はてなキーワード: アトリビュートとは
IQって、いろんな能力のうち、ある種の能力を複数集めて、どれくらい中央値から外れてるかを無理やり1軸で評価してるだけだから、その数値だけを持って「人間を超えた!」っていっても「は?」としか思わん。
パターンマッチング式文書検索システムが、パターンマッチと文書検索の能力だけが高いってだけの話でしょ w
いわゆる東大卒をはじめとした高学歴の中にそこそこの割合混じってる、パターンマッチングが速いだけのアチーブメントテスト脳に近いんだと思うが。
例えばクイズ系とかね。
学生時代なら、まぁ、すげぇなと思わなくはない(≒思ったことない)けど、「で?」としか言いようがないタイプ。
どこの現場にいても、このタイプは本当にただの邪魔者、害悪なんよね。
自分はできる。
俺は……賢い!
って思い込んでるから、本当に扱いに困る。
「そんなのどこのWebページにも書かれてない」から始まって、「ここのページにはこう書かれてる」まで。
そう、そこの一文には、「単語の連なりとしては」そう書かれてるけど、その前に前提条件が書かれてたり、暗黙の前提条件があったりするだろ? この場合、適用外なんだよ。
とか、
ここの××って単語は、こっちの同じ単語とは別の文脈のものなんだよ。
ってのが理解できない。
「業務ドメイン」は「幾つもあるドメイン概念」のうちの、たかが1軸に過ぎないし、優先順位としてはさほど高くない概念だ。
「業務ドメイン分割」して、「DDD採用してます」って、それ、業務ごとの分割しただけの、帳票画面駆動開発。つまりDDDで否定された手法を引き続きとってるだけだって理解できてないんよ。
だから、ちょっとした画面の仕様変更があるたびに、大山鳴動の騒ぎになる。
ちゃんとDDD採用してたら、大抵がアトリビュートをちょっと追加するだけで済む。
DDDのそれだ。
ウォーターフォールであろうが、容易に実現できる。
君の頭が足らんだけだ w
Frontとサーバサイドの二箇所で、StructなりClassに変数を追加するだけで、DBに更新スクリプトを走らせる必要すらない。
DDDって単語とともに公開されてるWebページを、字面だけ追っかけてHowToを猿真似するからそうなってんだよね。
DDDが目的としていた状態になってないから、そいつは間違い。失敗。うんこ。
お前の能力が、DDDが必要としている能力に遥かに及ばなかった、ってだけの話だ。
事程左様に、エンジニア界隈見てると、そもそもの「エンジニアに必要な能力」が自己認識より遥かに遥かに遥かに低い人がゴロゴロしてるように見える。
その傾向が、近年マシマシになってる気がする。
今の現場で信奉されているんだが、おいおいおいおい、考える頭がねーな、AIに駆逐されてぇのか? SIer仕草のままじゃねーか。
と呆れてものも言えん。
90年代の、箱庭的な単機能小規模完納プロダクトなら帳票・画面駆動開発で十分だったが、常に成長し続ける宿命を背負った多機能なWebサービスでは、帳票や画面遷移、デザインから立ち上げたら、絶対に発生する手戻り、仕様変更についていけなくなるだろ? ってアンチテーゼとしてドメイン駆動開発が提案されたんだけどな。
手戻り、仕様変更はドメインのコンセプト、概念に沿って発生する。
というのが基本アイディアだ。
帳票・画面という具象はあえて捨象し、コンセプトという抽象に昇華することが本質ということだ。
抽象思考に不自由なエンジニアが、すぐに具象に飛びつきたくなるのはわからんではないが、それによって以前の帳票・画面駆動開発のマイナスが消せてるか? w
画面、帳票のグルーピングをしてるだけじゃねーか w
本当のDDDの観点からすれば、帳票・画面は、ドメインコンセプトの一断面での切り出しに過ぎない。
如何様にも切り出せる。
足りなきゃアトリビュートを追加すれば済む。
手戻り、仕様変更なんて、道端の犬糞の向きを変えるほどの手間ですらない。
一旦ドメインコンセプトを実装したら、他の機能のほとんどは、それをどう適用するか、パラメータレベルの違いしかない。
ドメインコンセプトレベルで検証(テスト)すれば、いくら機能が増えようが、パラメータの検証だけで済む。
Do you understand ?
