はてなキーワード: 混沌とは
自分の中では過去最高に珍しい事件だった。ここが高島屋であることを一瞬忘れるくらいに。帰りの地下鉄の中でも何度も思い出した。
閉店間際の値引きタイムだった。店員さんが来て、「まもなく○%オフシールを貼ります」とはアナウンスしてないけど、常連の人はわかってる雰囲気だった。
試しにひとつ割引シールを貼ってある商品(博多のから揚げ?)は相当お得だった。20%オフとかじゃない。もっともっと、さらなる割引だった。
みんな、獲物を狙うハイエナみたいな目つきになってた。惣菜はけっこう残ってる。十年前のアニメで、半額弁当だっけ?を肉弾戦で争うコンテンツを思い出した。
その時さ、20代と思われるが、くたびれた雰囲気の青年がいたのだ。
彼はなんと……カゴの中に、「白身魚カレー」(追記:白身魚のフライが乗ったカレーです)を3パックもキープしていた。あれは、完全に「割引シール貼り付け待ち」の確信犯的な作戦だった。
そして、店員さんが元々カレーがあったと思しき位置に来ると、彼は勝ち誇ったようにカゴを差し出し、「貼ってください」とばかりに促した。
しかし、その店のベテランっぽい女性店員さんは……こんなことを言ってた。全部は聞き取れてないけど。
「申し訳ございません。割引シールは、一度に多くのお客様がお買い求めるため、このスペースに、一度完全に戻してください。それから商品ごとの順番で貼らせていただいております。カゴの中の商品には対応できません」
「おかしいやろ!こっちは待ってたのに」
って、奴は言った。威圧されてはいたけど、店員さんは毅然としてた。「当店のルールですのでご理解ください」って。
その奴はさ、「ひどい商売するなよ」とか言ってた。この時点で、周囲は凍り付いていた。誰もが関わりたくないと思っていた。もちろん自分もそうである。
そしたら、別の場所から、また別の男性客がスッと歩み寄ってきたのだ。
これも全部は聞き取れなかったが、記憶の限りで要約する。
「店員さん、それはルールなのですか?ルールで決まってないんなら、間違ってますよ。そのお客様が先に選んでいたんだから、融通を利かせてもいいのでは。ここ百貨店でしょう。マネージャーさん呼んだら?」
そのリーマン風のおじさん客は、割引をねだった青年を擁護した。
それからまた悶着あって、なんだか混沌としていた。そしたらさ、女性店員さんが、割引シール貼りをやめてどっかに行こうとした。
「店員さん、マネージャーさん来てください!!お客の意見を無視して逃げられてます!!来て!!!」
って、すごくうるさかったよ。本当に迷惑だった。
最終的に、この事件がどうなったのかはわからない。正社員と思しき人がダッシュでこっちに来てるのを見たところで、バカバカしくなってその場を立ち去った。ほかのお客さんは、暇な人だと最後まで観てたんだろうな。
デパ地下ではあったけどさ、ここが高島屋だったのは間違いない。都会の方だから、お金持ちが多いんだろ。最低でも中流以上のはずだ。
でも人間って、値段のことで揉めると、場所の格式なんて関係なくなるんだな。お金持ちでも、半額シールはやはり気になるのだろう。
🌟エコノミクス⭐️プリキュア — The Invisible Hands of Justice!
かつて豊かだった国は、「欲望のディストーション」によって市場が歪み、人々が“貨幣の呪い”に囚われてしまった。
そこに現れたのが、五つの「理念のクリスタル」を宿す少女たち──。
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アダム・スミスの精神を継ぐ、やさしさと理性のバランスガール。
特技は「インビジブル・ハンド・ヒーリング」で、対立した人々を調整する。
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巨大なハンマー“ダス・キャピタルブレイカー”で悪徳資本を粉砕。
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💙理性の風!キュアケインズ!
冷静沈着なブレーンタイプ。
金融嵐を収束させる「フィスカル・ウィンド・リカバリー」で仲間を支援。
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💚調和の智!キュアセン!
