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東京大学のホームカミングデイの企画「AIと人文学」を聴講してきた。 フレームを超えるAI:黒澤明『天国と地獄』を俎上に、「垣間見」「漏れ聞こえ」といった人の所作から、フレーム問題を再定義する(阿部公彦 教授) 知の外在化と向き合う:井筒俊彦が描く学者像から「開かれた専門馬鹿」になるための「驚き(タウマイゼン)」の提案(古田徹也 准教授) 人外センシングAI:小説・映画・会話等を通じた間接体験を学習させた上で、超音波や赤外線など、人に無いセンシングを装備して感受性を育てる研究(佐藤淳 教授) 第24回ホームカミングデイ文学部企画「AIと人文学」より どれも興味深いものばかりで、2時間が一瞬だった。ツッコミというか質問欲がもりもり湧いてきたのは私だけではなく、質疑応答は15分では足りなかった。ゲーム実況みたいにコメントで質問受けながら実況形式にしたら、すごいコンテンツになるだろう(人はそれを講
「科学的に正しい」 という言葉が揺らいだのは、2020年、世界がCOVID19のパンデミックに直面したときだと思う。 「科学的に正しい」 数理モデルに基づき、感染者数の推移と予想のグラフと「最悪のシナリオ」が毎日のように報道された後の話だ。 人々はグラフを見つめ、「科学」が未来を予測してくれると信じていた。 ところが、現実はモデル通りには進まなかった。 感染者数が想定を上回ると「『想定外』を言い訳にする専門家は間違っている」と非難が沸き上がり、予想よりも被害が軽いと「オオカミ少年が経済を殺す」と叩く連中もいた。「科学的に正しい」とはデータに基づき客観的な立場から判断したものだから、現実世界を最も合理的に説明できる―――そんな期待を裏切られたと感じた人もいたかもしれぬ。 その一方で、各国政府がとった施策や人々が自主的に取った行動が(吉凶に関わらず)何かしらの影響を与え、モデル通りの未来にはな
「なぜ遅刻が多いの?」 「どうしてミスしたの?」 「できない理由は?」 職場や家庭で話をするとき、理由を聞きたくなる瞬間がある。問題解決のため、原因や課題を洗い出すための定番だ。 だが、『「なぜ」と聞かない質問術』は、この「なぜ」を使うなと説く。質問を「なぜ?」から始めると、事実の誤認や関係性がねじれ、議論が空中戦になり、コミュニケーションが上手くいかないからだという。 なぜ、「なぜ」を使ってはいけないのか? 「なぜ」は理由を聞いているようでいて、相手を問い詰め、言い訳を強要することになるからだという。例えばこう。 花子「なぜ遅刻が多いの?」 太郎「朝ギリギリで、電車に間に合わないことがあるので」 花子「じゃあ、余裕をもって起きてください」 太郎「はい……スミマセン」 質問者は純粋に知りたいだけかもしれないけれど、問われている方は責められているように感じている。ここから得られる解決策も、問
ロリータいいよロリータ。いくら読んでも楽しさが尽きぬ。そして、どんなに読んでも「読んだ」気にならぬ。 先日、ロリータ読書会に参加したので、再読の楽しみが倍増した。ここでは、読書会で教わったネタも交えつつ、再々々読に向けたメモをまとめる。 むかし、「変態男の少女愛」だけで思考停止していた俺、もったいない。ストーリーの表層をなぞって満足するのは初読時だけで、面白くなるのは再読から。面白さは細部に宿るし、その細部を追っていった目を上げた瞬間に広がる全体にも宿っている。 これは、小説読みが好きなあらゆる要素が詰まっている。 ぱっと思いつくだけでも、宙吊り、オマージュ、信頼できない語り手、どんでん返し、多声性、異化、ミステリー性、寓意、内的独白、間テクスト性、エピファニー、デウスエクスマキナ、アポリア、アイロニー、自由間接話法、、視点変更、メタフィクション、入れ子構造、非線形叙述、ギャグ、カタルシス
