“○○弁”買って食べるも食文化
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前回の本欄 で、家庭で作られる弁当の変遷を紹介した。
一方で、弁当は商品・ビジネスとしても長い伝統がある。2002年(平成14年)3月12日夕刊マネー面に掲載された連載「しにせ探訪」は、東京都中央区に本社のある弁松総本店を紹介している。

〈日本で最初の折り詰め料理専門店として江戸末期に創業した。始まりは越後出身の樋口与一が一八一〇年、東京・日本橋の魚河岸に開いた食堂にさかのぼる〉
料理の量が多いので食べ残しを持ち帰る客が続出、これが好評のため、〈三代目の松次郎が弁当専門店に衣替えし〉たという。
仕出し弁当が食べられる場といえば、まず思い浮かぶのは芝居見物だ。
1882年(明治15年)2月7日の読売新聞朝刊4面に掲載された芝公園紅葉山能楽堂での能楽公演の広告の、最後に1行、〈切符

1911年(明治44年)11月9日朝刊5面にある「街の一角」という数行のコラムには、〈この間歌舞伎座へ行つて弁当を
62年(昭和37年)11月16日朝刊婦人面「ものしりコーナー」によると、幕の内弁当の名は芝居から来たという。
〈江戸時代に劇場関係者たちは小型のにぎりめしを弁当にしていたものですが、中ごろからは芝居茶屋でも作るようになり、おにぎりに副食物を添えて折り詰めにしたものを、幕のおりている間に食べるので「幕の内」と名づけて売り出したものです〉〈この簡便な弁当は芝居者だけでなく、観客からも大いに受けて広く行なわれるようになり、これが一つの弁当の型になったわけです〉
駅弁は旅の楽しみに

人々はどのように芝居と弁当を楽しんでいたか。
〈弁当持ちで一日ゆつくり見物しないと満足の出来ない
とはいえ堀田氏の結論は見出しの通りで、〈君

芝居や相撲見物、花見などで楽しまれた仕出し弁当のほかに、明治以降に普及した弁当産業がある。駅弁だ。
発祥の地は宇都宮とされる(異説もある)。69年(昭和44年)12月19日夕刊「行楽案内」面の「駅弁あらかると」には、〈駅弁の第一号は、明治十八年(1885年)七月、日本鉄道株式会社が上野-宇都宮間の新線開通のとき、宇都宮駅で売り出したニギリメシとタクアンの竹の皮づつみ〉とある。幕の内弁当の駅弁は88年(明治21年)の姫路駅が最初で、〈タイ、カマボコ、ダテマキ、キントン、ナラヅケがはじめて経木の折り箱にはいって弁当らしくなった〉という。
やがて駅弁は旅の楽しみとなっていく。62年(昭和37年)1月4日夕刊で、〈駅弁日本一周〉という連載が始まった。東京では都民版に掲載されていた。

〈“旅は道連れ”というが、旅の道連れは人間に限らない。ところどころの名産、物産はもとより、味自慢の駅弁なども車窓のつれづれをなぐさめてくれる楽しい“道連れ”といえるだろう。以下、旅の味覚の道しるべ、題して「駅弁日本一周」のスタートは、まずはみちのくの青森県から〉との前文で、青森県の「特殊弁当」が写真つきで紹介されている。
〈名前は味も素っ気もないが、中身はいい。マス、サケ、タイ、アジに、つけものはキュウリ、白ショウガ、みそづけと季節に応じての山海の珍味、特産のリンゴがデザートに添えてある。津軽名物のネブタ祭りを包装紙のデザインにしているのもローカルな味が出ていい〉
こんな名調子で各地の駅弁を描写しつつ、連載は96回続き、12月25日、小樽駅の「鳥めし」で完結する。
百貨店で「駅弁甲子園」

その土地に行かなくては食べられなかった駅弁の世界に、革命が起きた。
67年(昭和42年)2月16日夕刊に東京・新宿の京王百貨店の広告が載っている。題して「第2回有名駅弁と全国うまいもの大会」。東は北海道・長万部から西は福岡・門司まで約30種の駅弁の名が書かれている。前年の第1回は「大棚ざらえ」の広告の隅に1行、予告されていただけだが、第2回は単独の広告に。1回目の成功ぶりがうかがえる。
京王百貨店の駅弁大会は日本一の規模を誇る「駅弁甲子園」と呼ばれ、今も続く人気の催事だ。同社の公式サイトの 特集ページ には、〈駅弁大会が百貨店で始まったのは昭和28(1953)年の大阪髙島屋と言われています。日本一の歴史を誇るのが九州の鶴屋百貨店で、スタートは昭和40(1965)年。遅れること1年、昭和41(1966)年に第1回をスタートさせたのが京王百貨店です〉と書かれている。この成功で、駅弁大会はさまざまなデパートなどに広まり、全国区の人気を得る駅弁も出てきた。
機内食廃止で「空弁」ブーム

時は下って21世紀。駅弁ならぬ“空弁”も登場した。空港で販売される乗客向けの弁当である。筆者も当時は出張が多かったので、空弁ブームは印象に残っている。
2004年(平成16年)5月9日朝刊経済面の「消費事情フロント」が、〈
〈ブームの起爆剤となったのは、福井市で海産物の製造販売を営む矢部みち子さんが考案した「みち子がお届けする若狭の浜焼き
空弁ブームの背景も解説されている。〈航空各社がコスト削減で国内線の機内食を廃止したほか、搭乗手続きも出発直前でよくなったことで、空港で食事をしながら時間をつぶす必要もなくなり、弁当の需要が高まってきた〉というわけだ。
「中食」というカテゴリー

時計の針を、昭和の終わり頃まで戻す。1980年代初頭には、市販の弁当にも革命が起きた。従来は作り置きを買い、後で温めるだけだったのに、温かいご飯の弁当が買えるようになったのだ。83年(昭和58年)7月26日朝刊「婦人とくらし」面で、〈弁当屋さん 「毎度ありィ」〉と題して女性記者の体験ルポが見開きで掲載されている。
〈「炊きたて」をセールスポイントに、このところ全国に“増殖中”〉というのが当時の状況。千葉市の「ほっかほっか亭・登戸町店」で女性記者が朝6時からパートの主婦たちとともに働く。用意された冷凍素材を解凍したり、調理場が動きはじめると総菜やご飯を盛りつけたり。厳密に量が決まった米飯の盛りつけや、熱々のみそ汁をカップに注ぐ作業に苦戦するさまが記される。
前文には〈これほど




