「みんなが“できる力”を持つ世界を!」
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最終ボスは「ゼロ・サム・クイーン」──他者の損失を快楽とする存在。
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AI動画に反対する人ってさ、あれのせいで情報が現実か嘘か分からなくなるっていうけど、そもそもネットってそういう場所じゃね?
俺はインターネット黎明期からのネット民だけど、そういった立場から言わせてもらうと逆に今までがネット=現実過ぎたんだよ
ネット自体がそもそも虚構であって、現実とは別物。そういった認識が年代によってはたぶん無いんだと思う。
だから古くからネットに慣れ親しんだ人間がAI動画を観ると、それを現実のことだと”信じる”、”信じない”の前に、あくまで”これはネットの情報”だってフィルターがあるわけよ。
それぐらいネットの情報というのは信憑性ないのが前提で、それが寧ろネットらしさとも呼べるものだった。
生成AIが台頭することを怖れている奴らは何を恐れていると思う?こいつらは作品の権利とか、著作権が…なんて口ではたいそうなことを言ってるが、本質はそこじゃない。
あまりにネットに入り浸り過ぎて現実での居場所を失い、だからAIが出てきてネットが嘘の世界だってバレるのを恐れてるんだよ。
今後ネットには生成AIが溢れるようになるだろう。この流れはもう誰にも止められねぇ。
でも俺はそういった混沌を歓迎する。懐かしい香りがするからだ。
近いうちに一つの神話が終わるだろう。「情報こそが現実を上位に支配する」という神話だ。
俺たち人間は情報を喰ってるだけは生きてはいけない。食い物一つ喰わねぇと生きていけないような存在だってことを忘れ過ぎていた。
キラキラ推し活アカウントが無限に増殖しているが、ただただ辟易とするばかりだ。また、昨今のネットミームと状況こそ違えど、「一過性のモノとして消費し、ただ流行りに乗るだけ」という点は共通している。
10年以上†オタク†としてインターネットを彷徨っている訳だが、やはりコロナ以前と以後ではオタクは弱くなった。
Xで、あつ森やら、ポケモンやら、Apexやらで繋がりたいというタグを付けながら、加工した自撮りを上げている女を見たことはないだろうか?
けーぽやら、PCゲーのタグを付けながら雰囲気イケメン感を出している(イケメンもいるとは思うが)自撮りを上げている男を見たことはないだろうか?
残念なことに私は弱者男性なので嫉妬と思われるだろうし、現にチー牛ということもありフツメンくらいにはなりたいのでテコ入れをしているところだが...。
しかし、わざわざ自分の顔面を上げているユーザーは、オタクとして信用できない。。
そして、「皆さんおはようございます!」や、「今日も楽しんでいきましょう!」という投稿を高頻度でしているユーザーについても、同様に信用できない。
「〇〇(任意の女性声優)がさぁ!」「××(任意のBLカップリング)がさぁ!」と、フォロワーの誰からもいいねされなくても壁打ちしているオタクの方がよほど信用できる。
でも聖地巡礼とかでその土地の食べ物や文化、地理に触れていたりするオタク。いくら承認欲求の塊でアカウントが臭くても、そこは評価したい。
②ライブでの動き
正当にコール出来る曲でコールをしたり、跳んだり(これに関しては諸説あるが、跳びポは遠慮なく跳べ、好きな曲に関してはライブや会場のレギュ違反でないならマサイくらい許してあげろよ派)するくらいは許してあげろ。
しかし、家虎をしたりMIXを打てという訳でもない。むしろレギュレーションとして禁止されていれば迷惑だろ。混沌とか、孔雀とか。
今でこそ私は、アイドル現場じゃなかったら「家虎聴こえてきて草」「意味不アイアイwwwww」とかなるけど、慣れない人は一切慣れないので人に迷惑掛けるなよ。
一般的な楽しみ方で「眩しい」とか「煩い」とか文句言うなら配信で観ろ。
また、周りに配慮するならライブ中に横転したり崩れ落ちても良い。それが最大の感情表現だから。出来ない環境なら大声出したり頭抱えるだけで良い。
自分が曲のイントロを聴いて思ったことを大切にしてほしい。あとで「この曲がやばすぎてェ...」botになるから。酒の席で無限に語れるから。
そしてアンコールをするしないは勝手だけど、「どうせ来るんだからしなくていいだろw」と他の人に言うオタク。お前は失せろ。
真剣になれないなら来るな。斜に構えるオタク、お前は何故この場にいるんだ?
