はてなキーワード: 戦時慰安婦とは
「あまり男尊女卑的に聞こえてほしくないんだが」と言った後で男尊女卑的な発言をする、「これはオフレコですが」といって、公には口にできないひどい発言をする。この種の発言をする話し手は、こうした前置きをつけておけば言質を回避できるかのように、平然とひどいことを口にする。その前置きに期待されているのは、それさえつければなんでも許される免罪符のような役割である。不都合な内容への責任追及を回避する目的でつけられるこの種の補足的な発言は、アダムとイブの物語に因んで、イチジクの葉と呼ばれる。
イチジクの葉が用いられるのは差別的な意味を隠すためだけではない。慰安婦に関する次の発言を見てみよう。
「戦時慰安婦ですよね。戦時だからいいとか、悪いとか言うつもりは毛頭ないんですが、どこの国でもあったことですよね」
従軍の慰安婦は戦時慰安婦でありそれはどこの国でもあったことだ、という発言からは、その眼目が、従軍の慰安婦は戦時慰安婦なのだから、戦時にさまざまな国で行われていたことと比べて特段悪いわけではない、ということにあると容易に推論されよう。「戦時だからいいとか、悪いとかいうつもりはないんですが」は、こうした推論を邪魔するために付されたイチジクの葉である。
こうした話し手は、イチジクの葉をつけることで、意味しているにもかかわらずあたかも意味していないかのように振る舞う。その目的は、問題含みの内容を裏の意味にとどめておき、言質を与えないことにある。
ではイチジクの葉はそれが隠そうとする意味を否認可能にするだろうか。
第一に、差別を隠そうとするイチジクの葉は、誤解の余地としての否認可能性に関して内輪と外野とで異なる働きをする。イチジクの葉が付された発言は、聞き手にある内容を想起させる。それと同時に話し手は、イチジクの葉によってそうした連想を『表向き』妨害する。そうした妨害は、話し手は差別的な内容を意味していないという代替解釈文脈に聞き手の注意を向けさせる。その狙いは、自分は話し手を誤解しているかもしれないと考えるよう聞き手を誘導することである。こうした誘導は、内輪にとっては無効だが、外野にとっては有効である(外野に言質を取られると非難される)ことが話し手にとって望ましい。
そうした違いを生み出す一つの要因は、なにが適切に無視される可能性かが内輪と外野でちがうということであろう。外野がイチジクの葉が付された発言の責任を追求し、それに対するペナルティを科そうとするならば、そうしたペナルティとは無縁の内輪と比べて、より慎重に、より多くの可能性を無視できないものとして考慮する必要があると。こうした違いによって、内輪に対しては誤解の余地としての否認可能性をもたないが、外野に対してはそれをもつ、ということが起こりうる。
第二に、イチジクの葉が隠そうとする意味は、内輪に対して認識的でない否認可能性をもちうる。内輪にとって、話し手の差別的な意味の責任を追求しない(裏の意図を否認する)ことが、反差別という社会規範への表立っての違反を回避しつつ、差別的な考えを共有することができる。
このように、イチジクの葉は、否認可能性を確保し、言質を取られてはまずい内容を裏の意味にとどめておくために用いられる。言質回避のこの仕組みは、犬笛のそれと同じである。