罵倒は、罵倒される側の属性だけではなく、罵倒する側の属性にも強く依存していると自分は考えている。
たとえば、スラッとした俳優のようなイケメンが「女さん」と言っていると仮定すると非常に残念に見える。
美人のJKが「チー牛」と言っていると仮定すると、これも非常に残念に見える。
今度は逆に、九州に行ったことがない人に向けて「さす九!」と言うとする。これは非常に滑稽である。
トランプ大統領に向けて「貧乏人!」と罵倒すると考える。これもまた非常に滑稽である。
なぜこうした現象が発生するのだろうか。
通常、罵倒は「罵倒する側が罵倒される側を侮蔑する」というアクションで構成されている。「AがBをCで攻撃する」という考え方であり、「AのCによってBをカテゴライズする」ともとれる。
しかしここでは考え方を罵倒を中心にしてみる。「Cが対象をAとBに分割する」というものだ。
罵倒こそが、対象を「罵倒する側」と「罵倒される側」に分割していると考えるのである。主体を罵倒する側から剥がし、罵倒そのものに主体を付与するのである。
「罵倒する側と罵倒される側」という概念から明確に罵倒や加害・被害の概念を分離するために、赤組と白組という概念に置き換えて考察してみる。
罵倒が対象を「赤組」と「白組」に分割していると考えるのである。
少しわかりにくいかもしれない。今度はこれを具体化してみよう。
チー牛という罵倒は、対象を「非チー牛組」と「チー牛組」に分割している。
非モテという罵倒は、対象を「モテ組」と「非モテ組」に分割している。
悪どい金持ちという罵倒は、対象を「悪どくないか金持ちでない組」と「悪どい金持ち組」に分割している。
おたんこなすという罵倒は、対象を「非おたんこなす組」と「おたんこなす組」に分割している。
深夜に何書いてんだろ。寝るか
面白かった。 罵倒に限らず、言葉が人々を分割し、さらに分断が加速しているのは、昨今のSNSやテロップだらけの動画などを思うと明らか。 言葉で事実や論理や感情を他人に伝えること...
言葉が分断を生むとか、舌の罪とかそんな話は旧約聖書にすら書かれてんだからさ
知らなかったけど、その話も面白いね 旧約聖書も当然、言葉で編まれているわけで