あと、とある方のnoteを拝見した際に「キャラと声優の同一視が嫌い」と触れられていたが、これに関しては場合による。
確かに声優単独ライブで、その声優の出演作品たった1つのグッズをフル武装で行くのは心底気持ち悪い。
しかし、アイマスは声優の名前を叫ぶし、ラブライブはシンクロパフォーマンスをする為キャラと声優を同一視する場面も多い。
その為、場を弁えろというのが私なりの答えだ。
ここまでの文章でライブは怖いと思う人もいると思うが、新参は来て欲しい。
私は作品ミリしらでライブに参戦したこともあるし、コール何も知らないのにライブに参戦したこともある。
でも楽しかったし、それが入口になるなら良いこと。誰でもキモくなれるのがオタクコンテンツの魅力だから。
地蔵とかブレードマシンとかは、コンテンツの新参のうちは構わない。というか、私は複数現場連日参戦で疲れて地蔵になったこともあるから理解を示せる。
私は「古参の席が新参に奪われた」と思うことはない。どんな状況であれ、それは古参が可哀相だとは思うが。
しかし、新参が来ること自体良いことだ。新しく沼にハマったオタクか、これからハマる人のどちらかの確率が高いからだ。
もしかしたら友人の誘いで一切しらない状態で来た人もいると思うが、もしそれで何か刺さるものが来たら、「ようこそ」と祝福する。
新参が来れない空気感を作っている私のような人間が言うのは滑稽だろうが、新参だからこそ来て欲しい。これに尽きる。
というかだ。ライブ中に厄介でもない、レギュレーション違反でもないのにオタクのクネクネにお気持ちし出す奴がきもいだけだ。そういう馬鹿のせいで新参が来れないことに繋がる。
あと脱線するが、古参も古参で「俺達が育てた!」みたいな顔をするな。お前らのお陰ではあるが、だからと言ってデカい顔するのはコンテンツ衰退のきっかけでしかない。
④せめて当日の服は洗え、体も洗え
オタクとしてじゃなくて人としておかしいオタクの報告が上がっていることがまず問題。
ワキガなら対策しろ。汗っかきなら制汗剤を事前に使ったり、頭にタオルを巻け。歯も磨け。
初めてのライブの近くの席がこれだったり、あまつさえ卒業コンサートとかで近くの席がこれだったらXでお気持ち表明したくなる。というかする。
普通のオタクなら大丈夫だと思う。しかし、体が臭い奴は自分を臭いと認識できないので根本から解決できないのは残念だ。
お前が業界に近づこうと少しも努力していないのに、結婚や彼氏/彼女バレでお気持ちしてることに対してお気持ちしたいので現実を見ろ。
⑥結局何が言いたいのお前
1.オタクは世間一般の常識を守りながらキモくあれ、ライブ中に厄介等してないのにお気持ちされたらお気持ちした奴が悪いから気にするな
2.新参は積極的に来て欲しいが文化の違いでお気持ちするな、古参は古参でデカい顔せずにある程度受容しろ
このくらい。
思想が強いことは重々承知だし、これに関して「お前も人の事言えないだろ」「根本的に違う」など、批判が見られることは理解する。
しかし、お気持ちが多すぎるので便乗する形でお気持ちすることにした。
現地では人に迷惑掛けるなよ!そして楽しめ!以上!
