだけでも価値がある」

本作の冒頭では、火星はもはや価値が失われ人類が撤退していく、夢が失われた場所だ。ただでさえ人類が住むには過酷な地であり、資源も価値がないときたら、火星に残る意義がもはや存在しない。しかし、地球外生命体や超光速通信の種がそこにあるとしたらどうか。撤退を決めたISDAが再度投資に前向きになるどころか、まったく別の組織・国家が大金をはたして火星を目指してもおかしくはない。

物語はリキ・カワナベとスピラミンにフォーカスが当たるだけでなく、火星生まれの少女リリ-E1102の誘拐事件やスピラミンのアンブルの盗難事件、さらには地球から火星の独立騒ぎまでもが持ち上がって、それらの要素がすべて密接に絡み合いながら、事態は混沌を極めていく(「火星の女王」もその過程で明らかになる)。

火星人と地球人はひたすらに疑念と相互不信の中にいるが、それはやはり最接近した場合(5800万kmぐらいか)でも通信速度に片道4分以上かかる環境、「光が遅すぎる」ことに一因があるのは間違いない。そうした地球と火星の相互不信が強まっていく過程、および「光速の限界性」が入念に描写されながら、「超光速通信」が社会をどれほど変えうるのかが各種事態と共に描かれていく、ド直球のSF作品なのだ。

おわりに

正直、盛り込まれている設定(たとえば火星の住民の大半は様々な恩恵と引き換えにタグを埋め込まれ行動ログを取得されているのだが、タグを入れずにISDAから軽視されているタグレスと呼ばれる人々もいる)やキャラクタが非常に魅力的な分、もう少し(上下巻とか)ガッツリこの世界を深堀りしてほしかったというのが正直なところだが、単巻でまとまっていることの良さもあり悩ましい。
https://www.youtube.com/watch?v=edQb1kxufLg
↑PVへのリンク(他のWebサイトへの埋め込みが禁止されているようなのでリンクのみで。)放送予定のNHKのドラマがどこまで原作通りになるかはわからないが、PVを見る限りではかなり良さそうなので、ドラマと合わせて楽しみたいところである。

余談

ほぼ同時に小川哲『言語化するための小説思考』も発売され読んだのだけど、こちらもたいへんおもしろい。小説の勝利目標を「読者を楽しませること」におき、そのために冒頭、文体の選択、文章の情報開示のコントロールを「どうすればいいか」ではなく「どう考えればいいのか」──と、小手先のテクニックよりも一歩深い部分に触れていて、これが欲しかった、と思う人も多いだろう。あと小説の冒頭を重視し、戦略的にこの『火星の女王』の冒頭シークエンスを構築しているのもよくわかる。

ここまでの話からわかるように、重要になってくるのは「冒頭」だ。作品の「冒頭」は、その作品がどのような世界を舞台にしているのか、どの程度のリアリティレベルなのか、語り手はどのような人物で、作品はどのように展開していくのか(あるいは展開していかないのか)、という様々な情報を読者と共有する場所になっている。だが、それらの「共有」よりももっと重要なのが、「今からあなたをどこへ連れていくのか」を伝えるという作業だ。作者にはどんな能力があって、これからどういう話をしようとしていて、(大まかでいいので)最終的にどこへ着地するのかを教える必要がある。
小川哲. 言語化するための小説思考 (pp. 48-49). (Function). Kindle Edition.