ふわっとした議論 問題を裏返しただけの対策 それは症状であって原因じゃない 説得力が弱い 言い方は色々あるが、結局のところ、取り組むべき課題が不明瞭な状態だ。「部門統合でシナジーを得る」とか「顧客満足度が低いから顧客満足度を上げる」など、何も言っていないに等しい妄言を聞くのもウンザリだ。 では、どうすればいいか? この問いかけに対し、具体的に応えているのが『解像度を上げる』になる。 画像描写がキメ細かく、イメージが明瞭であることを解像度が高いというが、ビジネスの現場でも用いられている。物事への理解度や表現の精緻さ、事例の具体性や思考の明瞭さのメタファーとして「解像度」という言葉が用いられる。 解像度が高い場合、取り組んでいる領域について、明確で簡潔で分かりやすい答えが返ってくる。顧客が困っていることを深く知り、解決のためにどんな競合製品を使っており、そこでどんな不満を持っているかも把握して
ダンジョン化しつつある渋谷で行われたリアル読書会に行ってきた。課題本はミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』だ。11名で3時間、あっという間だった。 『存在の耐えられない軽さ』は3回読んだ。邦訳が出た30年前に1回、世界文学全集で新訳が出た15年前に1回 [書評] 、そして今回 [書評] なので、テーマもストーリーも承知しているので、もう味わうところは無いかな……と思っていたら大間違いだった。 この読書会で新たな発見があり、再々々読が楽しみとなった。 対話を通じて意見の相違を確かめあい、さらに深く広く読む手がかりを得る ―――読書会のおいしいところはここやね。 序盤で作品の感想を言いながら、「この会で皆と話したいテーマ」を述べる点が良かった。全員が一巡すると、『存在の耐えられない軽さ』で解きたい謎の一覧ができあがる。 なぜトマーシュとテレザは別れないのか? 複数人が疑問に思っていたのは
枠組みを変えることで問題を再定義することを「リフレーミング」と呼ぶ。リフレーミングの見事な例は、孫正義のこれ。 髪の毛が後退しているのではない。 私が前進しているのである。 RT @kingfisher0423: 髪の毛の後退度がハゲしい。 — 孫正義 (@masason) January 8, 2013 頭頂部で起きていることは1㍉だって変わっていないのに、ネガティブからポジティブへ再定義されている。こういう発想って、どうやって生まれてくるのだろう? おそらく、これを読んでいたのではないか? 本書は、見方を変えることで問題を別の角度から捉えなおし、問題を「再発見」する本だ。ユーモア小話仕立てのエピソードを俎上に、「問題は何か」「それは本当に問題なのか」「それは誰の問題なのか」「それを本当に解きたいのか」を分析していく。 「エレベーター問題」は誰の問題か 有名なやつだと、「エレベーター問題
経営幹部の必読書として有名な『失敗の本質』が面白かった&タメになった。 太平洋戦争における失敗の本質は、「国力で圧倒的に差がある米国にケンカを売ったこと」に尽きる。人を含めたリソース差が決定的であり、他の理由は後付けに過ぎない。「もし~だったら」と歴史にIFを求めても、いわゆる後知恵だ。 だが、この後知恵をあえてやったのが『失敗の本質』だ。 「なぜ開戦したのか」という問いはスルーすると序章で謳っている。代わりに「日本軍はどのように負けたのか」というテーマで日本軍の組織構造を研究する。インパール作戦やミッドウェー海戦など代表的な負け戦を6つ選び、いかに日本軍がダメで、米国や英国が優れていたかを力説する。 日本軍ダメダメ論 本書の前半は失敗の事例研究になる。各作戦(ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、レイテなど)の背景や経緯は、膨大な戦史資料から引かれている。緊迫していく戦場の空気や、臨場