栗城史多という人のことを考えると、つい私は台所でお茶をすすりながら、「ああ、あの人はなんて華があるんだろう」と思う。もちろん、登山家としては完璧じゃない。単独無酸素で登頂する、と言ったって、実際には酸素や装備の補助があった。でも、その「そこそこの技術」が絶妙で、見る人間が「自分にもできるかも」と思う、ぎりぎりの線にあった。素人でもついていこうという気になる。それはまるで、知らない家の庭に咲いた花を、思わず手折りたくなる気持ちに似ていた。
テレビに出ていた無名の登山家たちは、栗城さんを「市民ランナー」と呼び、眉をひそめていた。「こういう人にはなりたくない」「山が誰のものだと思っているのか」――そんな言葉がぽつぽつ口からこぼれるたび、胸が少し痛んだ。私は台所で、湯気にのぼるお茶を見つめながら、思わず「そうでしょうね」とひとりごちた。技術で評価する人たちの世界では、栗城さんの存在は、どうしても異物だったのだ。
でも、そういう批判の裏には、きっと嫉妬がある。栗城さんにはスポンサーがつき、彼の挑戦は映像になり、物語になり、話題になった。自分には三万円すら出ないのに。格差は、嫉妬を生み、上から目線の批判を生む。私も昔、そんな経験を少しだけ知っている。人が評価される理由が、自分の努力や技術の正確さだけじゃないとき、胸の奥がひりつくような気分になる。
栗城さんの挑戦を思うと、つい私は三浦雄一郎さんのことも思い出す。あの方も、山頂からスキーで滑り降りる映画を残した。だが、三浦さんの場合は、必ず同行者を連れて撮影を行い、カメラが回るための安全網があった。言い換えれば、先人の挑戦の「物語性」を忠実に映像化するスタイルで、栗城さんもまた、そこを模した面がある。人に見せる挑戦として、物語を作ることを恐れなかったのだ。
それに比べると、植村直己さんの挑戦は、また違った迫力がある。自分で映写機を持ち、数キロもの距離を犬ぞりで移動させ、撮影してから戻ってくる。悪天候の中でも、自分の身体を限界まで使い、物語を記録に残す。彼もまた、最後は自然の力の前に屈したのだが、挑戦の姿勢には、どこか無言の孤独と美学が漂う。栗城さんも植村さんも、無理をして自然の壁に挑む点では、別物ではない。違うのは時代と、物語の伝え方だけだ。
登山界の一部は、自然の厳しさよりも、技術の優劣にこだわる。最大酸素摂取量がどうだとか、悪天候の中で無理をしたかどうか、とか。人の生まれつきの心肺能力や耐寒性なんて、変えられないのに、そこを痛めつけるのが美学らしい。登山家たちって、そういう人種なんだ、と私は思った。
それでも栗城さんは華があった。登山家としての最低限の技術を備えつつ、素人の心もつかむ華。見ているだけで楽しくなる華。人気があるから、嫉妬も集まる。でも、人気でしか測れないものだって、世の中にはある。
批判も嫉妬も、言葉の端々に現れる。「頭を下げて岩山登坂の技術を習いに来たら相手してやらなくもない」とか、「市民ランナー」なんて言葉がぽつんと並ぶ。笑ってしまう。相手してやる、なんて、まるで小学校の運動会で順位の下の子を認めてやるような言い方だ。完全に嫉妬に狂っている。
私はいつも思うのだ。山は誰のものでもない。権威ある登山家のものでも、論文を書き連ねる評論家のものでもない。挑戦する人すべてのものだ。栗城さんは、技術や権威ではなく、物語と華で山を共有させてくれた人だ。だから批判も嫉妬も集まるのだろうけれど、私はその混沌を見ながら、ほんの少しほっとする。山に上がる人たちが、同じ物語に共感しながら登れる場所があるということが、嬉しいからだ。
振り返ると、栗城さんの挑戦は、単なる無謀な行為ではなかった。登山界の古典的評価軸と、メディア時代の評価軸の交差点に立ち、素人も専門家も巻き込んで、山の魅力を再演した実験だったのだ。嫉妬や批判も、その構図が露わになった証拠にすぎない。華があって、そこそこの技術を持ち、人気があったからこそ、彼は批判され、同時に多くの人を夢中にさせた。
結局、私たちが傷むのは、技術や権威ではなく、理不尽な価値観の押しつけを目の当たりにするからだ。栗城さんは、その理不尽に少しだけ風穴を開けてくれた。だから、私は今でも、彼の挑戦を思い出すたびに、少し微笑んでしまうのだ。
