2025-06-03

血潮の月

カビと香水が入り交ざった湿気が漂う、メルヘンな造りが時代を経て不気味さと化した郊外に佇むラブホテルの一室。

背の低いテーブルの上にある一万円札2枚を、押えるように置かれたスマホに表示されたタイマーが残り5分を切る。

「…なあ、たまきちゃん。俺ら、5年間ですごく通じ合えたと思う。どこか別の場所で、一緒に暮らそうか?」

客の男は、ベッドで天井を見上げながら、トイレで用を足す猫のような真摯な表情で語る。

「そうだね~。それもいいかもね~。あ、今日は駅の方に帰るの?私コンビニ寄りたいから、ホテル出たらバイバイだね」

たまきはソファーの片隅に小さくまとめた下着を引っ張る。ぽたりと浴室のシャワーから水滴が落ちる。男が呟く。

「…もう、来れないかもしれない」

はじまった。めんどくせえ…。

たまきは目じりを極力下げるように意識しながら、丸い眼差しで客に向き直る。

「どうしたの?」

「行かなきゃいけなくなったんだ。調査に」

「…嘘」



宇宙生活可能になり、人類選択に月への移住が加わりつつある2030年

各国から先行して調査団が月に送り込まれていた。

日本に割り振られた領域南部10%程。設営された調査団の施設で、定例ミーティングが行われている。

「…月への移住のものの考え方を改める局面差し掛かっていると言えます調査員の増員は、しばらく見送った方がいいと考えます

調査団の参謀を兼ねる宇宙技術研のトップ視線を落としながら続ける

「このミーティングお話する事が穏当とは言えませんが、事態が急を要する事も否定できません」

調査トップの、初老の男が口を開く。

「…つまりあなたが言うにはこの月の引力が異常化している箇所があり、我々に割り振られた日本領域にもそれは存在する、という事ですね?」

ミーティングルームの壁面に月の断面がプロジェクターで照らされている。参謀は赤いポインタで中心を差しながら、

「ええ。この中心箇所から月の表面を通して、地球特定場所に向けて強い引力が発生しています時間を追うごとにその力は強くなっています

壁面に数千箇所の赤い点が付けられた日本地図が映し出される。

「この点が、月からの引力を受けている箇所です」

「原因は?引力を受けている場所に…何か共通している事はありますか?」

「原因は特定できませんが、場所共通しています

「というと?」

「休憩可能宿泊施設です…」

「え………ラブホ?………」



調査に行ったら、しばらく帰ってこれないよね?」

エレベーターの中、客と手を繋いだたまきが話す。

月への調査に行く客は珍しくない。帰って来て、まだ私がこの店にいれば、こいつは指名をくれるだろう。

「うん。こんな俺だけどさ、皆が月で暮らせるように…未来の為に力を尽くすよ。戻ってきたらさ、一緒に暮らそう」

男は熱っぽく囁いた。

いいねえ。そうしよーね!」

明かりに照らされた血潮のような空の下、二人はホテルの干からびたドライブインの端から出た。男が言う。

「きれいだね。月」

コンビニで買う物に煙草を足しながらたまきが応える。

「そうだね~。あ、明日早いんだよね?頑張ろうね!バイバイ


次の瞬間、ホテルは地鳴りのような音を立てながら地面を離れ、月に飛び立った。

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