問いの感度を上げると、的を射たコミュニケーションができる。 太郎 『あのプロジェクトは失敗だ』 花子 『それはなぜ?』 一見シンプルなやり取りだが、この「なぜ」には二つの意味がある。 1.なぜプロジェクトは失敗したのか(原因を問う) 例:要件追加や人員不足が影響したのか 2.なぜ失敗だと判断したのか(根拠を問う) 例:納期遅延やコスト超過など、どの指標を根拠にしたのか 前者は「失敗」を事実として深掘りする問い。後者は「失敗」かどうかを確定させるための問いだ。 これを区別しないと、誤解を招く。例えば偉い人が「なぜ失敗したのか」と問うた場合、その背後には「どの指標を根拠に失敗と見なしたか」が隠れている。根拠を確認せずに原因を語れば、相手の意図とズレることになる。 偉い人がコスト超過を問題視しているのに「人員不足のせいです」と答えれば、「不足なのにコスト増?」と、しなくてもいい説明責任を背負わさ
誰だって失敗なんてしたくない。 自分のミスが原因で、手戻りが起きたり納期が遅れたりしたら、自分自身を責めたくなる。さらに「なぜ起きたのか?」「再発防止は?」などと責任追及されたら、いたたまれない。 失敗の不安と恐怖に圧し潰されそうになる。そんな現場のリーダーに向けた失敗とリカバリをエンジニアリングしたのが本書になる。 本書は面白いことに、「正しい失敗」と「間違った失敗」に分ける。そして、どうせするなら「正しく」失敗しなさいと説く。 「正しく」失敗?それは何だろうか。 速く失敗せよ 例えば、速く(早く)失敗する。 ITプロジェクトならDevOpsやアジャイルといった「小さく作り、駄目ならロールバックする」という技術革新の恩恵が受けられる。一般に適用するなら、まず少し手を付けて、見積もった想定とズレたら修正していく。出来の良さより「終わらせる」ことを優先し、周囲や上司のフィードバックを貰うとい
「人生は一回だけ」という。 だが、もし、その一回が繰り返し繰り返し、寸分狂いなく同じ内容・同じタイミングで未来永劫リピートするなら、「その人生」をするか?(選びたいか?) 天国(キリスト教)とか来世(仏教)とか、”やり直し”を期待して今を雑に生きるのではなく、「いま・ここ」を丸ごと肯定し、その選択を(不都合な結果も含めて)引き受けられるか? そういう覚悟で今日という日を、今という瞬間を生きろ。 そう考えると、人生は途方もなく重くなる。ニーチェの永劫回帰である。 ミラン・クンデラは、この人生の「重さ」と対照を成すものとして、『存在の耐えられない軽さ』を差し出す。 Einmal ist keinmal(一度は数のうちに入らない)と、トマーシュはドイツの諺をつぶやく。一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなもの
現代社会は「物語」だらけだ。 感動的なアニメや映画だけではない。テレビのCM、SNSの投稿、就職活動のエントリーシート、選挙候補者のPR動画など、私たちの心を揺さぶる多くのものは「物語」によって駆動している。 例えば、不登校だったけれど努力と工夫で難関大に合格した体験記や、学生時代に片思いだった人と再会して勇気をもらったエピソード、マナーを守らない傍若無人なイキリト君が逆に恥をかかされる話は、「感動した」「エモい」「スカッとした」といったコメントと共に拡散され、消費されていく。 あるいは、就職活動では「学生時代に力を入れたこと(ガクチカ)」が求められ、「私は〇N〇という困難を△△という工夫で乗り越え、□□を得ました」などと定型的な「エピソード」が評価される。 政策の具体性や実質的な数値のデータよりも、候補者の「過去の苦労」や「理想を抱いたきっかけ」がドラマティックに語られる。そして「苦しん