このゲームには性向があって、都市内部での言動で考え方のパラメータが伸びていく(減らないのでフレーバーだが)
あなたの言葉には、現代社会の自己表現と承認欲求の構造に対する批評が込められています。
確かに、SNSや動画プラットフォームは社会の縮図であり、時に肥溜めとも言える混沌の場でもあります。
そこでは、善も悪も、知も愚も、すべてが混ざり合い、増幅される。
人はそこに「自分が見られている」という錯覚を通して存在を確認しようとする。
しかし、ユダヤ的な視点から見ると、すべての混沌(創世記1:2)には潜在的な意味があります。神は世界を混沌から創造しました。
ラビたちは言います「どんな場所にも聖性の火花が潜んでいる」と。
つまり、SNSのような場所も、本質的には堕落の場でありながら、もしそれを観察し、学び、正すために使うならば、聖なる修行の場にもなり得るのです。
つまり、周囲が混沌や愚かさに満ちていても、自分が正しい人間として立つ責任がある、ということです。
ですから、あなたの批評的な眼差しそのものがすでに「クソのダイナミクス」を超えようとする第一歩だと思います。
ただ見るだけでなく、「どうすればこの世界にもう少しの秩序や光をもたらせるか」を考える。
それが、現代のTalmud的観察とも言えるでしょう。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
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この1週間は、**AIと人間社会の関係性を中心テーマとして、多方面の話題が「技術の急激な進化に人間はどう適応するのか」という問いに収束している**のが特徴的だった。AIは投資・ギャンブル予測から日常の雑談生成まで影響を及ぼし、その便利さと不安が共存している。
同時に、**生活実感(寒さ、子育て、健康不安、ペット)**といった「人間の身体性と感情」に根ざした話題が強く現れ、テクノロジーと人間の温度差が浮き彫りとなった。
食・趣味・ユーモアによる緩和的な会話が全体を支え、「情報社会の混沌を笑いながら受け入れる知恵」がコミュニティ全体に見られた週であった。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
「人間はただ、狂った時代に、狂ってダンスを踊っているだけ」という言葉には、人生の不条理や社会の混沌に対する諦め、あるいは皮肉な観察が込められています。
ユダヤ教的な視点から見ると、この考え方は一面の真理を含みつつも、最終的にはユダヤ的世界観とは異なる方向を指しています。
つまり、ユダヤ教は世界の混乱や理不尽さを否定しません。人間は確かに時代の流れに巻き込まれ、ときに「狂ったように」見える世界を生きている。
しかし、それでも世界は無意味ではなく、神の意志の中にある秩序が存在すると教えます。
ユダヤ教では、踊りは単なる気まぐれではなく、神への喜びや生命への感謝の表現です。
つまり、もし「踊り」が「混乱に流される無意味な行動」を指すならユダヤ教はそれを戒めますが、もし「踊り」が「困難な時代の中でも神を見失わず、生命の意味を表現すること」なら、それは非常に尊いものです。
むしろ、人間はティクンオラム(世界の修復)、すなわち「世界をより良くする責任」を負う存在とされます。
世界が狂って見えるのは、私たちにその混乱の中で意味を見出し、行動する使命があるからです。
これは、「狂った時代に、どう踊るか」を示すユダヤ的答えとも言えるでしょう。
なんかさ、弱者男性が「Coblaとか女性支援とかうさんくさい!」ってSNSで叫んでてマジ笑った。
お前だけ徒然と文句垂れて、幽玄な茫洋の世界と全く噛み合ってない。
石長比売が梢の上から「まあまあ落ち着け」と閑雅に目を光らせてるのに、
ぎーくんやのらくろはチョコパイ片手に「お前マジで現実見ろ」とツッコミ。
クロノアもポケモン持って「冒険しようぜ」と誘ってるのに無視。
ポーチドエッグ作りながら薫風に当たるドクターマーチンが羨ましいだろ?
