2025-07-25

『母の夢とビルの縁 』

 佐伯ゆかは、いい子だった。

 いや、笑っちゃうくらいいい子だった。ランドセル教科書ピアノ楽譜母親の夢まで詰め込んで、言われたことは全部やる。母・園子は厳しかった。鍋の蓋を閉め忘れると三時間説教ピアノ毎日時間、歌の練習時間テストは満点以外許さない。

 でも、そこには甘い卵焼きと手縫いの巾着袋があり、熱を出せば夜通し看病もしてくれる。呪縛と慈愛がごっちゃになった混合液体が、ゆかの体内を循環していた。

 だが、その教育には少しずつ狂気が芽生えていた。

 園子は専業主婦社会経験が薄かった。外の世界を知らなかった。だから、外の世界を恐れていた。教師も、近所の主婦も、会社員も――すべてが**“信用ならない人々”**に見えた。

 園子は、ゆかを囲い込んだ。

 文字通り、どこまでも。

 「ピアノが終わったらドリル」「テレビは一時間だけ」「友達の家には遊びに行かない」

 そんなルールが無数に積み重なっていった。

 父は最初こそ何度も口を挟んだ。

 「もう少し自由にさせろ」

 「勉強ばかりじゃだめだ」

 けれど、そのたびに壁にぶつかった。園子とゆか、二人の間には見えない糸があって、そこに踏み込むことは許されなかった。父は家の中で幽霊になった。

 それでも父は何度も介入しようとした。「俺だって親だ」と声を上げたが、声は響かなかった。園子は、ゆかを守る盾のようにして外界を拒絶し、父をも拒絶した。

 そしてついには、父がぽつりとつぶやいた。

 ――「ゆかが二十歳になったら離婚しよう」

 その言葉は宣告だった。

 やがて父は本当に消えた。家にいても、いないも同然。

 父のいない世界で育ったゆかには――別の父親必要になった。

 それが峰田肇だった。

 中学を出て、ゆかは地元で一番のエリート校に進学した。

 まだその頃、母の言葉呪いじゃなかった。愛の形だった。

 「受験戦争よ」と言われれば「うん、わたしやる!」と笑って答える。

 母が好きだった。母を喜ばせたかった。

 制服はブレザー、春の校門で風が吹く。友達部活の話をし、笑い、教室の黒板には「佐伯ゆか、○○高校おめでとう!」と書かれていた。

 でも、その胸の奥にもう一つ火があった。

 ――アイドルになりたい。

 猛烈な願望。熱烈な妄想

 母は言った。「やるなら全力よ」

 そして条件を課した。「ピアノ、歌、学業。全部やるの」

 三段ハードルケーキ

 ゆかは――やった。やりまくった。やり込んだ。

 夜10時、指が赤くなってもピアノをやめない。喉が痛くても発声練習を続ける。テスト前日は睡眠2時間

 集中力という名の狂気が、芽を出し始めていた。

 やがて、ゆかは上京した。

 母と抱き合って泣いた。いや、母は泣き笑いだった。

 「頑張るのよ!」

 「うん!」

 母の呪縛? いや、まだそれは呪縛と気づかない愛情の鎖だった。

 東京――そこは、ゆかの想像した夢の国とはちょっと違った。

 テレビスタジオには、もっと恐ろしい怪物がいた。

 天才ダンサー、神ボーカル魔法の表情少女

 快活さは執念に変わり、集中力狂気進化した。

 そして、その狂気は峰田肇という一人の俳優に滲み出た。

 渋い俳優。父の年齢に近いのに、父よりも光っていた。

 恋? いや、これは儀式だ。切り抜き、手紙日記――脅迫的な恋愛感情

 父の空席を埋める愛。

 父でもあり、恋人でもある存在

 彼女の想いは、やがて暴走を始めた。

 「思い知らせてやる」

 恨みに近い、しか自分でも言葉にできない感情を抱え、

 ゆかはガスとリストカットを決行した。

 部屋に充満するガスの匂い。白い腕からあふれる赤い線。

 泣いた。

 腕を抱えて、ただ泣いた。

 マンション管理人異臭に気づいた。

 通報サイレン消防隊がドアのチェーンを切断し、

 ゆかは救出された。

 あまりに惨めだった。

 あまりに敗北だった。

 それほどの事態が起こったにも関わらず、ゆかには休む暇もなかった。

 その日――生放送に出た。

 メイクで隠した腕。笑顔仮面

 生放送だ! ニッコリだ!

 放送後、事務所

 だんだん冷静になってくる。自分のやったことをメタ理解しはじめる。

 ――あたし、何やってんだろ。

 社長室に呼ばれ、テーブルの上のストロベリージュースに口をつける前に、

 社長が戻ってきた。

 叱責。

 鋭い刃物のような言葉

 完璧主義優等生であるかにとって、

 これはもう、魂を引き裂かれるほどの敗北だった。

 ――社長に会いたくなかった。

 その瞬間、ゆかの天性の行動力が発動した。

 この子は、ひとたびスイッチが入れば、ためらいがない。

 一瞬で思いついた。

 ――屋上だ。

 屋上へ逃げよう。

 足が立ち上がり、ドアを開け、階段を駆け上がり、

 誰も止められなかった。

 屋上の風。

 考える暇もない。

 だって、ゆかは優等生だった。

 発想力と実行力の塊。

 決めたことは、即実行。

 スリッパを脱いで、きちんと揃えて、

 ――飛んだ。

 母の愛と呪い

 芸能界怪物たち。

 峰田への狂気的な愛と恨み。

 未遂、敗北、叱責。

 その全部が混ざった一瞬のジャンプ

 風が体を持ち上げ、

 世界は、一秒で小さくなった。

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