学生時代になんとなく雰囲気で感動してみたりやっぱり釈然としないものを感じたりしながらそれっきりになっていた。
堀口大学の大時代な美文調の訳がわるいのかとも思ったが、どうも元がろくでもないのだ。
「人間の土地」等で繰り返し提示されるのは逆転の発想、レトリカルな視点の転倒である。
なんかどれもこれも…中高生が自分でこれは凄いぞと思って書いた文章みたい。
そこヒネったから何なんだよ。
戦間期の飛行機乗りという最先端の職業体験による高揚を糞ポエミーな文章で書いたらバカウケした。作家サンテグジュペリを一言で表すとそういうことになる。
(「南方郵便機」にはもうちょっと素朴な職業倫理やタフガイ礼賛があったが)
そして気分の高揚は気分の高揚以上の何かではないのだ。飛行機というツールが世界の全く新しい見方を可能にした、とかいうのはただの独り善がりの妄想である。
100年という時間が、往時のパイロットの高揚にレトロフューチャー的なもっともらしい陰影を与えている。しかし現代の我々はコレにそっくりな物語のパターンを知っている。
宇宙飛行士が真理に目覚めただとか。
そういう陳腐なスピ話、「アプリケーションによって人間がいま一段の進化を遂げる話」に、我々は今さら目を輝かせたりしない。
何も違いはしないのだ。