「私は寝てないんだよ」 2000年に起きた雪印乳業の集団食中毒事件における社長の発言だ。 発端は停電事故の汚染だが、商品の回収や告知が後手に回り、被害が拡大した。結果、スーパーからは雪印製品が消え、トップが辞任。最終的に雪印乳業は解体され、メグミルクで再生した。 対応を見誤り、記者会見で頭を下げる経営層を見るたびに、このセリフを思い出す(マスコミに上手く「切り取られてしまった」感もあるが)。 企業のトップだから、その立場では有能で仕事ができる方だろう。だが、愚かとしか言い様のない問題発言をすることがある。あるいは、マスコミから逃げ回ったり、「ノーコメント」を繰り返して火に油を注ぐことがある。 トップの不手際に限らない。システム障害、社員の犯罪、顧客情報の流出、クレームからの炎上など、企業組織を揺るがす危機は、突然襲ってくる。 そんなとき、どうすればいいのか? これを具体的に解説したものが本
あーお客さまーお客さまー 忘れものはーございませんかー? 『ございません!』 忘れもののー 保存期間はー 『3ヶ月!』 でもお客さまーのことはー 『一・生・忘れ・ナイッ!』 『パーリィーナイッ!!!』 銀河・銀河・銀河・ギンガ・ギンガ・ギンガ………銀河楼? ギンガ・ギンガ・ギンガ・銀河・銀河・銀河………銀河楼! よいしょ~~!! 銀河楼コールで始まった飲み会?じゃなくトークショー、めちゃくちゃ面白かった。 制作陣の裏話が最高過ぎる 『アポカリプスホテル』の制作スタッフのトークショーを見てきた。作るのに苦労したところや、こだわって凝ったところ、「ここだけは見て欲しい」というポイントや、「これだけは言えない」というヒミツまで、色々と仕込ませてもらった。もう一度見るとき、さらに濃厚に楽しめるだろう。 春藤佳奈(監督) 村越繁(シリーズ構成・脚本) 和田崇太郎(脚本) 竹中信広(制作統括) 上内健
「アートがわかる」とはどういうことかが分かる一冊。 著者はノーベル賞(医学・生理学)を受賞したエリック・R・カンデル。神経科学の教科書『カンデル神経科学』やブルーバックス『記憶のしくみ』の著者と言えば早いかも。 『なぜ脳はアートがわかるのか』は、お堅い教科書ではなく、現代アートを俎上に、認知科学、大脳生理学、医学から、美術史、美学、哲学まで、さまざまな知を総動員して、美的体験のメカニズムを解き明かしたもの。 ジャクソン・ポロックやアンディ・ウォーホルなど、アート作品が掲載されているのがいい。読み手は実際にそれを見ながら、還元主義的なアプローチで自分の美的体験を追検証できるような仕組みになっている。これから触れるアートにも適用できるので、いわゆる「応用が利く」やつ(この手法、『ブルーピリオド』の矢口八虎に紹介したい)。 フランシス・ベーコンの「顔」 この手法を、フランシス・ベーコンの作品を見
これが、 ぼくのかんがえたさいきょうのパスタ だ。 カットトマト1缶を煮詰め、隠し味に悪魔のトマトソース(ロピア)とKiriのクリーミーポーションを溶かしている。バジルの葉と鷹の爪とニンニクとウスターソースとコンソメと、とにかく美味しそうな要素を全部ぶちこんだ、私の、私による、私のための料理だ。 美味しいものを入れれば入れるほど、料理は美味しくなる。料理とは足し算であり、脂と塩と糖と旨味の合計だ。最強の料理とは、寿司とラーメンと焼肉を合体させたものだ。 少なくとも 『料理は知識が9割』 を読むまではそう思っていた。 ところが、料理とは足し算だけでは無いみたいだ。引き算もできるし、それがむしろ味の深みにつながるという。さらに、料理の方程式は掛け算であり、料理の最終形を念頭におきながら、逆算して美味しさを再構成していくことが重要だと説く。 著者はシェフクリエイト、料理教育のエキスパート集団だ。
著者の日課は、科学論文を読み漁ること。「ネイチャー」や「サイエンス」など世界的な学術誌から最低でも1日に100本(多いと500本)、年間だと5万本の論文に接しているという(全読は無理にせよ、アブストラクトだけでもすごい!)。 そんな中から、特に面白いもの、今までの常識や定説を覆すもの、インパクトのあるものを選んだのが本書になる。著者が「これはすごい!」と感じたのが判断基準なので、さまざまな分野の論文が俎上に上る。 ある意味「ごった煮」となっているカオス感が楽しい。専門が薬学で、脳科学についても詳しいのでそっち系が多い。例えばこんな感じ。 鶏肉は洗うな(洗うと雑菌が飛び散るので不衛生) 生物と無生物を分ける新しい定義「寄生される」 クジラとフクロウの収斂進化に学ぶ失明治療のヒント 乳腺は汗腺が発達した器官という観点からのおっぱい成分分析レポート DNA配列をAIに学習させたら、「天然」よりも
