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やる気のない若手社員に合わせてやる気を削がれる不条理に耐える 小説『まだおじさんじゃない』【第三章・第四話】/鳥トマト

出版社・有幻社で漫画編集者として働く若林信二。担当作のアニメ化に際し、同社ライツ事業部の堅山賢一の“真っ当さ”に触れ、自らが人生の“周回遅れ”であると気づく。そして婚活アプリを始めてみるもうまくいかず、仕事では担当作家の面倒を見るうちに夜が更けていき……

第三章(若林信二編)・第四話「あなたのことを思って」

 月曜日の昼、烏丸編集長に呼び出され、俺は何らかの説教を覚悟した。編集長は、物腰はやわらかいが極めて効率的な男だ。子供がそろそろ中学受験とかで、夜もあまり残業しない。だから、編集長が意味もなく人をランチに誘うことは、まずないのだ。 「若林の担当作、相変わらずみんな調子いいじゃない。俺も面白く読んでるよ」 社食の入り口で褒められて、ありがとうございます、と俺は返事をする。 「それからあれ、ライブのチケットはごめん、経費にはならないかな」  編集長は社食でラーメンを注文しながらサラッと伝えてきた。なるほど、お説教はそれだったらしい。 「あとさ、深夜に三上くんにスラック控えてあげて」 「え?」  三上、というのは入社二年目で育休を取り、入社三年目にして時短で働いている男性編集者のことだ。 「そういうのも今ハラスメントだから」  編集長と俺は静かに席に座り、ラーメンを啜り始める。 「今度から、三上に連絡するときは、できるだけメールで、業務時間内にして。あと、俺もCCに入れてね」  経費精算、後輩へのスラックと、この短時間で二つも怒られてしまった。 「若林もそろそろ四十でしょ。もうこの編集部で俺の次くらいに長いんじゃないの? 成長しないとね」  編集長は気がついたらもう、ラーメンを食べ終えていた。速すぎる。たった十五分で俺に二つもお説教をした上に、ラーメンまで一瞬で吸い込んだ編集長。化け物だ。俺も、今以上に仕事をこなそうと思ったら、化け物に成長しなくてはならないんだろうか。  社食から編集部に戻るエレベーターのドアが開くと、少しタバコの残り香がした。俺の所属するビクトリアム編集部は十七年間、ずっと同じ階にある。入社したばかりのころは、まだ喫煙室が同じ階にあった。いつものフロアに来るたびに、十五年前の嫌な記憶が蘇ってくる。 「おい、若林、じゃなかったバカ林!」  入社二年目。その日は、朝の四時まで編集部のほとんどのメンバーが仕事を手放せずに席に残っていた。当時の編集長は、つきすぎた脂肪が重力に抗えずに体から垂れ下がっており、部員全員から密かにジャバ・ザ・ハット、略してジャバと呼ばれていた。  ジャバはまだ新人の俺を自分の席のすぐ横に立たせ、全員の前で叱責し始める。「お前の書いた記事ページ、面白くなさすぎるよ。全部書き直し!」  漫画雑誌には漫画のほかに特集記事のページがあり、それを作るのは伝統的に新人編集者の仕事だった。ジャバが俺の書いた原稿を印刷したものを持っている。  俺は目の前でジャバがツーッと紙を破っていくのをただ目で追うことしかできない。  周りの編集部員たちが「自分が今日の生け贄にならなくてよかった」と安堵しながら、ジャバと目を合わせないように下を向いている。誰も俺を助けてくれない。 「バカ林」  ジャバが妙に優しい声を出してくる。 「みんなの前で『俺は、無能です』って言ってみな」  俺はあまりの発言に固まる。 「叫んでおいた方が楽になるよ。実際にお前は無能なんだから。ほら言えよ」  そうして、俺は朝の四時に編集部全員の前で「俺は無能です!」と叫んだ。これが、このビクトリアム編集部における、「ハラスメント」の思い出だ。  深夜にスラックで後輩を指導するだけでハラスメント? 俺が知ってるハラスメントと違うんだけど? 俺だけじゃない。烏丸編集長だって、俺に近い感性を持っているはずだ。だって、ジャバが俺を全員の前に立たせて叱責しているのを同じ編集部でいつも聞いてたじゃないか。  自分が三上から、かつてのジャバみたいに思われたことがショックだった。俺はエレベーターホールから自分の席に戻ってパソコンを開き、腹いっぱいになった眠い頭で三上へのスラックを見返す。 そんなにきついことを言っただろうか。 6月14日(土) 00時02分 若林:三上、編集部に担当の新人漫画家から電話来てるよ! 三上:すみません週明けにかけ直します。 若林:今電話きたばっかだし、なんか、緊急みたいだから今かけ直した方がよさそうだよ。