2025-10-01

いつからオタク」は、そんなに、偉くなったのか?

最近、ある種のファンの言説に触れるたび、その、あまり浅薄さに、一種諦観すら覚える。

彼らの語り口の主軸は、常に、作品ではなく、「作品を介した自己」にあるからだ。

​「推し活」などという言葉が、その最たる例だろう。

祭壇めいたグッズの陳列、同じCD大量購入SNSで報告するためだけの、カフェ通い。

その、延々と続く、エゴイズムループ

彼らにとって、作品とは、自らのアイデンティティを、強化・証明するための、鏡でしかないのだろうか。

情熱とは、本来内面で、静かに燃えるものであり、他者から観測や、承認を、必要としないはずだ。

だが、彼らは、消費の量や、解釈の鋭さを、アイデンティティの強度と、完全に、混同している。ふざけんなよ、そんなのただの自慢大会だろ。

その結果、オタク界隈は、静かな書斎から、互いの声の大きさを競い合う、騒々しい広場へと、成り下がってしまった。バカか。誰がそんな競争望んだんだよ。

​いつからファンは、作品と、同等の位置に立ったと、錯覚するようになったのだろうか。

​その結果、何が起きるか。

作品を語る言葉は、ファン同士の解釈違いや、人間関係のいざこざに埋もれ、検索窓の向こうに見えるのは、作品のものではなく、騒々しいファンダムの姿だ。

主役であるはずのコンテンツは、巨大な自意識を飾り立てるための、背景にまで、成り下がってしまったのだ。

ひとつ、確かなことがある。あなたは、コンテンツではない。

​てめえは、コンテンツじゃ、ねえんだよ。

作品寄生して肥大した、ただの、クソデカ自意識だ。

黙れ。ノイズだ。

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