読み始めた瞬間、何かがおかしい。文を二度見し、首をひねりながら先を追う。冒頭からしてこれだ。 わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。 「だった」と「でした」とが入り混じっている。誤植?まさか岩波文庫がそんなわけない。対等関係の常体(だ・である)と、フォーマルで丁寧な敬体(です・ます)が混在し、独特の語調を生み出している。 そして原文(英語)の方が違和感マシマシになる。 I was a palm-wine drinkard since I was a boy of ten years of age. I had no other work more than to drink palm-wine in my life. 「10歳 の頃からずっと ( since )やし酒のみだった」とsinceを使うなら、I
時速100km以下で即爆破する新幹線を描いたNetflix『新幹線大爆破』では、様々な選択が突き付けられる。中でも強烈なのがこれだ。 強制停止する:はやぶさ60号の乗客・乗務員は助からないが、被害は限定的 何もしない:終点の東京駅で、新幹線が大爆発を起こす これは有名な、トロリー問題における運転手の選択になる。 【運転手】路面電車が暴走している。そのまま進めば5人が轢かれ、待避線に逸れると1人が轢かれる。運転手は進路変更すべきか? 旅客機をハイジャックし、満員のスタジアムに墜落させようとするテロリストがいる。これ阻止するため、戦闘機のパイロットがやったことを描いたのは、シーラッハの戯曲『テロ』になる。これは、トロリー問題の別バージョンだ。 【歩道橋】路面電車が暴走している。そのまま進めば5人が轢かれるが、歩道橋の上にいる男を突き落とせば止められる。突き落とすべきか? トロッコ問題とも呼ばれ
そもそも「本を読む」って良いことなのだろうか? どうして本を読むのだろうか? 恒常的に本を読む人なら誰しも、一度は(何度も?)問いかけたこの疑問に、正面から向き合ったのがこれ。その答えは、あとがきにある。 読書は誇るべき立派な行いではない。どちらかというと後ろ暗いことだ。こっそり楽しむ楽しみだ。(中略)我々の誰もが好きな本を読んでいいのと同じように、読まないことを好きに選んだって構わない。 私もそう思う。ここでは、楽しむための読書に焦点を当てているが、小説に耽るのはあまり誉められたことではない。 なぜなら、小説は「なんでもあり」だから。神話や叙事詩、戯曲、定型詩といった形式を経て生まれた小説には、韻律や構成の制約がなく、また、英雄譚や恋愛といったテーマの縛りもない。現実に起き得ないことも可能になるし、倫理や論理も超えるし、読者の中で完結するような曖昧さも許される。 さらに、世界を「知る」こ
「色は、実在しない」という、刺激的な一文から始まる。 え? そこらじゅうに「色」あるじゃない? むしろ色が無いなんてものは存在しない。色は常に実在し、たとえ私がいなくても、ずっと存続し続けるように思える。 ところが、これは誤解だという。私たちが知覚している色は、私たちの頭の中以外には存在しない。色は、いわば光のトリックであり、生物がそれを見て初めて現れるものだと言うのだ。 では、色とは何か? この難題に対し、物理学、美術史、心理学、文化人類学など、様々な分野から光を当て、浮かび上がらせたのが本書になる。さらには、宗教や絵画、食品・医療における配色の応用や、コマーシャリズムにおける色の役割にも踏み込む。 色は主観か客観か 様々な人が「色とは何か」の問題に取り組んできたのだが、中でも面白かったのが、ゲーテとニュートンだ。 色とは、客観的に測定できる光の性質に過ぎないとするニュートンと、色は見る