電話番号、聞いたから教えとくよ。あのさ、プライベートが忙しいのはわかるけど、作家から編集部に直電来るまで放置してるのはよくないと思うよ。LINEとか聞いたら?   スラックのチャットをどこまで遡っても、自分が三上にハラスメントと呼ばれるほどの強い圧をかけたとは思えなかった。俺が三上に深夜に連絡した動機、それはいつも善意百パーセントだったのだ。よかれと思って、まだ若い三上に編集者として成長してほしくて、アドバイスした。個人スラックだからみんなに晒しているわけでもない。教育の一環だと思っていた。というか、ヤル気のある後輩ならば、そのように受け取ってくれたんじゃないだろうか。ヤル気のない若手に合わせてどうして俺がヤル気を削がれなくてはならないんだ。不条理だ。  集中して仕事をする気が起きず、机の上に山積みになっている郵送物の内容の確認をすることにした。どうでもいいDMや保険の紹介に混ざって、デザイナーからの請求書があったりする。ため息を吐きながら書類を仕分けしていると、紙の山の中に「若林信二さまへ」とだけ書かれた、白い封筒が入っているのに気がついた。妙に厚くて、いい紙だ。 「イッテ!」  封筒を手で開けた俺は、親指から血が出ているのを見て、封筒の内側にカミソリが貼りつけてあることに気がついた。カミソリレターだ。なんて古典的なトラップ。手が小刻みに震えている。手紙を開けると、パソコンで印刷されたゴシック体の文字が小さく並んでいた。 「若林さま  貴方のことはSNSやYouTubeでずっと前から見ていました。仕事に熱心で、いい編集者だと思っていました。いつか一緒に仕事ができたらと、憧れすらありました。なのに最近のあなたの体たらくときたらどうでしょうか。ご自身の堕落に氣づきませんか。ご自身の血を見て、痺れるような文化への情熱を思い出してください。思い出せないのなら、編集者なんか、もう辞めてしまった方がいいのではないですか? あなたのファンより」  親指から手首まで垂れていく血を拭いもせず見た。数日前にLINEで見せられたアピ丸のリストカットの写真を思い出し、吐きそうになる。封筒をひっくり返したが、差出人は書かれていなかった。消印を見て、ゾッとした。二日前の日付の消印に「高円寺駅前郵便局」とある。俺が高円寺に住んでいることは、どのYouTubeチャンネルでも言っていないはず。だから、たまたま差出人が高円寺に住んでいるか、あるいは住所を知っている誰かが、俺を気持ち悪がらせるためだけに、わざわざ俺の家の近くまでやってきてポストに入れたかだ。アピ丸の顔が真っ先に浮かんだ。でも、あの衝動的な人間がこんなわざわざ手の込んだことをするだろうか。アピ丸じゃないとすれば誰が? 歩? ドラゴンさん? まさかジャバ? 考えれば考えるほど、知り合い全員が俺に嫌がらせをする動機があるように思われた。  誰かに見られている気がして編集部を見回すと、三上と目が合った。その瞬間、化け物でも見てしまったかのように、サッと目を逸らされる。自分が若いとき、ジャバと目が合わないようにしていたことを思い出した。三上から見れば俺もすでに化け物なのかもしれない。  今まで考えたこともなかったが、もしかしたらかつてのジャバにも、人に言えない悩みがあったのかもしれない。だからといって、ジャバを許す気にはなれないが。それと同じように、どんな言い訳をしたって、俺が三上から許される日も来ないんだろう。  誰にも手紙のことは相談できないな、と思った。垂れた血を要らないDMで拭って、封筒をそっと引き出しにしまい、黙って書類の整理をし続けた。 鳥トマト まだおじさんじゃない 若林信二…39歳、バツイチ。出版社・有幻社の青年漫画誌の編集部で働く漫画編集者。自身が「おじさん」であるかどうかがわからず生きている
まだおじさんじゃない/鳥トマト

若林信二

堅山賢一…39歳。既婚で妻子あり。有幻社でアニメをプロデュースするライツ事業部に勤務。ヒルビリー真中の『わたカレ』のアニメ化を進める
まだおじさんじゃない/鳥トマト

堅山賢一

アピ丸…25歳。エッセイと創作の中間のような漫画を描いているサブカル漫画家。若林が担当編集。メンタルが不安定で、自傷癖がある
アピ丸

アピ丸

漫画家でありながら、歌ったり踊ったり、また小説家としても活動する奇才。現在、『東京最低最悪最高!』『私たちには風呂がある!』を連載中。その他の著書に『アッコちゃんは世界一』『幻滅カメラ』などがある。Xアカウント:@tori_the_tomato
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