こちとら、オライリー本のつまみ食いとか三下が書くWeb記事をありがたがって鵜呑みしてやってるわけではない。
他のいろんなエンジニアが同じことに悩み始めていた20年以上前、クライアントの先輩エンジニアにヒントをもらって始めた内容だ。
当時、上司の設計で交渉を続けていたが、毎度毎度仕様変更が入り、何かずれているんでしょうか? と聞いた。
「君は僕たちの業務を理解できてない。僕たちにとって〇〇がどういうものか。僕が足りないと感じるのは、君がその要素を理解できていないからだ」
とヒントをくれて、気がついた。
「僕たちにとって〇〇がどういうものか」
つまり、その業務(ドメイン)のコンセプトを無視したら、利用者が本当に欲しいものが実現できないし、手戻りが発生したら対応できないし、変更についていけない。
そりゃ当然だ。
そのドメインのコンセプトの集合体、「ドメイン世界」と一致してないから。
手戻り、仕様変更、いずれにおいても障害が生じるのは、そのねじれのせいだからだ。
コピペして無意味な消し忘れをしたジュニアのエンジニアをカーゴカルトプログラミングと笑う無能エンジニアをたくさん見てきたが、この手のWebの何の根拠もない言説を鵜呑みにして、検証することもなく、HowToの上っ面だけをなぞる猿こそ、何百倍も罪深いカーゴカルトエンジニアだと、自覚しろよ。
お前のことだよ。
お前の語るのはDDDじゃない?
元増田です。皆さんトラバで参加いただきありがとうございます。
さて、正解は「2」だそうです。なぜでしょうか?
元ネタ記事からの孫引き(『芸術新潮』2003年6月号「ヴィクトリア朝の闘うヌード/筒口直弘」)ですが、詳細は以下の通りだそうです。
この2人のヴィーナスが、それぞれどういう場にいるかを、よく見比べてください。レイトンの絵の背景に顔を出す青い海は、おそらく地中海。ドーリス式の柱も立っているし、画面の左下にはヴィーナスのアトリビュート(引用者注・このモチーフはこのキャラクターを表す、という約束ごと)である薔薇の花と鳩が描かれています。
一方のムーアの絵は、そこがどこかも判然としない室内風景ですよね。画面の下に描かれている染付の壷なんて、明らかに1869年当時(引用者注・この絵が描かれた年代)の日本趣味を反映している。
つまり、こういうことなんです。レイトンのヌードは、その場面設定からして、古代ギリシャ世界のヴィーナス像以外のなにものでもない。一方、ムーアのヌードはといえば、画家のアトリエのような室内でヌード・モデルを描いたとしか見えない作品でした。レイトンがヴィーナス像の伝統というものをきちんと踏まえているとすれば、ムーアのヴィーナスは、A
Venusという題名のとおり「ヴィーナスのようなもの」、つまりヴィーナスそのものではなくて、単なる現実のモデルをヴィーナス風に描いたヌードにすぎなかった。
先ほど紹介したムーアの作品への2つの評が変に回りくどい言い方で貶していたのは、この事実を口に出すのがはばかられて、ぐっと呑みこんだ結果だったんですね。だからムーアの絵を見た評者も、本当は「道徳的にやましいところ」を感じていたわけですよ。
(引用者注・ムーアの絵は「あまりにも醜くおぞましいために、その趣味に反対する以外、他に反対しようという気にもならない」「このようなヌード作品には反対しようがない。というのも、まったくもって不愉快きわなりないからだ」といった具合に、具体的に「どこがどう」という指摘ではなく、ヘンに奥歯に物が挟まったような表現で批判されている)
というわけで、この例では19世紀中ごろのヨーロッパ画壇における文脈にめちゃくちゃ依存しているわけです。
21世紀日本という全く背景が異なる我々が理解できなくても、たぶん「まあ、当時はそうだったんだろう」と考えるほかないのかなあ、と個人的には思いました。
上の引用にあるムーアの絵への批判の筆致も、最近の日本でも何か似たようなのをよく見るような気がしますが、人間の歴史というのはこうやって繰り返すものなのかも。
上記リンク先のブログ記事は2010年にまきおこった「非実在青少年表現規制問題」に関連した内容ですが、昨今かまびすしい「表現の自由はどこまで認められるか?」という問題についての観点からも興味深いので、ぜひ皆さんに見ていただきたいです。(というためにこのクイズを投稿したのが半分くらいなので、読んでみてね!)
最近、自分のことを発達障害とかADHDとかいう人多いよね。なんでだろ?昔はそんなに言う人いなかったよね。いや、ほんとうに発達障害やADHDが昔の方が少なかったのか?そういうことではなく、そういう人の割合は変わってないと思うんだよ。なのにやたらと主張する人が多い。何のために主張してるんだろ?「自分は発達障害だから、しょうがない。」と自分にも他人にも言い聞かせてるのだろうか?自分の苦しみを他人に分かってもらって少しでも妥協してもらおうとしているのだろうか? こんなことを書いていると批判される。たしなめられる。「あなたは私たちの苦しみが分かっていない!差別主義者だ!」と攻撃される。そうかもしれない。現代は苦しんでいる人を攻めてはいけないのだ。疑問にすら思ってはいけないのだ。ましてやこんな風にSNSで意見を言ってはいけないのだ。こんな風に他人の苦しみがわからずに、空気を読めずに自分の感じたことをそのまま話すことはいけないのだ。だ・か・ら、自分は発達障害というアトリビュートをアサーションすることによって、自分自身の存在を肯定しているのだ。僕は悪くないと。