民衆とは、常に革命を語るものである。さながら昔日の恋人の思い出を語るように、あの「フランス革命」を、熱病のように口にする。しかし彼らは知らぬふりをする――その後の混沌、その血のにじむような、崇高さを欠いた小競り合いを。
貧しき者たちと学生たちが、「革命だ!」と叫び、旗を掲げて街頭に躍り出た六月。だが民衆は彼らを見なかった。いや、意図的に見なかった。まるで、夕暮れの空に投げ捨てられた詩の断片のように、彼らは無視され、忘れられ、敗北した。
六月暴動――その名を聞いたことがある者はいるだろう。だが、それに触れる者は少ない。なぜなら、それは敗北の物語だからだ。革命の物語ではなく、無関心の物語なのだ。
かくも人は「正しき声」に冷淡である。今日、たとえばれいわの如き、貧困層を代弁する政党が叫びを上げるとき、我々の心には、ある種の微かな拒絶感が芽生える。それは理屈ではない。本能だ。
学生が吠え、旗を振る。それがどれほどの正義を孕んでいようと、ついて行きたくないという情動。それは醜く、そして、限りなく人間的である。