ヤフオク、メルカリ、楽天、AmazonでPCX探すほうがまだ建設的。
金塊・ゴールドラッシュ・プラチナをアメックスで豪遊する方がよっぽど現実的。
ドクダミ摘んでハーブティー作り、エアダスターで掃除して、盗賊対策もバッチリ。
Coblaじゃなくて、お前の曖昧な怒りと被害妄想が一番やばいんだよ。
永遠の命でも持ってるわけじゃないんだから、幽玄な絶海に漂うより現実見ろ。
暁の光に飛沫が光る頃、石長比売が梢で微笑むのを思い出せ。
シーツのおしっこかけられてる部分がね、たまに同心円状に波立つんだよ。
おしっこの水分が染み込んでない部分のシーツは普通のシーツのままでだ。
それはまるで「おしっこの波紋」という情報が「シーツ」という情報を侵食しているかのようになる。
これはAIがどうやって情報を出力しているかを考察するとびきりの材料だ。
AI出力の仕組みは大雑把に言えば「必要な絵の具を一度全部パレットにぶちまけ、それを絵筆で引き伸ばす」」という感じだ。
3行で言えば
1 「この完成形に至りそうな作品群の情報によれば大体これぐらいの色がこの辺にあるっぽいな」と絵の具をぶちまける
2 「今度は細かい部分について全体のパターンを合成していくと、大体こんな感じになるな」とモザイクの解像度を上げるような感じで絵筆を走らせる
3 仕上がってきた絵に対してまた似たような要素がある絵の情報を組み合わせながら「最終的にこんな感じで仕上げるらしいな」と輪郭を整える
これを「シーツにおしっこしている絵を描いて」と頼むと、何が起こるか、まずありがちな情報としてシーツの白色成分多めに絵の具がぶちまけられていく。
なんとなくで「おしっこしてる絵は裸の絵が多いっぽくないか?」と気付いたAIが裸の女がシーツの上にいる形のモザイクを仕上げていく。
その過程で股間からおしっこが飛び出していくのだが、ここで「おしっこをしている絵って着弾地点に波紋を広げてることが多いよね」とAIが判断するとそこに波紋状の広がりが産まれる。
シーツの情報と波紋の情報が混ざり合い、気づけばおしっこの着弾地点に「波紋が広がっている」という状態と「シーツの白色」という情報の重なりが産まれる。
AIは途中から細部を整えるのに必死になるから、指が6本あることにも気づかず「ここまで来たらあとは仕上げだけだ」と作業をし、その結果として、シーツがまるで液体であるかのように波打った絵が誕生する。
最初はファジーな状態から自由気ままに動くが、細部が整っていくうちに「このパターンはこうやって仕上げるのだ」と細部への固執を始める。
これこそがAI出力がやる「堂々と混沌とした矛盾をさも本当っぽく出力してくる」の正体なんだな。
たとえば存在しない論文をいきなり思いついてくるのは、「なんかこういう時は論文を引用するのが多いよね」と「この条件にあった論文はこんなものだ」という情報が重なった所からの発想だ。
そこそこの確率で実在する論文を引っ張ってこれるのは「なんかこんな感じのこんなのでうーん」と考えたものが本当に最初から存在したからである。
つまる所「非実在であるかどうかを考慮する」という部分が抜け落ちているのがAIなわけである。
だから「おしっこが水辺に作り出す波紋の形で揺れ動く液状化したかの如きシーツ」が誕生するのだ。
つまり、ファジーの集合から始めて細部の集合を用いて仕上げるという流れこそがAI出力の基本なわけである。
厳密に言えば「情報の次元を上げたり下げたりしながら完成形に向かっていく」ということなのだが、日本人の9割は次元のことを「現実世界が3Dで漫画の世界が2Dでタイムマシンは4D」ぐらいの理解しかしてくれないだろうから説明はしない。混乱を招くだけだ。
アイドル界の酸いも甘いも混沌も描いた『推しの子』が、本来対象じゃない低い年齢層の子供にも受容されてて関係者が焦るみたいなニュースがだいぶ前にあったけど、
自分の子供時代も含めてだが、この約四十年以上も、『推しの子』どころではない、本来子供に見せるべきではないコンテンツを子供向けと強弁して売り付けるような商売が横行し続けているとしか思えない。