多くの作家は、見切ったと思っても手元に残すものはある。フエンテスは見切ったけれど、彼の『アウラ』はすばらしい作品だ。彼は自分が知的に細部まで構築できる短編や中編ではものすごい力を見せる。 山形浩生『翻訳者の全技術』より この人をしてここまで言わせしめるのは、相当なものなんだろうと手を出したら、確かにもの凄い作品だった。どれくらい凄いかというと、斬られたことに気づかないまま、倒される感覚だ。 「君は広告に目を止める。こんないい話はめったにあるもんじゃない」―――から始まる『アウラ』は、ぬるっと読ませるくせに、斬れ味するどい達人の技にやられた。 カルロス・フエンテス『アウラ』は、わずか50ページ程度の短編に、私を強烈に惹きつける異様な魅力を放っている。その最大の特徴は、全編が二人称現在形で語られていることにある。 言い換えるなら、読者自身が主人公となり、「君は手を差し出す」「君は彼女の目をみつ
何度も読み返す漫画がある。 例えば、こうの史代『長い道』と森薫『乙嫁語り』がそれ。筋もオチも味わい尽くしているのに、気づくと読み返して、噛みしめる度に良さを感じている(読んでる時間が好きなのだ)。こういう「しみじみと好き」な漫画は、インパクト重視のキャラは出てこないし、ド派手な演出は少ない。 では、地味(?)だけど滋味があり、何度も噛みしめたくなるような作品は、どう違うのか? 『マンガの原理』(大場渉、森薫、入江亜季)によると、耐久性を重視した作品だという。読み捨てられるような作品ではなく、心に残り続けるためには、どのようなセオリーがあるか。漫画を読む体験を心地よく感じてもらうには、どんな技法があり、それは具体的にどの作品のどこに反映されているか。 漫画は技術 こうし原理原則を、4つの章と68の技法に分解して紹介している。 1. コマ割りと視線誘導の原理 2. 絵の原理 3. フキダシとセ
ほんとうに苦しいとき、指一本すら動かせない。起き上がることはもちろん、眠ることすらかなわず、「早く終わりにしたい」という気持ちで一杯になる。 そういうときに、寄り添ってくれる本がある。 もちろん、辛いときは本なんか読めない。それでも、「あそこにあれがある」と思える本、読まずとも握りしめられる、お守りのような一冊がある。私にとってのお守りとなる本は、クシュナー 『なぜ私だけが苦しむのか』 と頭木弘樹 『絶望名言』 だ。 これに、本書を追加したい。予感として、ほんとうに辛い日が来ることは分かっている。こんな日々が続くわけがない。出会ったならば別れがあるし、存在するなら(それが何であれ)失われる日が来るだろう。 そのときに、この人のお話を思い出したい。 舞台は現代日本、新型感染症による不安が充満する、少し前の日々を描いたものだ。主人公は麻木あい、スーパーで働きながら、「ワクチンは毒」とする夫との
何十年も向き合ってきて、今でも何度も読み直す本がある。辛いとき・キツいとき「あの棚にあの本がある」と思い浮かべるだけで励みになる本がある。もし出会わなかったら、今の私は無かったと断言できる本がある。ガチガチの価値観を更新し、アンパンマンの頭のように「私」を取り換えてしまった本がある。 おそらく数十冊、多くても百冊ぐらいの、そんな本を、エッセンシャルブックと呼んでいる。沢山の本をとっかえひっかえ読んだり、新刊本をブックハンティングするのは、そんな本と出会うためだと思ってきた。 だが、そろそろ振り返って、積読山と向き合わねばならぬ。 理由は2つある。 ひとつは、量こそ遥かに多いけど、クズみたいな本が大量にある書店よりは、年月をかけて賽の河原のように積んできた山の方が、「あたり」を引く確率が高いこと。 もう一つは、残りの人生ぜんぶ費やしても、この山を読みつくせないことは明白であるばかりか、この山
まず結論、脳の本質は「予測」になる。 脳とは、過去・現在・未来に生じる不確実性を最小化する推論エンジンというのが、本書の主旨だ。 私たちは、感覚データそのものを見たり感じたりすることはできない。知覚できるものは、知識(生成モデル)に基づき「予測」した世界になる。身体の外だけでなく、身体内部の環境を予測するため、感覚データと予測との間に生じる誤差(予測誤差)を最小化するサイクルが稼働している。 私たちはよく、「現在の状態から未来を推論する」というが、その現在ですらリアルタイムに把握しているわけではなく、過去の推論に拠るものだ。刻々と変化する環境において、脳は、ひたすら予測と後付け(予測の上書き)を続ける。「現在」とはそこにあるものではなく、私たち一人ひとりの脳により決定されたものなのだという。 ベースは、神経科学者カール・フリストンの「自由エネルギー原理(Free Energy Princi
大学を卒業したてのころ、詐欺にひっかかった。 手口はこうだ。 まず、私宛に郵便が来る。 あなたの年金保険料に未納があり、受給できなくなる 〇月✕日までに、未納分(4万円ぐらい)を振込め 不明点は、XX-XXX-XXXX(担当者名)まで連絡すべし 宛先の住所氏名は合ってるし、ちょうど親から「4月から社会人なんだから、保険料は自分で払え」と言われたばかりだった。さらに、引っ越しの準備で切羽詰まっていたので、「早く振り込まないと給付資格が失われる」と焦って振り込んでしまった。 なぜ詐欺なのか分かったのかというと、ホンモノの督促状が来たから。引っ越しのドタバタで郵便物や振込控えは失われており、あきらめるしかなかった。 4万円の授業料は高くついたが、このおかげで、「自分はそんなものにひっかかるわけない」と思っていた人生から変わった。 つまり、私の人生には、「詐欺にひっかかる」という選択肢があると思う
税の本質は略奪だ。 こん棒を手にしてた昔よりは洗練されてはいるものの、「ある人から奪い、ない人からも奪う」という本質は変わらない。こん棒が別の呼び名になり、略奪システムが巧妙になっているだけ。本書の前半を読むと、様々な試行錯誤と権力闘争の元に、人類の英知を結集し進化してきたものが、現代の税制だということが分かる(不完全じゃんというツッコミ上等。それは人類が不完全である証左なり)。 一方、脱税は多角的な側面を持つ。 上に政策あれば下に対策あり。税回避は、国家の略奪への対抗手段ともいえる。あるいは、政府よりも最適な資源配分をするための経済合理性を追求する行為だ。あるいは、法の抜け穴やグレーゾーンを見出し、そこで資源を最大化する戦略的なゲームだ。本書の後半を読むと、貧民から富豪まで、創意工夫を尽くして進化してきたものが、税回避のいたちごっこであることが分かる(これは人類の歴史が続く限り続く)。
「音読」をテーマにしたオフ会でお薦めされたのがこれ。 日本最古の歴史書であり、神話と伝承の源泉である古事記。とっつきにくいイメージがあったが、河内弁でしゃべりまくったのが町田康の『口訳 古事記』になる。 町田康の文体って、リズム感があって、言葉に勢いがある。大量殺人事件「河内十人斬り」を一人称で描いた『告白』には独特のグルーヴ感があり、ハマると止められない中毒性の高い徹夜小説だった。 だから彼の小説は、音読すると面白さマシマシになる。漫才のようなノリツッコミや、寄席のような口上は、声に出して読みたい物語なり。例えばこれ、日本最凶の問題児・スサノオノミコトがスーパーサイヤ人よろしく空を飛んでくるシーンだ。 なにしろ泣くだけで山の木が枯れ海が干上がるほどのパワーの持ち主がもの凄いスピードで昇っていくのだから、コップが落ちた、茶碗がこけたみたいで済む訳がなく、震度千の地震が揺すぶったみたいな感じ
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