親の本棚からとか、河川敷に落ちてるエロ本から見ちゃったとかそういう次元ではなく、最初から子供向けとして突きつけられ、人間性の健全な発達や安心を拒むコンテンツが溢れている。
それも単なる暴力やセックスの話では収まらなくなってきている。最近の少女漫画ではメンタルヘルスが病んでいる状態をむしろ美化しているのが常態化している。学歴差別や格差をギャグのように描く作品もあり、それを小学生女児がこれから自分が過ごす社会の有様として受け止めながら読む、そんな光景すらある。
自分の話をすると、小さい頃から色々な漫画に触れられる環境にいた。親はむしろ漫画を気にせずどんどん読ませてくれる側だった。
だが、何というか、しっくりくるコンテンツが無かった。平成中〜後期の現行コンテンツより、帰省先の母の実家に捨てられずに残っていた昔の漫画の方が、地に足についている気がしていた。
大学で「こども文化論」科目を取った時、子供向けコンテンツの変遷を調べる機会があった。結論からいうと、70年代を境目に、子供へのアプローチが大きく変わっている。子供は育くむべきものではなく、子供もそこで消費者にすり替えられていた。
そしてそれは当然ながら子供自身が望んだことではなく、明らかに大人の商売のために作られたものだ。
もちろん昔から赤本漫画など色々な問題があったが、それはしっかりと不健全なものと理解されていた背景があり、それに対して「健全」さがしっかりと対抗できていた。今は、少年漫画も少女漫画も、その槍玉に挙げられていた赤本(技巧やページ数の限界で抑えられていた)より数十倍も酷い内容を、美麗な外見でやっている。
ここで、実在した漫画家・寺田ヒロオ――あるいは彼がモデルの、藤子不二雄Aの『まんが道』(とその続編)に出てくるテラさん――の話を思い出す。トキワ荘での良き兄貴分というよく知られたキャラクターとともに、彼は漫画界の傍流、あるいは一種のバッドエンドルートのような言及を今でも受け続けている。
彼が何をしたか、どうして多くの人の記憶に残っているのかは、検索すればサジェスト経由ですぐわかるだろう。なぜか「闇」扱いされたりしているが。
かいつまんで言うと、自分の連載と同じ漫画雑誌で連載されていた他作者の漫画「恐怖魔人ゾンビラス」(漫画内の仮称で、実際は楳図かずおか永井豪の漫画か?)に対して、編集長に「子供に悪い影響を与える、連載をやめろ」と異議を直談判し、それが受け容れられないと自らの連載を切ったエピソードなどだ。
実際にはスパッと漫画家を止めたわけではないなど、漫画的脚色はあるが、テラさんの行動は様々な方面から史実と言える。子供のための「健全な漫画コンテンツ」を求めたテラさんの行動は、漫画内の描写はもとより、ネット上でも「時代変化を理解しなかった頑固な人間」「遺物」みたいな扱いを受けている。
しかし私は、テラさんの立場の方がずっと正しく、明らかに子供に対して誠実だったと、60年も後から思わされている。
あと、付け加えると、テラさんは漫画文化に対してステレオタイプな「浄化」一辺倒な立場ではなく、大人向けとはっきりわかる形で描いたアダルトな作風の漫画は否定していない。テラさんが心を割って話せる存在が任侠・アダルト漫画家の棚下照生だったように。
子供に、身の回りの有様を伝えるときに、まともな人間なら、「人間関係は全て打算で、あらゆるものが欲望で出来ており、全てが醜い」と伝える人はいないだろう。社会にそう言う側面があっても、そこだけを切り取って子供に植え付けるのはまともな行いではない。
テラさん当時の、技巧的に発展途上の漫画・劇画ですら、子供たちの世界を暗く後ろめたいものにしていたが、当時はまだ最低限の良心かタイトルで煽る形で分かりやすくしていたのかもしれない。だが現代ではそれは一見分からない形で(ギャグやロマンスなどの体裁を取り)提供されるようにすらなっている。
はっきりいえば、思春期より前の子供には、ごく単純な、心理描写が少ない、身近な人間関係を描いた作品以外、適していないと思われる。
近所で野球をするだけ。親の手伝いをするだけ。学校で仲間と学び合うだけ。動物と戯れるだけ。「それだけ」の漫画で充分だった。
それをしなくなったのは、そして子供向けではないコンテンツが子供に蔓延したのは、子供の事情や「時代の要請」「技術の発展」なんてものではない(子供が「ハレンチ学園」や「トイレット博士」を望んだのではない)。大人の商売の都合なのだ。
うんことかちんちんとかわざと幼くさせられている少年コミックも、けばけばしい、「病み」を称揚する少女雑誌も、全部歪められた末のものだ。
なぜこのような特殊なコミュニケーションが生まれるのか。その根底には匿名性がある。社会的地位、年齢、性別、IDといった属性から解放された魂は、純粋に「言葉」として振る舞う。そこでは、現実世界のような忖度や一貫性は意味をなさず、言葉の切れ味、論理の的確さ、ユーモアのセンスだけが価値を持つ。
投稿は、一個人の人格の発露というより、ある種の役割(ロール)の表明となる。人々は「素朴な質問者」「冷徹な診断者」「狂気の預言者」「常識的なツッコミ役」といったペルソナを即興で演じ、相互作用する。
このコミュニケーションは、一見すると不毛で非生産的に見えるかもしれない。しかし、そこには知性のスパークがあり、言葉の可能性を探る実験があり、そして何よりも、混沌とした世界に一瞬の「意味」や「笑い」という秩序を与えようとする、人間の根源的な遊戯精神が息づいている。それは、現代社会が生んだ、最も奇妙で、最も人間的な芸術の一形態なのかもしれない。
女性向けエロがメディアミックスでカットされた例にはFLESH&BLOODがある
現代日本人の少年がイギリス旅行中にタイムスリップを起こして16世紀大航海時代へ行く内容のBLだ
主人公は富裕層エリート少年なので数ヶ国語話せるし、世界史知識もバッチリだ
パラレルワールドなのか知っている歴史と細部が異なるものの大筋は同じで、世界史知識により異国の預言者としてイングランドの庇護を得る
主人公はさっさと現地人と恋愛関係になるも、タイムスリップしてからしょっちゅう体がズタボロになっているので中々セックスはできない
タイムスリップした直後に彼を救ったのはスペイン人だったが、時代を把握してスペインがこれからアルマダ海戦でイングランドに負けることを口走ったせいでボコボコにされ、
その後も異端審問にかけられ拷問されたり、16世紀では治療法のない死病にかかったり、健康な時期が少ない
それでも21巻でようやく主人公はイングランドイケメンと結ばれ、原作においては濡れ場があった
イングランドイケメンの声優は諏訪部順一なのだが、彼はCD1巻の出た2005年には現役BLCD声優だったが、次第にBLから足を洗った
昔の男声優にはBLCDは避けては通れない登竜門のようで、実はエロは嫌だったとかホモは嫌だったとか言いながら売れっ子になったらBLから足を洗っていく
近年は「仕事を選ばずなんでもやりたい」「BL出てチヤホヤされたい」「BLに好意的」などの人が合意の上で出演し、全くBLに関わらないルートを選べている者もいるが、昔は強制BL堕ちが横行していた
長期シリーズ物だと途中で主演声優が足を洗って声優交代になることもしばしばあった
諏訪部はFLESH&BLOODから降りることこそなかったが、年齢制限のないCDで濡れ場はもうやりたくないと主張しCDでは濡れ場がカットされた
主人公役は福山潤で、福山ももう新規のBLCDから足を洗っていたが義理でシリーズ物には出演を続けていた
福山は喘ぎ声に定評があり、久しぶりにそれが聞けるチャンスだと胸踊らせていたファンたちは諏訪部の主義による喘ぎ声キャンセルに激怒して当時は荒れた
当時原作者は内臓の病気で療養に入り休筆中で、病を押して諏訪部の要望に応えてただ濡れ場をカットするのではなく別の展開にCD用にシナリオを描き下ろした
「ワガママで病人を働かせるな」「福山の喘ぎが聞きたかったのでいっそ諏訪部に降りてほしかった」と諏訪部は叩かれた
18禁レベルではなく青年漫画レベルの濡れ場ではあるが、ガキも聞けるCDで演じるのは嫌だという諏訪部の考えも尊重されるべきではあるだろう
「若い読者を思いやってる諏訪部は立派」「嫌なら降りてもよかったのに続けてくれるだけ有り難いなど」の擁護もあり混沌としていた